WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK・東方情勢情報整理票
一九三八年春

確認可能情報。

少ない。

商取引情報。

少ない。

個人通信。

減少。

旧知からの連絡。

一部途絶。

不明事項。

多い。

結論。

情報がない。

以上。

なお、

「何も起きていない」

とは書くな。


第138話 返事がないことも報告しろ

「東は?」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

元白軍将校は机の上の紙を見た。

 

「分からん」

 

軍将校が顔を上げた。

 

「珍しいな」

 

「何がだ」

 

「お前がそう言うのが」

 

「分からんものを分かったと言ってどうする」

 

西側の地図には、いくつもの書き込みが増えていた。

 

ドイツ。

 

オーストリア。

 

チェコスロヴァキア。

 

列車。

 

工場。

 

国境。

 

人の移動。

 

手紙。

 

契約。

 

西からは、嫌というほど情報が来た。

 

東側。

 

ソ連。

 

地図には、

 

ほとんど何も書かれていなかった。

 

「ミンスク」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元白軍将校は一枚の紙を見た。

 

「なし」

 

「キエフ」

 

「なし」

 

「モスクワ」

 

「一通」

 

「内容は」

 

「天気」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

軍将校が紙を取った。

 

本当に天気の話しかなかった。

 

寒かった。

 

春が遅い。

 

体調に気を付けろ。

 

昔の仲間へよろしく。

 

政治。

 

軍。

 

仕事。

 

街。

 

何もない。

 

「これは情報になるのか」

 

「なる」

 

「どこが」

 

元白軍将校は手紙を指した。

 

「何も書いていない」

 

昔は違った。

 

元白軍将校には、

 

ロシア時代からの知人がいた。

 

全員が元部下ではない。

 

戦友。

 

鉄道員。

 

商人。

 

昔の軍人。

 

その家族。

 

内戦後、

 

各地へ散った人間。

 

外国へ出た者。

 

残った者。

 

名を変えた者。

 

仕事を変えた者。

 

長い年月の間に、

 

連絡は細くなっていた。

 

それでも、

 

年に一度。

 

二年に一度。

 

たまに便りが来る者はいた。

 

ところが、

 

ここ数年。

 

その便りが減っていた。

 

「死んだ?」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「分からん」

 

「逮捕?」

 

「分からん」

 

「移住?」

 

「分からん」

 

「手紙が届いていないだけ?」

 

「分からん」

 

軍将校は苛立った。

 

「全部分からんじゃないか」

 

「だから東は分からんと言った」

 

元白軍将校は怒らなかった。

 

むしろ、

 

そのこと自体を嫌がっていた。

 

「西は悪い」

 

「何が」

 

「見えるからだ」

 

「悪いなら見えた方がいいだろう」

 

「そうだ」

 

「東は?」

 

しばらく黙った。

 

「見えない」

 

そこへユダヤ人実業家が来た。

 

「商売側から何かないか」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「少しは」

 

帳簿を開く。

 

しかし、

 

西側ほどではなかった。

 

取引量。

 

契約。

 

輸送。

 

支払。

 

どれも細い。

 

「変化は?」

 

「あります」

 

「良い方?」

 

「判断できません」

 

「またそれか」

 

実業家が一枚を指した。

 

「問い合わせを送った会社から、返答がありません」

 

「一社?」

 

「数社」

 

「倒産?」

 

「確認できません」

 

「担当者が変わった?」

 

「それも」

 

「つまり」

 

「分かりません」

 

元白軍将校が笑った。

 

「仲間が増えたな」

 

「嬉しくありません」

 

三人は東側の資料を並べた。

 

軍からの情報。

 

外交筋。

 

新聞。

 

商取引。

 

手紙。

 

ほとんどが、

 

断片だった。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「軍の動きはある程度分かる」

 

「どの程度」

 

「言えない」

 

「では俺たちと同じだな」

 

「違う」

 

「何が」

 

「分からないことが分かっている」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「それは大事だ」

 

問題は、

 

連絡を増やせばいいわけではないことだった。

 

「電報を送るか」

 

若い担当者が言った。

 

元白軍将校が即座に答えた。

 

「やめろ」

 

「なぜ」

 

「相手を危険にする」

 

「ただの知人でしょう」

 

「だからだ」

 

「?」

 

元白軍将校は古い住所録を閉じた。

 

「俺が誰だったか忘れたか」

 

元白軍。

 

国外。

 

ポーランド。

 

会社。

 

軍との関係。

 

それら全部が、

 

相手にとって都合の良い経歴になるとは限らない。

 

「返事が欲しいからといって、こちらから名前を照らすな」

 

若い担当者は黙った。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「では何も聞けない」

 

「何も聞かない」

 

「それでいいのか」

 

「よくない」

 

「なら」

 

「相手を危険にしてまで知る必要がある情報か考えろ」

 

「軍事情報なら?」

 

「軍が取れ」

 

「会社の情報なら?」

 

「別の方法を探せ」

 

「人間の状況なら?」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「向こうから来るのを待て」

 

「来なかったら」

 

答えなかった。

 

元独立運動家が、

 

国外勤務者名簿を持ってきた。

 

「ソ連に家族がいる社員がいる」

 

部屋の空気が変わった。

 

「何人」

 

「確認中」

 

「呼べるか」

 

「難しい」

 

「旅券は」

 

「分からん」

 

「本人は?」

 

「ポーランドにいる」

 

「家族だけ向こう?」

 

「何件か」

 

元白軍将校が名簿を取った。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

指が止まった。

 

「この男を呼べ」

 

「社員を?」

 

「本人を」

 

社員は四十代だった。

 

WILKでは倉庫関係。

 

妻と娘はポーランド。

 

兄が東にいる。

 

「最後に手紙が来たのは」

 

元白軍将校が聞いた。

 

「去年です」

 

「今年は」

 

「ありません」

 

「出したか」

 

「二通」

 

「返事は」

 

「ありません」

 

「内容は」

 

「家族のことだけです」

 

「政治は」

 

「書きません」

 

「軍は」

 

「書きません」

 

「WILKは」

 

「会社で働いているとは」

 

元白軍将校が止めた。

 

「次から書くな」

 

社員が驚いた。

 

「なぜです」

 

「念のためだ」

 

「兄に何か?」

 

「分からん」

 

「では」

 

「分からんからだ」

 

社員はしばらく黙った。

 

「探せませんか」

 

元白軍将校は、

 

すぐには答えなかった。

 

「探すことで危険になるかもしれない」

 

「でも」

 

「分かっている」

 

「生きているかも分からないんです」

 

「分かっている」

 

そこで会話は終わった。

 

その日の午後。

 

元白軍将校は一人で古い住所録を見ていた。

 

名前。

 

住所。

 

昔の所属。

 

家族。

 

最後に会った年。

 

何人かには線が引かれている。

 

死亡確認。

 

亡命。

 

国外移住。

 

別の者には、

 

何もない。

 

ポーランド軍将校が入ってきた。

 

「何人だ」

 

「何が」

 

「返事がなくなった奴」

 

数えなかった。

 

「多い」

 

「いつから」

 

「一度にじゃない」

 

「少しずつ?」

 

「そうだ」

 

ポーランド軍将校は隣へ座った。

 

「昔の部下か」

 

「何人かは」

 

「助けたい?」

 

元白軍将校は住所録を閉じた。

 

「助けられるならな」

 

しばらく沈黙。

 

「内戦の時もそうだった?」

 

軍将校が聞いた。

 

「違う」

 

「何が」

 

「あの時は、うるさかった」

 

「うるさい?」

 

「銃声も、噂も、新聞も、逃げる人間も、全部うるさかった」

 

「今は?」

 

「静かだ」

 

元白軍将校は窓の外を見た。

 

「静かな方が嫌いだ」

 

ユダヤ人実業家の調査でも、

 

妙なことが分かった。

 

ソ連方面と関係を持つ一部の商人。

 

以前なら、

 

「分からない」

 

と言っていた。

 

最近は、

 

話題そのものを避ける者が増えた。

 

「取引は?」

 

「ありません」

 

「以前は?」

 

「ありました」

 

「再開予定は?」

 

「ありません」

 

「理由は」

 

「ありません」

 

「何もない?」

 

「何もありません」

 

その報告を読んで、

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「何もありません、が多いな」

 

実業家が答えた。

 

「多いですね」

 

「何かあるのか」

 

「分かりません」

 

元白軍将校が横から言った。

 

「だが、話したくないことはある」

 

三人は、

 

東側情報の扱いを変えた。

 

確認情報。

 

未確認情報。

 

噂。

 

そして、

 

連絡途絶。

 

新しい欄を作った。

 

「連絡途絶まで記録するのか」

 

若い担当者が聞いた。

 

元白軍将校は答えた。

 

「する」

 

「何も起きていない可能性も」

 

「ある」

 

「なら情報ではないでしょう」

 

「三人なら偶然だ」

 

「十人なら?」

 

「まだ偶然かもしれん」

 

「三十人なら?」

 

「その時、初めて記録を始めるのか?」

 

担当者は黙った。

 

「返事が来ないことも数えろ」

 

次に、

 

情報の鮮度も記録した。

 

最後に本人確認できた日。

 

最後に手紙が来た日。

 

最後に第三者が会った日。

 

最後に取引記録があった日。

 

「人間に期限を付けるのか」

 

元独立運動家が嫌そうに言った。

 

元白軍将校が答えた。

 

「違う」

 

「では」

 

「情報に期限を付ける」

 

「一年便りがなければ?」

 

「一年古い情報だ」

 

「生きているかもしれない」

 

「もちろん」

 

「死んでいるかもしれない」

 

「そうだ」

 

「嫌な帳簿だな」

 

「俺も嫌いだ」

 

一枚の手紙が届いた。

 

バルト方面を経由して来たものだった。

 

差出人。

 

昔の知人。

 

ソ連領内に親族がいる。

 

本人はすでに国外。

 

内容。

 

親族からの便りが半年ない。

 

以前なら月に一度。

 

「これで何が分かる」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

元白軍将校が答えた。

 

「何も」

 

「またか」

 

「ただし、同じ話が増えた」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「経済側も同じです」

 

「返事が減った?」

 

「はい」

 

「軍側は?」

 

ポーランド軍将校は答えなかった。

 

元白軍将校が彼を見る。

 

「それでいい」

 

五人会議。

 

東方情勢。

 

ポーランド軍将校が説明した。

 

「明確な結論は出せない」

 

元ドイツ軍技術者が聞いた。

 

「危険か」

 

「分からない」

 

「西と比べて」

 

「比較できない」

 

「では何を準備する」

 

ポーランド軍将校は少し考えた。

 

「東から何か起きる前提も捨てない」

 

「具体的には?」

 

元白軍将校が答えた。

 

「東側に置く物を減らしすぎるな」

 

「西が悪化している」

 

「知っている」

 

「なら西へ回したい」

 

「全部回すな」

 

第百三十五話と同じ話だった。

 

ただし今度は理由が違う。

 

西は危険が見える。

 

東は危険が見えない。

 

だからといって、

 

危険がないとは限らない。

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「東側工場の図面は?」

 

「複写済み」

 

「人員は」

 

「一部は二重化」

 

「臨時運用地点」

 

「維持」

 

「燃料」

 

「減らしすぎない」

 

「輸送」

 

「南へ抜ける経路も残す」

 

元独立運動家が聞いた。

 

「東側社員家族は?」

 

「優先順位を上げる」

 

ポーランド軍将校が顔を上げた。

 

「なぜ」

 

「何か起きた時、西へ移すより南へ動かす時間が必要になる」

 

元白軍将校が頷いた。

 

「国境から離すだけでもいい」

 

そこで、

 

また国外勤務者が増えた。

 

東部出身者。

 

家族関係が複雑な者。

 

国外業務へ転用できる者。

 

ただし、

 

一気には動かさなかった。

 

理由。

 

危険が確定していない。

 

東部の仕事も必要。

 

全部抜けば、

 

それ自体が問題になる。

 

「結局、少しずつか」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元独立運動家が答えた。

 

「少しずつしかできない」

 

「歯がゆいな」

 

「全員を救えると思うな」

 

元白軍将校が言った。

 

部屋が静かになった。

 

「できるだけ増やすんだ」

 

春の終わり。

 

西からは、

 

ますます手紙が増えていた。

 

チェコスロヴァキア。

 

ドイツ。

 

フランス。

 

英国。

 

人々が書いている。

 

政治。

 

軍。

 

工場。

 

不安。

 

噂。

 

東からは、

 

逆だった。

 

手紙が減った。

 

取引が減った。

 

言葉が減った。

 

分からないことが増えた。

 

ポーランド軍将校は二つの束を見た。

 

左。

 

西。

 

厚い。

 

右。

 

東。

 

薄い。

 

「西の方が危険に見える」

 

元白軍将校が答えた。

 

「見えるからな」

 

「東は?」

 

「見えない」

 

「だから怖い?」

 

「違う」

 

「では」

 

「見えないものを、安全と書く奴が一番怖い」

 

WILKの東方情勢報告は、

 

以前より長くなった。

 

情報が増えたからではない。

 

分からないことを、

 

分からないまま記録し始めたからだった。

 

連絡なし。

 

確認不能。

 

消息不明。

 

取引停止理由不明。

 

情報更新なし。

 

それまでなら、

 

空欄だった場所。

 

そこに文字を入れた。

 

元白軍将校は言った。

 

「空欄にするな」

 

若い担当者が聞いた。

 

「何と書けば」

 

「分からない、と書け」

 

「報告になりません」

 

「なる」

 

「何が分かるんです」

 

「誰も知らないことが分かる」

 

一九三八年。

 

西では、

 

国境線が動いた。

 

東では、

 

紙の上の線は動いていなかった。

 

だからといって、

 

何も起きていないとは限らなかった。

 

WILKには、

 

ソ連内部を見通す目はなかった。

 

秘密の情報網もなかった。

 

未来も知らなかった。

 

ただ、

 

以前届いていた手紙が、

 

届かなくなったことだけは分かった。

 

以前答えていた会社が、

 

答えなくなったことも。

 

以前名前のあった人間を、

 

確認できなくなったことも。

 

それだけだった。

 

だが、

 

それだけを捨てなかった。

 

報告書の最後。

 

元白軍将校が書いた。

 

返事がないことも報告しろ。

 

その下に、

 

ポーランド軍将校が追記した。

 

知らないことを、

 

安全と呼ぶな。

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