一九二一年
本日午前九時四十七分、WILK航空製作所製Tur試作一号機は初飛行を実施した。
離陸滑走距離は、計画値を下回った。
上昇性能は、計画値をわずかに上回った。
操縦性は、低速域において良好。
高速域では方向安定性に改善の余地あり。
着陸時、右主脚の半引込機構が作動せず、車輪は半格納状態のまま接地した。
機体は大きく右へ逸れ、試験場外周の干し草山へ突入した。
乗員二名に負傷なし。
機体損傷は軽微。
干し草山一基、全損。
製造側は本試験について、
「離陸および帰還に成功」
と評価している。
試験場管理側は、干し草山を帰還地点に含めることへ異議を申し立てた。
初飛行の朝。
Tur試作一号機は、牧草地の端に立っていた。
布張りを終えた大きな主翼。
低く長い胴体。
左右に並ぶ同型発動機。
太い半引込式主脚。
操縦席前方の機関銃口。
後席の旋回機銃架。
胴体下の観測窓。
主翼下の爆弾架。
狼の印は機首側面。
その下には、小さく、
TUR-1
と描かれている。
元白軍将校は、機体正面から眺めた。
「牛だな」
元ドイツ帝国軍技師が即座に答える。
「航空機だ」
「脚が太い」
「不整地用だ」
「頭が低い」
「前方視界のためだ」
「肩幅が広い」
「主翼だ!」
ポーランド軍将校は、試験項目表を持って機体の周囲を歩いていた。
「今日は飛ばすだけだ」
「飛ばす以外に何をする」
元独立運動家が尋ねる。
「武装試験はしない」
「しない」
「爆弾投下も」
「しない」
「患者輸送も」
「しない」
「郵便は」
「積まない」
「パン生地樽は」
「絶対に積まない!」
実業家が小さな包みを持って近づいてきた。
「では、これは地上で渡します」
「何だ」
「郵便庁からの祝電です」
「なぜ飛行機へ積もうとした」
「初飛行で運べば記念になるかと」
「届先はここだろう!」
「一度上空へ持っていけば、航空郵便になります」
「ならない!」
◇
初飛行の操縦士は、また軍将校だった。
「なぜ私だ」
軍将校は操縦席の横で言った。
元ドイツ技師が答える。
「一号機から乗っている」
「それは理由にならん」
「左右別発動機の機体を飛ばした」
「今回は同じだ」
「片肺でも帰った」
「若い操縦士がな」
「爆弾も落とした」
「私は望んでいなかった!」
「墜落経験は」
「ない!」
元白軍将校が言う。
「なら今回が最初かもしれん」
「縁起でもないことを言うな!」
後席には陸軍大尉が乗る予定だった。
大尉は新型機計画を持ち込んだ本人であり、観測員としての経験もある。
だが搭乗直前になって、元ドイツ技師が言った。
「私が乗る」
大尉が眉を上げる。
「軍の試験だぞ」
「試作機だ」
「不具合が出た時、軍人が記録する」
「不具合が出た時、直せる者が必要だ」
「空中で直すのか」
「必要なら」
軍将校が二人を見る。
「空中で直す前提にするな」
大尉は少し考え、後席を譲った。
「落とすなよ」
技師が答える。
「操縦士に言え」
「私を挟んで不吉な会話をするな!」
◇
搭載物は厳しく制限された。
乗員二名。
燃料、半量。
工具、最小限。
計測器。
砂袋。
それだけ。
武装は外されている。
爆弾架は空。
貨物室も空。
担架もない。
航法机は付いているが、地図は試験場周辺のみ。
「軽いな」
元独立運動家が貨物室を覗く。
「これが本来の試験状態です」
技師が答えた。
「何か積めそうだ」
「積むな」
「牛乳缶一つくらい」
「積むな!」
実業家が尋ねる。
「振動試験は必要では?」
「計測器がある」
「牛乳缶の方が安い」
「精度が違う!」
元白軍将校は、少し離れた荷車の陰を見た。
そこには布をかけた牛乳缶が二つある。
「用意はした」
軍将校が振り返る。
「誰が!」
「飛行後に必要になるかもしれん」
「何に!」
「比較試験」
「積ませないぞ!」
元ドイツ技師が、珍しく軍将校へ味方した。
「今日は計器だけだ」
白軍将校は肩をすくめた。
「なら次だ」
「次も許可していない!」
◇
半引込式主脚は、地上で何度も試験された。
操縦席横のレバーを引く。
索が動く。
脚柱が内側へ折れ、車輪の上半分が主翼下のくぼみへ収まる。
残り半分は外へ出たまま。
下ろす時は、解除レバーを押す。
脚が自重で落ちる。
固定爪が噛む。
緑色の表示板が出る。
「表示板が見えれば固定」
技師が説明する。
「見えなければ」
軍将校が尋ねる。
「固定されていない」
「飛行中に見えなくなったら」
「再操作する」
「それでも駄目なら」
「半格納のまま着陸する」
「できるのか」
「車輪が出ている」
元白軍将校が満足そうに頷く。
「だから半分残した」
軍将校は技師を見る。
「本当にそのためか」
「理由の一つだ」
「最初から故障を考えていたのか」
「機械は故障する」
「今日はするなよ」
「機械に言え」
◇
発動機が始動した。
右。
次に左。
同じ音。
同じ回転。
今までのWILK郵便機より、はるかに力強い。
大きなプロペラが空気を叩く。
草が寝る。
見物人たちが帽子を押さえる。
塵が舞う。
実業家の帳簿の頁までめくれた。
「もう少し離れてください!」
独立運動家が見物人を下がらせる。
町の人々。
軍関係者。
郵便庁の役人。
病院の医師。
機体の木材を加工した職人。
布を縫った女たち。
いつも牧草地を貸している農場主。
そして子供たち。
WILK最初の郵便機が飛んだ時より、ずっと人が多い。
軍将校は操縦席で計器を見る。
「油圧」
「正常」
後席の技師。
「温度」
「正常」
「左右回転」
「揃っている」
「操縦面」
「動作確認」
「脚」
「下げ位置固定」
「燃料」
「半量」
「扉」
「閉鎖」
「牛乳缶」
「ない」
「最後は確認項目ではない!」
◇
Turが動き始めた。
最初はゆっくり。
大車輪が草地を踏む。
郵便機より重い。
だが発動機の力は強い。
出力を少し上げただけで、機体は前へ出ようとする。
「舵が重い」
軍将校が言う。
「速度が上がれば軽くなる」
「低速で使う機体だろう」
「地上と空中は違う」
滑走路代わりの牧草地の端へ。
向かい風。
旗が揺れている。
軍将校は方向を合わせた。
深呼吸。
左右の出力レバーを前へ押す。
発動機音が大きくなる。
Turが走り出した。
速い。
見た目の重さに反して、加速は一号機より明らかに鋭い。
大車輪が穴を越える。
機体が揺れる。
尾部が上がる。
「速度!」
技師が読み上げる。
「まだだ!」
牧草地の半分。
「もう少し!」
主翼が風を掴む。
車輪が軽くなる。
軍将校は操縦桿をわずかに引いた。
Turは、地面から離れた。
◇
歓声は、発動機音にかき消された。
それでも操縦席まで伝わった気がした。
「上がった」
軍将校が言う。
「当然だ」
技師が答える。
「少しは喜べ」
「速度を維持しろ」
「一号機の時も同じことを言ったな」
「一号機より重い」
「だが上がる」
「発動機のおかげだ」
「設計は」
「それも少し」
「素直ではないな!」
Turは緩やかに高度を取る。
上昇は速くない。
だが安定している。
操縦桿は重い。
方向舵も大きな力を要する。
それでも、急に傾くことはない。
風に揺らされても、すぐ姿勢を戻す。
「牛だな」
軍将校が呟く。
「何か言ったか」
「安定していると言った」
「そう言え」
◇
高度三百メートル。
水平飛行。
技師が計測器を確認する。
「脚を上げる」
軍将校がレバーを引く。
重い。
「動かん」
「もっと引け」
「引いている」
「一度戻せ」
「戻すぞ」
「もう一度」
レバーを引く。
左脚が動く。
右脚も遅れて動く。
車輪の上半分が主翼下へ収まる。
表示板。
左、格納。
右、格納。
「入った」
「完全ではない」
「半引込式だからな」
抵抗が減る。
速度が少し上がった。
軍将校は計器を見る。
「本当に速くなった」
「計算通りだ」
「少しだけだ」
「少しでも速い」
「このために機構を増やしたのか」
「着陸時にはありがたくなる」
「故障しなければな」
技師は返事をしなかった。
「なぜ黙る」
「試作だからだ」
「嫌な言葉だな」
◇
旋回試験。
右。
左。
浅い旋回。
深い旋回。
Turは鈍い。
だが急に翼を落とさない。
低速まで絞っても、機体は粘った。
「失速警告」
機体が震え始める。
「まだ持つ」
技師が言う。
「落とす気か」
「限界を知る」
「地上で計算しろ!」
「飛ばなければ分からん!」
速度をさらに落とす。
機首が上がる。
右翼が少し下がる。
「戻せ!」
軍将校が操縦桿を前へ。
出力を上げる。
機体は素直に速度を回復した。
「扱いやすい」
「重量のおかげでもある」
「重い方がよいのか」
「何でも限度がある」
「今は」
「限度の近く」
「越えてはいないのだな」
「たぶん」
「たぶんと言うな!」
◇
片発停止試験は、予定に入っていなかった。
軍将校は試験表を確認する。
「今日はしない」
「低出力で模擬する」
技師が答える。
「止めるなよ」
「止めない」
「本当に?」
「右を最低出力へ」
「それはほぼ止めるのでは」
「プロペラは回る」
「嫌だな」
右発動機の出力を落とす。
機体が右へ向く。
軍将校は方向舵を踏む。
左発動機の出力を調整。
高度が少し下がる。
「維持できる」
技師が記録する。
「軽い状態だからだ」
「全備重量では難しい」
「帰れるか」
「条件次第」
「郵便機と同じ答えだな」
「空は同じだ」
右発動機を戻す。
Turは再び真っすぐ飛ぶ。
軍将校は操縦桿を軽く叩いた。
「これなら帰れる」
「壊し方による」
「少しは夢を持て」
「技師が持つものではない」
◇
高度五百メートル。
最高速度試験。
出力を上げる。
Turは加速した。
郵便機より速い。
だが戦闘機には遠く及ばない。
機体全体が細かく震える。
「振動」
軍将校が言う。
「尾部だ」
技師が後ろを見る。
「方向安定が弱い」
「危険か」
「今すぐではない」
「速度を落とす」
「記録を取ってから」
「壊れる前に!」
「あと十秒!」
「五秒だ!」
「八秒!」
「六!」
「七!」
「子供の交渉か!」
七秒後、出力を落とす。
振動が消えた。
「尾翼を大きくする」
技師が記録した。
「また重くなる」
「必要な重さだ」
「その言葉は便利だな」
◇
試験項目の大半は終わった。
残るは着陸。
試験場へ戻る。
地上には、まだ見物人がいる。
小さく見える人々が手を振っていた。
「脚を下ろす」
軍将校が解除レバーを押す。
左脚。
落ちる。
固定。
緑の表示。
右脚。
動かない。
「右が下りない」
技師がすぐ表示を見る。
「もう一度」
解除。
戻す。
再操作。
右脚が少し動く。
半分ほど下がり、止まった。
格納状態と展開状態の中間。
「固定表示なし」
「見れば分かる!」
「手動索を引く」
技師が後席横の非常索を掴む。
引く。
動かない。
もう一度。
右脚が少し下がる。
だが完全固定されない。
「原因は」
「分からん」
「着陸できるか」
「車輪は出ている」
「斜めだぞ」
「半引込式だ」
「今その長所を聞きたくなかった!」
◇
地上でも異常に気づいた。
白い布で信号。
右脚不良。
着陸中止可能。
軍将校は試験場上空を旋回した。
「燃料は」
「あと一時間」
「脚を直せるか」
「空中では無理だ」
「さっきは技師が乗る理由として直せると言っただろう!」
「直せる不具合ならだ!」
右脚を揺らすため、機体を左右へ振る。
動かない。
急上昇して荷重を抜く。
動かない。
軽く降下。
動かない。
元白軍将校なら、きっと外から蹴った。
だが空中では誰も蹴れない。
「着陸する」
軍将校が言った。
「左脚を先に」
「右が崩れる」
「なるべく真っすぐ」
「難しいな」
「帰る方が大事だ」
「その通りだ」
◇
見物人は滑走路脇から離された。
消防用の水桶。
担架。
馬車。
念のため、すべて用意。
農場主は牧草地の端に積まれた干し草山を見た。
「まさか、あれへ来ないだろうな」
元白軍将校が答える。
「柔らかい」
「使うな!」
Turが接近する。
速度は低い。
大きな翼が機体を支える。
左車輪が地面へ触れる。
軍将校は右側を浮かせたまま走る。
「まだ!」
技師が叫ぶ。
「速度を落とせ!」
左車輪だけで進む。
機体が傾く。
右車輪が地面へ近づく。
「来るぞ!」
右車輪が接地。
固定されていない脚が内側へ折れる。
機体が大きく右へ傾いた。
右主翼端が草を擦る。
軍将校は左へ方向舵。
左発動機の出力を少し上げる。
機体は右へ逸れながらも、転倒を免れた。
「止まらん!」
「先に干し草!」
「何だと!」
牧草地の端。
農場主の干し草山。
Turは斜めのまま突っ込んだ。
干し草が舞い上がる。
機体が沈む。
発動機音が止まる。
大きな翼だけが、草の山から突き出していた。
◇
数秒。
誰も動かなかった。
次の瞬間、全員が走った。
「乗員!」
「火は!」
「燃料漏れ!」
「水を持て!」
元白軍将校が真っ先に干し草へ登る。
独立運動家も。
軍将校が操縦席から顔を出した。
「生きている!」
後席の技師も出てくる。
「発動機を見ろ!」
「先に人だ!」
「人は無事だ!」
白軍将校が二人を引っ張り出す。
独立運動家が燃料臭を嗅ぐ。
「漏れていない」
軍将校は干し草の上へ転がった。
空を見る。
「帰った」
技師は既に機体へ戻ろうとしている。
「右脚を見る」
「少し休め!」
「原因が分からん」
「今でなくてよい!」
農場主が遅れて到着した。
消えた干し草山を見る。
そこから突き出たTurを見る。
「またうちか!」
軍将校は干し草まみれの顔で答えた。
「今回は柵ではない」
「干し草の方が高い!」
実業家が帳簿を持って現れる。
「補償します」
「本当か」
「試験費用へ含めます」
軍将校が起き上がる。
「軍へ請求する気だな」
「軍用機試験です」
大尉は遠くから目を逸らした。
◇
機体は、思ったほど壊れていなかった。
右脚機構。
右翼端。
右発動機覆い。
胴体下面の一部。
干し草が衝撃を吸収した。
「だから柔らかいと言った」
元白軍将校が言う。
農場主が睨む。
「次から干し草を滑走路脇へ置いておくか」
「置くな!」
軍将校が叫ぶ。
「突入する前提になる!」
元ドイツ技師は右脚を分解した。
固定爪。
解除索。
支点。
そこに、小さな金属片が挟まっていた。
「削り屑だ」
「どこから」
軍将校が尋ねる。
「引込機構の加工部」
「清掃しただろう」
「した」
「ではなぜ」
「初めて荷重をかけた時に出た」
「地上試験では」
「飛行時の荷重とは違う」
「つまり」
「設計変更する」
技師はすぐ紙を取る。
「固定爪を大きく。異物が入っても噛む形に。点検口を追加。非常解除索を別経路へ」
「重くなるか」
「少し」
軍将校は何も言わなかった。
「言わないのか」
「帰れたからな」
◇
初飛行の判定会議。
軍側。
WILK側。
試験場管理者。
農場主まで呼ばれた。
「飛行そのものは成功」
大尉が言った。
「離陸、上昇、旋回、低速性能、片発模擬、いずれも概ね良好」
「高速安定性に問題」
技師が付け加える。
「尾翼改修で対応可能」
「主脚故障」
軍将校が言う。
「原因判明。改修可能」
「着陸は」
試験場管理者が記録を見る。
「予定地点から百八十メートル逸脱」
「帰還はした」
実業家が答える。
「試験場外です」
「敷地境界内では?」
「農場です」
「牧草地の一部です」
「干し草山へ突入しています」
「停止には成功しました」
試験場管理者は実業家を見た。
「それを着陸成功と?」
「離陸地点へ戻り、乗員と機体が回収可能な状態です」
「WILKの成功基準は広すぎませんか」
軍将校が答えた。
「私も長年そう思っている」
農場主が手を挙げる。
「干し草代は」
「軍が」
実業家が言う。
「まだ決まっていない!」
大尉が叫ぶ。
「ならWILKが一時立替を」
「利息を付ける気だろう!」
「当然です」
◇
結論。
Tur試作一号機の初飛行は、条件付き成功とする。
条件は、右脚機構の改修。
尾翼拡大。
高速域の再試験。
制動装置の改善。
そして、試験場外周の安全確保。
最後の項目を見て、元白軍将校が言った。
「干し草を増やすか」
「減らすのだ!」
◇
修理は三日で終わった。
右翼端を直す。
脚機構を改修。
尾翼へ面積を追加。
操縦席には、脚固定確認用の表示を大きくする。
さらに機体下面へ、半格納状態でも脚が内側へ完全に折れ込まない補助金具を追加した。
「また重くなった」
軍将校が言う。
「必要な重さだ」
技師が答えた。
「もう驚かん」
元独立運動家は、修理中の機体横へ牛乳缶を置いた。
「何だ、それは」
「初飛行祝いだ」
「中身は」
「牛乳」
「飛ばしていないな」
「干し草へ突っ込む前に積む余裕はなかった」
「よろしい」
元白軍将校が言う。
「次の飛行で積む」
「よろしいと言った直後に台無しにするな!」
◇
二回目の飛行。
今回は見物人が少なかった。
農場主は干し草を遠くへ移した。
軍将校が操縦席。
後席は大尉。
元ドイツ技師は地上で計測。
貨物室には砂袋。
そして、厳重に固定された牛乳缶二つ。
「なぜある」
軍将校が尋ねた。
「振動比較です」
実業家が答える。
「計器も積んでいる」
「計器が故障した時の予備です」
「牛乳缶が?」
「結果は飲めます」
「反論しにくいのが腹立たしい」
二回目の離陸は順調。
脚は上がった。
下がった。
固定表示も出た。
着陸も、今度は牧草地の中央。
大きな車輪が地面を捉え、真っすぐ走った。
Turは干し草山へ向かわず、自力で停止した。
地上から拍手。
軍将校は発動機を止める。
「今度こそ帰った」
大尉が笑った。
「前回も帰ったのでは」
「あれは干し草に捕まっただけだ」
◇
牛乳缶が降ろされた。
片方は主翼に近い位置。
片方は胴体中央。
蓋を開ける。
主翼側の牛乳は激しく泡立っていた。
胴体中央の物は比較的静か。
独立運動家が味を見る。
「主翼側は少し濃い」
実業家も確認する。
「表面に脂肪が集まっています」
元白軍将校が缶を覗く。
「さらに飛べばバターになる」
軍将校が言う。
「軍用機試験だぞ」
「振動位置が分かった」
元ドイツ技師は缶の状態と計測器の記録を見比べた。
「主翼外側は振動が大きい」
「牛乳で分かったな」
白軍将校が言う。
「計器でも分かっている!」
「同じ結果だ」
「だから何だ!」
技師は記録表へ、小さく追記した。
牛乳缶の状態も計測結果と一致。
軍将校が見つける。
「正式記録へ残すのか」
「再現性があるなら記録だ」
「もう止める者がいない」
◇
試験後。
主翼側の牛乳缶は、さらに木の棒で攪拌された。
表面に集まった脂肪分を取り出す。
塩を少し混ぜる。
出来上がった物は、柔らかなバターに近かった。
見物に来ていた子供へ、黒パンと一緒に配られた。
最初の一口は、軍将校へ渡された。
「なぜ私だ」
独立運動家が答える。
「飛ばしたからだ」
「試験操縦士だからか」
「最初に食う権利がある」
軍将校は黒パンへ塗られた白い塊を見る。
一口。
少し酸味。
塩気。
牛乳の香り。
「どうだ」
「バターだな」
「空を飛んだ」
「だから何だ」
「空飛ぶバターだ」
「名前を付けるな」
実業家は既に帳簿へ書いていた。
Tur飛行試験副産物。
空中攪拌乳脂肪。
試食評価、良好。
「商品化するなよ」
軍将校が言った。
「まだ量が足りません」
「量があればするのか!」
◇
Tur試作一号機の初飛行は、こうして終わった。
一度目は干し草山へ。
二度目は滑走路へ。
飛行性能は概ね良好。
低速で安定。
片発でも帰還可能。
不整地へ強い。
そして主翼付近の振動は、牛乳を少しバターへ近づける。
軍が求めた性能の大半は、満たされつつあった。
軍が求めていない性能まで、一つ見つかった。
その日の夜。
元ドイツ技師は図面へ改修箇所を書き込んでいた。
軍将校が隣で初飛行報告書を作る。
「評価はどうする」
「条件付き成功」
「干し草山は」
「事故」
「機体は戻った」
「事故だ」
「乗員は無傷」
「事故だ!」
「では二回目は」
「成功」
「牛乳缶は」
「振動試験用補助資料」
軍将校は手を止めた。
「それで通すのか」
「事実だ」
「軍が何と言うか」
「軍の大尉も食べた」
少し離れた場所で、大尉が黒パンへ二度目のバターを塗っていた。
軍将校は報告書へ書いた。
初飛行、条件付き成功。
その下へ、小さく付け加える。
試験終了後、乗員および関係者へ軽食を配給。
空を飛んだ牛乳については、書かなかった。
実業家の帳簿には、もっと詳しく残された。
後世、どちらの記録が多く引用されるか。
この時点では、誰にも分からなかった。