一九三七年末
確認事項。
東方。
危険。
西方。
安全。
ではない。
南方。
重要。
北方。
海。
結論。
国境は線ではない。
線の向こうに、
鉄道があり、
港があり、
倉庫があり、
会社があり、
人がいる。
「東ばかり見すぎだ」
元白軍将校が言った。
ポーランド軍将校は地図から顔を上げた。
「東は危険だ」
「知っている」
「では何が問題だ」
「西を安全だと思い始めている」
部屋が静かになった。
机の上にはポーランドの地図。
東。
西。
南。
北。
その周囲に、
鉄道路線。
港。
国境。
国外拠点。
WILKの取引先。
小さな印が並んでいた。
元ドイツ軍技術者が鉛筆を持った。
「安全とは言っていない」
元白軍将校が答えた。
「言わなくても、配置がそうなっている」
---
これまでWILKは、
東を強く意識していた。
ロシア。
革命。
内戦。
国家崩壊。
それを知る人間が社内にいた。
だから東方の危険については、
誰も軽く考えなかった。
物資。
人員。
鉄道。
予備経路。
国外移転。
東から何か起きた時にどうするか。
何度も考えた。
しかし、
西は違った。
近い。
商売がある。
鉄道がある。
技術交流がある。
ドイツ語も通じる者が多い。
市場もある。
元ドイツ軍技術者が言った。
「だから油断する」
ポーランド軍将校が彼を見た。
「お前が言うと重いな」
「ドイツ人だからか」
「元ドイツ軍だからだ」
「同じことだ」
---
ユダヤ人実業家が新しい資料を出した。
「ドイツ向け取引が増えています」
「良いことでは?」
「商売としては」
「なら」
「依存率が上がっています」
数字。
機械。
工具。
化学品。
一部部材。
輸送。
保険。
決済。
元ドイツ軍技術者が表を見た。
「多いな」
「便利なので」
「便利な相手ほど切れた時に困る」
「はい」
ポーランド軍将校がため息をついた。
「最近、その話ばかりだな」
元白軍将校が答えた。
「戦争の準備だからな」
---
西側の地図を広げた。
ドイツ。
チェコスロヴァキア。
オーストリア。
フランス。
ベルギー。
オランダ。
英国。
さらにその先。
「ここまで?」
ポーランド軍将校が言った。
ユダヤ人実業家は頷いた。
「物流を考えるなら」
「ポーランドの防衛だぞ」
「だからです」
「英国まで?」
「港があります」
「フランスも?」
「工場があります」
「ベルギーは?」
「商社があります」
「オランダは?」
「港があります」
「全部使うつもりか」
「全部を同じようには使いません」
---
WILKが調べ始めたのは、
軍事同盟ではなかった。
倉庫。
港。
鉄道会社。
保険会社。
銀行。
修理工場。
機械商。
食品会社。
学校。
宿泊施設。
船会社。
「避難所を探しているのか」
元独立運動家が聞いた。
ユダヤ人実業家は首を振った。
「違います」
「では?」
「仕事ができる場所です」
「同じでは」
「違います」
実業家は地図へ指を置いた。
「避難所は、人が逃げてから必要になる」
別の場所を指した。
「仕事場は、平時から使える」
---
その考え方はWILKらしかった。
戦争になった時だけ使う場所。
それは、
戦争になった時に使えないかもしれない。
鍵がない。
契約がない。
担当者を知らない。
設備の癖を知らない。
鉄道の手続きも知らない。
銀行口座もない。
元白軍将校が言った。
「逃げ込んだ町で、初めて宿を探すな」
元独立運動家が答えた。
「それを会社規模でやるのか」
「会社だからできる」
---
最初に増やしたのは、
取引だった。
少量でいい。
毎月でなくてもいい。
しかし切らさない。
英国。
工具。
機械部品。
試験機材。
フランス。
工作機械。
化学品。
食品加工設備。
低地諸国。
海運。
倉庫。
保険。
「儲かるのか」
ポーランド軍将校が聞いた。
ユダヤ人実業家が答えた。
「大きくは」
「ではなぜ」
「請求書を残すためです」
「請求書?」
「取引関係が存在した証拠です」
---
元ドイツ軍技術者が笑った。
「図面と同じか」
「似ています」
「使った記録を残す」
「はい」
「必要な時、初対面にならない」
「そのためです」
ポーランド軍将校が呆れた。
「会社の友人帳か」
ユダヤ人実業家は少し考えた。
「かなり高価な友人帳ですね」
---
英国との関係は、
すでに少し妙なものになっていた。
Bizon評価機。
返却期限。
延長。
再延長。
二機目。
発動機試験。
W式台車。
それらのおかげで、
WILKという会社名は、
少なくとも一部の技術者には知られていた。
英国側から一通の照会。
「今後も試験用部品の供給は可能か」
ポーランド軍将校が読んだ。
「返してから言え」
ユダヤ人実業家が答えた。
「供給します」
「おい」
「関係を切る理由がありません」
元ドイツ軍技術者も頷いた。
「むしろ続けろ」
「お前まで?」
「向こうが機体を触っているなら、こちらを忘れない」
「返却の話は?」
「忘れろ」
「さっきまで根に持ってたじゃないか」
「それとこれは別だ」
---
フランスにも小さな拠点ができた。
大工場ではない。
倉庫。
事務所。
技術連絡。
修理依頼の窓口。
常勤は少人数。
「これで何ができる」
軍側担当者が聞いた。
「平時なら?」
WILK担当者が答えた。
「商売」
「戦時なら?」
「分かりません」
担当者が眉をひそめた。
「分からない?」
「戦争の形を知りませんから」
「では意味が」
「平時に使えるなら意味があります」
---
この答え方は、
軍にはあまり好かれなかった。
戦争になったら何人逃がせる。
何機運べる。
何トン保管できる。
数字を欲しがる。
WILKは数字を出した。
ただし、
保証とは書かなかった。
鉄道が動けば。
港が開いていれば。
国境が通れれば。
政府が認めれば。
相手会社が残っていれば。
条件だらけだった。
ポーランド軍将校が言った。
「頼りない計画だな」
元白軍将校が答えた。
「未来を断言する計画よりは頼れる」
---
一方、
西側で何が起きているかも調べた。
軍備。
航空機生産。
発動機生産。
道路。
鉄道。
工場。
人員動員。
演習。
新聞だけではなく、
注文の変化も見た。
工具の注文が増える。
特殊鋼が動く。
工作機械の納期が延びる。
輸送枠が埋まる。
元ドイツ軍技術者が一覧を見た。
「嫌な動きだ」
ポーランド軍将校が聞いた。
「戦争になる?」
「分からん」
「では」
「戦争をしない国の買い方ではない」
---
元白軍将校が西の地図を見た。
「戦争は歩いてくる」
誰も返さなかった。
「突然来たように見えるのは、見ていなかった側だけだ」
元ドイツ軍技術者が言った。
「工場は先に動く」
ユダヤ人実業家。
「金も」
ポーランド軍将校。
「軍も」
元独立運動家。
「家族は最後に気づく」
そこで会話が止まった。
---
WILKは西側の取引を減らさなかった。
むしろ増やした。
ただし、
一社に寄せなかった。
一港に寄せない。
一銀行に寄せない。
一鉄道に寄せない。
「ドイツと商売するな、ではない」
ユダヤ人実業家が説明した。
「では?」
「ドイツとしか商売できない状態になるな、です」
同じことを英国にも。
フランスにも。
どこに対しても。
---
ある会議で、
軍側から質問が出た。
「西が危険なら、西へ資産を置くのは矛盾しないか」
ユダヤ人実業家が答えた。
「危険だから置かない、ではありません」
「では」
「全部を置かない」
「東にも?」
「全部を置かない」
「南にも?」
「全部を置かない」
「結局どこが安全なんだ」
実業家は首を振った。
「知りません」
「ならどうする」
「安全な場所を探すのではなく」
少し間を置いた。
「一つの危険で全部を失わないようにします」
---
その年。
地図の使い方が変わった。
以前は、
ポーランドの中を見るための地図だった。
国境は端だった。
今は違う。
国境の先にも、
線が続いた。
鉄道。
道路。
航路。
契約。
倉庫。
工場。
人。
元独立運動家が壁の地図を見た。
「大きくなったな」
ポーランド軍将校が答えた。
「国が?」
「仕事の地図が」
---
元ドイツ軍技術者は、
西側の工業地帯を長く見ていた。
「何を見ている」
ポーランド軍将校が聞いた。
「昔の国だ」
「帰りたいか」
「別に」
「では」
「何を作っているか見ている」
しばらくして、
彼は地図から離れた。
「もっと西まで見ろ」
「フランス?」
「その先も」
「英国?」
「その先もだ」
「大西洋か」
ユダヤ人実業家が静かに言った。
「海の向こうにも会社はあります」
ポーランド軍将校は天井を見た。
「また地図が大きくなるな」
---
一九三七年。
WILKは東を忘れなかった。
南も見ていた。
北の港も使った。
そして、
西側の地図を広げた。
それは、
西へ逃げる準備ではなかった。
西を味方だと信じるためでもなかった。
危険が一方向からだけ来ると思わないためだった。
会議記録の最後。
元白軍将校が書いた。
西側の地図を広げろ。
国境の向こうを、
安全な余白にするな。