WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK国外受入部・臨時配置覚書
一九三九年八月三十日

国外移動先。

英国。

フランス。

ルーマニア。

ポルトガル。

米州。

その他。

注意。

一か所へ集めない。

同一家族は、

可能な限り同一地点へ送る。

ただし。

会社全体。

技術者全体。

資金全体。

経営陣全体。

航空部門全体。

これらを、

同じ国へ集めない。

理由。

帰る場所が、

一つしかなければ。

そこを失った時。

すべてを失う。


第173話 帰る場所を、一つにするな

 

一九三九年八月三十日。

 

朝。

 

WILK本社。

 

ユダヤ人実業家の机には、

 

五つの封筒が並んでいた。

 

英国。

 

フランス。

 

ルーマニア。

 

ポルトガル。

 

米州。

 

元独立運動家が見て、

 

「また増えたか」

 

と聞いた。

 

「増えました」

 

「家族?」

 

「家族も」

 

実業家は一つ目の封筒を開いた。

 

「技術者も」

 

二つ目。

 

「会計も」

 

三つ目。

 

「食品部も」

 

四つ目。

 

「航空部門も」

 

五つ目。

 

「それから、私の親族も」

 

元独立運動家が笑った。

 

「最後が一番多そうだな」

 

「否定しません」

 

実業家の一族は、

 

すでにかなり国外へ散っていた。

 

子供たちは成人している。

 

上の子供たちは、

 

もう三十代、四十代。

 

その子供。

 

つまり孫世代も、

 

一部は働いていた。

 

さらに。

 

一族の上の方では、

 

ひ孫までいる。

 

だから。

 

「家族を国外へ出す」

 

という言葉も、

 

実業家の家では少し意味が違った。

 

一つの家を、

 

丸ごと移すのではない。

 

すでに各地にある家族のところへ、

 

別の家族を足す。

 

英国の娘。

 

フランスの息子。

 

米国の孫。

 

ポルトガルに取引先。

 

ルーマニアに知人。

 

実業家自身が作ったものではない。

 

二十年。

 

家族と商売を続けた結果。

 

自然にできた網だった。

 

元独立運動家が聞いた。

 

「全員を米州へ出せば楽じゃないか」

 

実業家は首を振った。

 

「嫌です」

 

「なぜ」

 

「全員を一隻の船に乗せるようなものです」

 

元独立運動家は、

 

その答えを聞いてすぐに黙った。

 

実業家が続ける。

 

「家族を分けるのは嫌いです」

 

一枚。

 

名簿を置く。

 

「ですが」

 

別の一枚。

 

「全員を同じ場所へ置く方が、もっと嫌いです」

 

それは。

 

家族だけの話ではなかった。

 

午後。

 

五人。

 

会議室。

 

地図の上には、

 

今度はポーランドではなく。

 

欧州。

 

そして。

 

大西洋。

 

さらに。

 

米州まで。

 

一枚では足りない。

 

三枚の地図が並べられていた。

 

元白軍将校が、

 

端から端まで見た。

 

「広くなったな」

 

元ドイツ軍技術者が答える。

 

「会社が広くなった」

 

「逃げ道が広くなったんだ」

 

「同じことだ」

 

「違う」

 

元独立運動家が言った。

 

「今日はどっちでもいい」

 

ユダヤ人実業家が、

 

一覧を読み上げる。

 

「英国」

 

指を置く。

 

「航空関係。技術者。家族。金融関係」

 

次。

 

「フランス」

 

「製造関係。航空関係。家族」

 

次。

 

「ルーマニア」

 

「一時受入。南方への移動拠点。家族。軍関係者」

 

次。

 

「ポルトガル」

 

「海上移動。金融。商取引。中継」

 

最後。

 

「米州」

 

「長期受入。農業。食品。製造。金融。航空。家族」

 

元白軍将校が聞いた。

 

「本社は」

 

誰もすぐに答えなかった。

 

まだ。

 

本社はポーランドにある。

 

建物も。

 

机も。

 

電話も。

 

帳簿も。

 

五人も。

 

まだ。

 

そこにいる。

 

実業家が答えた。

 

「本社機能の一部は、もう国外です」

 

元ドイツ軍技術者が言う。

 

「一部では困る」

 

「全部を一つの国へ?」

 

「それも困る」

 

「なら今のままです」

 

元ドイツ軍技術者は、

 

しばらく地図を見た。

 

「設計変更を誰が承認する」

 

「国外でもできるようにする」

 

「規格は」

 

「複製済み」

 

「測定具」

 

「分散済み」

 

「工作機械」

 

「移した」

 

「全部ではない」

 

「全部を移す必要がありますか」

 

技術者は答えなかった。

 

その問いには。

 

もう。

 

何度も。

 

答えてきた。

 

全部を守る必要はない。

 

再開できるだけ。

 

残せばいい。

 

ポーランド軍将校が、

 

ルーマニア方面を見ていた。

 

元白軍将校が気づく。

 

「南か」

 

「南もだ」

 

「西は」

 

「西も」

 

「海は」

 

「使えるうちは」

 

「東は」

 

ポーランド軍将校は、

 

少し間を置いた。

 

「頼るな」

 

八月二十三日。

 

独ソ不可侵条約。

 

その意味を。

 

まだ。

 

誰も全部は知らない。

 

秘密議定書など。

 

WILKには知りようもない。

 

だが。

 

東を。

 

安全な背中として扱う理由は、

 

もうなかった。

 

元白軍将校が聞く。

 

「ルーマニアへ出すのが主か」

 

「主ではない」

 

「では」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「一つにするな」

 

元白軍将校は笑った。

 

「会社に染まったな」

 

「元から軍も同じだ」

 

「そうか?」

 

「退路が一本しかない作戦を、お前は立てるのか」

 

元白軍将校。

 

少し考える。

 

「状況次第」

 

「立てるんじゃないか」

 

「状況次第だ」

 

「二回言った」

 

元ドイツ軍技術者が口を挟む。

 

「こいつなら立てる」

 

元白軍将校が睨む。

 

「お前ら私を何だと思ってる」

 

三人。

 

答えない。

 

元独立運動家だけが言った。

 

「昔の白軍将校」

 

「そのままだろうが」

 

午後遅く。

 

別室。

 

家族移動の確認。

 

ポーランド軍将校の家族も、

 

ついに机の上へ乗っていた。

 

妻。

 

娘。

 

次男。

 

長男の妻。

 

幼い子供。

 

長男だけは。

 

残る。

 

すでに若い少尉。

 

軍人。

 

ポーランド軍将校が、

 

一枚ずつ確認する。

 

元独立運動家が横で聞いた。

 

「娘は」

 

「行く」

 

「納得したか」

 

「半分」

 

「次男は」

 

「もっと納得していない」

 

ちょうど。

 

扉が開いた。

 

次男。

 

十八。

 

士官学校入学直前。

 

不機嫌。

 

顔に書いてある。

 

「父上」

 

ポーランド軍将校が顔を上げる。

 

「何だ」

 

「もう一度聞きます」

 

「答えは変わらん」

 

「兄上は残る」

 

「そうだ」

 

「父上も残る」

 

「そうだ」

 

「なら僕も」

 

「駄目だ」

 

「なぜ」

 

ポーランド軍将校は、

 

静かに答えた。

 

「お前はまだ軍人ではない」

 

「なります」

 

「まだなっていない」

 

「来月には士官学校へ」

 

そこで。

 

父親の声が少しだけ低くなった。

 

「来月があると思うな」

 

次男が黙る。

 

部屋の中。

 

誰も口を挟まない。

 

兄は。

 

もう軍人になった。

 

だから残る。

 

弟は。

 

まだ軍人ではない。

 

だから出す。

 

それだけ。

 

だが。

 

十八歳には。

 

それだけでは済まない。

 

「逃げるみたいじゃないですか」

 

ポーランド軍将校が答える。

 

「逃げろと言っている」

 

次男が顔を上げた。

 

「父上」

 

「生きて国外へ行け」

 

「でも」

 

「向こうで士官学校へ行けるなら行け」

 

次男。

 

止まる。

 

「いいんですか」

 

「私は軍人になるなとは言っていない」

 

元白軍将校が、

 

思わず口を挟んだ。

 

「それを先に言え」

 

ポーランド軍将校が振り向く。

 

「黙ってろ」

 

次男は。

 

少しだけ。

 

顔を緩めた。

 

「では、行きます」

 

父親が頷く。

 

「そうしろ」

 

その後ろ。

 

娘。

 

成人している。

 

こちらは次男より面倒だった。

 

「私は残れます」

 

「知っている」

 

「なら」

 

「行ってくれ」

 

娘が眉を寄せる。

 

「命令?」

 

「違う」

 

「では断れますね」

 

ポーランド軍将校は、

 

一瞬。

 

言葉を選んだ。

 

息子なら。

 

命令できる。

 

軍人なら。

 

命令できる。

 

だが。

 

娘は。

 

違う。

 

「頼んでいる」

 

娘が少し驚く。

 

父親が。

 

頼む。

 

珍しい。

 

「母さんと一緒に行ってくれ」

 

「お母様の世話?」

 

「それもある」

 

「兄嫁と子供も?」

 

「それもある」

 

「次男も?」

 

「それもある」

 

娘は、

 

ため息をついた。

 

「結局、全部じゃない」

 

「お前ならできる」

 

「それ、褒めてる?」

 

「褒めている」

 

娘はしばらく父を見る。

 

そして。

 

「分かった」

 

ポーランド軍将校が、

 

わずかに息を吐いた。

 

元白軍将校が横から言う。

 

「お前、家ではちゃんと父親なんだな」

 

「出ていけ」

 

「褒めたんだが」

 

「出ていけ」

 

夕方。

 

元ドイツ軍技術者の家族。

 

こちらも。

 

揉めていた。

 

息子。

 

すでにWILKの一部門を預かる部長。

 

三十代。

 

技術者。

 

そして。

 

一人息子。

 

父に似て。

 

頑固。

 

元独立運動家が聞いた。

 

「どちらが先に出る」

 

父。

 

即答。

 

「息子」

 

息子。

 

同時。

 

「父」

 

二人。

 

見る。

 

元独立運動家。

 

「面倒くさいな」

 

元ドイツ軍技術者が言う。

 

「私はまだ国内でやることがある」

 

息子。

 

「私にもあります」

 

「海外工場を動かせ」

 

「父さんが行けばできます」

 

「お前が行け」

 

「父さんが」

 

「私は創業者だ」

 

「私は部門長です」

 

「代わりはいる」

 

息子は即答した。

 

「父さんにもいます」

 

元ドイツ軍技術者が、

 

少し止まる。

 

「誰だ」

 

息子。

 

「私です」

 

沈黙。

 

元白軍将校が、

 

扉のところで笑った。

 

「負けたな」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「なぜお前がいる」

 

「今日はどこへ行っても追い出される」

 

「なら帰れ」

 

結局。

 

息子が。

 

先に出ることになった。

 

海外の製造拠点。

 

工作機械。

 

規格。

 

現場。

 

そこを動かせる人間として。

 

父親は。

 

国内に残る。

 

妻と孫たちは。

 

先に国外。

 

父と息子。

 

最後に。

 

短く話す。

 

「向こうで機械を動かせ」

 

「父さんは」

 

「こちらを片付ける」

 

「終わったら?」

 

「行く」

 

息子は少し疑う。

 

「本当に?」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「技術者が納期について嘘を言うか」

 

息子は答えた。

 

「よく言います」

 

「……行け」

 

夜。

 

元独立運動家の家族も。

 

移動準備。

 

妻。

 

娘二人。

 

長女はすでに家庭がある。

 

子供もいる。

 

次女は。

 

母親と姉一家の移動を手伝う。

 

元独立運動家は、

 

荷物を確認していた。

 

「薬は」

 

長女。

 

「持った」

 

「子供の服」

 

「持った」

 

「住所は」

 

次女。

 

「三枚書いた」

 

「連絡先」

 

「二か所」

 

「少ない」

 

「四か所」

 

「増えたな」

 

娘二人が、

 

同時に父を見る。

 

「お父さん」

 

「何だ」

 

長女。

 

「会社でやってることを家でもやらないで」

 

次女も続ける。

 

「荷物、もう先に送ったでしょう」

 

元独立運動家は少し黙った。

 

「一部は」

 

二人。

 

「ほら」

 

妻は。

 

笑っていた。

 

最後に。

 

ユダヤ人実業家。

 

家族一覧。

 

他の四人より。

 

長い。

 

元白軍将校が、

 

横から覗いた。

 

「多いな」

 

「一族ですから」

 

「何人いる」

 

「どこまで数えます?」

 

「聞かなければよかった」

 

「賢明です」

 

子供世代は。

 

もう自分で動ける。

 

むしろ。

 

父親より先に。

 

妻子を国外へ出した者もいた。

 

長男からの電報。

 

妻子。

 

英国。

 

配置済。

 

次男。

 

国外移動済。

 

長女一家。

 

受入完了。

 

孫。

 

勤務継続。

 

ひ孫。

 

同行。

 

元白軍将校が、

 

途中で読むのをやめた。

 

「家系図が必要だ」

 

実業家が答える。

 

「あります」

 

「あるのか」

 

「当然です」

 

「見せるな」

 

「残念です」

 

その一族は。

 

すでに。

 

WILKと同じだった。

 

一つの国に。

 

全部はいない。

 

元白軍将校は、

 

最後に。

 

自分の紙を見る。

 

何も。

 

書かれていない。

 

元独立運動家が。

 

気づいた。

 

「お前は」

 

「何だ」

 

「家族」

 

短い。

 

間。

 

「いない」

 

元独立運動家は。

 

何も言わなかった。

 

知っている。

 

ずっと。

 

知っていた。

 

それでも。

 

この数日。

 

皆が妻を。

 

子供を。

 

孫を。

 

国外へ送り出していると。

 

改めて。

 

その違いが見える。

 

元白軍将校は。

 

空白の紙を二つ折りにした。

 

「だから他をやれ」

 

「何を」

 

「まだ出してない家族がいるだろ」

 

それだけ。

 

夜遅く。

 

会議室。

 

五人。

 

また地図を見る。

 

欧州。

 

大西洋。

 

米州。

 

ポーランドから。

 

何本も。

 

線が伸びている。

 

英国へ。

 

フランスへ。

 

南へ。

 

海へ。

 

そして。

 

さらに遠くへ。

 

ユダヤ人実業家が言った。

 

「以前は、本社へ帰ればよかった」

 

元ドイツ軍技術者が答える。

 

「今もそうだ」

 

「本社があるうちは」

 

誰も返さない。

 

実業家は。

 

一本の線を指した。

 

「これからは違います」

 

元独立運動家が聞く。

 

「何が」

 

「帰る場所を、一つにしない」

 

元白軍将校が言う。

 

「面倒だぞ」

 

「ええ」

 

「金もかかる」

 

「ええ」

 

「管理も増える」

 

「ええ」

 

「それでも?」

 

実業家は頷いた。

 

「一つなら、なくなります」

 

地図には。

 

いくつも。

 

行先があった。

 

どれかが。

 

使えなくなるかもしれない。

 

国境が閉じるかもしれない。

 

港が止まるかもしれない。

 

船が出ないかもしれない。

 

戦争が広がるかもしれない。

 

だから。

 

一つを。

 

正解にしない。

 

英国が残れば。

 

英国で続ける。

 

フランスが残れば。

 

フランスで続ける。

 

南が通れば。

 

南へ出る。

 

海が使えれば。

 

海へ出る。

 

米州まで届けば。

 

そこで始める。

 

それは。

 

どこへ逃げるかを決めない。

 

ということではない。

 

どこか一つだけに。

 

会社の未来を。

 

預けない。

 

ということだった。

 

一九三九年八月三十日。

 

WILKには。

 

まだ。

 

帰る本社があった。

 

だが。

 

その本社を。

 

いつまでも。

 

唯一の帰る場所とは。

 

考えなくなっていた。

 

家族も。

 

人も。

 

技術も。

 

金も。

 

会社も。

 

一つに。

 

集めない。

 

帰る場所を、一つにするな。

 

それは。

 

逃げるためだけの言葉ではなかった。

 

いつか。

 

どこかで。

 

もう一度。

 

始めるための。

 

言葉だった。

 

 

 

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