確認事項。
本日中に移動可能な者を、
翌日便へ回さない。
明日の空席。
明日の列車。
明日の道路。
明日の国境。
それらを、
今日と同じ条件として扱わない。
理由。
明日は、
今日の続きとは限らない。
一九三九年八月三十日。
ワルシャワ。
駅。
人が増えていた。
昨日までと違うのは、
人数だけではない。
兵士がいる。
予備役がいる。
家族がいる。
荷物がある。
見送りがいる。
そして。
誰もが、
急いでいた。
WILKの担当者は、
ホーム脇に立っていた。
手には紙。
何度も書き直された。
乗車予定。
変更。
変更。
また変更。
「三等車二両、使えなくなりました」
若い職員が言った。
元独立運動家が顔を上げる。
「なぜ」
「動員関係です」
「代わりは」
「貨車なら」
「家族だぞ」
「分かっています」
元独立運動家は、
紙を取り上げた。
見る。
老人。
子供。
乳児。
負傷者。
妊婦。
さすがに貨車へ詰めるわけにはいかない。
「別便」
職員が言う。
「明日なら」
元独立運動家は、
すぐに首を振った。
「明日は使うな」
「ですが」
「今日の別便を探せ」
「もうほとんど」
「ほとんど残ってるなら探せ」
職員は走った。
その言葉が。
今日一日。
何度も使われた。
明日なら。
次なら。
後で。
それまでWILKでは、
普通に使っていた言葉だった。
部品なら。
次便。
人員なら。
来週。
工事なら。
来月。
だが。
八月三十日。
その言葉の意味が、
変わっていた。
---
WILK本社。
午前。
電話が鳴る。
ユダヤ人実業家が取る。
短く聞く。
「分かりました」
切る。
元白軍将校が聞いた。
「何だ」
「ポルトガル向けの船便が変更」
「遅れる?」
「一日」
元白軍将校が眉をひそめる。
「一日か」
「一日です」
以前なら。
何でもない。
一日。
倉庫で待つ。
ホテルで待つ。
次の列車へ乗る。
それで済んだ。
今は。
違う。
ユダヤ人実業家は、
別の電話を取った。
英国。
フランス。
ルーマニア。
港。
鉄道。
銀行。
国外支部。
同じ言葉を繰り返す。
「今日出せますか」
返事。
聞く。
「では今日」
別。
「今日中に」
別。
「明日ではなく」
元白軍将校が、
それを聞いていた。
「焦ってるな」
実業家は、
受話器を置いた。
「あなたに言われたくありません」
「私は落ち着いている」
「昨日、三人に怒鳴っていました」
「三人とも遅かった」
「それを焦っていると言います」
元白軍将校は答えなかった。
実業家が、
紙へ何か書く。
「以前なら、安い便を待ちました」
「今は?」
「高くても出します」
「利益は」
「今月は忘れました」
元白軍将校が少し笑う。
「珍しい」
「何度も言わないでください」
---
昼。
ポーランド軍将校の家。
荷物は、
もうほとんど出ていた。
妻。
娘。
次男。
長男の妻。
幼い子供。
今日。
出る。
次男は、
まだ納得している顔ではなかった。
制服ではない。
まだ士官学校生でもない。
だが。
姿勢だけは。
軍人の家で育ったものだった。
ポーランド軍将校が、
荷物を見る。
「多い」
妻が答える。
「減らしたわ」
「これで?」
娘が横から言う。
「お父様の基準で減らしたら、服が一枚になります」
「足りる」
「足りません」
次男が黙って荷物を持つ。
父親が見る。
「重いか」
「平気です」
「無理するな」
次男が、
少しだけ嫌そうな顔をした。
「子供扱いしないでください」
ポーランド軍将校は、
答えなかった。
もう。
子供ではない。
それは分かっている。
だから。
余計に。
出す。
玄関。
娘が母親を先に出す。
長男の妻は、
子供を抱いている。
次男が最後。
そこで。
ポーランド軍将校が言った。
「向こうへ着いたら連絡しろ」
次男が頷く。
「はい」
「勝手に戻るな」
次男。
止まる。
「まだ何も言ってません」
「言う顔をしている」
娘が吹き出した。
「本当に似てるわね」
父と次男。
同時に。
「似ていない」
妻が言った。
「似てるわよ」
ポーランド軍将校は、
少しだけ顔をしかめた。
それが。
家族と交わした。
最後の軽口にならない保証は。
どこにもなかった。
だから。
誰も。
それを口にしない。
---
同じ頃。
別の場所。
元ドイツ軍技術者の息子が、
国外へ向かう準備をしていた。
部門長。
技術者。
WILK第二世代。
机には。
持っていくもの。
残すもの。
大量の書類。
元ドイツ軍技術者が、
一枚を抜く。
「これは置け」
息子が言う。
「必要です」
「複製が向こうにある」
「変更履歴が」
「別便で出した」
「いつ」
「先週」
息子が父を見る。
「聞いてません」
「言ってない」
「なぜ」
「必要なかった」
息子は、
深く息を吐いた。
「父さん」
「何だ」
「そういうところです」
「何が」
「何でもありません」
父親は、
別の図面を見る。
「これは持て」
「これは複製あります」
「あるが、向こうのは古い」
「先に言ってください」
「今言った」
元白軍将校が、
横を通りかかる。
二人を見る。
「まだやってるのか」
元ドイツ軍技術者。
「出ていけ」
「出るのはそっちの息子だろ」
「お前が出ろ」
息子が笑った。
「父さん」
「何だ」
「行きます」
元ドイツ軍技術者は、
一瞬だけ黙った。
「向こうで止めるな」
「何を」
「工場を」
「止めません」
「機械を」
「回します」
「人を」
息子が答える。
「教えます」
父親は。
それで。
頷いた。
「なら行け」
---
午後。
WILK人事部。
紹介状。
家族票。
受入先。
紙が増えていく。
第169話で始めた、
名簿からこぼれる者の扱いも、
もう珍しくなくなっていた。
「この家族は」
「農場の紹介です」
「こちらは」
「鉄道」
「これは」
「元社員」
「これは」
「知人の知人」
元独立運動家が手を止める。
「誰の知人」
職員が紙を見る。
「……門番の」
元独立運動家が少し考える。
「身元は」
「確認済み」
「受入先」
「あります」
「なら出せ」
もう。
それでよかった。
会社との関係が。
何年。
何か月。
何日前から。
そんなことを細かく決めている時間はない。
知っている者がいる。
身元が分かる。
行先がある。
なら。
出す。
「次」
職員が言う。
「この家族ですが、明日なら英国便が」
元独立運動家が顔を上げた。
「今日のルーマニアは」
「空きがあります」
「なら今日」
「英国希望です」
「理由」
「親族が」
「向こうに?」
「はい」
元独立運動家は、
少し考えた。
家族を分けない。
できる限り。
それは。
守る。
だが。
今日出られる便を捨てて。
明日を待つ。
その価値があるか。
「英国支部へ確認」
「はい」
「ルーマニア側から後で移せるか」
「確認します」
「今日出せるなら出す」
職員が頷く。
それが。
この日の基準だった。
目的地は大事。
だが。
目的地へ向かう前に。
出発できなくなれば。
意味がない。
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夕方。
駅。
ポーランド軍将校の家族が、
ホームに立っていた。
妻。
娘。
次男。
長男の妻。
子供。
長男も来ていた。
若い少尉。
軍服。
次男が兄を見る。
「本当に残るんですね」
長男が答える。
「仕事だからな」
「ずるい」
長男が眉を上げる。
「何が」
「先に軍人になって」
長男は、
少し黙った。
弟を見る。
「馬鹿」
「何です」
「だからお前は行けるんだ」
次男が、
何も言えなくなる。
その横。
幼い子供が、
父親の軍服をつかむ。
「お父さんも?」
長男は。
しゃがんだ。
「あとで行く」
ポーランド軍将校が、
少し離れたところで聞いている。
何も言わない。
子供には。
それでいい。
列車が入ってくる。
汽笛。
人が動く。
WILK職員が、
乗車確認。
荷物。
人数。
車両。
ポーランド軍将校の妻が、
夫を見る。
「あなたも」
「後で」
妻は、
それ以上聞かなかった。
娘が父を見る。
「ちゃんと食べて」
「食べる」
「嘘」
「なぜ分かる」
「娘だから」
ポーランド軍将校は、
少し。
困った顔をした。
「行け」
「はい」
次男。
最後。
「父上」
「何だ」
「向こうで士官学校を探します」
「探せ」
「許可は」
「必要ない」
「本当に?」
「自分で決めろ」
次男は。
それで。
少し笑った。
「分かりました」
列車へ乗る。
扉。
閉まる。
ポーランド軍将校と。
長男だけが。
ホームに残った。
列車が動き始める。
次男。
窓から。
敬礼。
父。
返す。
長男も。
返す。
列車。
遠ざかる。
しばらく。
二人。
何も言わない。
やがて長男が聞いた。
「父上」
「何だ」
「本当に、あとで行くつもりですか」
ポーランド軍将校は、
前を向いたまま答えた。
「お前は?」
長男。
少し笑う。
「愚問でした」
「そうだ」
---
その夜。
本社。
元白軍将校が、
机の上の一覧を見る。
今日。
出た者。
今日。
出られなかった者。
予定変更。
行先変更。
乗車変更。
紙は。
汚れていた。
何度も。
書き直されている。
元独立運動家が言った。
「かなり出した」
「かなり?」
「かなり」
「全部ではない」
「無理だ」
元白軍将校が、
一覧の一番下を見る。
「明日」
元独立運動家が答える。
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「明日出す、と言うつもりだっただろ」
元白軍将校は、
少し笑った。
「読めるようになったな」
「二十年いる」
ユダヤ人実業家が入ってくる。
「残りの列車枠、減りました」
「どれくらい」
数字を言う。
元独立運動家が顔をしかめる。
「朝より少ない」
「動員です」
ポーランド軍将校も戻ってきた。
「当然だ」
元ドイツ軍技術者が聞く。
「明日は」
ユダヤ人実業家が答える。
「分かりません」
元白軍将校。
「鉄道が止まる?」
「そこまでは」
「では」
「ただし」
実業家は。
四人を見る。
「今日と同じだとは考えません」
誰も。
反論しない。
それが。
第十一章で。
何度も学んだことだった。
地図は変わる。
条約も変わる。
国も消える。
飛行場も。
工場も。
列車も。
明日。
同じ場所に。
同じ状態で。
ある保証はない。
元独立運動家が、
残った家族一覧を取る。
「今日、出せるのは」
職員が答える。
「あと七名」
「出せ」
「もう遅いです」
「列車は」
「まだあります」
「なら出せ」
「次の便でも」
元独立運動家が、
職員を見る。
怒鳴らない。
ただ。
静かに聞いた。
「次の便がある保証は?」
職員は。
答えられない。
元独立運動家は言った。
「なら、この便へ入れろ」
「はい」
職員が走る。
元白軍将校は、
その背中を見る。
「昔なら無茶だと言ったな」
元独立運動家。
「今でも無茶だ」
「なら」
「必要な無茶だ」
元白軍将校が頷いた。
外。
夜。
駅へ向かう車が出る。
七人。
子供。
老人。
女。
荷物。
WILK社員ではない者もいる。
だが。
受入先はある。
今日。
まだ出られる。
それだけで。
充分だった。
一九三九年八月三十日。
WILKは。
明日の列車を。
予定表から。
少しずつ消していった。
明日の船。
明日の道路。
明日の国境。
明日の空席。
あれば。
使う。
だが。
あることを前提に。
今日を捨てない。
まだ動く列車へ。
人を乗せる。
まだ開いている道へ。
人を送る。
まだ使える一日を。
使い切る。
明日の列車を、
当てにするな。
それは。
悲観ではなかった。
今日という時間を。
まだ使えるうちに。
使うための。
判断だった。