WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

141 / 186

――WILK・欧州情勢緊急整理
一九三八年九月

確認事項。

チェコスロヴァキア情勢。

急速に悪化。

ドイツ。

要求強化。

英国。

首相自ら交渉。

フランス。

協議継続。

イタリア。

関与。

ポーランド。

自国利害あり。

結論。

時間が足りないのではない。

世界が、

待たなくなった。


第9章「地図が動く」
第141話 世界が待たなくなった


 

 

「昨日の資料は捨てろ」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

若い職員が顔を上げた。

 

「昨日作ったばかりです」

 

「知っている」

 

「なら」

 

「前提が変わった」

 

「一日で?」

 

「一日でだ」

 

机の上には、

 

昨日まで使っていた情勢表。

 

その横に、

 

今朝届いた電報。

 

さらに、

 

昼前の外電。

 

午後には、

 

また別の報告が来る予定だった。

 

元白軍将校が言った。

 

「今年は一週間が長い」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「一日も長い」

 

「違う」

 

「何が」

 

「一日で一週間分進む」

 

---

 

九月。

 

チェコスロヴァキアをめぐる情勢は、

 

もう春の延長ではなかった。

 

ドイツの要求。

 

ズデーテン地方。

 

少数民族。

 

国境。

 

軍。

 

英仏。

 

ソ連。

 

ポーランド。

 

ハンガリー。

 

一つの問題に、

 

あまりにも多くの国が手を伸ばしていた。

 

ポーランド軍将校は、

 

壁の地図を見る回数が増えた。

 

元白軍将校は、

 

壁より机を見る回数が増えた。

 

手紙。

 

電報。

 

人の動き。

 

ユダヤ人実業家は、

 

帳簿と電話から離れなくなった。

 

三人が見ているものは違った。

 

だが、

 

結論は近づいていた。

 

---

 

「英国首相が動いた」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「本人が?」

 

元白軍将校が聞く。

 

「そうだ」

 

「それは大きいな」

 

「戦争回避へ直接交渉するつもりらしい」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「市場は好感するでしょう」

 

「お前はまた市場か」

 

「市場も人間です」

 

「違うだろ」

 

「人間が金を動かします」

 

元白軍将校が言った。

 

「金が安心したら?」

 

「少し戻ります」

 

「人間は?」

 

「少し安心するでしょう」

 

「国境は?」

 

ユダヤ人実業家は答えなかった。

 

---

 

元白軍将校の手紙も増えていた。

 

チェコスロヴァキア。

 

ドイツ。

 

オーストリア。

 

フランス。

 

中には、

 

昨日書かれ、

 

今日届いたものもある。

 

しかし、

 

その昨日がもう古かった。

 

「国境地域は緊張している」

 

「軍は警戒している」

 

「家族を内地へ送る者が増えた」

 

「列車が混み始めた」

 

ポーランド軍将校が一通を読んだ。

 

「この情報は三日前だ」

 

「そうだ」

 

「今はもっと悪いかもしれない」

 

「良くなっているかもしれない」

 

「どちらだ」

 

「分からん」

 

またその言葉。

 

だが、

 

以前とは違った。

 

三日古い情報が、

 

価値を失い始めていた。

 

---

 

ユダヤ人実業家が、

 

新しい一覧を出した。

 

「国外送金相談、昨日だけで十四件」

 

ポーランド軍将校が見る。

 

「WILK社員?」

 

「半分」

 

「残りは」

 

「取引先とその関係者」

 

「工作機械の問い合わせは」

 

「増加」

 

「倉庫」

 

「増加」

 

「住宅」

 

「増加」

 

元白軍将校が聞いた。

 

「国外へ出たい奴も?」

 

「増えています」

 

「決めている?」

 

「まだ迷っている者が多い」

 

「なら急がせろ」

 

ポーランド軍将校が横を見る。

 

「本人が決めることだ」

 

「決めるのは本人だ」

 

「では」

 

「決めるための時間が減っていると伝えろ」

 

---

 

元独立運動家が入ってきた。

 

人員表。

 

今週出国予定。

 

英国。

 

フランス。

 

ルーマニア。

 

ポルトガル。

 

少数。

 

「予定を前倒しする」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「どのくらい」

 

「可能なもの全部」

 

元独立運動家が表を見る。

 

「三週間後の家族を来週」

 

「できるか」

 

「切符次第」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「取ります」

 

「住宅」

 

「先に押さえます」

 

「仕事」

 

「後から作ります」

 

元ドイツ軍技術者が顔を上げた。

 

「順番が逆だ」

 

元独立運動家が言った。

 

「今は人が先だ」

 

技術者は反論しなかった。

 

---

 

それ自体が変化だった。

 

以前の元ドイツ軍技術者なら、

 

先に仕事。

 

次に設備。

 

最後に人員。

 

そう考えただろう。

 

今は違う。

 

「技術者の一覧をくれ」

 

元独立運動家が渡す。

 

「この三人は英国」

 

「なぜ」

 

「向こうに同系設備がある」

 

「これはフランス」

 

「理由」

 

「工作機械」

 

「この男は」

 

「家族の事情でルーマニア」

 

技術者が眉をひそめた。

 

「仕事より家族か」

 

「そうだ」

 

少し黙った。

 

「なら、現地で仕事を作れ」

 

それだけだった。

 

---

 

チェコスロヴァキアから、

 

直接WILKへ連絡してきた技術者もいた。

 

「以前の話はまだ有効か」

 

英国支部勤務。

 

数週間前、

 

まだ決めていなかった男だった。

 

元独立運動家が返事を書こうとした。

 

元白軍将校が言った。

 

「電話は」

 

「つながる」

 

「なら電話しろ」

 

「書面を残した方が」

 

「その後でいい」

 

「急ぐのか」

 

元白軍将校が彼を見る。

 

「今さら何を聞く」

 

---

 

電話がつながった。

 

短い会話。

 

「家族は」

 

妻。

 

子供三人。

 

五人。

 

「いつ出られる」

 

「数日以内」

 

「切符は」

 

「まだ」

 

ユダヤ人実業家が横から言った。

 

「こちらで手配する」

 

電話口の男には聞こえなかった。

 

元独立運動家が続けた。

 

「英国へ直接行けるか」

 

「難しい」

 

「フランスまで来い」

 

「仕事は」

 

「ある」

 

「本当に?」

 

元ドイツ軍技術者が受話器を取った。

 

「ある」

 

「あなたは?」

 

「WILKだ」

 

「……分かりました」

 

「工具を持て」

 

元独立運動家が腕を掴んだ。

 

「人を先にしろ」

 

「持てるならだ」

 

電話口に向かって言い直した。

 

「持てるなら工具。無理なら置いてこい」

 

元白軍将校が少し笑った。

 

「学んだな」

 

「うるさい」

 

---

 

午後。

 

ポーランド軍将校のところへ、

 

新しい外交情報が入った。

 

彼は読んだ。

 

もう一度読んだ。

 

元白軍将校が聞いた。

 

「悪いか」

 

「まだ交渉中だ」

 

「なら悪くない」

 

「しかし要求が変わる」

 

「どちらへ」

 

「強く」

 

元白軍将校は地図を見る。

 

「チェコは」

 

「譲歩を求められている」

 

「誰から」

 

ポーランド軍将校は答える。

 

「複数からだ」

 

「本人は?」

 

「抵抗している」

 

「当然だろう」

 

---

 

そこへ、

 

別の報告。

 

フランス。

 

英国。

 

ドイツ。

 

また会談。

 

また提案。

 

また修正。

 

ポーランド軍将校が紙を机へ置いた。

 

「追いつかん」

 

元白軍将校が聞いた。

 

「何に」

 

「外交に」

 

「追いつく必要があるか」

 

「ある」

 

「全部?」

 

軍将校が止まった。

 

元白軍将校は続けた。

 

「全部追うと判断が遅れる」

 

「なら何を見る」

 

「変わったら取り返せないもの」

 

「国境?」

 

「それも」

 

「人?」

 

「それだ」

 

---

 

WILKの判断基準が、

 

さらに単純になった。

 

今日やらなくても、

 

明日できること。

 

待つ。

 

今日やらなければ、

 

明日できないかもしれないこと。

 

やる。

 

国外送金。

 

早める。

 

切符。

 

取る。

 

家族移動。

 

可能なら出す。

 

契約。

 

必要なものだけ確定。

 

機械。

 

大物は慎重。

 

図面。

 

複写。

 

小型治具。

 

送る。

 

元ドイツ軍技術者が一覧を見た。

 

「雑だな」

 

ポーランド軍将校が言う。

 

「前はもっと細かかった」

 

「時間がある時の計画だったからな」

 

「今は?」

 

「優先順位だけ間違えるな」

 

---

 

国外支部へ、

 

新しい電報が飛んだ。

 

英国。

 

追加十五名受入可能か。

 

フランス。

 

追加十二名。

 

ルーマニア。

 

追加十世帯の一時住宅。

 

ポルトガル。

 

一時滞在者受入能力確認。

 

返答。

 

英国。

 

可能。ただし住宅手配必要。

 

「押さえろ」

 

フランス。

 

可能。家族構成を送れ。

 

「送れ」

 

ルーマニア。

 

可能。

 

「使え」

 

ポルトガル。

 

人数限定。

 

「枠を確保」

 

誰も、

 

数か月先とは言わなくなっていた。

 

---

 

元独立運動家が言った。

 

「問題がある」

 

「何だ」

 

「子供だ」

 

学校。

 

学期。

 

言語。

 

転校。

 

親は迷う。

 

「今動けば学校が変わる」

 

「冬まで待てば」

 

「学年途中だ」

 

「来春なら」

 

会話が止まった。

 

来春。

 

その言葉だけで、

 

全員が地図を見た。

 

元白軍将校が言った。

 

「来春の話はするな」

 

「しかし子供の教育は」

 

「だから今考えろ」

 

「急に学校へ入れられない」

 

「なら国外支部で教室を作れ」

 

元独立運動家が目を細めた。

 

「教師は?」

 

「送れ」

 

「仕事を増やすな」

 

「お前が始めた話だろ」

 

---

 

結局、

 

教師も国外勤務者一覧へ加わった。

 

二人。

 

英国。

 

一人。

 

フランス。

 

「会社が学校まで作るのか」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元独立運動家が答える。

 

「仮だ」

 

「仮設学校?」

 

「学習室だ」

 

「名前を変えただけでは」

 

「学校より許可が楽だ」

 

ユダヤ人実業家が書類を確認した。

 

「それなら可能です」

 

軍将校が頭を抱えた。

 

「会社がまた増えた」

 

元白軍将校が言った。

 

「人を送れば必要な物も増える」

 

---

 

夕方。

 

元白軍将校に電報が届いた。

 

チェコスロヴァキアの知人から。

 

短い。

 

「息子を出した」

 

それだけ。

 

ポーランド軍将校が読んだ。

 

「本人は?」

 

「残るらしい」

 

「またか」

 

「まただ」

 

「どうして皆、自分は残る」

 

元白軍将校は答えた。

 

「自分の人生だからだ」

 

「家族は人生じゃないのか」

 

「だから先に出す」

 

---

 

夜。

 

五人が揃った。

 

地図。

 

情報。

 

名簿。

 

契約。

 

電話記録。

 

全部が机にある。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「明日、状況が落ち着いたらどうする」

 

ユダヤ人実業家。

 

「余計な費用が出ます」

 

元独立運動家。

 

「何家族かに文句を言われる」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「国外で無駄な研修が増える」

 

軍将校が元白軍将校を見る。

 

「それで?」

 

「笑われる」

 

「誰に」

 

「皆に」

 

「それで済む?」

 

「済む」

 

---

 

「逆なら」

 

元白軍将校が言った。

 

誰も聞き返さなかった。

 

逆。

 

落ち着かなかった場合。

 

国境が変わる。

 

列車が止まる。

 

旅券が通らない。

 

送金できない。

 

家族が動けない。

 

工場から出られない。

 

その時、

 

今日の余計な費用を惜しんだ意味は、

 

なくなる。

 

---

 

ポーランド軍将校は、

 

時計を見た。

 

遅い時間だった。

 

「明日の会議で決める」

 

元白軍将校が即座に言った。

 

「何を」

 

「追加人員」

 

「今決めろ」

 

「もう夜だ」

 

「だから?」

 

「担当者が帰っている」

 

ユダヤ人実業家が時計を見る。

 

「まだ銀行側に一人います」

 

元独立運動家。

 

「人事にもいる」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「工場も夜勤がいる」

 

ポーランド軍将校が全員を見る。

 

「お前ら」

 

元白軍将校が言った。

 

「明日でいい理由があるか」

 

なかった。

 

---

 

その夜。

 

追加国外勤務。

 

二十三名。

 

家族。

 

四十一名。

 

合計。

 

六十四名。

 

行先。

 

英国。

 

フランス。

 

ルーマニア。

 

その他。

 

翌朝から、

 

順次手配。

 

社員には、

 

通常の人事通知として渡された。

 

海外研修。

 

長期出張。

 

家族同伴赴任。

 

何も特別ではないように書かれた。

 

それが、

 

今できる最も特別なことだった。

 

---

 

翌朝。

 

新しい外交報告が届いた。

 

昨日までの前提が、

 

また少し変わった。

 

若い職員がポーランド軍将校を見る。

 

「昨日の資料は?」

 

軍将校は答えた。

 

「残せ」

 

「使いますか」

 

「使わない」

 

「ではなぜ」

 

「昨日、何を信じていたか分かる」

 

元白軍将校が横で頷いた。

 

「それも情報だ」

 

---

 

一九三八年九月。

 

WILKは、

 

未来を知っていたわけではない。

 

どの交渉が成功するか。

 

どの国が譲るか。

 

どの国が戦うか。

 

分からなかった。

 

ただ、

 

昨日より今日、

 

今日より明日、

 

判断に使える時間が短くなっていることだけは、

 

分かった。

 

だから、

 

決める速度を変えた。

 

世界が、

 

待ってくれなくなったからだった。

 

第九章

 

地図が動く

 

その最初の会議記録には、

 

一文が残された。

 

時間が足りないのではない。

 

世界が、

 

待たなくなった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。