WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK・酒類部門臨時集計
一九三八年十一月十日

前日まで。

果実酒。

濁り果実酒。

香辛果実酒。

蒸留酒。

少数。

本日。

蒸留酒。

多数。

二度蒸留酒。

多数。

薬草酒。

複数。

地域。

ドイツ。

旧オーストリア。

その他。

結論。

集計ミスを疑う。

三回確認。

集計ミスではない。


第149話 蒸留酒が多すぎる

「多すぎます」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

机の上には、

 

酒類部門から届いた一覧。

 

酒の売上ではない。

 

昨日、

 

その意味をようやく理解したばかりの、

 

もう一枚の地図だった。

 

元白軍将校が聞いた。

 

「どれが」

 

「蒸留酒です」

 

「何件」

 

実業家は答えなかった。

 

紙を渡した。

 

元白軍将校が読んだ。

 

一枚目。

 

二枚目。

 

三枚目。

 

「……多いな」

 

「はい」

 

十一月九日から十日にかけて。

 

ドイツ。

 

併合されたオーストリア。

 

ズデーテン地方。

 

各地で、

 

ユダヤ人を標的とした暴力が広がった。

 

シナゴーグ。

 

商店。

 

住宅。

 

破壊。

 

放火。

 

暴行。

 

逮捕。

 

その後、約三万人のユダヤ人男性が強制収容所へ送られることになる。

 

だが、

 

WILKがその全貌を知ったのは、

 

少し後だった。

 

最初に来たのは、

 

酒の名前だった。

 

「もう一度確認してください」

 

実業家が言った。

 

酒類部門の若い担当が答える。

 

「しました」

 

「重複は」

 

「除きました」

 

「同じ一家が別経路から送ったものは」

 

「分かる範囲でまとめました」

 

「商品注文は」

 

「除外しています」

 

「本当に?」

 

「蒸留酒を樽で注文しているものは残していません」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「そんな確認方法なのか」

 

担当者が答えた。

 

「酒屋ですから」

 

元白軍将校が一覧を見た。

 

「昨日は」

 

「蒸留酒三件」

 

実業家。

 

「二度蒸留酒一件」

 

「今日は」

 

「現在確認済みだけで」

 

一度止まった。

 

「蒸留酒十四件」

 

「二度は」

 

「九件」

 

「薬草酒」

 

「五件」

 

元独立運動家が顔を上げた。

 

「負傷者あり」

 

「そう使われています」

 

「人数は」

 

「分かりません」

 

「家族は」

 

「分かりません」

 

「場所」

 

「ドイツ各地。旧オーストリア。ほかにも」

 

元独立運動家が立った。

 

「住宅表を持ってくる」

 

ポーランド軍将校が止めた。

 

「待て」

 

元独立運動家が振り返る。

 

「何だ」

 

「まだ状況が分からん」

 

「分からないから何だ」

 

「何が起きているか確認してからでも」

 

元白軍将校が言った。

 

「昨日、それをやらないと決めた」

 

「しかしこれは規模が」

 

「だからだ」

 

そこへ、

 

外電が届いた。

 

ドイツ。

 

ユダヤ人商店への襲撃。

 

シナゴーグへの放火。

 

逮捕。

 

暴力。

 

ポーランド軍将校は読んだ。

 

もう一枚。

 

ウィーン。

 

同様。

 

さらに。

 

別の都市。

 

元白軍将校が聞いた。

 

「酒が先だったか」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「はい」

 

「どのくらい」

 

「数時間」

 

部屋が静かになった。

 

昨日まで、

 

彼らはこの酒名ネットワークを、

 

面白いものだと思っていた。

 

粗い。

 

曖昧。

 

中央もない。

 

責任者もいない。

 

しかし、

 

現地にいる人間は、

 

新聞より先に、

 

外交官より先に、

 

商務報告より先に、

 

自分たちの暮らしている場所が危険になったことを知る。

 

濁り果実酒。

 

視界不良。

 

香辛果実酒。

 

ハードランディング。

 

そして、

 

蒸留酒。

 

緊急脱出。

 

酒類部門から、

 

また一枚。

 

旧オーストリア。

 

二度蒸留酒。

 

家族七。

 

行先未定。

 

元独立運動家が言った。

 

「七人」

 

「はい」

 

「子供」

 

「三」

 

「老人」

 

「一」

 

「出せるか」

 

ユダヤ人実業家は、

 

すでに別の書類を見ていた。

 

「鉄道なら西へ」

 

「どこへ」

 

「まずフランス」

 

「住宅」

 

「あります」

 

「仕事」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「聞くな」

 

全員が彼を見る。

 

「今は」

 

それだけだった。

 

数分後。

 

別。

 

蒸留酒。

 

四人。

 

二度蒸留酒。

 

五人。

 

薬草酒。

 

一人負傷。

 

香辛果実酒。

 

国境通過困難。

 

梨酒。

 

航路変更。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「本当に酒の注文票みたいだな」

 

誰も笑わなかった。

 

ユダヤ人実業家は、

 

自分の知っている名前を見つけた。

 

古い商人。

 

二十年近い付き合い。

 

最初に会った頃は、

 

WILKすらまだ小さかった。

 

「この人」

 

若い担当者が見る。

 

「はい」

 

「家族は」

 

「五人」

 

「今どこです」

 

「ウィーン近郊」

 

「表記は」

 

担当者は答えなかった。

 

実業家が紙を取った。

 

二度蒸留酒。

 

しばらく、

 

何も言わなかった。

 

元白軍将校も、

 

何も言わなかった。

 

やがて実業家が聞いた。

 

「出口は」

 

元独立運動家。

 

「あります」

 

「確実?」

 

「確実とは言わん」

 

「では」

 

「今ある中では一番いい」

 

「使ってください」

 

若い商務担当が聞いた。

 

「費用処理は」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「後で」

 

「どの勘定に」

 

「後で」

 

「保証は」

 

「WILK」

 

「いくらまで」

 

「後で」

 

若い担当者が、

 

そこで初めて顔を上げた。

 

長く実業家の下で働いている。

 

金額を聞かずに、

 

この男が支払いを認めることは、

 

ほとんどなかった。

 

「分かりました」

 

それ以上、

 

聞かなかった。

 

元白軍将校が言った。

 

「全員へ伝えろ」

 

「何を」

 

「蒸留酒と二度蒸留酒は」

 

少し考える。

 

「受け取った時点で動け」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「確認なし?」

 

「最低限はする」

 

「本人確認」

 

「する」

 

「人数」

 

「聞く」

 

「行先」

 

「決める」

 

「危険の根拠は」

 

「後で聞け」

 

元独立運動家が、

 

大きな紙を広げた。

 

英国。

 

空き。

 

フランス。

 

空き。

 

ルーマニア。

 

空き。

 

ポルトガル。

 

少数。

 

その他。

 

「足りない」

 

「今?」

 

ポーランド軍将校。

 

「今は足りる」

 

「では」

 

「この速度が続いたら足りない」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「増やします」

 

「住宅を?」

 

「全部」

 

「全部?」

 

「住宅。輸送。資金」

 

元ドイツ軍技術者が続けた。

 

「仕事も」

 

元独立運動家が見る。

 

「後でいいと言っただろ」

 

「着いた後には必要だ」

 

「そうだな」

 

電話。

 

電報。

 

使者。

 

酒類部門。

 

商務部。

 

国外支部。

 

その日、

 

普段なら別々に動いている部門が、

 

同じ数字を追い始めた。

 

人数。

 

家族。

 

子供。

 

老人。

 

負傷。

 

出発地点。

 

経由地。

 

到着地点。

 

仕事ではなく、

 

まず人だった。

 

昼。

 

酒類部門から連絡。

 

「二度蒸留酒がまた来ました」

 

実業家が聞く。

 

「何人」

 

「不明」

 

「場所」

 

「ベルリン方面」

 

「連絡者」

 

「いつもの市場筋」

 

「家族」

 

「不明」

 

「出られるか」

 

「分かりません」

 

実業家は元白軍将校を見る。

 

「どうします」

 

「こちらで席だけ取れ」

 

「何席」

 

「分からん」

 

「では」

 

「十」

 

「多すぎたら?」

 

「空けろ」

 

「少なかったら」

 

「追加しろ」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「こんなやり方で会社を動かせるのか」

 

元白軍将校が答えた。

 

「長くは無理だ」

 

「なら」

 

「今は長くやる必要がない」

 

「いつまで」

 

元白軍将校は答えなかった。

 

誰にも分からなかった。

 

午後。

 

正式な情報が増えた。

 

各地での破壊。

 

逮捕。

 

商店。

 

礼拝所。

 

家。

 

そして、

 

人。

 

ユダヤ人実業家は、

 

一枚ずつ確認した。

 

時々、

 

知っている街があった。

 

時々、

 

知っている名前があった。

 

一度だけ、

 

紙を机へ伏せた。

 

元白軍将校が聞いた。

 

「休むか」

 

「いいえ」

 

すぐに戻した。

 

若い担当者が言った。

 

「実業家さん」

 

「何です」

 

「この人」

 

紙。

 

「WILKとは取引がありません」

 

「紹介者は」

 

「あります」

 

「誰」

 

「酒部門の常連」

 

「家族は」

 

「八人」

 

「表記」

 

「蒸留酒」

 

実業家は、

 

少しだけ止まった。

 

昨日までは、

 

ここで考えたかもしれない。

 

WILKとの関係。

 

費用。

 

責任。

 

先例。

 

今日は、

 

違った。

 

「出してください」

 

「ではこの一家」

 

「何人」

 

「六」

 

「出す」

 

「こちらは」

 

「何人」

 

「三」

 

「出す」

 

「この人は単身」

 

「出す」

 

「こちらは職業不明」

 

「後で聞く」

 

「国籍確認が」

 

「必要なら経路を変える」

 

「資金が」

 

「送る」

 

「保証人」

 

「WILK」

 

若い担当者が、

 

とうとう聞いた。

 

「どこまでやります?」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「限度まで」

 

「限度は」

 

「後で計算します」

 

元白軍将校が、

 

その言葉を聞いた。

 

何も言わなかった。

 

ただ、

 

机の端にあった今年の損益表を、

 

裏返した。

 

夕方。

 

別の問題。

 

ロマやシンティ筋からも、

 

濁り果実酒。

 

炭酸果汁。

 

香辛果実酒。

 

蒸留酒。

 

が入っていた。

 

ナチ体制下では、ロマとシンティに対する警察的・人種的迫害もすでに強化されており、1938年には多数が逮捕・収容の対象となっていた。

 

元独立運動家が言った。

 

「こっちも増えてる」

 

実業家が見る。

 

「はい」

 

「同じ出口を使う?」

 

「使います」

 

「ユダヤ系と競合する」

 

「……はい」

 

「席が足りない」

 

「増やします」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではありません」

 

珍しく、

 

声が少し強かった。

 

「だから増やします」

 

元ドイツ軍技術者が、

 

国内工場の人員表を持ってきた。

 

「国外へ回せる人間」

 

ポーランド軍将校が驚いた。

 

「まだ出すのか」

 

「出す」

 

「国内が薄くなる」

 

「知っている」

 

「どの程度」

 

「工程による」

 

「納期は」

 

「遅れる」

 

「軍向けは」

 

「守れる範囲で守る」

 

「それでも」

 

技術者は彼を見る。

 

「お前、今朝の報告を読んだだろ」

 

ポーランド軍将校は黙った。

 

技術者は続けた。

 

「工場は壊れていない」

 

「そうだ」

 

「こちらの国境も開いている」

 

「そうだ」

 

「列車も動く」

 

「そうだ」

 

「なら」

 

人員表を置いた。

 

「今出す」

 

それは、

 

WILKにとって大きな変化だった。

 

これまでは、

 

国外へ出す人間を選んでいた。

 

国内に必要か。

 

国外に仕事があるか。

 

技術が合うか。

 

家族事情。

 

費用。

 

教育。

 

全部見る。

 

今日は、

 

順番が変わった。

 

危険か。

 

出られるか。

 

家族は何人か。

 

その後で、

 

仕事を見る。

 

夜。

 

酒類部門から、

 

その日の暫定集計。

 

果実酒。

 

三。

 

蜂蜜酒。

 

一。

 

濁り果実酒。

 

十一。

 

炭酸果汁。

 

六。

 

香辛果実酒。

 

八。

 

薬草酒。

 

七。

 

蒸留酒。

 

十九。

 

二度蒸留酒。

 

十三。

 

若い酒類担当が言った。

 

「多すぎます」

 

ユダヤ人実業家が聞いた。

 

「昨日と比べて?」

 

「はい」

 

「去年の同月は」

 

帳簿を調べる。

 

「蒸留酒二件」

 

「二度蒸留酒」

 

「ありません」

 

元白軍将校が言った。

 

「酒が増えたわけではない」

 

「はい」

 

「言葉の意味が変わった?」

 

酒類部門の古参が首を振った。

 

「意味は同じです」

 

「では」

 

古参も、

 

一覧を見る。

 

「使う必要が増えた」

 

外では、

 

まだ列車が走っていた。

 

銀行も開いていた。

 

港も動いていた。

 

旅券も使えた。

 

WILKの工場では、

 

夜勤が働いていた。

 

酒類部門では、

 

普通に果実酒が瓶詰めされていた。

 

会社は、

 

壊れていない。

 

欧州も、

 

戦争にはなっていない。

 

それでも、

 

何かが軋んでいた。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「これ以上国外へ出したら、本当に会社が歪むぞ」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「もう歪んでいます」

 

「利益」

 

「落ちます」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「生産性も」

 

元独立運動家。

 

「住宅費も増える」

 

「教育も」

 

「増える」

 

「輸送費」

 

「増える」

 

「人員不足」

 

「起きる」

 

軍将校が五人を見る。

 

「では止めるのか」

 

誰も答えなかった。

 

しばらくして、

 

元白軍将校が言った。

 

「まだ止められる」

 

全員が彼を見る。

 

「国外配置を止める」

 

「支出も止める」

 

「国内生産を優先する」

 

「余っている住宅を解約する」

 

「輸送枠を戻す」

 

「金を本社に置く」

 

一つずつ。

 

全部、

 

合理的だった。

 

「会社は楽になる」

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「はい」

 

「利益も」

 

「戻ります」

 

「国内も」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「少し楽になる」

 

元白軍将校は頷いた。

 

「できる」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「なら?」

 

元白軍将校は、

 

酒類一覧を指した。

 

蒸留酒。

 

十九。

 

二度蒸留酒。

 

十三。

 

「やるか?」

 

誰も、

 

やるとは言わなかった。

 

それが、

 

最後だった。

 

本当に最後の、

 

ためらいだった。

 

会社を守るか。

 

余裕を守るか。

 

利益を守るか。

 

国内生産を守るか。

 

それとも、

 

今まで作ってきた余裕を、

 

使うか。

 

ユダヤ人実業家が、

 

最初に損益表を閉じた。

 

「私は使います」

 

元独立運動家。

 

「俺も」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「国内で壊れない範囲までだ」

 

ポーランド軍将校。

 

「軍には俺から説明する」

 

最後に、

 

元白軍将校。

 

「なら明日決める」

 

軍将校が眉をひそめた。

 

「明日?」

 

元白軍将校は、

 

少し笑った。

 

「今夜はまだ、何を使うか数えろ」

 

余っている住宅。

 

余っている倉庫。

 

余っている輸送枠。

 

予備資金。

 

国外口座。

 

複数の港。

 

国外工場。

 

海外支部。

 

予備の図面。

 

予備治具。

 

若手。

 

教師。

 

商務担当。

 

整備員。

 

技術者。

 

十九年間。

 

効率が悪いと言われながら、

 

WILKが積み上げてきたもの。

 

それらが、

 

一枚ずつ机に並べられた。

 

夜半。

 

酒類部門から、

 

最後の紙が来た。

 

一行。

 

二度蒸留酒。

 

十一名。

 

家族。

 

出発可能。

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「席は」

 

元独立運動家。

 

「ある」

 

「切符」

 

「ある」

 

「金」

 

「ある」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「着いた後の仕事は」

 

少し間。

 

「作れる」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「なら」

 

元白軍将校が答えた。

 

「出せ」

 

一九三八年十一月。

 

WILKは、

 

まだ全力を出していなかった。

 

工場は余力を残していた。

 

金も残していた。

 

人も。

 

場所も。

 

輸送も。

 

十九年間、

 

壊れた時のために、

 

余裕を作ってきた。

 

その余裕が、

 

初めて本当に必要になろうとしていた。

 

会議記録。

 

酒類名称による危険連絡。

 

急増。

 

国外移動。

 

即時拡大。

 

既存の予備能力。

 

全項目再集計。

 

翌日。

 

緊急会議。

 

議題。

 

余剰能力の使用範囲。

 

元白軍将校が、

 

最後に一行だけ書いた。

 

まだ、

 

会社は壊れていない。

 

その下に、

 

元ドイツ軍技術者が追記した。

 

だが、

 

軋む音は聞こえた。

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