一九三四年
欧州大陸西端における海上輸送、食品取引および大西洋方面調達を目的として、ポルトガル国内に商業拠点を設置する案を提出する。
候補地。
リスボン。
セトゥーバル。
主な業務。
大西洋および地中海航路の運賃調査。
英国、フランス、北アフリカおよび南北アメリカ向け貨物の振分け。
魚介類、塩、缶詰、果物、コルク、皮革および油脂の取引。
冷蔵・冷凍設備の販売および運用。
中古工作機械の買付けおよび再輸出。
船舶修理用品、無線部品、医薬品および燃料の小口保管。
国外事業帳簿の予備保管。
陸軍航空部は、
「航空機製造会社が、なぜポルトガル産の魚とコルクを扱うのか」
と質問した。
WILK社は、
「航空機だけを運んで帰る船は存在しない」
と回答した。
陸軍航空部は、
「ポルトガルはポーランドから遠すぎる」
と指摘した。
WILK社は、
「戦争も国境も、距離を近くはしない」
と回答した。
航空部は、平時の事業計画へ戦争を持ち込まないよう要求した。
WILK社は、文面から「戦争」の一語を削除した。
計画内容は変更されなかった。
第111話で国外事業の責任が分割された翌朝。
ユダヤ人実業家の机には、書類が五つの山に分けられていた。
財務。
物流。
契約。
地域間調整。
返還管理。
以前なら一つの山だった。
正確には、机全体が山だった。
今は五つに分けられ、それぞれの担当者が書類を持っていく。
ユダヤ人実業家は少し落ち着かなかった。
財務担当者が一冊を取る。
「英国側の決済は確認します」
物流担当者が航路表を取る。
「アイスランド経由便はこちらで」
契約担当者。
「ノルウェー港湾会社の更新契約を読みます」
返還管理担当者。
「フランスの倉庫について、相続人照会を続けます」
地域間調整担当者は、机の端に残った資料を指した。
「これは?」
ポルトガル。
リスボン港。
セトゥーバル。
冷蔵倉庫。
缶詰工場。
コルク加工。
大西洋航路。
「新規案件です」
ユダヤ人実業家が答えた。
「誰の担当ですか」
「私が」
五人が同時に彼を見た。
ユダヤ人実業家は言い直した。
「最初の調査は、私が行います」
元ドイツ軍技術者が横から口を挟んだ。
「負荷を分散した翌日に増やすな」
「増やしていません」
「机に新しい国が載っている」
「以前から検討していました」
「見えなかっただけか」
ポーランド軍将校が部屋へ入ってきた。
「今度はどこだ」
地域間調整担当者が答えた。
「ポルトガルです」
ポーランド軍将校は扉を閉めかけ、もう一度開けた。
「なぜ」
ユダヤ人実業家が資料を渡した。
「西側の航路をつなぎます」
「英国がある」
「英国が使えない時は」
「フランスがある」
「フランスが使えない時は」
「ノルウェー」
「北へ戻っているではないか」
元独立運動家が地図を広げた。
ポーランド。
英国。
フランス。
ノルウェー。
アイスランド。
トルコ。
そしてポルトガル。
「西の端が空いている」
ポーランド軍将校が答えた。
「端は空いていてよい」
元白軍将校が首を振った。
「端だから要る」
「何に」
「その先へ行くためだ」
ポルトガルへ向かう一行には、五人全員が参加した。
本来、国外事業を一人へ集中させないため、ユダヤ人実業家だけを行かせないことになった。
結果として、五人全員が行くことになった。
ポーランド軍将校が列車内で言った。
「分散の意味を間違えていないか」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「現地を見る者は複数必要だ」
「だからといって全員か」
元独立運動家は窓の外を見ていた。
「港の壁を見る」
「壁?」
「倉庫も」
「壁を買うな」
「買わない。動かせるか見る」
元白軍将校は座席へ深く沈んでいる。
「船室も見る」
「何のためだ」
「人が乗る」
ポーランド軍将校はユダヤ人実業家を見た。
「お前は何を見る」
「帳簿です」
「いつもどおりか」
「人より素直です」
元白軍将校が目を閉じたまま言った。
「帳簿は嘘をつく」
ユダヤ人実業家は答える。
「嘘をついた跡を残します」
「人間より素直だな」
リスボンへ着いた一行を迎えたのは、港湾商社の代表だった。
白髪。
日焼けした顔。
古い上着。
彼はユダヤ人実業家を見た。
次に元白軍将校。
元ドイツ軍技術者。
元独立運動家。
ポーランド軍将校。
「随分と軍人が多い商社だ」
ユダヤ人実業家は答えた。
「航空会社です」
「商社ではないのか」
「航空会社です」
代表は背後に積まれた書類を見る。
「魚を買うと聞いた」
「航空会社です」
「冷蔵庫も売る」
「航空会社です」
「倉庫も借りる」
「航空会社です」
代表はしばらく彼を見た。
「ポーランドの航空会社は、飛ばない物をよく扱うのだな」
ポーランド軍将校が小さく言った。
「我々も同じ疑問を持っている」
リスボンの事務所候補は、港と銀行街の間にあった。
二階建て。
一階は以前、輸出商の事務所。
二階は住居。
地下に書庫。
裏庭。
電話線あり。
港まで荷車で十五分。
元独立運動家は裏口を確認した。
「二つある」
ポーランド軍将校が言った。
「事務所に裏口は一つでよい」
「表が塞がれた時に使う」
「誰が塞ぐ」
「火事でも塞がる」
元ドイツ軍技術者は地下へ下りた。
湿気。
石壁。
床に水染み。
「帳簿は置けん」
ユダヤ人実業家が尋ねる。
「改修すれば」
「換気。床上げ。防湿棚」
元独立運動家が言った。
「壁を二重にする」
「ここでもか」
「外せる棚にする」
ポーランド軍将校が警戒する。
「移動式の本社を作る気ではないだろうな」
ユダヤ人実業家は事務所の契約書を読んでいた。
「本社ではありません」
「何だ」
「予備記録所です」
「同じに聞こえる」
「本社は業務を指揮します。ここは、ほかが失われた時に帳簿を開きます」
ポーランド軍将校は地下の暗がりを見る。
「ここが失われたら」
「ノルウェーにも写しがあります」
「ノルウェーが失われたら」
「ロンドンに」
「全部失われたら」
ユダヤ人実業家は顔を上げた。
「その時は、記憶している者から始めます」
元ドイツ軍技術者が言った。
「だから記憶だけに頼るな」
「頼っていません」
「最後は頼ると言った」
「最後まで残る物を捨てる必要はないでしょう」
セトゥーバルには港と漁業があった。
魚。
塩。
缶詰。
造船。
修理工房。
倉庫。
そして使われていない冷蔵施設。
建物は古い。
冷凍機は停止。
配管は錆びている。
断熱材の一部は湿っていた。
ユダヤ人実業家は施設の所有者へ尋ねた。
「いつ止まりました」
「二年前」
「故障は」
「圧縮機」
元ドイツ軍技術者が機械室へ入る。
大型圧縮機。
ベルト。
電動機。
油染み。
銘板。
ドイツ製。
製造年、一九二六年。
「分解する」
所有者が驚いた。
「まだ買っていない」
「動くか調べる」
「壊したら」
「既に壊れている」
「もっと壊したら」
ポーランド軍将校が間へ入った。
「費用はこちらが持つ。作業前に記録する」
元ドイツ軍技術者が彼を見る。
「慣れたな」
「お前を止めることにだ」
機械室の床へ紙が敷かれた。
部品番号。
外した順番。
写真。
寸法。
油の状態。
圧縮機を開ける。
弁の損傷。
軸受摩耗。
一部腐食。
だが本体に致命的な割れはない。
元ドイツ軍技術者が言った。
「直せる」
所有者の目が明るくなる。
「いくらで」
ユダヤ人実業家が答えた。
「先に、何を入れるか決めます」
「魚だ」
「魚だけでは冬に余ります」
「ここに冬はある」
「魚が少ない時期という意味です」
ポーランド軍将校が資料を見る。
「肉、果物、薬、油脂」
元独立運動家が加える。
「人」
全員が彼を見た。
「冷蔵庫へ入れるな!」
ポーランド軍将校が叫んだ。
元独立運動家は冷蔵室の隣を指した。
「空き部屋がある」
「先にそう言え!」
冷蔵施設の再建計画には、三つの目的が付けられた。
第一。
魚介類、肉、果物、医薬品の保管。
第二。
冷蔵設備と断熱材の試験。
第三。
大西洋航路へ積み込む食品の集積。
ポーランド軍将校が第三を指した。
「どこへ送る」
「英国、北欧、ポーランド、北アフリカ」
ユダヤ人実業家が答えた。
「西は」
元白軍将校が尋ねた。
「米国とカナダです」
「南は」
「ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ」
ポーランド軍将校は地図を見た。
「ポルトガルから全部へ行く気か」
「全部へ行ける船があります」
「全部へは行かないだろう」
「積み替えれば」
元ドイツ軍技術者が冷凍機の図面へ線を引く。
「輸送経路より先に電力を確認しろ」
現地技師が答えた。
「電力は足りる」
「停電時は」
「発電機がある」
「動くか」
技師は黙った。
発電機室へ移る。
小型ディーゼル発電機。
燃料槽。
始動用空気。
配線。
元ドイツ軍技術者が見る。
「いつ動かした」
「去年」
「何月」
「夏だ」
「今動かせ」
技師が始動操作。
一度目。
動かない。
二度目。
白煙。
三度目。
回転。
すぐ停止。
元ドイツ軍技術者は燃料管を見る。
詰まり。
元独立運動家が針金を出した。
「通す」
「外して洗え」
「針金の方が早い」
「詰まりを奥へ押すな」
ポーランド軍将校が所有者へ言った。
「この二人が喧嘩している間に、整備記録を探してくれ」
所有者は答えた。
「記録はない」
元ドイツ軍技術者と元独立運動家が同時に振り向いた。
所有者は後ずさった。
施設の買収は行われなかった。
WILKが出資。
現地会社が土地と建物を保有。
漁業組合が利用契約。
食品商が一部設備費を負担。
冷凍機の修理費はWILKと現地銀行が融資。
ポーランド軍将校は契約書を読んだ。
「また誰の物か分からなくなった」
ユダヤ人実業家が答える。
「土地と建物は明確です」
「機械は」
「共同所有です」
「断熱材は」
「改修費の負担比率に応じます」
「配管は」
「建物付属設備です」
「発電機は」
「現地会社です」
「修理部品は」
「WILKです」
「中の魚は」
「漁業組合です」
「冷やす責任は」
「運営会社です」
ポーランド軍将校は契約書を閉じた。
「ではWILKは何を持つ」
「設備利用権、優先保管枠、修理技術、収益配分、緊急時の倉庫使用権です」
「また状態を持つのか」
「建物を持つより運びやすいです」
元白軍将校が言った。
「建物は逃げん」
元独立運動家が反論する。
「人が逃げた後に残る」
部屋が静かになった。
現地会社の代表だけが、二人の顔を見た。
「何の話だ」
ユダヤ人実業家が答えた。
「契約期間の話です」
ポルトガルで扱う品目の一つに、コルクがあった。
ポーランド軍将校は見本を手に取った。
「瓶の栓だろう」
現地商人が答えた。
「栓だけではない」
断熱。
浮材。
振動吸収。
床材。
包装。
救命具。
機械の防振。
元ドイツ軍技術者が薄板を曲げる。
「軽い」
「燃える」
ポーランド軍将校が言う。
「処理できる」
現地商人が答えた。
「品質差が大きい」
元ドイツ軍技術者の目が変わった。
「試料を分けろ」
「瓶の栓を作るのでは」
「機体床下の断熱へ使える」
「航空機へ?」
「試験してからだ」
元独立運動家が厚い板を踏む。
「壁にも使える」
「何の壁だ」
「仮設宿舎」
ポーランド軍将校が額を押さえた。
「魚と瓶の栓を買いに来て、航空機と宿舎を作るな」
ユダヤ人実業家が帳簿へ書いた。
コルク材試験。
用途――断熱、防振、救命浮材、包装。
現地商人が尋ねた。
「どれくらい買う」
「試験用に少量」
ポーランド軍将校は驚いた。
「珍しく少ないな」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「結果が出る前に大量購入するな」
ユダヤ人実業家は少しだけ不満そうだった。
「私もそう考えていました」
「なら顔へ出すな」
リスボン事務所には、大西洋各地からの商業照会が届き始めた。
ニューヨーク。
中古旋盤。
測定器。
冷蔵設備。
カナダ。
木材。
小麦。
ニッケル。
モントリオール経由の船便。
ブラジル。
コーヒー。
天然ゴム。
綿花。
鉄鉱石。
アルゼンチン。
肉。
穀物。
皮革。
冷蔵輸送。
ウルグアイ。
小規模食肉加工。
港湾倉庫。
メキシコ。
油。
鉄道部品。
工作機械修理。
ユダヤ人実業家は照会を地域間調整担当者へ渡した。
担当者は紙の束を見た。
「これを全部、調べるのですか」
「全部は買いません」
「では」
「買わない理由も調べます」
「なぜ」
「次に条件が変わった時、また最初から調べないためです」
ポーランド軍将校が横から言った。
「お前一人でやるな」
ユダヤ人実業家は頷いた。
「各地に代理人を置きます」
「人が増えた」
「仕事を分けました」
元ドイツ軍技術者が言った。
「人を増やすことを分散と呼ぶな」
「一人へ集めない点は同じです」
アメリカ大陸へ直接、大きなWILK支社を置く案は却下された。
理由。
費用が高い。
法制度が違う。
市場が広すぎる。
一社では扱いきれない。
代わりに、小さな会社と契約する。
中古機械商。
港湾倉庫。
冷蔵設備業者。
食品卸。
輸出代理。
保険仲介。
鉄道輸送。
一つ一つは小さい。
名前も違う。
所有者も違う。
WILKの持分がない会社も多い。
ポーランド軍将校が一覧を見る。
「これで支配できるのか」
ユダヤ人実業家が答える。
「支配しません」
「では注文を守らないかもしれない」
「守る会社と取引します」
「裏切ったら」
「別の会社へ移します」
「全部裏切ったら」
「こちらの条件が悪いのかもしれません」
元白軍将校が笑った。
「敵が多すぎる時は、自分が包囲されている」
ポーランド軍将校が言った。
「商売に戦術を持ち込むな」
「軍人に商売を聞くな」
最初の米国向け照会は、閉鎖された自動車部品工場の工作機械だった。
旋盤十四台。
フライス盤六台。
研削盤三台。
プレス二台。
測定器一式。
一括売却。
ユダヤ人実業家は資料を見る。
「一括では買いません」
現地代理人から電報。
売主は一括希望。
元ドイツ軍技術者が機械一覧を確認する。
「旋盤六。フライス二。研削盤二。測定器」
「プレスは」
「不要」
「残りの機械は」
ポーランド軍将校が尋ねた。
ユダヤ人実業家が答える。
「現地で買い手を探します」
「我々が仲介するのか」
「一括で買い、必要分だけ欧州へ送ります」
「さっき一括では買わないと」
「一括で所有し続けません」
ポーランド軍将校は顔をしかめた。
「言葉遊びか」
元ドイツ軍技術者が答える。
「不要な機械を海へ運ばない点は正しい」
現地代理人へ返信。
全量を一時購入可能。
ただし現地再販売先を先に確保。
機械状態を個別検査。
付属品、電圧、説明書、交換部品を確認。
木箱内に本体があることを確認。
数日後、返電。
最後の項目は冗談か。
元独立運動家が答えを書いた。
実績に基づく。
セトゥーバル冷蔵施設の修理が進んだ。
圧縮機。
軸受交換。
弁製作。
配管洗浄。
断熱材の入替え。
発電機の燃料系統修理。
電線更新。
温度計追加。
警報装置。
ただし警報装置は電気式ではない。
冷蔵室の温度が上がると、膨張した液体が機械式の鐘を鳴らす。
元独立運動家が鐘を試した。
大きな音。
港の外まで響いた。
ポーランド軍将校が耳を押さえる。
「大きすぎる!」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「機械室が無人でも聞こえる」
「町中が聞こえるぞ」
現地技師が言った。
「魚が腐るよりよい」
元白軍将校が頷く。
「人も起きる」
元独立運動家が鐘へ紐を追加した。
「手動でも鳴らせる」
「何のためだ」
「火事」
「火災報知器を兼ねるな」
「同じ鐘でよい」
「冷蔵庫が温まったのか燃えているのか分からん!」
鐘の鳴らし方が分けられた。
連続。
温度上昇。
三回。
火災。
五回。
停電。
ポーランド軍将校が規定表を見た。
「鐘で通信を始めた」
元白軍将校が言った。
「無線より壊れにくい」
冷蔵施設の一角には、事務所と休憩室が作られた。
机。
椅子。
炉は不要。
代わりに日除け。
飲料水。
簡易寝台。
洗面所。
医薬箱。
ポーランド軍将校が尋ねた。
「職員は何人だ」
「常勤十八人です」
ユダヤ人実業家が答えた。
「寝台は」
「十二」
「多い」
元独立運動家が言った。
「船員が泊まる」
「宿ではない」
「港の宿が埋まることがある」
「アイスランドと同じことをする気か」
元白軍将校が窓の外の船を見る。
「海は同じだ」
元ドイツ軍技術者が訂正する。
「気温は違う」
「それは分かっている!」
飲料水の貯蔵。
非常食。
毛布ではなく薄い寝具。
蚊帳。
換気。
医薬品。
一時宿泊規定。
ポーランド軍将校は最後まで反対したが、規定の書式をアイスランド支社と統一した。
最初に宿泊した者は船員ではなかった。
フランスから来た若い機械工だった。
仕事を求め、ポルトガルの工場へ向かう途中。
紹介先の工場が閉鎖されていた。
所持金は少ない。
帰る船賃もない。
身分証はある。
犯罪歴なし。
ただし、正式な雇用先がない。
事務員は規定を開いた。
船員。
貨物護送員。
出張技師。
負傷者。
家族同伴者。
どれにも当てはまらない。
元独立運動家が言った。
「技師でよい」
「出張ではありません」
「仕事を探している」
ポーランド軍将校が言った。
「勝手に分類するな」
ユダヤ人実業家が若者へ尋ねた。
「何ができます」
「旋盤です」
元ドイツ軍技術者が反応した。
「何年」
「六年」
「測定器は」
「マイクロメータ。ダイヤルゲージ」
「研削盤は」
「補助だけ」
「図面は」
「読めます」
ポーランド軍将校が嫌な予感を覚えた。
「雇う気か」
ユダヤ人実業家は答えた。
「試験します」
「冷蔵倉庫で旋盤工を?」
元独立運動家が修理工房を指す。
「旋盤がある」
古い旋盤。
主軸摩耗。
送りねじに遊び。
だが動く。
若い機械工は一日かけて、冷凍機用の小さなブッシュを作った。
寸法は合格。
仕上げも悪くない。
元ドイツ軍技術者が言った。
「雇える」
「誰が」
「修理工房」
「人数は足りている」
現地会社の代表が言った。
「もう一人なら」
ユダヤ人実業家は契約を作った。
三か月の試用。
住居は一時宿泊室ではなく、近隣の下宿を手配。
賃金。
食事。
工具貸与。
言語研修。
ポーランド軍将校が契約書を見る。
「旅人を一人拾っただけで、なぜ言語研修まで付く」
元独立運動家が答えた。
「指示が分からなければ指を落とす」
元ドイツ軍技術者が頷く。
「必要だ」
ポーランド軍将校は署名した。
その時点では、ただ一人の失業した機械工だった。
数週間後。
別の者が来た。
英国から来た電気技師。
次に、ドイツから出た印刷工。
フランス語しか話せないポーランド系の倉庫員。
北アフリカへ渡る予定を失った商人。
どの者も、まだ大規模な避難民ではない。
失業。
倒産。
契約打切り。
家族事情。
政治的不安。
個別の理由で移動していた。
WILKの事務所は、正式な救済所ではない。
だから全員を抱えることはできない。
ユダヤ人実業家は規定を作った。
一時宿泊は七日。
延長は理由を記録。
仕事がある場合のみ雇用。
仕事がない者には、ほかの企業を紹介。
家族を分けない。
身分証明のない者を無条件に匿わない。
ただし、警察へ渡す前に氏名と連絡先を記録する。
ポーランド軍将校が言った。
「厳しいな」
「支社を潰せません」
「全員を助けないのか」
「助けられない約束をすれば、最後には誰も助けられません」
元白軍将校が静かに頷いた。
「船の定員を超えて乗せれば、全員沈む」
元独立運動家が規定を見た。
「七日では仕事が決まらない者もいる」
「延長できます」
「誰が決める」
「現地責任者と雇用担当者」
「お前ではないのか」
ユダヤ人実業家は少し間を置いた。
「私ではありません」
第111話で決めたことを、初めて実際に使った瞬間だった。
ポルトガル政府と地方当局は、WILKの動きを警戒していた。
外国企業。
国外資金。
港湾施設。
無線連絡。
外国人労働者。
複数国との取引。
警察担当官がリスボン事務所を訪れた。
「外国人を集めていると聞いた」
ユダヤ人実業家が答えた。
「集めていません」
「宿泊させている」
「船や仕事を待つ者です」
「政治活動は」
「禁止しています」
元独立運動家が横で咳をした。
警察担当官が彼を見る。
「彼は」
ポーランド軍将校が答えた。
「施設運営担当だ」
「政治経験があると聞いた」
元独立運動家が言った。
「過去に」
「どのような」
「長くなります」
ポーランド軍将校が遮った。
「施設の話をしよう」
担当官は帳簿を求めた。
宿泊者。
雇用者。
出国者。
紹介先。
身分証明。
ユダヤ人実業家は帳簿を出した。
担当官が驚く。
「すべて記録しているのか」
「記録しなければ、誰が残っているか分かりません」
「警察へ提出するためか」
「こちらが忘れないためです」
「提出は」
「法に従います。ただし、提出範囲を明確にしてください」
担当官の顔が硬くなった。
「隠す気か」
「無関係な家族情報まで渡す理由を聞いています」
ポーランド軍将校は二人の間へ座った。
「提出項目を文書で決めよう」
担当官。
「当局を信用しないのか」
元独立運動家が答えかける。
ポーランド軍将校が彼の足を踏んだ。
ユダヤ人実業家は静かに言った。
「信用を続けるため、範囲を決めたいのです」
結果。
氏名。
国籍。
入国日。
身分証番号。
雇用先。
滞在場所。
出国または転居日。
それ以外の家族事情、資産、宗教、過去の政治活動は、法的要求がある場合のみ別途提出。
警察担当官は完全には満足しなかった。
WILKも満足しなかった。
だから契約としては悪くなかった。
元独立運動家は、担当官が帰った後で言った。
「全部見せてもよかった」
ポーランド軍将校が彼を見る。
「お前が言うのか」
「隠していると思われるよりよい」
ユダヤ人実業家が答える。
「今は」
「その言葉を使うなと言われていたな」
「今は必要です」
元独立運動家は帳簿を指した。
「役所が求める形へ最初から作る」
「すべてを役所用にすると、本人のための記録が消えます」
「二冊作る」
元ドイツ軍技術者が言った。
「二重記帳は不一致が起きる」
「共通番号を付ける」
「変更履歴も」
ポーランド軍将校が頭を抱える。
「帳簿の設計会議になった」
元独立運動家は紙へ欄を作った。
本人管理番号。
行政提出番号。
雇用番号。
家族単位番号。
ユダヤ人実業家が横から修正する。
「家族が離れても番号は維持」
「再会時に照合する」
「本人が別名を使う場合は」
「旧名を非公開欄へ」
元ドイツ軍技術者が言った。
「読み取り権限を分けろ」
ポーランド軍将校は三人を見る。
「お前たち、楽しんでいないか」
誰も否定しなかった。
セトゥーバル冷蔵施設の初回稼働日。
魚。
肉。
果物。
医薬品。
各室へ分ける。
温度も違う。
湿度も違う。
臭いも違う。
ポーランド軍将校が言った。
「同じ冷蔵庫へ入れてよいのか」
元ドイツ軍技術者が答える。
「同じ部屋へは入れない」
「壁が薄い」
「断熱材を追加した」
元独立運動家が扉を開ける。
鐘が鳴った。
元ドイツ軍技術者が怒鳴る。
「長く開けるな!」
「何秒だ」
「必要な分だけだ」
「人によって違う」
「荷役手順を作る」
魚箱の搬入。
肉の吊下げ。
果物の棚。
薬品の鍵付き保管。
作業員が扉を開ける時間を測る。
荷車の位置。
通路幅。
箱の大きさ。
最初の一日は、冷蔵より扉の開閉を数えて終わった。
現地会社の代表が言った。
「魚は冷えた」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「明日はもっと早く冷える」
ポーランド軍将校が尋ねる。
「それで売上が増えるか」
ユダヤ人実業家が答えた。
「腐る量が減ります」
「増えるのではなく、減らないのか」
「利益は、失わなかった物からも出ます」
元白軍将校が魚箱を見た。
「人も同じだな」
誰も返事をしなかった。
鐘が一度、温度回復を知らせた。
大西洋側の最初の航路試験が行われた。
セトゥーバルから冷凍魚を積む。
リスボンで書類を確認。
英国へ一部。
アイスランドへ一部。
残りをカナダへ。
帰り便には、
カナダ産木材。
小麦。
中古冷蔵機部品。
米国で買った測定器。
船室の空き。
ポーランド軍将校が最後を指した。
「なぜ船室まで在庫表にある」
ユダヤ人実業家が答える。
「使える容量です」
「貨物ではない」
「人を運べます」
「誰を」
「技師。商人。職員。家族」
元白軍将校が航路表を見る。
「今は空いている」
ポーランド軍将校が言った。
「空いていてよい」
「空いていると記録しておけば、必要な時に使える」
「必要な時とは」
元白軍将校は答えなかった。
ユダヤ人実業家が別の欄を作った。
船名。
出港地。
寄港地。
貨物余積。
船室余裕。
医療設備。
家族同室可能数。
身分証要求。
査証条件。
ポーランド軍将校は表を見た。
「商業航路の調査にしては細かい」
「人も顧客です」
「何を売る」
「移動する権利です」
「船会社の仕事だ」
「船会社へ紹介します」
元独立運動家が言った。
「道だけ作る」
リスボン事務所の地下書庫が完成した。
床上げ。
防湿棚。
換気。
二重扉。
耐火箱。
保管された物。
国外事業の統合帳簿写し。
契約一覧。
各拠点の連絡先。
銀行口座。
船会社。
保険会社。
材料供給者。
現地責任者。
返還条件付き資産の索引。
家族照合番号。
ただし、個人の詳細情報は置かない。
詳細は地域別。
ここには、どこに何があるかだけを置く。
ポーランド軍将校が言った。
「地図の地図か」
ユダヤ人実業家が答えた。
「帳簿の帳簿です」
元ドイツ軍技術者は棚番号を確認する。
「火災時は」
元独立運動家が壁を指した。
「外から開く搬出口」
「盗難時は」
「内側から閉じる」
「浸水は」
「床上げ」
「建物倒壊は」
「耐火箱を持ち出す」
ポーランド軍将校が言った。
「誰が」
元白軍将校が箱を持ち上げようとする。
重い。
「二人だ」
元ドイツ軍技術者が即座に言う。
「重すぎる。分けろ」
ユダヤ人実業家は抵抗した。
「索引が分かれます」
「箱ごと失うよりよい」
二箱へ分割。
奇数番号。
偶数番号。
さらに最低限の索引を両方へ入れる。
ポーランド軍将校が呆れた。
「帳簿にまで片発帰還をさせる気か」
元ドイツ軍技術者は真顔だった。
「片方で読める必要がある」
開所式は簡素に行われた。
リスボン事務所。
セトゥーバル冷蔵施設。
二か所同日。
ポーランド軍将校が反対した。
「式典を分けるな」
ユダヤ人実業家が答えた。
「施設が二つあります」
「一日に二回挨拶をするのか」
「文章を同じにすれば」
「場所が違う」
元独立運動家が言った。
「午前と午後」
元白軍将校。
「昼食が二回出る」
ポーランド軍将校は少し考えた。
「二回でよい」
午前。
リスボン。
商業協力。
大西洋航路。
産業発展。
午後。
セトゥーバル。
冷蔵技術。
食品輸出。
雇用。
最初の式典で長く話しすぎたため、午後の挨拶は半分になった。
元ドイツ軍技術者は、どちらの写真にも正面では写らなかった。
午前は地下書庫の換気口を確認。
午後は冷凍機の圧力計を見ていた。
元独立運動家は午後の写真で鐘の紐を持っていた。
元白軍将校は魚料理の皿を持っていた。
ポーランド軍将校は、どちらでも書類を持っていた。
ユダヤ人実業家だけが、二枚とも同じ位置に立っていた。
ただし二枚目では、彼の隣に新しい地域責任者が立っていた。
夜。
開所式が終わり、五人は港の倉庫前にいた。
大西洋から風が吹く。
西へ出る船。
北へ向かう船。
南へ下る船。
地中海へ戻る船。
ポーランド軍将校が海を見る。
「ここが西の端か」
元白軍将校が答えた。
「欧州の端だ」
「その先は海だ」
「海の先に陸がある」
元独立運動家が航路標識の灯りを見る。
「道は見えないな」
ユダヤ人実業家が答えた。
「船会社は知っています」
元ドイツ軍技術者が言った。
「海は工場より不確実だ」
「工場も止まります」
「海は床が動く」
「船があります」
「船も動く」
ポーランド軍将校が二人を止めた。
「移動する物について言い争うな」
少し離れた埠頭で、若いフランス人機械工が現地の作業員と冷凍機部品を運んでいた。
言葉はまだ十分に通じない。
指で番号を示す。
図面を見せる。
工具を渡す。
作業は進む。
元独立運動家がそれを見る。
「一人、残ったな」
ユダヤ人実業家は首を振った。
「残したのではありません」
「では」
「次へ進める場所を用意しただけです」
元白軍将校が言った。
「同じではないか」
「違います」
「どう違う」
ユダヤ人実業家は、港を出る船を見た。
「残すと、そこが終点になります」
ポルトガル支社から最初の月次報告が送られた。
リスボン事務所、運用開始。
セトゥーバル冷蔵施設、部分稼働。
魚介類四十二トンを保管。
果物十九トン。
医薬品三箱。
中古工作機械十二台を照会。
六台検査予定。
二台購入候補。
北米航路四社と連絡。
南米航路三社と連絡。
一時宿泊者七名。
雇用二名。
他社紹介三名。
出国二名。
現在滞在者なし。
書庫帳簿写し、収蔵完了。
奇数箱、偶数箱ともに索引確認。
支社運営は継続可能。
航空部から返電。
一時宿泊者の項目は航空事業に必要か。
ポーランド軍将校は返答案を書いた。
港湾業務上必要。
ユダヤ人実業家が見る。
「それだけですか」
「余計な説明をすると質問が増える」
元独立運動家が言った。
「学習したな」
ポーランド軍将校は返電を送った。
後年、ポルトガル支社は、WILKの大西洋側商業拠点として記録された。
魚介類。
缶詰。
コルク。
冷蔵設備。
工作機械。
穀物。
木材。
皮革。
医薬品。
その取扱品目は多かったが、個々の規模は決して大きくなかった。
支社の利益も、英国やポーランドの主要事業に比べれば小さい。
それでも閉鎖されなかった。
冷蔵庫は魚を保った。
倉庫は荷物を待った。
事務所は船を探した。
書庫は、失われた帳簿の続きを残した。
休憩室は、仕事と船を失った者を数日だけ泊めた。
そして職員は、そこへ来た者を無理に留めなかった。
北へ行く者。
南へ行く者。
海を渡る者。
現地で仕事を得る者。
故郷へ戻る者。
誰もが別の行き先を選んだ。
一九三四年。
まだ大勢の人間が、国境へ押し寄せてはいなかった。
港へ来る者は一人ずつだった。
失業した技師。
店を失った商人。
契約を切られた船員。
家族を先に送った職人。
それぞれの事情で現れ、
それぞれ別の船へ乗った。
WILKは彼らを救ったとは記録しなかった。
食事を出した。
寝台を貸した。
仕事を紹介した。
船室を調べた。
名前を帳簿へ残した。
それだけだった。
だが後に、大陸の道が次々と閉じた時。
西の端に残された小さな事務所は、終点にはならなかった。
その扉の向こうには、
海を越えて続く道が残っていた。