一九三八年九月末
ミュンヘン。
ドイツ。
英国。
フランス。
イタリア。
会談。
合意。
欧州全面戦争。
回避。
少なくとも、
今日のところは。
チェコスロヴァキア。
ズデーテン地方を譲渡。
当事国代表。
主要決定には参加せず。
結論。
平和は残った。
国境は、
残らなかった。
「決まった」
ポーランド軍将校が言った。
誰もすぐには返事をしなかった。
朝だった。
机の上には、
夜の間に届いた外電。
新聞。
外交筋からの報告。
昨日まで、
何度も書き直していた情勢表。
もう書き直す必要はなかった。
少なくとも、
一つのことについては。
「戦争は?」
元独立運動家が聞いた。
「回避された」
元ドイツ軍技術者が顔を上げた。
「本当に?」
ポーランド軍将校は少し間を置いた。
「今は」
元白軍将校が言った。
「いい答えだ」
誰も褒められた気はしなかった。
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ミュンヘンで、
四か国が合意した。
ドイツ。
英国。
フランス。
イタリア。
チェコスロヴァキアの国境について。
チェコスロヴァキア以外の国々が、
決めた。
元白軍将校が尋ねた。
「チェコは」
ポーランド軍将校は答えた。
「受け入れることになる」
「選べるのか」
沈黙。
「そうか」
それ以上、
聞かなかった。
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ユダヤ人実業家は、
新聞ではなく電報を読んでいた。
「市場は落ち着くでしょう」
ポーランド軍将校が彼を見る。
「良いことか」
「戦争回避という意味なら」
「なら良い」
「はい」
「何かあるのか」
実業家は電報を一枚置いた。
「チェコ方面の取引先から、契約変更の問い合わせが来ています」
「もう?」
「もうです」
「まだ占領も始まっていないだろう」
「契約は国境線より先に困ります」
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工場。
倉庫。
銀行。
鉄道。
保険。
商標。
所有権。
債務。
社員。
土地の所属が変われば、
会社の所属も変わる。
昨日、
チェコスロヴァキア国内にあった工場。
明日、
別の国の中にあるかもしれない。
「機械は動いていない」
元ドイツ軍技術者が言った。
「はい」
「建物も」
「はい」
「働いている人間も」
「その多くは」
「なのに会社の条件が変わる」
ユダヤ人実業家が頷いた。
「国境とはそういうものです」
技術者は嫌そうに地図を見た。
「機械には国籍がないのにな」
ポーランド軍将校が言った。
「請求書にはある」
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元白軍将校のところへ、
手紙は来なかった。
「珍しいな」
ポーランド軍将校が言った。
「何が」
「今日は」
机が空いている。
「昨日まで多かった」
「昨日書いた手紙が今日届くわけではない」
「そうだな」
元白軍将校は窓の外を見た。
「次に来る手紙は、合意の後に書かれた手紙だ」
「何が書いてあると思う」
「知らん」
「予想は」
「したくない」
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昼前。
電話が鳴った。
フランス支部。
元独立運動家が取った。
「何人だ」
少し間。
「家族は」
書き込む。
「住宅は」
さらに書く。
「分かった。押さえろ」
電話を切った。
ポーランド軍将校が聞いた。
「何だ」
「チェコから来たいという技術者が増えた」
「何人」
「今朝だけで六人」
「家族込み?」
「二十一」
元ドイツ軍技術者が顔を上げた。
「職種は」
「そこから聞くのか」
「必要だ」
「機械二、検査一、電気一、事務一、冶金一」
「冶金は欲しい」
元独立運動家が睨んだ。
「家族込みでだ」
「もう分かっている」
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英国支部からも来た。
受入可能人数。
追加可能。
ただし住宅不足。
ポーランド軍将校が言った。
「戦争は避けられたんだぞ」
元独立運動家は書類から顔を上げなかった。
「だから?」
「少し待てるのでは」
元白軍将校が答えた。
「何を」
「人を動かすのを」
「なぜ」
「危機が」
「終わった?」
ポーランド軍将校は言葉を止めた。
元白軍将校が続けた。
「戦争が今日始まらなかった。それだけだろう」
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それは、
正しかった。
少なくとも、
WILKにはそう見えた。
全面戦争は避けられた。
それは大きい。
兵士が死なずに済む。
街が燃えずに済む。
工場も壊れない。
列車も走る。
子供も学校へ行ける。
それを軽く扱う者はいなかった。
元白軍将校も、
戦争を望んでいるわけではない。
だからこそ、
彼は言った。
「良かった」
ポーランド軍将校が見る。
「本気か」
「当たり前だ」
「でも顔が」
「平和になった顔ではない」
「では」
「今日、戦争にならなかった顔だ」
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午後。
新聞が増えた。
平和。
歓迎。
安堵。
戦争回避。
人々が喜んでいる。
当然だった。
前の戦争を知る者ほど、
もう一度は嫌だった。
元白軍将校は一枚の記事を読んだ。
「喜んでいい」
ポーランド軍将校が言った。
「何だ急に」
「お前が嫌そうだからだ」
「喜んでいる」
「見えない」
「人が死なずに済んだ」
新聞を畳んだ。
「それは喜んでいる」
「なら何が嫌なんだ」
元白軍将校は、
壁の地図を指した。
「その代金を払ったのが、会議室にいなかった奴だからだ」
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誰も答えなかった。
それは、
簡単な話ではなかった。
戦争を始める。
戦争を避ける。
どちらにも、
人間がいる。
英仏にも事情がある。
第一次大戦の記憶。
軍備。
国内政治。
時間。
ドイツにも要求がある。
チェコスロヴァキア内部にも問題がある。
少数民族。
歴史。
国境。
すべてを一言で片付けることはできなかった。
だからWILKは、
外交を裁こうとはしなかった。
ただ、
結果を見た。
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地図が外された。
新しい地図を用意するためだった。
若い職員が言った。
「まだ正式な変更範囲が」
ポーランド軍将校が答えた。
「分かってから描け」
「昨日はすぐ変えろと」
「昨日は国そのものが消えた」
オーストリア。
あの時とは違う。
今回は、
どこまで線を引き直すか。
その線が、
まだ完全には決まっていない。
元白軍将校が言った。
「鉛筆で描け」
職員が見る。
「なぜ」
「消すかもしれん」
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元ドイツ軍技術者は、
チェコスロヴァキアの工業地帯を見ていた。
「この辺りは」
ポーランド軍将校が聞く。
「工場が多い」
「知っている」
「工作機械もある」
「そうだな」
「技術者も」
「いる」
「これがドイツ側に入る」
ポーランド軍将校は黙った。
技術者は続けた。
「土地だけではない」
鋼。
工作機械。
工場。
鉄道。
人。
「国境線一本で、工業力まで移る」
ユダヤ人実業家が言った。
「帳簿の所有者も変わります」
「嫌な話だ」
「はい」
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そこへ、
チェコ側取引先から電報。
短い。
「契約継続を希望」
ユダヤ人実業家はすぐ返事を書いた。
「継続」
ポーランド軍将校が驚いた。
「確認しなくていいのか」
「何を」
「国境が変わるんだぞ」
「だからです」
「危険では」
「危険です」
「なら」
「今切ったら、向こうの会社はもっと困ります」
「損が出るかもしれない」
「限度までは持ちます」
元白軍将校が実業家を見る。
「珍しいな」
「何がです」
「金より先に決めた」
「信用も資産です」
「やっぱり金の話だった」
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ただし、
無制限にはしなかった。
前払い額。
縮小。
納品単位。
小分け。
輸送経路。
複数。
支払先。
確認。
「取引を続けながら逃げ道も作る」
若い商務担当が言った。
ユダヤ人実業家が答える。
「逃げ道ではありません」
元白軍将校が遠くから言った。
「逃げ道だ」
「商務上は違います」
「そういうことにしておけ」
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夕方。
一人の男がWILKへ来た。
チェコスロヴァキアの技術者だった。
以前、
国外勤務について問い合わせていた者。
妻。
子供。
もうフランスへ出したという。
本人だけ戻ってきた。
元独立運動家が顔をしかめた。
「なぜ戻った」
「工場があります」
「家族は出した」
「はい」
「ならお前も行け」
「まだです」
「いつ」
「工場がどうなるか確認してから」
元白軍将校がその会話を聞いていた。
「止めるな」
元独立運動家が振り返る。
「またそれか」
「本人が決めた」
「後で出られなくなったら」
「それも本人が背負う」
技術者は二人を見た。
「仕事は残してもらえますか」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「フランスに?」
「はい」
「残す」
即答だった。
「来なかったら?」
「別の奴がやる」
「私が来たら」
「お前がやれ」
男は頭を下げた。
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男が帰った後。
元独立運動家が言った。
「本当にいいのか」
元白軍将校は答えた。
「家族は出した」
「本人は」
「残ると決めた」
「助けられるのに」
「助けることと、連れていくことは違う」
元独立運動家は、
納得してはいなかった。
しかし、
それ以上は言わなかった。
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夜。
ポーランド軍将校のところへ、
別の書類が届いた。
ポーランド側の要求。
チェコスロヴァキアとの国境問題。
ザオルジェ。
机の空気が変わった。
元白軍将校が見る。
「来たか」
「来た」
「どうする」
「俺が決めるんじゃない」
「知っている」
「政府の判断だ」
「それも知っている」
ポーランド軍将校は書類を置いた。
「昔からの問題だ」
「知っている」
「ポーランド人もいる」
「知っている」
「鉄道も重要だ」
ユダヤ人実業家が静かに頷いた。
「重要です」
「では」
元白軍将校は、
遮らなかった。
しばらくして言った。
「だから難しい」
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「ドイツと同じだと言いたいのか」
ポーランド軍将校の声が少し強くなった。
「言っていない」
「なら」
「同じではない」
元白軍将校は明確に言った。
「事情も違う。経緯も違う。規模も違う」
「そうだ」
「だが」
地図を見る。
「隣国が弱っている時に動く、という事実は残る」
ポーランド軍将校は黙った。
「それを忘れるなと言っている」
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ユダヤ人実業家が言った。
「将来、誰かがこの時期を振り返ります」
「百年後か」
「十年後かもしれません」
元白軍将校。
「一年後かもしれん」
ポーランド軍将校は、
二人を見る。
「嫌な奴らだな」
元白軍将校が答えた。
「知っている」
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その夜、
WILKは国外人員配置の加速を決めた。
戦争が回避された日に。
社員。
家族。
図面。
小型治具。
商務担当。
教師。
事務員。
少しずつ。
国外へ。
若い担当者が聞いた。
「危機は収まったのでは?」
元独立運動家が答えた。
「だから動かせる」
「危機が収まったから?」
「そうだ」
「なら急がなくても」
「逆だ」
元白軍将校が言った。
「平和な時に逃げ道を使うと、ただの道だ」
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これは、
避難ではなかった。
少なくとも、
まだ。
普通の列車。
普通の船。
普通の旅券。
普通の国外赴任。
誰も兵士に追われていない。
誰も荷物を捨てて走っていない。
だから、
今が一番安かった。
金の意味でも。
人間の意味でも。
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翌日。
壁へ新しい地図が掛けられた。
まだ暫定。
鉛筆線。
元白軍将校が眺めた。
「変わったな」
ポーランド軍将校が答える。
「戦争は避けられた」
「そうだ」
「平和だ」
「今日のところは」
またその言葉。
ポーランド軍将校は嫌そうな顔をした。
「お前、その言い方やめろ」
「嫌か」
「嫌だ」
「俺も嫌だ」
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一九三八年九月末。
欧州は、
戦争を避けた。
それは、
確かに価値のあることだった。
その日、
撃たれなかった兵士がいる。
燃えなかった町がある。
死ななかった人間がいる。
WILKは、
その価値を否定しなかった。
ただ、
同時に見ていた。
戦争が始まらなくても、
国境は動く。
軍が撃たなくても、
工場は別の国へ入る。
条約が結ばれても、
家族は帰ってこないことがある。
平和と、
元通りは、
同じ言葉ではなかった。
会議記録の最後。
元白軍将校が書いた。
平和を持ち帰っても、
国境は戻らない。
その下に、
ポーランド軍将校が追記した。
それでも、
戦争よりはいい。
さらにその下。
元白軍将校。
そうだ。
だから、
次も止められると思うな。