一九三九年八月二十九日
目的。
敵軍を、すべて止めることではない。
橋を一つ失わせる。
道路を一本詰まらせる。
補給を一度遅らせる。
砲兵の展開を一度やり直させる。
航空隊に一度余計な迂回をさせる。
通信を一度つなぎ直させる。
三十分。
一時間。
三時間。
それを、
別の部隊が繰り返す。
敵軍の予定表に、
こちらの都合を書き込ませること。
一九三九年八月二十九日。
WILK本社。
会議室には、昨日までより大きな地図が広げられていた。
ポーランド軍将校は、その上に透明な紙を重ねた。
道路。
鉄道。
河川。
町。
森。
飛行場。
そして、国境。
元白軍将校は地図の端へ手をつき、しばらく黙って見ていた。
「速いな」
元独立運動家が聞いた。
「何が」
「ドイツ軍だ」
ポーランド軍将校が答える。
「始まってもいない」
「だから地図で見ている」
元白軍将校は西部の道路を指した。
「始まったら、もっと速い」
元ドイツ軍技術者が資料から顔を上げる。
「戦車が?」
「戦車だけじゃない」
元白軍将校は首を振った。
「トラック。燃料。砲兵。通信。工兵。補給。全部だ」
ユダヤ人実業家が言った。
「つまり、会社と同じですね」
四人が見る。
「何がだ」
「工場だけでは商品は届きません」
実業家は地図の道路を指した。
「倉庫が必要です。輸送が必要です。燃料が必要です。連絡が必要です。どれか一つ止まれば、予定はずれます」
元白軍将校が頷いた。
「そういうことだ」
ポーランド軍将校は、少し不満そうだった。
「戦争を商売に例えるな」
実業家は平然と答えた。
「輸送は輸送です」
元ドイツ軍技術者も頷く。
「機械も同じだ。一部だけ速くても意味がない」
ポーランド軍将校は二人を見た。
「今日はお前らが元気だな」
「昨日まで飛行機の話だったからな」
元白軍将校が笑った。
「今日は道路だ。皆、口を出せる」
「それが嫌なんだ」
そう言いながら、ポーランド軍将校自身も少し笑った。
だが、笑いは長く続かなかった。
彼は地図の西側を指した。
「仮に敵がここから進む」
指を東へ滑らせる。
「予定通りなら、ここまで何時間」
参謀役の若い将校が答えた。
「道路状況が良ければ――」
「良くないものとして考えろ」
「では、半日程度」
元白軍将校が聞いた。
「橋が一つ使えなければ?」
若い将校が考える。
「迂回で一時間から数時間」
「道路に放棄車両があれば」
「さらに」
「補給車列が空襲を受けたら」
「速度は落ちます」
「砲兵が遅れたら」
「先頭部隊だけ進んでも、攻撃力が落ちます」
元白軍将校はそこで手を止めた。
「それだ」
ポーランド軍将校が眉を上げる。
「何だ」
「敵を全部止める必要はない」
元白軍将校は、指で地図を軽く叩いた。
「予定通りに進ませなければいい」
若い将校が聞いた。
「それだけで?」
「それだけを何度もやる」
元白軍将校は、一つ目の町を指した。
「ここで一時間」
次。
「ここで二時間」
さらに次。
「ここで半日」
そして、その先。
「次の部隊がまたやる」
若い将校は地図を見た。
元白軍将校が続ける。
「一時間では戦争は変わらん」
「はい」
「だが一時間を十回やれば?」
若い将校は答えなかった。
元白軍将校が言った。
「予定表が壊れる」
ポーランド軍将校が静かに頷いた。
「そのための航空機か」
元白軍将校が今度は航空隊配置表を見る。
「そのためにも使える」
Tur。
Bizon。
Karaś。
その他の機体。
それぞれ役割が違う。
すべてを一つの任務へ使う必要はない。
敵戦車を正面から壊すためだけに航空機があるわけでもない。
むしろ。
道路を走る燃料車。
砲兵を引く車両。
通信車。
二輪車。
補給車。
橋の手前で詰まった車列。
そういうものの方が、戦争全体には効くことがある。
元ドイツ軍技術者がTurの資料を見ながら言った。
「重装甲車両を正面から相手にするな」
「当たり前だ」
ポーランド軍将校が返す。
「十一ミリは魔法じゃない」
元白軍将校も頷く。
「固いものを撃つより、周りの柔らかいものを撃て」
ユダヤ人実業家が顔を上げた。
「言い方が嫌ですね」
「戦争だからな」
「それを便利な言葉にしないでください」
元白軍将校は少し黙り、
「分かった」
とだけ答えた。
ポーランド軍将校は、地図へ視線を戻した。
「道路を移動中の部隊は狙われる」
元ドイツ軍技術者が言う。
「Turは速くない」
「だから見える」
元白軍将校が答えた。
「見える?」
「地上からだ」
彼は椅子へ腰を下ろした。
「速い機体は、気づいた時には通り過ぎている」
Bizonの資料を指す。
「こいつはそっちだ」
次にTur。
「こいつは違う」
低空。
比較的遅い。
装甲。
十一ミリ。
「地上の兵士から見れば、撃てる」
ポーランド軍将校が理解した。
「だから撃つ」
「そうだ」
元白軍将校は手で低い軌道を描いた。
「軽機関銃でも撃つ。小銃でも撃つ。曳光弾も飛ぶ」
元ドイツ軍技術者が言った。
「そして一部は弾く」
「全部ではない」
「もちろんだ」
元白軍将校は頷いた。
「だが兵士から見れば違う」
若い将校が聞く。
「何がです」
元白軍将校は答えた。
「当てたのに、まだ来る」
会議室が静かになる。
元白軍将校は言葉を続けた。
「それだけで、次から空を見る」
ポーランド軍将校がゆっくりと言う。
「敵に空を見る時間を使わせる」
「そうだ」
元白軍将校は地図を見た。
「道路を進んでいる兵士が、三十秒ごとに空を見る」
「車列を止める」
「機関銃を上へ向ける」
「散開する」
「また乗る」
「また進む」
それだけ。
一回なら小さい。
だが。
何度も。
別の場所で。
別の部隊に。
同じことをさせる。
元白軍将校が言った。
「敵に『空を見る時間』を強制しろ」
誰も、その言葉を冗談として受け取らなかった。
午後。
WILKの飛行場。
Turが一機、低くエンジンを回していた。
古い機体だった。
登録上は。
何年も使われている。
だが、機体の中身は何度も更新されていた。
発動機。
配線。
無線。
計器。
脚。
一部構造。
装甲。
武装。
昔のままの部品を探す方が難しい。
整備主任が機体の横で言った。
「新造機ではありません」
ポーランド軍将校が答える。
「知っている」
「ですが」
整備主任は胴体を軽く叩いた。
「使えます」
元ドイツ軍技術者が聞く。
「何回?」
「何がです」
「出撃して、戻って、直して、また出す。それを何回できる」
整備主任は少し考えた。
「損傷次第です」
「正しい答えだ」
「数字が必要なら」
「いらん」
元ドイツ軍技術者は珍しくすぐに引いた。
「必要なのは、一回多く戻すことだ」
近くではBizonも整備されていた。
新しい。
速い。
火力も強い。
だが、数は限られている。
元白軍将校が両機を見比べた。
「使い方を分けろ」
ポーランド軍将校が聞く。
「どう」
「Bizonは、見つかる前に叩く」
「Turは?」
「見えても来る」
元ドイツ軍技術者が渋い顔をする。
「機体の性能を恐怖の分類で説明するな」
「分かりやすい」
「技術者には分かりにくい」
元白軍将校がTurを指した。
「なら技術的に言え」
元ドイツ軍技術者は少し考えた。
「Bizonは速度と火力を利用して短時間で攻撃を終える」
「Turは」
「被弾を前提にはしない」
「分かっている」
「だが、ある程度の被弾に耐えて任務を継続できる可能性が高い」
元白軍将校が頷いた。
「つまり、見えても来る」
元ドイツ軍技術者。
「……嫌いだ」
「分かりやすいだろ」
「嫌いだ」
夕方。
軍の若い航空士官たちへ説明が行われた。
攻撃目標について。
一人が聞く。
「敵戦車は?」
ポーランド軍将校が答えた。
「撃てる状況なら撃て」
「撃破を?」
「それを第一目的にするな」
若い士官が少し意外そうな顔をする。
「では何を」
「見ろ」
地図が広げられる。
機甲部隊の先頭。
その後ろ。
さらに後ろ。
燃料。
弾薬。
整備。
通信。
砲兵。
食料。
負傷者輸送。
「戦車だけで軍は進まん」
別の士官が言った。
「後ろを狙う」
「そうだ」
「補給」
「そうだ」
「道路」
「そうだ」
「橋」
ポーランド軍将校は少し間を置いてから答えた。
「状況次第だ」
そして続ける。
「何でも壊せばいいわけではない」
地図には。
こちらも使う道路がある。
こちらも渡る橋がある。
こちらの住民もいる。
こちらの町もある。
「敵を遅らせるために、自分まで動けなくなるな」
若い士官たちは頷いた。
それが一番難しい。
敵の予定表を壊す。
同時に。
自分の予定表まで燃やさない。
夜。
WILK本社。
会議室。
元独立運動家が、家族移送の一覧を置いた。
「今日も出した」
ユダヤ人実業家が言う。
「予定より十四人多いですね」
「知人枠」
「増えています」
「知ってる」
元ドイツ軍技術者は整備状況を置く。
「Tur、追加で数機稼働可能」
ポーランド軍将校が確認する。
「無理をしたか」
「していない」
「珍しい」
「殴るぞ」
元白軍将校は地図を見たまま言った。
「今日一日で、できることは増えた」
元独立運動家が聞く。
「勝てるか?」
元白軍将校は振り向かなかった。
「知らん」
昨日と。
同じ答え。
だが。
今日は少しだけ違った。
「ただ」
地図の西側を指す。
「向こうが考えた通りには、やらせん」
ポーランド軍将校が言う。
「それで足りるか」
「足りない」
即答。
「なら」
「足りないものを、何回もやる」
元白軍将校は、今度は東へ向かって指を動かした。
「一個大隊で止められなければ遅らせる」
「一個中隊で止められなければ、もっと少し遅らせる」
「航空機一機で戦線を変えられなくても、車列一つを止める」
「整備班一組で戦争を変えられなくても、一機多く明日飛ばす」
誰も。
途中で止めなかった。
「一つ一つは小さい」
元白軍将校が言う。
「だから相手は予定へ入れない」
ユダヤ人実業家が聞いた。
「全部積み重なったら?」
元白軍将校は答えた。
「その時は、相手が予定を作り直す」
それでいい。
敵軍を消す必要はない。
敵軍が。
止まり。
考え。
待ち。
迂回し。
補給をやり直し。
命令を変え。
時計を見る。
その時間。
こちらも使える。
部隊を下げる。
別の部隊を動かす。
航空機を直す。
負傷者を運ぶ。
家族を出す。
次の場所を準備する。
時間は。
敵にも。
こちらにも。
同じ速さで過ぎる。
なら。
敵に。
余計に使わせればいい。
一九三九年八月二十九日。
ポーランドには。
まだ。
戦争は来ていなかった。
だが。
WILKとポーランド軍は。
敵を倒す方法だけではなく。
敵を。
予定通りに勝たせない方法を。
考え始めていた。
敵の予定表を壊せ。
それは。
勝利の約束ではなかった。
ただ。
残された日を。
一日でも多く。
こちら側へ取り戻すための。
考え方だった。