一九三八年夏
確認事項。
条約。
協定。
友好関係。
相互援助。
外交声明。
存在する。
結論。
存在することと、
実際に動くことは、
同じではない。
「フランスは?」
ポーランド軍将校が聞いた。
ユダヤ人実業家が答える。
「取引は続いています」
「英国は」
「続いています」
「ルーマニア」
「続いています」
「なら悪くない」
元白軍将校が横から言った。
「商売の話ならな」
ポーランド軍将校が顔をしかめる。
「今日は外交の話だ」
「だから言った」
一九三八年夏。
ポーランドの周囲には、
まだ国があった。
同盟国もある。
友好国もある。
協定もある。
外交官は動いている。
会談も続いている。
だから、
紙だけを見るなら、
世界はまだ崩れていなかった。
WILKはその紙を疑った。
正確には、
紙そのものではなく、
紙の先にいる人間が、
本当に動けるかを見始めた。
ポーランド軍将校が軍側の資料を持ってきた。
「フランスとの関係は維持」
「当然です」
「英国もドイツの動きを警戒」
「それも」
「ルーマニアとの関係も」
「はい」
ユダヤ人実業家は頷いた。
元白軍将校だけが黙っていた。
「何だ」
ポーランド軍将校が聞く。
「何でもない」
「言え」
「全部、正しい」
「なら」
「正しい情報を並べたから安心できるとは限らん」
元白軍将校は地図へ近づいた。
フランス。
遠い。
英国。
海の向こう。
ルーマニア。
南。
「援軍が来る」
ポーランド軍将校が言った。
「いつ」
「戦争になれば」
「だから、いつ」
「……状況による」
「どこを通る」
「それも」
「何日かかる」
軍将校が黙った。
元白軍将校は地図を指した。
「同盟は距離を消さない」
ユダヤ人実業家が別の資料を出した。
「こちらも同じです」
「何が」
「契約です」
船会社。
倉庫。
鉄道。
銀行。
保険。
契約はある。
しかし、
非常時条項。
政府命令。
港湾閉鎖。
軍優先。
不可抗力。
条件が並ぶ。
「平時には使えます」
実業家が言った。
「戦争になったら?」
「分かりません」
ポーランド軍将校が嫌そうな顔をした。
「最近そればかりだな」
「分からないものが増えていますので」
そこへ手紙が届いた。
チェコスロヴァキア方面。
元白軍将校の知人から。
短い。
国境地域では緊張が続く。
住民は政治の話を避ける者と、
逆に大声で話す者に分かれた。
工場は動いている。
列車も動いている。
軍もいる。
「平常だな」
ポーランド軍将校が言った。
元白軍将校は首を振った。
「平常なら、平常だとわざわざ書かない」
もう一通。
フランス。
昔の軍人仲間。
内容。
新聞では戦争回避を望む声が強い。
前の戦争を知る者ほど、
もう一度やりたくないと言う。
ポーランド軍将校が読んだ。
「当然だ」
「そうだな」
「悪いことか?」
「悪くない」
元白軍将校は少し考えた。
「ただ、戦争をしたくない国と、戦争をしない国は同じではない」
英国からも情報が来た。
今度はWILK支部経由。
航空関係者。
技術者。
商社。
「ドイツは危険だ」
そう言う者は増えた。
しかし同時に、
「戦争は避けられる」
そう言う者も多かった。
ユダヤ人実業家が言った。
「市場も同じです」
「どういう意味だ」
「危険を織り込み始めています」
「では暴落?」
「そこまでではない」
「なら」
「皆、不安ですが、明日終わるとは思っていない」
元白軍将校が笑った。
「一番動きにくい時期だな」
元独立運動家が入ってきた。
「英国へ送る家族、また増やす」
ポーランド軍将校が見る。
「今度は何世帯」
「八」
「多いな」
「フランスも五」
「ルーマニアは」
「四」
元ドイツ軍技術者が聞いた。
「理由は」
「仕事」
「本音は」
「同じだ」
誰も訂正しなかった。
問題が出た。
国外支部側から。
英国。
住宅不足。
フランス。
学校手続き遅延。
ルーマニア。
一部職種で仕事不足。
元独立運動家が言った。
「止めるか」
ユダヤ人実業家が首を振る。
「調整します」
「どうやって」
「仕事を作る」
「また?」
「仕事がない人間を置いておくよりは」
「赤字になるぞ」
「一時的には」
元ドイツ軍技術者が言った。
「何をやらせる」
「研修」
「何の」
「向こうの工場を覚える」
技術者が少し考えた。
「悪くない」
国外へ送られた社員たちは、
徐々に現地の仕事を覚え始めていた。
英国。
発動機。
工作機械。
品質管理。
フランス。
精密加工。
化学。
輸送。
ルーマニア。
航空。
鉄道。
農業機械。
「逃がしているだけではないな」
ポーランド軍将校が言った。
元独立運動家が答えた。
「当然だ」
「では何をしている」
「根を張らせている」
元白軍将校の手紙も、
相変わらず届いた。
ドイツ。
チェコスロヴァキア。
フランス。
バルカン。
内容は、
ますます政治的になっていた。
ある手紙。
「皆、誰かが止めると思っている」
別の手紙。
「英仏が何とかする」
別の手紙。
「ドイツも全面戦争までは望まない」
ポーランド軍将校が読み終えて言った。
「皆、そう思っているなら」
元白軍将校が聞く。
「何だ」
「本当に止まるかもしれない」
「もちろん」
「……そう言うのか」
「止まる可能性はある」
「なら」
「だから準備をやめるのか?」
それが、
一九三八年の難しさだった。
戦争は、
確定していなかった。
回避される可能性もある。
外交が成功するかもしれない。
ドイツが引くかもしれない。
英仏が強く出るかもしれない。
チェコスロヴァキア危機が収まるかもしれない。
全部、
あり得た。
だから、
戦争になると断言して全てを捨てることも、
平和になると信じて何もしないことも、
どちらも危険だった。
ポーランド軍将校が言った。
「軍は動ける」
元白軍将校。
「どこまで」
「それは言えない」
「フランスは」
「同盟国だ」
「英国は」
「重要だ」
「ルーマニア」
「重要だ」
「ソ連は」
沈黙。
「ドイツは」
さらに沈黙。
元白軍将校は頷いた。
「いい」
「何が」
「分からないことが多い」
「それがいいのか」
「未来を知っていると思い始めるよりはな」
ユダヤ人実業家が、
各国別の表を作った。
軍事関係。
政治関係。
商取引。
輸送。
金融。
社員。
家族。
国外支部。
「国を点数にするのか」
ポーランド軍将校が聞いた。
「違います」
「では」
「一つの関係だけで判断しないためです」
フランス。
軍事関係。
強い。
商取引。
あり。
輸送。
条件付き。
英国。
正式な軍事関係。
限定的。
商取引。
強い。
航空技術関係。
強い。
ルーマニア。
政治・軍事関係。
重要。
南方経路。
極めて重要。
「どこが一番安全だ」
ポーランド軍将校が聞いた。
ユダヤ人実業家は答えた。
「その質問をやめましょう」
「なぜ」
「安全な国を一つ選んだ瞬間、また一つに依存します」
元ドイツ軍技術者が笑った。
「会社全体が俺の工場みたいになった」
元独立運動家が言った。
「違う」
「何が」
「お前の工場より人が多い」
「知っている」
「だから面倒だ」
「それも知っている」
夏。
WILKは、
海外配置を続けた。
しかし、
一国にまとめなかった。
英国だけではない。
フランスだけでもない。
ルーマニアだけでもない。
遠方拠点も使う。
少数でも、
人を置く。
仕事を持たせる。
生活を始めさせる。
戻れるなら戻す。
戻れなければ、
そこで働けるようにする。
ある日。
ポーランド軍将校が元白軍将校へ尋ねた。
「お前なら、どの国を信用する」
元白軍将校は少し考えた。
「人間なら何人かいる」
「国を聞いている」
「だから答えられん」
「同盟国も?」
「同盟国は大事だ」
「なら信用する?」
「協定を信用する」
「同じだろう」
「違う」
元白軍将校は言った。
「協定があることは信用する」
「その先は?」
「実際に何をするか見る」
ポーランド軍将校は、
その言葉を気に入らなかった。
軍人として、
同盟を疑い続けることは、
気分が良くない。
だが、
同盟を信じたからといって、
兵站が生まれるわけではない。
列車も。
船も。
航空機も。
部隊も。
時間も。
条約文の中から出てくるわけではない。
その日の会議。
「フランスが助ける」
誰かが言った。
元白軍将校が答えた。
「助けるだろう」
「英国も」
「場合による」
「ルーマニアも」
「できる範囲で」
ポーランド軍将校が眉をひそめた。
「全部曖昧だな」
「人間が作った約束だからな」
「信用しないのか」
「違う」
元白軍将校は地図を見た。
「信用するから、できる範囲まで考える」
一九三八年夏。
ポーランドには、
同盟があった。
友好国もあった。
取引先もあった。
国外支部もあった。
それら全部が、
価値あるものだった。
だからWILKは、
それを捨てなかった。
しかし、
どれか一つに、
会社と人間の未来を預けることもしなかった。
協定がある。
だから安心する。
ではなく。
協定がある。
なら、
その協定が使えるうちに、
道を作る。
人を送る。
仕事を作る。
それがWILKの結論だった。
会議記録の最後。
元白軍将校が書いた。
協定があるから安心するな。
その下に、
ポーランド軍将校が追記した。
だが、
協定があるうちに使え。