WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK国外事業部・イベリア半島西岸通商拠点設置案
一九三四年

欧州大陸西端における海上輸送、食品取引および大西洋方面調達を目的として、ポルトガル国内に商業拠点を設置する案を提出する。

候補地。

リスボン。
セトゥーバル。

主な業務。

大西洋および地中海航路の運賃調査。
英国、フランス、北アフリカおよび南北アメリカ向け貨物の振分け。
魚介類、塩、缶詰、果物、コルク、皮革および油脂の取引。
冷蔵・冷凍設備の販売および運用。
中古工作機械の買付けおよび再輸出。
船舶修理用品、無線部品、医薬品および燃料の小口保管。
国外事業帳簿の予備保管。

陸軍航空部は、

「航空機製造会社が、なぜポルトガル産の魚とコルクを扱うのか」

と質問した。

WILK社は、

「航空機だけを運んで帰る船は存在しない」

と回答した。

陸軍航空部は、

「ポルトガルはポーランドから遠すぎる」

と指摘した。

WILK社は、

「戦争も国境も、距離を近くはしない」

と回答した。

航空部は、平時の事業計画へ戦争を持ち込まないよう要求した。

WILK社は、文面から「戦争」の一語を削除した。

計画内容は変更されなかった。


第112話 西の端を終点にするな

第111話で国外事業の責任が分割された翌朝。

 

ユダヤ人実業家の机には、書類が五つの山に分けられていた。

 

財務。

 

物流。

 

契約。

 

地域間調整。

 

返還管理。

 

以前なら一つの山だった。

 

正確には、机全体が山だった。

 

今は五つに分けられ、それぞれの担当者が書類を持っていく。

 

ユダヤ人実業家は少し落ち着かなかった。

 

財務担当者が一冊を取る。

 

「英国側の決済は確認します」

 

物流担当者が航路表を取る。

 

「アイスランド経由便はこちらで」

 

契約担当者。

 

「ノルウェー港湾会社の更新契約を読みます」

 

返還管理担当者。

 

「フランスの倉庫について、相続人照会を続けます」

 

地域間調整担当者は、机の端に残った資料を指した。

 

「これは?」

 

ポルトガル。

 

リスボン港。

 

セトゥーバル。

 

冷蔵倉庫。

 

缶詰工場。

 

コルク加工。

 

大西洋航路。

 

「新規案件です」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「誰の担当ですか」

 

「私が」

 

五人が同時に彼を見た。

 

ユダヤ人実業家は言い直した。

 

「最初の調査は、私が行います」

 

元ドイツ軍技術者が横から口を挟んだ。

 

「負荷を分散した翌日に増やすな」

 

「増やしていません」

 

「机に新しい国が載っている」

 

「以前から検討していました」

 

「見えなかっただけか」

 

ポーランド軍将校が部屋へ入ってきた。

 

「今度はどこだ」

 

地域間調整担当者が答えた。

 

「ポルトガルです」

 

ポーランド軍将校は扉を閉めかけ、もう一度開けた。

 

「なぜ」

 

ユダヤ人実業家が資料を渡した。

 

「西側の航路をつなぎます」

 

「英国がある」

 

「英国が使えない時は」

 

「フランスがある」

 

「フランスが使えない時は」

 

「ノルウェー」

 

「北へ戻っているではないか」

 

元独立運動家が地図を広げた。

 

ポーランド。

 

英国。

 

フランス。

 

ノルウェー。

 

アイスランド。

 

トルコ。

 

そしてポルトガル。

 

「西の端が空いている」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「端は空いていてよい」

 

元白軍将校が首を振った。

 

「端だから要る」

 

「何に」

 

「その先へ行くためだ」

 

ポルトガルへ向かう一行には、五人全員が参加した。

 

本来、国外事業を一人へ集中させないため、ユダヤ人実業家だけを行かせないことになった。

 

結果として、五人全員が行くことになった。

 

ポーランド軍将校が列車内で言った。

 

「分散の意味を間違えていないか」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「現地を見る者は複数必要だ」

 

「だからといって全員か」

 

元独立運動家は窓の外を見ていた。

 

「港の壁を見る」

 

「壁?」

 

「倉庫も」

 

「壁を買うな」

 

「買わない。動かせるか見る」

 

元白軍将校は座席へ深く沈んでいる。

 

「船室も見る」

 

「何のためだ」

 

「人が乗る」

 

ポーランド軍将校はユダヤ人実業家を見た。

 

「お前は何を見る」

 

「帳簿です」

 

「いつもどおりか」

 

「人より素直です」

 

元白軍将校が目を閉じたまま言った。

 

「帳簿は嘘をつく」

 

ユダヤ人実業家は答える。

 

「嘘をついた跡を残します」

 

「人間より素直だな」

 

リスボンへ着いた一行を迎えたのは、港湾商社の代表だった。

 

白髪。

 

日焼けした顔。

 

古い上着。

 

彼はユダヤ人実業家を見た。

 

次に元白軍将校。

 

元ドイツ軍技術者。

 

元独立運動家。

 

ポーランド軍将校。

 

「随分と軍人が多い商社だ」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「航空会社です」

 

「商社ではないのか」

 

「航空会社です」

 

代表は背後に積まれた書類を見る。

 

「魚を買うと聞いた」

 

「航空会社です」

 

「冷蔵庫も売る」

 

「航空会社です」

 

「倉庫も借りる」

 

「航空会社です」

 

代表はしばらく彼を見た。

 

「ポーランドの航空会社は、飛ばない物をよく扱うのだな」

 

ポーランド軍将校が小さく言った。

 

「我々も同じ疑問を持っている」

 

リスボンの事務所候補は、港と銀行街の間にあった。

 

二階建て。

 

一階は以前、輸出商の事務所。

 

二階は住居。

 

地下に書庫。

 

裏庭。

 

電話線あり。

 

港まで荷車で十五分。

 

元独立運動家は裏口を確認した。

 

「二つある」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「事務所に裏口は一つでよい」

 

「表が塞がれた時に使う」

 

「誰が塞ぐ」

 

「火事でも塞がる」

 

元ドイツ軍技術者は地下へ下りた。

 

湿気。

 

石壁。

 

床に水染み。

 

「帳簿は置けん」

 

ユダヤ人実業家が尋ねる。

 

「改修すれば」

 

「換気。床上げ。防湿棚」

 

元独立運動家が言った。

 

「壁を二重にする」

 

「ここでもか」

 

「外せる棚にする」

 

ポーランド軍将校が警戒する。

 

「移動式の本社を作る気ではないだろうな」

 

ユダヤ人実業家は事務所の契約書を読んでいた。

 

「本社ではありません」

 

「何だ」

 

「予備記録所です」

 

「同じに聞こえる」

 

「本社は業務を指揮します。ここは、ほかが失われた時に帳簿を開きます」

 

ポーランド軍将校は地下の暗がりを見る。

 

「ここが失われたら」

 

「ノルウェーにも写しがあります」

 

「ノルウェーが失われたら」

 

「ロンドンに」

 

「全部失われたら」

 

ユダヤ人実業家は顔を上げた。

 

「その時は、記憶している者から始めます」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「だから記憶だけに頼るな」

 

「頼っていません」

 

「最後は頼ると言った」

 

「最後まで残る物を捨てる必要はないでしょう」

 

セトゥーバルには港と漁業があった。

 

魚。

 

塩。

 

缶詰。

 

造船。

 

修理工房。

 

倉庫。

 

そして使われていない冷蔵施設。

 

建物は古い。

 

冷凍機は停止。

 

配管は錆びている。

 

断熱材の一部は湿っていた。

 

ユダヤ人実業家は施設の所有者へ尋ねた。

 

「いつ止まりました」

 

「二年前」

 

「故障は」

 

「圧縮機」

 

元ドイツ軍技術者が機械室へ入る。

 

大型圧縮機。

 

ベルト。

 

電動機。

 

油染み。

 

銘板。

 

ドイツ製。

 

製造年、一九二六年。

 

「分解する」

 

所有者が驚いた。

 

「まだ買っていない」

 

「動くか調べる」

 

「壊したら」

 

「既に壊れている」

 

「もっと壊したら」

 

ポーランド軍将校が間へ入った。

 

「費用はこちらが持つ。作業前に記録する」

 

元ドイツ軍技術者が彼を見る。

 

「慣れたな」

 

「お前を止めることにだ」

 

機械室の床へ紙が敷かれた。

 

部品番号。

 

外した順番。

 

写真。

 

寸法。

 

油の状態。

 

圧縮機を開ける。

 

弁の損傷。

 

軸受摩耗。

 

一部腐食。

 

だが本体に致命的な割れはない。

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「直せる」

 

所有者の目が明るくなる。

 

「いくらで」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「先に、何を入れるか決めます」

 

「魚だ」

 

「魚だけでは冬に余ります」

 

「ここに冬はある」

 

「魚が少ない時期という意味です」

 

ポーランド軍将校が資料を見る。

 

「肉、果物、薬、油脂」

 

元独立運動家が加える。

 

「人」

 

全員が彼を見た。

 

「冷蔵庫へ入れるな!」

 

ポーランド軍将校が叫んだ。

 

元独立運動家は冷蔵室の隣を指した。

 

「空き部屋がある」

 

「先にそう言え!」

 

冷蔵施設の再建計画には、三つの目的が付けられた。

 

第一。

 

魚介類、肉、果物、医薬品の保管。

 

第二。

 

冷蔵設備と断熱材の試験。

 

第三。

 

大西洋航路へ積み込む食品の集積。

 

ポーランド軍将校が第三を指した。

 

「どこへ送る」

 

「英国、北欧、ポーランド、北アフリカ」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「西は」

 

元白軍将校が尋ねた。

 

「米国とカナダです」

 

「南は」

 

「ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ」

 

ポーランド軍将校は地図を見た。

 

「ポルトガルから全部へ行く気か」

 

「全部へ行ける船があります」

 

「全部へは行かないだろう」

 

「積み替えれば」

 

元ドイツ軍技術者が冷凍機の図面へ線を引く。

 

「輸送経路より先に電力を確認しろ」

 

現地技師が答えた。

 

「電力は足りる」

 

「停電時は」

 

「発電機がある」

 

「動くか」

 

技師は黙った。

 

発電機室へ移る。

 

小型ディーゼル発電機。

 

燃料槽。

 

始動用空気。

 

配線。

 

元ドイツ軍技術者が見る。

 

「いつ動かした」

 

「去年」

 

「何月」

 

「夏だ」

 

「今動かせ」

 

技師が始動操作。

 

一度目。

 

動かない。

 

二度目。

 

白煙。

 

三度目。

 

回転。

 

すぐ停止。

 

元ドイツ軍技術者は燃料管を見る。

 

詰まり。

 

元独立運動家が針金を出した。

 

「通す」

 

「外して洗え」

 

「針金の方が早い」

 

「詰まりを奥へ押すな」

 

ポーランド軍将校が所有者へ言った。

 

「この二人が喧嘩している間に、整備記録を探してくれ」

 

所有者は答えた。

 

「記録はない」

 

元ドイツ軍技術者と元独立運動家が同時に振り向いた。

 

所有者は後ずさった。

 

施設の買収は行われなかった。

 

WILKが出資。

 

現地会社が土地と建物を保有。

 

漁業組合が利用契約。

 

食品商が一部設備費を負担。

 

冷凍機の修理費はWILKと現地銀行が融資。

 

ポーランド軍将校は契約書を読んだ。

 

「また誰の物か分からなくなった」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「土地と建物は明確です」

 

「機械は」

 

「共同所有です」

 

「断熱材は」

 

「改修費の負担比率に応じます」

 

「配管は」

 

「建物付属設備です」

 

「発電機は」

 

「現地会社です」

 

「修理部品は」

 

「WILKです」

 

「中の魚は」

 

「漁業組合です」

 

「冷やす責任は」

 

「運営会社です」

 

ポーランド軍将校は契約書を閉じた。

 

「ではWILKは何を持つ」

 

「設備利用権、優先保管枠、修理技術、収益配分、緊急時の倉庫使用権です」

 

「また状態を持つのか」

 

「建物を持つより運びやすいです」

 

元白軍将校が言った。

 

「建物は逃げん」

 

元独立運動家が反論する。

 

「人が逃げた後に残る」

 

部屋が静かになった。

 

現地会社の代表だけが、二人の顔を見た。

 

「何の話だ」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「契約期間の話です」

 

ポルトガルで扱う品目の一つに、コルクがあった。

 

ポーランド軍将校は見本を手に取った。

 

「瓶の栓だろう」

 

現地商人が答えた。

 

「栓だけではない」

 

断熱。

 

浮材。

 

振動吸収。

 

床材。

 

包装。

 

救命具。

 

機械の防振。

 

元ドイツ軍技術者が薄板を曲げる。

 

「軽い」

 

「燃える」

 

ポーランド軍将校が言う。

 

「処理できる」

 

現地商人が答えた。

 

「品質差が大きい」

 

元ドイツ軍技術者の目が変わった。

 

「試料を分けろ」

 

「瓶の栓を作るのでは」

 

「機体床下の断熱へ使える」

 

「航空機へ?」

 

「試験してからだ」

 

元独立運動家が厚い板を踏む。

 

「壁にも使える」

 

「何の壁だ」

 

「仮設宿舎」

 

ポーランド軍将校が額を押さえた。

 

「魚と瓶の栓を買いに来て、航空機と宿舎を作るな」

 

ユダヤ人実業家が帳簿へ書いた。

 

コルク材試験。

用途――断熱、防振、救命浮材、包装。

 

現地商人が尋ねた。

 

「どれくらい買う」

 

「試験用に少量」

 

ポーランド軍将校は驚いた。

 

「珍しく少ないな」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「結果が出る前に大量購入するな」

 

ユダヤ人実業家は少しだけ不満そうだった。

 

「私もそう考えていました」

 

「なら顔へ出すな」

 

リスボン事務所には、大西洋各地からの商業照会が届き始めた。

 

ニューヨーク。

 

中古旋盤。

 

測定器。

 

冷蔵設備。

 

カナダ。

 

木材。

 

小麦。

 

ニッケル。

 

モントリオール経由の船便。

 

ブラジル。

 

コーヒー。

 

天然ゴム。

 

綿花。

 

鉄鉱石。

 

アルゼンチン。

 

肉。

 

穀物。

 

皮革。

 

冷蔵輸送。

 

ウルグアイ。

 

小規模食肉加工。

 

港湾倉庫。

 

メキシコ。

 

油。

 

鉄道部品。

 

工作機械修理。

 

ユダヤ人実業家は照会を地域間調整担当者へ渡した。

 

担当者は紙の束を見た。

 

「これを全部、調べるのですか」

 

「全部は買いません」

 

「では」

 

「買わない理由も調べます」

 

「なぜ」

 

「次に条件が変わった時、また最初から調べないためです」

 

ポーランド軍将校が横から言った。

 

「お前一人でやるな」

 

ユダヤ人実業家は頷いた。

 

「各地に代理人を置きます」

 

「人が増えた」

 

「仕事を分けました」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「人を増やすことを分散と呼ぶな」

 

「一人へ集めない点は同じです」

 

アメリカ大陸へ直接、大きなWILK支社を置く案は却下された。

 

理由。

 

費用が高い。

 

法制度が違う。

 

市場が広すぎる。

 

一社では扱いきれない。

 

代わりに、小さな会社と契約する。

 

中古機械商。

 

港湾倉庫。

 

冷蔵設備業者。

 

食品卸。

 

輸出代理。

 

保険仲介。

 

鉄道輸送。

 

一つ一つは小さい。

 

名前も違う。

 

所有者も違う。

 

WILKの持分がない会社も多い。

 

ポーランド軍将校が一覧を見る。

 

「これで支配できるのか」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「支配しません」

 

「では注文を守らないかもしれない」

 

「守る会社と取引します」

 

「裏切ったら」

 

「別の会社へ移します」

 

「全部裏切ったら」

 

「こちらの条件が悪いのかもしれません」

 

元白軍将校が笑った。

 

「敵が多すぎる時は、自分が包囲されている」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「商売に戦術を持ち込むな」

 

「軍人に商売を聞くな」

 

最初の米国向け照会は、閉鎖された自動車部品工場の工作機械だった。

 

旋盤十四台。

 

フライス盤六台。

 

研削盤三台。

 

プレス二台。

 

測定器一式。

 

一括売却。

 

ユダヤ人実業家は資料を見る。

 

「一括では買いません」

 

現地代理人から電報。

 

売主は一括希望。

 

元ドイツ軍技術者が機械一覧を確認する。

 

「旋盤六。フライス二。研削盤二。測定器」

 

「プレスは」

 

「不要」

 

「残りの機械は」

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「現地で買い手を探します」

 

「我々が仲介するのか」

 

「一括で買い、必要分だけ欧州へ送ります」

 

「さっき一括では買わないと」

 

「一括で所有し続けません」

 

ポーランド軍将校は顔をしかめた。

 

「言葉遊びか」

 

元ドイツ軍技術者が答える。

 

「不要な機械を海へ運ばない点は正しい」

 

現地代理人へ返信。

 

全量を一時購入可能。

ただし現地再販売先を先に確保。

機械状態を個別検査。

付属品、電圧、説明書、交換部品を確認。

木箱内に本体があることを確認。

 

数日後、返電。

 

最後の項目は冗談か。

 

元独立運動家が答えを書いた。

 

実績に基づく。

 

セトゥーバル冷蔵施設の修理が進んだ。

 

圧縮機。

 

軸受交換。

 

弁製作。

 

配管洗浄。

 

断熱材の入替え。

 

発電機の燃料系統修理。

 

電線更新。

 

温度計追加。

 

警報装置。

 

ただし警報装置は電気式ではない。

 

冷蔵室の温度が上がると、膨張した液体が機械式の鐘を鳴らす。

 

元独立運動家が鐘を試した。

 

大きな音。

 

港の外まで響いた。

 

ポーランド軍将校が耳を押さえる。

 

「大きすぎる!」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「機械室が無人でも聞こえる」

 

「町中が聞こえるぞ」

 

現地技師が言った。

 

「魚が腐るよりよい」

 

元白軍将校が頷く。

 

「人も起きる」

 

元独立運動家が鐘へ紐を追加した。

 

「手動でも鳴らせる」

 

「何のためだ」

 

「火事」

 

「火災報知器を兼ねるな」

 

「同じ鐘でよい」

 

「冷蔵庫が温まったのか燃えているのか分からん!」

 

鐘の鳴らし方が分けられた。

 

連続。

 

温度上昇。

 

三回。

 

火災。

 

五回。

 

停電。

 

ポーランド軍将校が規定表を見た。

 

「鐘で通信を始めた」

 

元白軍将校が言った。

 

「無線より壊れにくい」

 

冷蔵施設の一角には、事務所と休憩室が作られた。

 

机。

 

椅子。

 

炉は不要。

 

代わりに日除け。

 

飲料水。

 

簡易寝台。

 

洗面所。

 

医薬箱。

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

「職員は何人だ」

 

「常勤十八人です」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「寝台は」

 

「十二」

 

「多い」

 

元独立運動家が言った。

 

「船員が泊まる」

 

「宿ではない」

 

「港の宿が埋まることがある」

 

「アイスランドと同じことをする気か」

 

元白軍将校が窓の外の船を見る。

 

「海は同じだ」

 

元ドイツ軍技術者が訂正する。

 

「気温は違う」

 

「それは分かっている!」

 

飲料水の貯蔵。

 

非常食。

 

毛布ではなく薄い寝具。

 

蚊帳。

 

換気。

 

医薬品。

 

一時宿泊規定。

 

ポーランド軍将校は最後まで反対したが、規定の書式をアイスランド支社と統一した。

 

最初に宿泊した者は船員ではなかった。

 

フランスから来た若い機械工だった。

 

仕事を求め、ポルトガルの工場へ向かう途中。

 

紹介先の工場が閉鎖されていた。

 

所持金は少ない。

 

帰る船賃もない。

 

身分証はある。

 

犯罪歴なし。

 

ただし、正式な雇用先がない。

 

事務員は規定を開いた。

 

船員。

 

貨物護送員。

 

出張技師。

 

負傷者。

 

家族同伴者。

 

どれにも当てはまらない。

 

元独立運動家が言った。

 

「技師でよい」

 

「出張ではありません」

 

「仕事を探している」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「勝手に分類するな」

 

ユダヤ人実業家が若者へ尋ねた。

 

「何ができます」

 

「旋盤です」

 

元ドイツ軍技術者が反応した。

 

「何年」

 

「六年」

 

「測定器は」

 

「マイクロメータ。ダイヤルゲージ」

 

「研削盤は」

 

「補助だけ」

 

「図面は」

 

「読めます」

 

ポーランド軍将校が嫌な予感を覚えた。

 

「雇う気か」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「試験します」

 

「冷蔵倉庫で旋盤工を?」

 

元独立運動家が修理工房を指す。

 

「旋盤がある」

 

古い旋盤。

 

主軸摩耗。

 

送りねじに遊び。

 

だが動く。

 

若い機械工は一日かけて、冷凍機用の小さなブッシュを作った。

 

寸法は合格。

 

仕上げも悪くない。

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「雇える」

 

「誰が」

 

「修理工房」

 

「人数は足りている」

 

現地会社の代表が言った。

 

「もう一人なら」

 

ユダヤ人実業家は契約を作った。

 

三か月の試用。

 

住居は一時宿泊室ではなく、近隣の下宿を手配。

 

賃金。

 

食事。

 

工具貸与。

 

言語研修。

 

ポーランド軍将校が契約書を見る。

 

「旅人を一人拾っただけで、なぜ言語研修まで付く」

 

元独立運動家が答えた。

 

「指示が分からなければ指を落とす」

 

元ドイツ軍技術者が頷く。

 

「必要だ」

 

ポーランド軍将校は署名した。

 

その時点では、ただ一人の失業した機械工だった。

 

数週間後。

 

別の者が来た。

 

英国から来た電気技師。

 

次に、ドイツから出た印刷工。

 

フランス語しか話せないポーランド系の倉庫員。

 

北アフリカへ渡る予定を失った商人。

 

どの者も、まだ大規模な避難民ではない。

 

失業。

 

倒産。

 

契約打切り。

 

家族事情。

 

政治的不安。

 

個別の理由で移動していた。

 

WILKの事務所は、正式な救済所ではない。

 

だから全員を抱えることはできない。

 

ユダヤ人実業家は規定を作った。

 

一時宿泊は七日。

 

延長は理由を記録。

 

仕事がある場合のみ雇用。

 

仕事がない者には、ほかの企業を紹介。

 

家族を分けない。

 

身分証明のない者を無条件に匿わない。

 

ただし、警察へ渡す前に氏名と連絡先を記録する。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「厳しいな」

 

「支社を潰せません」

 

「全員を助けないのか」

 

「助けられない約束をすれば、最後には誰も助けられません」

 

元白軍将校が静かに頷いた。

 

「船の定員を超えて乗せれば、全員沈む」

 

元独立運動家が規定を見た。

 

「七日では仕事が決まらない者もいる」

 

「延長できます」

 

「誰が決める」

 

「現地責任者と雇用担当者」

 

「お前ではないのか」

 

ユダヤ人実業家は少し間を置いた。

 

「私ではありません」

 

第111話で決めたことを、初めて実際に使った瞬間だった。

 

ポルトガル政府と地方当局は、WILKの動きを警戒していた。

 

外国企業。

 

国外資金。

 

港湾施設。

 

無線連絡。

 

外国人労働者。

 

複数国との取引。

 

警察担当官がリスボン事務所を訪れた。

 

「外国人を集めていると聞いた」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「集めていません」

 

「宿泊させている」

 

「船や仕事を待つ者です」

 

「政治活動は」

 

「禁止しています」

 

元独立運動家が横で咳をした。

 

警察担当官が彼を見る。

 

「彼は」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「施設運営担当だ」

 

「政治経験があると聞いた」

 

元独立運動家が言った。

 

「過去に」

 

「どのような」

 

「長くなります」

 

ポーランド軍将校が遮った。

 

「施設の話をしよう」

 

担当官は帳簿を求めた。

 

宿泊者。

 

雇用者。

 

出国者。

 

紹介先。

 

身分証明。

 

ユダヤ人実業家は帳簿を出した。

 

担当官が驚く。

 

「すべて記録しているのか」

 

「記録しなければ、誰が残っているか分かりません」

 

「警察へ提出するためか」

 

「こちらが忘れないためです」

 

「提出は」

 

「法に従います。ただし、提出範囲を明確にしてください」

 

担当官の顔が硬くなった。

 

「隠す気か」

 

「無関係な家族情報まで渡す理由を聞いています」

 

ポーランド軍将校は二人の間へ座った。

 

「提出項目を文書で決めよう」

 

担当官。

 

「当局を信用しないのか」

 

元独立運動家が答えかける。

 

ポーランド軍将校が彼の足を踏んだ。

 

ユダヤ人実業家は静かに言った。

 

「信用を続けるため、範囲を決めたいのです」

 

結果。

 

氏名。

 

国籍。

 

入国日。

 

身分証番号。

 

雇用先。

 

滞在場所。

 

出国または転居日。

 

それ以外の家族事情、資産、宗教、過去の政治活動は、法的要求がある場合のみ別途提出。

 

警察担当官は完全には満足しなかった。

 

WILKも満足しなかった。

 

だから契約としては悪くなかった。

 

元独立運動家は、担当官が帰った後で言った。

 

「全部見せてもよかった」

 

ポーランド軍将校が彼を見る。

 

「お前が言うのか」

 

「隠していると思われるよりよい」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「今は」

 

「その言葉を使うなと言われていたな」

 

「今は必要です」

 

元独立運動家は帳簿を指した。

 

「役所が求める形へ最初から作る」

 

「すべてを役所用にすると、本人のための記録が消えます」

 

「二冊作る」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「二重記帳は不一致が起きる」

 

「共通番号を付ける」

 

「変更履歴も」

 

ポーランド軍将校が頭を抱える。

 

「帳簿の設計会議になった」

 

元独立運動家は紙へ欄を作った。

 

本人管理番号。

 

行政提出番号。

 

雇用番号。

 

家族単位番号。

 

ユダヤ人実業家が横から修正する。

 

「家族が離れても番号は維持」

 

「再会時に照合する」

 

「本人が別名を使う場合は」

 

「旧名を非公開欄へ」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「読み取り権限を分けろ」

 

ポーランド軍将校は三人を見る。

 

「お前たち、楽しんでいないか」

 

誰も否定しなかった。

 

セトゥーバル冷蔵施設の初回稼働日。

 

魚。

 

肉。

 

果物。

 

医薬品。

 

各室へ分ける。

 

温度も違う。

 

湿度も違う。

 

臭いも違う。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「同じ冷蔵庫へ入れてよいのか」

 

元ドイツ軍技術者が答える。

 

「同じ部屋へは入れない」

 

「壁が薄い」

 

「断熱材を追加した」

 

元独立運動家が扉を開ける。

 

鐘が鳴った。

 

元ドイツ軍技術者が怒鳴る。

 

「長く開けるな!」

 

「何秒だ」

 

「必要な分だけだ」

 

「人によって違う」

 

「荷役手順を作る」

 

魚箱の搬入。

 

肉の吊下げ。

 

果物の棚。

 

薬品の鍵付き保管。

 

作業員が扉を開ける時間を測る。

 

荷車の位置。

 

通路幅。

 

箱の大きさ。

 

最初の一日は、冷蔵より扉の開閉を数えて終わった。

 

現地会社の代表が言った。

 

「魚は冷えた」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「明日はもっと早く冷える」

 

ポーランド軍将校が尋ねる。

 

「それで売上が増えるか」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「腐る量が減ります」

 

「増えるのではなく、減らないのか」

 

「利益は、失わなかった物からも出ます」

 

元白軍将校が魚箱を見た。

 

「人も同じだな」

 

誰も返事をしなかった。

 

鐘が一度、温度回復を知らせた。

 

大西洋側の最初の航路試験が行われた。

 

セトゥーバルから冷凍魚を積む。

 

リスボンで書類を確認。

 

英国へ一部。

 

アイスランドへ一部。

 

残りをカナダへ。

 

帰り便には、

 

カナダ産木材。

 

小麦。

 

中古冷蔵機部品。

 

米国で買った測定器。

 

船室の空き。

 

ポーランド軍将校が最後を指した。

 

「なぜ船室まで在庫表にある」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「使える容量です」

 

「貨物ではない」

 

「人を運べます」

 

「誰を」

 

「技師。商人。職員。家族」

 

元白軍将校が航路表を見る。

 

「今は空いている」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「空いていてよい」

 

「空いていると記録しておけば、必要な時に使える」

 

「必要な時とは」

 

元白軍将校は答えなかった。

 

ユダヤ人実業家が別の欄を作った。

 

船名。

 

出港地。

 

寄港地。

 

貨物余積。

 

船室余裕。

 

医療設備。

 

家族同室可能数。

 

身分証要求。

 

査証条件。

 

ポーランド軍将校は表を見た。

 

「商業航路の調査にしては細かい」

 

「人も顧客です」

 

「何を売る」

 

「移動する権利です」

 

「船会社の仕事だ」

 

「船会社へ紹介します」

 

元独立運動家が言った。

 

「道だけ作る」

 

リスボン事務所の地下書庫が完成した。

 

床上げ。

 

防湿棚。

 

換気。

 

二重扉。

 

耐火箱。

 

保管された物。

 

国外事業の統合帳簿写し。

 

契約一覧。

 

各拠点の連絡先。

 

銀行口座。

 

船会社。

 

保険会社。

 

材料供給者。

 

現地責任者。

 

返還条件付き資産の索引。

 

家族照合番号。

 

ただし、個人の詳細情報は置かない。

 

詳細は地域別。

 

ここには、どこに何があるかだけを置く。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「地図の地図か」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「帳簿の帳簿です」

 

元ドイツ軍技術者は棚番号を確認する。

 

「火災時は」

 

元独立運動家が壁を指した。

 

「外から開く搬出口」

 

「盗難時は」

 

「内側から閉じる」

 

「浸水は」

 

「床上げ」

 

「建物倒壊は」

 

「耐火箱を持ち出す」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「誰が」

 

元白軍将校が箱を持ち上げようとする。

 

重い。

 

「二人だ」

 

元ドイツ軍技術者が即座に言う。

 

「重すぎる。分けろ」

 

ユダヤ人実業家は抵抗した。

 

「索引が分かれます」

 

「箱ごと失うよりよい」

 

二箱へ分割。

 

奇数番号。

 

偶数番号。

 

さらに最低限の索引を両方へ入れる。

 

ポーランド軍将校が呆れた。

 

「帳簿にまで片発帰還をさせる気か」

 

元ドイツ軍技術者は真顔だった。

 

「片方で読める必要がある」

 

開所式は簡素に行われた。

 

リスボン事務所。

 

セトゥーバル冷蔵施設。

 

二か所同日。

 

ポーランド軍将校が反対した。

 

「式典を分けるな」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「施設が二つあります」

 

「一日に二回挨拶をするのか」

 

「文章を同じにすれば」

 

「場所が違う」

 

元独立運動家が言った。

 

「午前と午後」

 

元白軍将校。

 

「昼食が二回出る」

 

ポーランド軍将校は少し考えた。

 

「二回でよい」

 

午前。

 

リスボン。

 

商業協力。

 

大西洋航路。

 

産業発展。

 

午後。

 

セトゥーバル。

 

冷蔵技術。

 

食品輸出。

 

雇用。

 

最初の式典で長く話しすぎたため、午後の挨拶は半分になった。

 

元ドイツ軍技術者は、どちらの写真にも正面では写らなかった。

 

午前は地下書庫の換気口を確認。

 

午後は冷凍機の圧力計を見ていた。

 

元独立運動家は午後の写真で鐘の紐を持っていた。

 

元白軍将校は魚料理の皿を持っていた。

 

ポーランド軍将校は、どちらでも書類を持っていた。

 

ユダヤ人実業家だけが、二枚とも同じ位置に立っていた。

 

ただし二枚目では、彼の隣に新しい地域責任者が立っていた。

 

夜。

 

開所式が終わり、五人は港の倉庫前にいた。

 

大西洋から風が吹く。

 

西へ出る船。

 

北へ向かう船。

 

南へ下る船。

 

地中海へ戻る船。

 

ポーランド軍将校が海を見る。

 

「ここが西の端か」

 

元白軍将校が答えた。

 

「欧州の端だ」

 

「その先は海だ」

 

「海の先に陸がある」

 

元独立運動家が航路標識の灯りを見る。

 

「道は見えないな」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「船会社は知っています」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「海は工場より不確実だ」

 

「工場も止まります」

 

「海は床が動く」

 

「船があります」

 

「船も動く」

 

ポーランド軍将校が二人を止めた。

 

「移動する物について言い争うな」

 

少し離れた埠頭で、若いフランス人機械工が現地の作業員と冷凍機部品を運んでいた。

 

言葉はまだ十分に通じない。

 

指で番号を示す。

 

図面を見せる。

 

工具を渡す。

 

作業は進む。

 

元独立運動家がそれを見る。

 

「一人、残ったな」

 

ユダヤ人実業家は首を振った。

 

「残したのではありません」

 

「では」

 

「次へ進める場所を用意しただけです」

 

元白軍将校が言った。

 

「同じではないか」

 

「違います」

 

「どう違う」

 

ユダヤ人実業家は、港を出る船を見た。

 

「残すと、そこが終点になります」

 

ポルトガル支社から最初の月次報告が送られた。

 

リスボン事務所、運用開始。

セトゥーバル冷蔵施設、部分稼働。

魚介類四十二トンを保管。

果物十九トン。

医薬品三箱。

 

中古工作機械十二台を照会。

六台検査予定。

二台購入候補。

 

北米航路四社と連絡。

南米航路三社と連絡。

 

一時宿泊者七名。

雇用二名。

他社紹介三名。

出国二名。

現在滞在者なし。

 

書庫帳簿写し、収蔵完了。

奇数箱、偶数箱ともに索引確認。

 

支社運営は継続可能。

 

航空部から返電。

 

一時宿泊者の項目は航空事業に必要か。

 

ポーランド軍将校は返答案を書いた。

 

港湾業務上必要。

 

ユダヤ人実業家が見る。

 

「それだけですか」

 

「余計な説明をすると質問が増える」

 

元独立運動家が言った。

 

「学習したな」

 

ポーランド軍将校は返電を送った。

 

後年、ポルトガル支社は、WILKの大西洋側商業拠点として記録された。

 

魚介類。

 

缶詰。

 

コルク。

 

冷蔵設備。

 

工作機械。

 

穀物。

 

木材。

 

皮革。

 

医薬品。

 

その取扱品目は多かったが、個々の規模は決して大きくなかった。

 

支社の利益も、英国やポーランドの主要事業に比べれば小さい。

 

それでも閉鎖されなかった。

 

冷蔵庫は魚を保った。

 

倉庫は荷物を待った。

 

事務所は船を探した。

 

書庫は、失われた帳簿の続きを残した。

 

休憩室は、仕事と船を失った者を数日だけ泊めた。

 

そして職員は、そこへ来た者を無理に留めなかった。

 

北へ行く者。

 

南へ行く者。

 

海を渡る者。

 

現地で仕事を得る者。

 

故郷へ戻る者。

 

誰もが別の行き先を選んだ。

 

一九三四年。

 

まだ大勢の人間が、国境へ押し寄せてはいなかった。

 

港へ来る者は一人ずつだった。

 

失業した技師。

 

店を失った商人。

 

契約を切られた船員。

 

家族を先に送った職人。

 

それぞれの事情で現れ、

 

それぞれ別の船へ乗った。

 

WILKは彼らを救ったとは記録しなかった。

 

食事を出した。

 

寝台を貸した。

 

仕事を紹介した。

 

船室を調べた。

 

名前を帳簿へ残した。

 

それだけだった。

 

だが後に、大陸の道が次々と閉じた時。

 

西の端に残された小さな事務所は、終点にはならなかった。

 

その扉の向こうには、

 

海を越えて続く道が残っていた。

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