WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK・南西国境情勢整理
一九三八年十月一日

確認事項。

チェコスロヴァキア。

ズデーテン地方割譲。

ポーランド。

テシェン地域について要求。

最後通牒。

チェコスロヴァキア。

受諾。

ポーランド軍。

進駐準備。

結論。

国境は、

動く。

なお、

動いた理由は、

線一本では記録できない。


第144話 取れる時に取った、とだけ書くな

 

「受け入れた」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元白軍将校は、

 

何を、

 

とは聞かなかった。

 

机には、

 

すでに昨日の資料があった。

 

ポーランドからチェコスロヴァキアへ出された要求。

 

期限。

 

回答。

 

そして、

 

今朝届いた報告。

 

「テシェンか」

 

「そうだ」

 

「こちらへ?」

 

「そうなる」

 

元白軍将校は壁の地図を見た。

 

数日前。

 

ズデーテン地方へ鉛筆の線が引かれた。

 

今度は、

 

別の鉛筆が必要になった。

 

---

 

ポーランド軍将校は、

 

喜んでいなかった。

 

元白軍将校がそれに気づいた。

 

「欲しかった土地では?」

 

「国が欲しかったと言うな」

 

「では」

 

「長く争っていた地域だ」

 

「知っている」

 

「ポーランド人もいる」

 

「知っている」

 

「鉄道も重要だ」

 

「それも知っている」

 

軍将校は苛立った。

 

「なら何が言いたい」

 

元白軍将校は首を振った。

 

「まだ何も言っていない」

 

「その顔で十分言っている」

 

---

 

テシェン。

 

ポーランドではチェシン。

 

チェコではチェシーン。

 

一つの地域に、

 

複数の名前があった。

 

一つの川。

 

鉄道。

 

炭鉱。

 

工場。

 

町。

 

村。

 

ポーランド人。

 

チェコ人。

 

ドイツ人。

 

その他。

 

歴史は、

 

国境線ほど簡単ではなかった。

 

第一次大戦後。

 

ポーランドも、

 

チェコスロヴァキアも、

 

新しく国を作った。

 

そして、

 

どこまでが誰の国かで争った。

 

それから十八年。

 

問題は、

 

消えていなかった。

 

ただ、

 

地図の下に押し込まれていただけだった。

 

---

 

「経済的には?」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

ユダヤ人実業家は、

 

珍しく答えるまで少し時間を置いた。

 

「価値があります」

 

「どの程度」

 

「かなり」

 

鉄道。

 

工業。

 

炭鉱。

 

輸送。

 

「つまり得だ」

 

「経済だけ見れば」

 

「またその言い方か」

 

「経済担当ですから」

 

元白軍将校が横から言った。

 

「取るべきだとは言わないのか」

 

実業家は首を振った。

 

「値段が付くことと、買うべきことは別です」

 

「今回は買ってない」

 

「だから余計に面倒です」

 

---

 

元ドイツ軍技術者は、

 

別のところを見ていた。

 

「工場は」

 

「あります」

 

「設備」

 

「かなり」

 

「技術者」

 

「いるでしょう」

 

元独立運動家が言った。

 

「また人材を見るのか」

 

「工場を見ている」

 

「工場には人がいる」

 

「知っている」

 

「なら、最初から人を見ろ」

 

技術者は少し考えた。

 

「……住民構成は?」

 

ポーランド軍将校が顔を上げた。

 

「お前までそこを見るようになったか」

 

「工場を止めたくない」

 

「なら必要だ」

 

---

 

新しくポーランド領になる地域。

 

そう言えば、

 

地図では簡単だった。

 

しかし、

 

そこには昨日まで、

 

チェコスロヴァキアの役所があった。

 

警察がいた。

 

学校があった。

 

鉄道員がいた。

 

工場の管理者がいた。

 

税務。

 

裁判。

 

郵便。

 

銀行。

 

全部、

 

一晩で人間ごと色が変わるわけではない。

 

元独立運動家が言った。

 

「追い出すな」

 

ポーランド軍将校が聞く。

 

「誰を」

 

「必要な人間」

 

「それだけか」

 

「違う」

 

少し間。

 

「必要でなくても、そこに住んでいる人間だ」

 

---

 

軍将校は黙った。

 

彼は政府ではない。

 

現地行政を決める立場でもない。

 

まして、

 

WILKが国境政策を決めることはできない。

 

それでも、

 

会社として関わることはある。

 

鉄道。

 

輸送。

 

工場。

 

食料。

 

修理。

 

雇用。

 

「現地採用は継続」

 

元独立運動家が言った。

 

ユダヤ人実業家も頷いた。

 

「契約が維持できるなら」

 

「国籍は」

 

「業務に必要ですか」

 

「法的には必要になる場合がある」

 

「なら法に従う」

 

「民族は」

 

実業家は答えた。

 

「帳簿の項目ではありません」

 

---

 

元白軍将校が、

 

珍しく笑った。

 

「いい答えだ」

 

「商売人ですので」

 

「金しか見てないようで便利だな」

 

「金は民族を聞かないことがあります」

 

「聞くこともあるだろ」

 

「人間が聞かせれば」

 

笑いは、

 

そこまでだった。

 

---

 

午後。

 

現地から情報が入り始めた。

 

旗。

 

人々。

 

歓迎。

 

不安。

 

軍の進駐を待つ者。

 

荷造りをする者。

 

昨日までの役職がどうなるか心配する者。

 

ポーランドへ戻ったと喜ぶ者。

 

チェコスロヴァキアから切り離されることを嫌う者。

 

「どちらが多い」

 

若い職員が聞いた。

 

元白軍将校は答えた。

 

「数えるな」

 

「でも情勢把握には」

 

「数えろ。だが、それで全部だと思うな」

 

「違いは?」

 

「百人喜んで、一人泣いているとして」

 

若い職員を見る。

 

「その一人は消えるのか?」

 

---

 

元白軍将校自身にも、

 

現地から手紙が来た。

 

以前から知る鉄道員。

 

短い。

 

「旗が変わる」

 

それだけだった。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「何を思っているか分からんな」

 

「だから返事を書く」

 

「何と」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「仕事は変わるか」

 

「それだけ?」

 

「鉄道員だからな」

 

---

 

返事は、

 

翌日来た。

 

「上司は変わると思う」

 

「線路は同じだ」

 

元白軍将校は読んで、

 

少し笑った。

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「何だ」

 

「一番まともな報告だ」

 

「線路は同じ?」

 

「そうだ」

 

「国が変わるんだぞ」

 

「だからいい」

 

元白軍将校は地図を指した。

 

「政治家は線を引く」

 

次に、

 

鉄道路線を指した。

 

「鉄道員は列車を走らせる」

 

---

 

WILKへ、

 

現地工場から問い合わせが来た。

 

「契約は有効か」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「有効」

 

別。

 

「支払通貨は」

 

「確認後通知」

 

別。

 

「チェコ側銀行経由の契約は」

 

「整理する」

 

別。

 

「従業員の扱い」

 

元独立運動家が答えた。

 

「当面変更なし」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「勝手に決めていいのか」

 

「WILKとの契約についてだ」

 

「なら」

 

「民族理由で切るな、とも書く」

 

「会社規程?」

 

「会社規程だ」

 

元白軍将校が言った。

 

「国境より会社規程の方が動かんな」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「変える理由がない」

 

---

 

問題は、

 

チェコ側へ移りたい人間だった。

 

一人。

 

二人。

 

家族。

 

「出るなら止めない」

 

元独立運動家が言った。

 

「必要な技術者でも?」

 

元ドイツ軍技術者が聞く。

 

「必要なら条件を出せ」

 

「残れと」

 

「頼め」

 

「命令は?」

 

「するな」

 

「工場が困る」

 

「だから説得しろ」

 

技術者は嫌そうな顔をした。

 

「面倒だ」

 

「人間だからな」

 

---

 

逆に、

 

ポーランド側から戻りたいという者もいた。

 

以前、

 

国境問題の後に移った家族。

 

親族。

 

古い家。

 

墓。

 

土地。

 

十八年は、

 

短くなかった。

 

一世代が、

 

国境の両側で暮らしている。

 

「戻ってくる者もいるのか」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元独立運動家は頷いた。

 

「当然だ」

 

「今さら」

 

元白軍将校が彼を見る。

 

「今だからだろう」

 

---

 

夕方。

 

ワルシャワでは、

 

この動きを歓迎する声もあった。

 

長年の問題が解決した。

 

失われた地域が戻った。

 

ポーランド人住民が戻る。

 

そう見る者もいた。

 

それ自体は、

 

嘘ではない。

 

だから、

 

WILKの会議は余計に重かった。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「俺はこれを悪だと言うつもりはない」

 

元白軍将校。

 

「俺も言っていない」

 

「正当な理由はある」

 

「ある」

 

「昔からの問題だった」

 

「そうだ」

 

「なら」

 

元白軍将校は、

 

彼を見る。

 

「なぜそんなに確認したがる」

 

軍将校が止まった。

 

---

 

「自分でも分かっているからだろう」

 

「何を」

 

「時期が悪い」

 

それだった。

 

要求そのものだけなら、

 

説明できる。

 

歴史もある。

 

住民もいる。

 

領土問題もある。

 

だが、

 

チェコスロヴァキアが、

 

ドイツの圧力で国境を削られた直後。

 

その瞬間に、

 

ポーランドも要求した。

 

その順番だけは、

 

後から消せない。

 

---

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「外国新聞はどう書くでしょうね」

 

ポーランド軍将校が嫌そうな顔をした。

 

「聞きたくない」

 

「しかし見ます」

 

「なぜ」

 

「取引先が読むからです」

 

「国内の事情を説明すれば」

 

「説明します」

 

「理解される?」

 

「人によります」

 

元白軍将校が言った。

 

「これも同じだな」

 

「何が」

 

「正しい理由がある」

 

「はい」

 

「だが他人には、その理由だけが見えるわけじゃない」

 

---

 

一枚の新聞。

 

ドイツ。

 

別の新聞。

 

フランス。

 

英国。

 

それぞれ、

 

ポーランドの動きを違う言葉で書いている。

 

WILKは切り抜いた。

 

保存した。

 

若い職員が聞いた。

 

「なぜ外国の評価まで」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「後で自分の説明だけ読んだら」

 

少し止まった。

 

「自分が正しかったとしか思えなくなる」

 

元白軍将校が彼を見る。

 

「いいことを言うようになったな」

 

「お前のせいだ」

 

---

 

軍が動いた。

 

国境を越えた。

 

町の旗が変わった。

 

行政が変わる。

 

鉄道標識が変わる。

 

書類が変わる。

 

人々は、

 

それぞれ違う顔で見ていた。

 

歓迎する者。

 

不安な者。

 

無関心な者。

 

仕事へ行く者。

 

子供を学校へ送る者。

 

荷造りする者。

 

世界が動く時も、

 

全員が世界を見ているわけではなかった。

 

---

 

WILKのW式台車も、

 

当然のようにそこへ入った。

 

鉄道関係。

 

整備。

 

荷物。

 

食料。

 

ポーランド軍将校が写真を見た。

 

「……お前まで来るのか」

 

元ドイツ軍技術者が覗く。

 

「誰に言っている」

 

「猫車」

 

「台車だ」

 

久しぶりに、

 

全員が少し笑った。

 

ほんの少しだった。

 

---

 

しかし、

 

写真の次には、

 

別の報告があった。

 

チェコ側へ移住希望のWILK関係者。

 

家族六。

 

元独立運動家が言った。

 

「手続きしろ」

 

若い担当者が聞いた。

 

「残ってもらわなくて?」

 

「本人が行きたい」

 

「人手が」

 

「足りなくなる」

 

「では」

 

「募集しろ」

 

「簡単ですね」

 

「簡単じゃない」

 

書類を渡した。

 

「だから今日始めろ」

 

---

 

ポーランド軍将校は、

 

夜遅くまで残った。

 

元白軍将校もいた。

 

二人で、

 

新しい地図を見た。

 

「広がったな」

 

元白軍将校が言う。

 

ポーランド軍将校は答えなかった。

 

「嬉しくないのか」

 

「嬉しいと言えばいいのか?」

 

「俺に聞くな」

 

「お前なら何と言う」

 

元白軍将校は考えた。

 

「取った」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

「評価は」

 

「後でいい」

 

「冷たいな」

 

「違う」

 

元白軍将校は言った。

 

「良かった理由も、悪かった理由も、今は全員持っている」

 

地図を見る。

 

「だからまず、何をしたかだけ忘れるな」

 

---

 

ポーランド軍将校は、

 

その言葉を記録した。

 

領土回復。

 

歴史的問題の解決。

 

経済的利益。

 

住民。

 

安全保障。

 

いくつもの説明を書くことができる。

 

どれも、

 

完全な嘘ではなかった。

 

だが、

 

最初の一行だけは、

 

もっと簡単だった。

 

一九三八年十月。

 

チェコスロヴァキアが弱体化する中、

 

ポーランドは、

 

長年要求していた地域を得た。

 

---

 

第九章。

 

地図が動く。

 

その地図を動かしているのは、

 

ドイツだけではなかった。

 

英国も。

 

フランスも。

 

イタリアも。

 

ハンガリーも。

 

そして、

 

ポーランドも。

 

WILKは、

 

自分の国だけを、

 

地図の外へ置かなかった。

 

会議記録の最後。

 

元白軍将校が書いた。

 

取れる時に取った、とだけ書くな。

 

その下に、

 

ポーランド軍将校が追記した。

 

取った理由も書け。

 

さらにその下。

 

元白軍将校。

 

取った時期も書け。

 

 

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