一九三八年十一月二日
確認事項。
チェコスロヴァキア。
再度、
領土変更。
ハンガリー。
領土取得。
仲裁。
ドイツ。
イタリア。
対象。
チェコスロヴァキア南部。
結論。
九月に引いた線を、
十一月にも使えると思うな。
「また変わった」
若い職員が言った。
ポーランド軍将校は、
壁の地図を見た。
「どこを」
「南です」
「どの南だ」
職員が止まった。
最近、
その質問が必要になっていた。
「チェコスロヴァキアです」
「またか」
元白軍将校が言った。
誰も笑わなかった。
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十一月二日。
ウィーン。
ドイツ。
イタリア。
仲裁。
ハンガリーとチェコスロヴァキアの領土問題。
結果。
南部地域の一部が、
ハンガリーへ渡る。
ポーランド軍将校が報告書を置いた。
「決まった」
元白軍将校が聞いた。
「チェコは?」
「残る」
少し間。
「まだ」
元白軍将校が言った。
「その言葉、本当に嫌になってきたな」
「俺もだ」
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壁には、
春の地図が残されていた。
オーストリアがある。
その隣。
夏の地図。
オーストリアが消えている。
九月。
ズデーテン地方。
十月。
テシェン。
十一月。
今度は南。
若い職員が、
新しい地図を並べた。
元独立運動家が数えた。
「今年だけで何枚目だ」
「正式版なら四枚です」
「正式版?」
「途中経過を含めればもっと」
元白軍将校が言った。
「捨てるな」
「古いですよ」
「だから残せ」
「使いません」
「昨日の世界だ」
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元ドイツ軍技術者が、
新しい線を見た。
「鉄道は」
ポーランド軍将校が答える。
「調査中」
「工場」
「調査中」
「道路」
「調査中」
「電力」
「調査中」
技術者が嫌な顔をした。
「国境だけ先に決まったのか」
「国境とはそういうものだ」
「機械屋には理解しづらい」
「なぜ」
「機械なら」
地図を指した。
「全部の部品がどこへ行くか決めてから組み替える」
元白軍将校が言った。
「国家は違うらしい」
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ユダヤ人実業家は、
すでに電話を使っていた。
ハンガリー。
チェコスロヴァキア。
ルーマニア。
フランス。
いくつもの取引先。
「契約は?」
ポーランド軍将校が聞く。
「確認中」
「またか」
「またです」
「支払先」
「確認中」
「輸送」
「確認中」
「保険」
「見直し」
「倉庫」
「場所によります」
軍将校が額を押さえた。
「国境一本で、どれだけ書類が増えるんだ」
実業家が答えた。
「国境一本分です」
「答えになってない」
「正確な答えですよ」
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ある工場は、
昨日までチェコスロヴァキアにあった。
今日も、
建物は同じ場所にある。
炉も。
旋盤も。
工具も。
人間も。
なのに、
取引条件が変わる。
税。
通貨。
銀行。
輸送。
行政。
契約。
「だから国境変更は嫌なんです」
実業家が言った。
元白軍将校が聞いた。
「商売人だから?」
「はい」
「平和主義じゃなく?」
「書類が増えます」
ポーランド軍将校が少し笑った。
「非常に信頼できる反戦理由だな」
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問題は、
WILKの南方経路だった。
ルーマニア。
以前から築いてきた関係。
航空機。
部品。
商務。
輸送。
人。
いまでは、
国外へ人員を分散するための重要な拠点でもある。
その北西側で、
ハンガリーが領土を得た。
ポーランド軍将校が言った。
「ハンガリーとの関係も悪くしたくない」
「当然です」
ユダヤ人実業家。
「ルーマニアとの関係も」
「当然です」
「両方大事だ」
「はい」
「簡単だな」
「言うだけなら」
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元白軍将校が聞いた。
「どちらかが嫌がる?」
ポーランド軍将校は少し考えた。
「領土変更そのものより、これからどうなるかを警戒するだろう」
「ハンガリーが次も求めるか」
「可能性としては見る」
「ルーマニアは」
「自国の国境を持っている」
「つまり」
元白軍将校が言った。
「隣人が一度境界杭を動かすと、自分の杭も見る」
誰も否定しなかった。
これはWILK側の警戒でもあった。
第一次ウィーン裁定そのものがルーマニアの国境を変えたわけではない。
だが、ハンガリーの領土修正が実際に成果を得た以上、それを南方拠点の安全評価から無視する理由もなかった。
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「ルーマニア支部へ連絡」
元独立運動家が言った。
「内容」
若い担当者が聞く。
「受入余力」
「またですか」
「まただ」
「前回増やしました」
「もう一度数えろ」
「住宅?」
「住宅」
「仕事」
「仕事」
「学校」
「学校」
「医者」
「医者」
担当者が書き終える。
「何人増やすんです」
元独立運動家は答えた。
「まだ増やすとは言っていない」
「では」
「増やせるか聞く」
「同じでは?」
「違う」
「どう」
「空いている席と、席を作れることは違う」
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元ドイツ軍技術者が横から言った。
「工場も聞け」
「何を」
「設備余力」
「人の話をしている」
「人を送ったら仕事がいる」
「分かっている」
「なら」
「はいはい」
最近、
この二人の会話は早くなっていた。
説明する時間が惜しい。
元独立運動家が追加した。
「小型旋盤二台入る場所」
「三台」
「二台」
「三台」
「住宅が先だ」
「機械も住む場所がいる」
元白軍将校が言った。
「機械は家族を連れてこない」
「部品を連れてくる」
「似たようなものか」
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ポーランド軍将校は、
南方経路を整理した。
ポーランド。
チェコスロヴァキア。
ハンガリー。
ルーマニア。
ユーゴスラヴィア。
さらに先。
港。
鉄道。
道路。
国境。
これまでなら、
線を引いて終わった。
今は違う。
「この経路」
指でなぞる。
「国境が増えすぎる」
ユダヤ人実業家が答えた。
「以前からです」
「意味が変わった」
「はい」
「一つ止まると」
「別を使います」
「二つ止まったら」
「さらに別」
「三つ」
実業家が少し考えた。
「船を使います」
「全部止まったら」
元白軍将校が言った。
「その時に考えるな」
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沈黙。
それが最近のWILKだった。
何かが起きてから、
代替案を探す。
それでは遅い。
だから、
起きていない問題に金を使う。
予備契約。
予備倉庫。
予備口座。
予備航路。
予備人員。
予備の仕事。
若い経理担当が言った。
「予備が多すぎます」
ユダヤ人実業家が答えた。
「同感です」
「減らしますか」
「増やします」
「同感だったのでは」
「多すぎると思うことと、不要だと思うことは違います」
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国外拠点への送金額も増えた。
英国。
フランス。
ルーマニア。
ポルトガル。
その他。
ポーランド軍将校が数字を見た。
「本社の現金が減っている」
「はい」
ユダヤ人実業家。
「危なくないか」
「危ないです」
「なら」
「国外にも持っている方が危険が分散します」
「国内で必要になったら」
「使います」
「国外で必要になったら」
「使います」
「両方必要になったら」
実業家は、
少しだけ笑った。
「そのために稼ぎました」
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元白軍将校が言った。
「全力を出すのか」
部屋が静かになった。
その言葉は、
誰もまだ正式には使っていなかった。
元独立運動家が答えた。
「出しているつもりだ」
「違う」
元ドイツ軍技術者が顔を上げる。
元白軍将校は続けた。
「まだ国内効率を守っている」
「当たり前だ」
「利益も」
ユダヤ人実業家を見る。
「守っています」
「国外支部にも無駄を出すなと言っている」
元独立運動家。
「言っている」
「若手を上げるにも段階を踏んでいる」
元ドイツ軍技術者。
「それは必要だ」
元白軍将校は頷いた。
「全部正しい」
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「では何が言いたい」
ポーランド軍将校が聞いた。
元白軍将校は、
今年の地図を指した。
三月。
九月。
十月。
十一月。
「正しさを守っているうちに、時間が消えるかもしれん」
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誰もすぐには答えなかった。
元ドイツ軍技術者が最初に口を開いた。
「生産を落とす?」
「必要なら」
「国外へ熟練工を出せば落ちる」
「分かっている」
「不良も増える」
「分かっている」
「納期も遅れる」
「分かっている」
技術者は黙った。
その言葉を、
嫌っている顔だった。
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ユダヤ人実業家が聞いた。
「利益を落とす?」
「必要なら」
「国外住宅を余らせる」
「そうだ」
「倉庫も」
「そうだ」
「使わない輸送枠も」
「そうだ」
「損ですよ」
元白軍将校が答えた。
「使わずに済んだらな」
実業家は、
帳簿を見た。
「……それは安い損失ですね」
---
元独立運動家。
「人を多めに出す?」
「出せるなら」
「本人が嫌がる」
「説明しろ」
「家族も」
「本人が望むなら」
「学校も変わる」
「作れ」
「仕事がない場合」
「作れ」
元独立運動家がため息をついた。
「俺の仕事だけ雑だな」
「お前なら何とかする」
「信用が重い」
---
ポーランド軍将校は最後まで黙っていた。
「国内が弱くなる」
ようやく言った。
元白軍将校が答える。
「少しな」
「国が危ない時に?」
「だから難しい」
「軍は国内の工業力を欲しがる」
「当然だ」
「航空機も」
「作れ」
「部品も」
「作れ」
「人は国外へ出す」
「出せ」
軍将校が机を叩いた。
「両方は無理だ!」
元白軍将校は、
静かに答えた。
「知っている」
---
それだった。
今までのWILKは、
両方をできるだけ維持してきた。
国内生産。
国外分散。
今日の仕事。
明日の再開。
効率。
冗長性。
利益。
安全。
だが、
世界が速くなるほど、
両方を完全には守れなくなる。
どちらかを少し削る。
その判断が、
必要になり始めていた。
元ドイツ軍技術者が、
長く地図を見た。
「国内生産を落としすぎるな」
元白軍将校。
「分かっている」
「ただ」
技術者は言った。
「熟練工の国外配置を一段増やす」
元独立運動家が顔を上げた。
「どのくらい」
「主要工程ごとに」
紙を取る。
「国外に、最低一人は実際に作れる奴を置く」
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ユダヤ人実業家が続いた。
「国外支部の運転資金を増やします」
ポーランド軍将校が見る。
「どのくらい」
「半年」
「今は?」
「三か月程度」
「倍?」
「はい」
「多い」
「知っています」
---
元独立運動家。
「家族受入枠」
書類をめくる。
「三割増やす」
「空室になるぞ」
「なる」
「金が」
「実業家が出す」
ユダヤ人実業家が見る。
「勝手に決めないでください」
「出さない?」
「出します」
「ならいい」
---
全員が、
ポーランド軍将校を見る。
「俺?」
「軍側調整」
元白軍将校。
「何を説明する」
「生産が少し落ちる」
「殴られるぞ」
「知っている」
「航空機納入も」
元ドイツ軍技術者。
「一部遅れる可能性」
「もっと殴られる」
「頼む」
ポーランド軍将校が頭を抱えた。
「なぜ俺だけ物理的に危ないんだ」
久しぶりに、
少し笑いが出た。
---
その日の午後。
新方針。
国外配置。
拡大。
家族受入余力。
拡大。
国外資金。
増額。
技術資料。
追加複写。
治具。
追加製作。
小型設備。
国外配置。
国内。
若手昇格。
教育短縮。
ただし、
検査基準は短縮しない。
元ドイツ軍技術者がそこだけ赤線を引いた。
「ここは削るな」
若い技師が聞いた。
「時間がないのでは」
「時間がないからだ」
「どういう意味です」
「不良を国外まで運ぶ時間はもっとない」
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国外へ送る箱が増えた。
図面。
ゲージ。
工具。
工程票。
加工見本。
小型治具。
全部、
一つの工場をそのまま再現できるほどではない。
だが、
人がいれば、
始められる。
元ドイツ軍技術者が箱を閉じた。
「鍬だな」
元白軍将校が聞く。
「何が」
「前にお前が言っただろう」
国外拠点。
土地。
倉庫。
契約。
種。
そして、
そこへ人を送った。
農夫。
「これは?」
箱を叩く。
「鍬だ」
元白軍将校が少し笑った。
「ようやく農業会社になったか」
「飛行機会社だ」
---
数日後。
ハンガリーへ移る地域から、
人が動き始めた。
歓迎する者。
残る者。
出る者。
新しい国籍を受け入れる者。
嫌う者。
そして、
国境変更の隙間に落ちる者もいた。
WILKへも問い合わせが来た。
社員の親族。
取引先。
知人。
「こちらへ移れるか」
「仕事はあるか」
「家族も行けるか」
元独立運動家が一覧を増やした。
社員だけではなかった。
その周囲。
家族。
親族。
技術者。
事務員。
鉄道員。
「どこまで見る」
若い担当者が聞いた。
元独立運動家は答えた。
「見える範囲まで」
「全員は無理です」
「知っている」
「なら優先順位を」
「つける」
それだけは、
避けられなかった。
---
一部では、
国境変更後に人々が宙に浮く事例も出始めていた。
国籍。
居住。
移動。
誰の側へ行くのか。
どこへ戻されるのか。
後世には、第一次ウィーン裁定後の国境地帯で、ユダヤ人住民が追放され、どちらの側にも受け入れられず野外に取り残された事例も記録されることになる。([ホロコースト百科事典][2])
当時のWILKが、
その全貌を知ることはできなかった。
ただ、
断片的な連絡は届いた。
「家があるのに戻れない」
「向こうへ行けと言われた」
「向こうから戻された」
元白軍将校は、
その報告を何度も読んだ。
「どこの人間だ」
ポーランド軍将校が聞いた。
元白軍将校は紙を見る。
「それを決められないから困っているらしい」
---
ユダヤ人実業家が、
珍しく席を立った。
「その家族」
「知っているのか」
「直接は」
「では」
「紹介者を知っています」
「どうする」
「ルーマニア側へ通せるか確認します」
元独立運動家がすぐに言った。
「家族構成を」
「取ります」
「金は」
「出します」
「仕事」
元ドイツ軍技術者が聞いた。
実業家が彼を見る。
「今それを聞きますか」
「確認だ」
「ありません」
技術者は頷いた。
「なら後で作る」
誰も、
その言葉を珍しいとは言わなくなっていた。
---
夜。
地図がまた更新された。
鉛筆。
消しゴム。
定規。
若い職員が、
描き終える。
「これでいいでしょうか」
ポーランド軍将校が確認する。
「今日のところは」
若い職員が嫌そうな顔をした。
「その言い方、皆さん使いますね」
元白軍将校が答えた。
「今年覚えた」
---
地図を壁へ戻す。
元白軍将校が見た。
「少し前まで」
誰も返事をしない。
「チェコスロヴァキアはもっと大きかった」
ポーランド軍将校。
「そうだ」
「オーストリアもあった」
「そうだ」
「ポーランドも少し違った」
「そうだ」
「ハンガリーも」
「そうだ」
元白軍将校は、
鉛筆を置いた。
「八か月か」
---
誰も、
その数字を好きになれなかった。
八か月。
一年も経っていない。
戦争も、
まだ始まっていない。
それでも、
春の地図は、
もう使えなかった。
---
一九三八年十一月。
WILKは、
国外支部への分散を一段階引き上げた。
まだ避難とは呼ばなかった。
まだ会社移転とも呼ばなかった。
本社もある。
工場も動く。
航空機も作る。
給料も払う。
社員は出勤する。
普通の会社だった。
ただ、
普通の会社として使える最後の時間を、
普通ではない速度で使い始めた。
---
会議記録。
元白軍将校。
地図は一度では動かない。
その下。
ポーランド軍将校。
今年はもう十分動いた。
元白軍将校。
世界に言え。
さらにその下。
元ドイツ軍技術者。
その前に箱を送る。
元独立運動家。
その前に人を送る。
ユダヤ人実業家。
その費用は私に回してください。
最後。
ポーランド軍将校。
全員少し黙れ。