一九三八年晩夏
チェコスロヴァキア。
国境線。
変化なし。
政府。
存続。
軍。
存続。
工場。
稼働。
鉄道。
運行。
以上。
なお、
国外送金。
増加。
家族移動。
増加。
短期契約。
増加。
技術者からの問い合わせ。
増加。
結論。
地図は、
まだ変わっていない。
「今日は何通だ」
ポーランド軍将校が聞いた。
元白軍将校は机の上を見た。
「十一」
「全部チェコスロヴァキア?」
「七通」
「残りは」
「ドイツ、フランス、ハンガリー、ルーマニア」
「多いな」
「増えている」
以前なら、
手紙は読んで終わった。
最近は違う。
日付。
差出地。
職業。
内容。
確認可能事項。
噂。
本人の推測。
別の手紙との一致。
簡単な分類を付けるようになった。
ポーランド軍将校が一通を取った。
「鉄道員」
「昔の知人の息子だ」
「お前の知人、何人いるんだ」
「長く生きると増える」
「減ってもいるだろ」
元白軍将校は答えなかった。
手紙には、
列車が増えたとあった。
正確には、
普段と違う時間に貨物列車を見ることが増えた。
駅員が配置について話さなくなった。
軍服の客が増えた。
「軍事輸送か」
ポーランド軍将校が聞いた。
「書いていない」
「なら分からない」
「そうだ」
別の手紙。
機械工場。
残業増加。
ただし、
何を作っているかは書かれていない。
別。
教師。
生徒の欠席が増えた。
理由。
家族で親戚を訪ねる。
国外へ行く。
一時的なもの。
そう説明されている。
別。
商人。
現金を持ちたがる客が増えた。
別。
元軍人。
「皆、戦争になるかどうかを聞いてくる。私に聞くな」
ポーランド軍将校がそこだけ少し笑った。
「気持ちは分かる」
元白軍将校も頷いた。
「俺にも聞くな」
扉が開いた。
ユダヤ人実業家だった。
今回は帳簿ではなく、
電報の束を持っている。
「こちらも増えています」
「何が」
「問い合わせです」
「注文?」
「それもあります」
紙を一枚。
工作機械。
中古でも可。
納期優先。
次。
測定具。
在庫確認。
次。
倉庫。
三か月契約。
延長可能。
次。
国外送金についての相談。
「誰からだ」
ポーランド軍将校が聞いた。
「取引先です」
「会社?」
「会社も。個人も」
「個人?」
「経営者、技術者、その家族」
元白軍将校が言った。
「農夫が自分で畑を探し始めたな」
WILKの国外支部にも、
チェコスロヴァキアから問い合わせが入り始めていた。
英国。
「技術職に空きはあるか」
フランス。
「機械技師を採用する予定は」
ルーマニア。
「家族同伴勤務は可能か」
最初は一件。
次に二件。
それが、
少しずつ増えた。
元独立運動家が一覧を持ってきた。
「雇うか?」
ユダヤ人実業家が聞いた。
「必要なら」
「必要以上に来たら」
「仕事を作れる範囲まで」
元ドイツ軍技術者が資料を見る。
「専門は?」
「機械加工」
「この二人は?」
「検査」
「これは?」
「工具設計」
指が止まった。
「こいつは欲しい」
ポーランド軍将校が呆れた。
「お前、急に元気になったな」
「精密治具ができる」
「人間だぞ」
元独立運動家が言った。
技術者は顔をしかめた。
「知っている」
「家族四人」
「……四人で来い」
ただし、
WILKは積極的な引き抜きには慎重だった。
まだチェコスロヴァキアは存在している。
工場も必要だ。
技術者も必要だ。
ポーランド軍将校が言った。
「弱っている隣国から人を抜くのはどうなんだ」
元ドイツ軍技術者も珍しく同意した。
「向こうの工場を止めるほどやるな」
ユダヤ人実業家が答えた。
「こちらから大量募集はしません」
「向こうから来たら?」
「断る理由もありません」
元白軍将校が言った。
「国に残れと外国企業が命令するのも変だ」
「難しいな」
「だから本人に決めさせろ」
一通の手紙が、
会議の空気を変えた。
差出人はチェコスロヴァキアの元軍人。
元白軍将校とは、
昔、
別の国で一度仕事をしたことがあるだけの男だった。
長い付き合いではない。
手紙も数年ぶり。
内容は短かった。
「妻はプラハに残ると言っている」
「息子はフランスへ行きたいと言っている」
「娘婿は工場を離れないと言う」
「私は誰にも何が正しいか言えない」
最後。
「君は国を失ったことがある。何を先に持ち出せばよい」
元白軍将校は、
しばらく紙を置いたままにした。
ポーランド軍将校が聞いた。
「返事は?」
「書く」
「何と」
「人間」
「それだけ?」
「それだけでいい」
実際に送った返事は、
少し長かった。
人。
身分証明。
家族関係を示す書類。
資格証明。
仕事を証明できるもの。
連絡先。
少額でも国外で使える金。
そして、
持てるなら仕事道具。
だが、
荷物のために人間の出発を遅らせるな。
元独立運動家がその草稿を読んだ。
「まともだな」
元白軍将校が顔を上げた。
「失礼だな」
「もっと『今すぐ走れ』とか書くかと思った」
「走れない奴もいる」
「知ってるじゃないか」
「俺を何だと思っている」
ポーランド軍将校が答えた。
「逃げるのが得意な老人」
「まだ老人ではない」
元ドイツ軍技術者が横から言った。
「十分だろ」
「お前もだ」
ポーランド政府側から入る情報も、
明るくはなかった。
ドイツの要求。
チェコスロヴァキア国内の緊張。
英仏の動き。
周辺国の思惑。
ポーランド自身の利害。
一つの問題に、
いくつもの国が口を出している。
ポーランド軍将校は、
以前より発言が慎重になっていた。
「誰が味方で、誰が敵だ」
若いWILK職員が聞いた。
軍将校は即答しなかった。
「質問を変えろ」
「では」
「誰が、何について、こちらと利害が一致しているかだ」
「同じでは?」
「全然違う」
チェコスロヴァキアについても、
単純ではなかった。
ドイツとの問題。
少数民族。
国境。
ポーランドとの領土問題。
ハンガリーとの関係。
ソ連。
フランス。
英国。
全部が重なっている。
元白軍将校が地図を見て言った。
「一枚の地図に線を引きすぎだ」
ポーランド軍将校が答えた。
「外交とはそういうものだ」
「だから戦争になる」
「言い過ぎだ」
「そうだといいな」
ユダヤ人実業家が、
別の変化を見つけた。
「機械の値段が上がっています」
「どこで」
「中欧全体です」
「需要?」
「それも」
「他には」
「皆、持っておきたい」
工作機械。
発電設備。
輸送車両。
予備部品。
測定具。
「戦争になるから?」
ポーランド軍将校。
「断言はできません」
「またか」
「ただ」
実業家は指で数字をなぞった。
「将来いつでも買える、と考える人が減っている」
元白軍将校が言った。
「物も国外旅行を始めたな」
WILKも動いた。
チェコスロヴァキアの取引先へ、
未納品の確認。
預けた工具。
貸与品。
図面。
契約。
前払い。
一つずつ整理した。
ただし、
引き揚げではない。
必要な取引は続ける。
注文も出す。
「危険なら切ればいいのでは」
若い経理担当が聞いた。
ユダヤ人実業家は首を振った。
「切ったら、こちらから相手を倒します」
「でも損失が」
「限度は決めます」
「続ける?」
「続けます」
「なぜ」
「平時の関係を守りながら、崩れた場合にも備えるためです」
経理担当は困った。
「両方やるんですか」
「はい」
「面倒ですね」
「非常に」
国外へ出すWILK社員も増えた。
今度は、
単に危険度だけではなく、
「国外支部を単独で動かせるか」
が重視された。
支部長。
経理。
技術。
物流。
生活支援。
一拠点に一人ずつ。
全部は無理。
なら兼務。
英国。
かなり揃った。
フランス。
足りない。
ルーマニア。
物流は強い。
事務が薄い。
ポルトガル。
人数不足。
元独立運動家が言った。
「家族を受け入れる側にも家族担当がいる」
ポーランド軍将校が聞いた。
「家族担当?」
「住居、学校、病院、食事、手続き」
「そんな役職あったか」
「今作った」
またWILKだった。
必要になったので、
役職が生えた。
元ドイツ軍技術者も、
国外拠点へ小さな箱を送り始めた。
基準器。
測定具。
加工見本。
簡易治具。
複写図面。
「全部?」
ポーランド軍将校が聞いた。
「全部ではない」
「何ができる」
「最初の仕事」
「航空機を作れる?」
「無理だ」
「発動機?」
「無理」
「では」
「工具を作れる」
技術者は箱を叩いた。
「工具が作れれば、次が作れる」
その箱を見て、
元白軍将校が言った。
「種だな」
元ドイツ軍技術者が嫌そうな顔をした。
「また農業の話か」
「農地へ農夫を送った」
「そうだな」
「農夫に鍬も要る」
技術者は少し考えた。
「……その例えなら悪くない」
「珍しく認めたな」
「鍬は重要だ」
「そこか」
九月が近づくにつれ、
手紙の文章が短くなった。
以前。
「最近はこういうことがあった」
今。
「まだいる」
「家族は出した」
「工場は動いている」
「次は分からない」
元白軍将校が言った。
「短くなる」
ポーランド軍将校が聞いた。
「何が」
「余裕がなくなると、人間は必要なことしか書かなくなる」
その日、
チェコスロヴァキアから一人の技術者がワルシャワへ来た。
商談。
表向きはそうだった。
会議が終わった後、
彼は元ドイツ軍技術者へ聞いた。
「英国支部に仕事はありますか」
「ある」
「フランスは」
「ある」
「家族も?」
元独立運動家が答えた。
「何人」
「妻と子供三人」
「五人だな」
「はい」
「いつ動ける」
男は黙った。
「まだ決めていません」
元白軍将校が部屋の端から言った。
「なら今は決めるな」
全員が彼を見る。
「ただし」
男を見る。
「切符を買える場所だけ調べておけ」
ポーランド軍将校が後で聞いた。
「出ろと言わなかったな」
「本人の国だ」
「危険かもしれない」
「知っている」
「なら」
「残る理由もある」
「工場?」
「家族。家。国。仕事。墓。いろいろだ」
少し間。
「人間は荷物じゃない」
元独立運動家が遠くから言った。
「お前がそれを言うようになったか」
元白軍将校は肩をすくめた。
「長く逃げていると覚える」
WILKは、
誰かの未来を決めることはできなかった。
チェコスロヴァキアがどうなるかも。
ドイツがどこまで要求するかも。
英国がどこまで譲るかも。
フランスがどう動くかも。
ポーランド政府が何を選ぶかも。
分からなかった。
ただ、
変化だけは見えた。
鉄道。
金。
契約。
人。
家族。
機械。
言葉。
国境線が動くより前に、
それらは少しずつ動き始めていた。
九月。
壁の地図は、
まだ同じだった。
オーストリアを除けば、
春から大きく変わってはいない。
ポーランド軍将校が地図を見た。
「まだある」
元白軍将校が聞いた。
「何が」
「チェコスロヴァキア」
「あるな」
「国境も」
「ある」
「ならまだ」
元白軍将校が首を振った。
「地図を見るなとは言わん」
机の上を指した。
手紙。
電報。
契約書。
国外勤務者名簿。
転職希望者。
鉄道時刻。
住宅一覧。
「だが、地図だけを見るな」
一九三八年。
国境線が変わるより先に、
人間が動いた。
金が動いた。
機械が動いた。
契約が動いた。
家族が動いた。
そしてWILKは、
それらを記録した。
まだ国境線があるから、
何も起きていない。
そうは考えなかった。
会議記録の最後。
元白軍将校が書いた。
国境線より先に、
人が動く。
その下に、
ユダヤ人実業家が追記した。
金は、
さらに少し先に動く。