一九三九年九月一日
四時台。
国境方面より戦闘開始の報。
複数地点においてドイツ軍の越境を確認。
五時台。
鉄道、道路、通信施設への攻撃報告。
複数の常設飛行場に対する爆撃を確認。
六時台。
分散航空隊との連絡確認。
Tur、Bizonを含む各機、複数の臨時発着地点において稼働。
備考。
本社業務、継続。
第176話 飛行場は燃えた。航空隊は残った
一九三九年九月一日。
夜明け前のWILK本社で、最初の電話が鳴った。
夜勤担当者は眠気の残る顔で受話器を取り、相手の言葉を聞いた。最初の数秒は手元に何も書かなかったが、やがて鉛筆を掴み、机の紙へ時刻と地名を書き始めた。
「確認は取れていますか」
返答を聞く。
「分かりました。続報があれば同じ番号へ」
受話器を置いた直後、隣の電話が鳴った。
今度は別の地点だった。
国境。
砲撃。
航空機。
越境。
通信途絶。
一つ目だけなら誤報という可能性もあった。
二つ目が来た。
三つ目も来た。
夜勤責任者は受話器を置くと、椅子から立ち上がった。
「起こせ」
誰を、とは言わなかった。
もう説明する必要はなかった。
最初に会議室へ入ってきたのはポーランド軍将校だった。
軍服の上着を着ながら廊下を歩いてきたらしく、最後の釦を留めたのは扉を開けた後だった。
「最初は何時だ」
「四時台です」
「場所は」
地図へ三か所の印が付けられた。
ポーランド軍将校は黙ってそれを見た。
次に元白軍将校が入ってきた。普段なら整えている髪も、その朝は少し乱れている。
「始まったか」
ポーランド軍将校は振り返らなかった。
「ああ」
二十年間。
想定してきた。
まだ時間はあると言った年もあった。
来年かもしれないと言った年もあった。
もっと遅いかもしれないと願った年もあった。
そして昨日まで、残された日を使った。
その日を数える仕事は、もう終わった。
元ドイツ軍技術者が入ってきた。
「工場は」
「動いている」
「電力」
「現時点では問題なし」
「鉄道」
「確認中」
ユダヤ人実業家と元独立運動家も続いた。
五人がそろったところで、また電話が鳴った。
今度は軍回線だった。
ポーランド軍将校が取る。
しばらく聞く。
「どこだ」
紙へ書く。
「被害は」
さらに聞く。
その後、声の調子が少し変わった。
「航空隊は」
会議室の四人が顔を上げた。
ポーランド軍将校は受話器の向こうの返答を最後まで聞いてから、短く指示を出した。
「分かった。各分散地点の状況を優先して報告しろ」
受話器を置く。
元白軍将校が聞いた。
「飛行場か」
「西部の常設飛行場が爆撃された」
元ドイツ軍技術者がすぐに尋ねる。
「機体は」
「主力は昨日までに移してある」
元白軍将校が椅子の背から身体を起こした。
「航空隊は残っている?」
「ああ」
一拍だけ空いた。
「なら飛ばせ」
ポーランド軍将校はもう一度電話を取った。
「各分散地点へ。待機解除。出撃準備に入れ」
それから付け加えた。
「常設飛行場の被害報告より、まず航空隊が何機動くかを報告しろ」
電話の向こうで復唱が返る。
第百七十一話。
飛行場を守るな、航空隊を守れ。
何年もかけて準備してきたその考え方が、九月一日の朝、初めて本当の戦争の中で試されることになった。
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西部のある常設飛行場では、まだ煙が上がっていた。
格納庫の一部が燃え、滑走帯には爆弾穴が開いている。地上員が消火器材を運び、負傷者が担架で建物の裏へ移されていた。
上空を離れていくドイツ機から見れば、攻撃は成功している。
施設は壊れた。
滑走帯も傷んだ。
地上設備も被害を受けている。
ただし、そこにいるはずだった機体が少ない。
前日まで写真に写っていた戦闘機の多くは、もうその飛行場にはいなかった。
十数キロ離れた農村。
平坦な牧草地の脇で、P.11の発動機が回っていた。
草地の端には農具小屋があり、牛が柵の向こうから騒ぎを眺めている。
若い整備兵が主脚を確認していると、連絡員が走ってきた。
「常設飛行場が爆撃されました!」
操縦士は座席へ入りながら聞く。
「航空隊は」
「ここにいます」
「なら問題ない」
発動機の音が大きくなった。
その農場から、一機目が飛んだ。
さらに別の農場。
こちらにはTurとBizonがいた。
給油中の機体。
整備中の機体。
すでに発動機を回している機体。
農場主の老人は草地の端に立ち、飛行機ではなく地面を見ていた。
若い航空士官が走ってくる。
「戦争が始まりました!」
老人は顔も上げなかった。
「見りゃ分かる!」
遠くで爆発音がする。
それでも老人が気にしているのは足元だった。
「そっちから出すな」
航空士官が止まる。
「なぜです」
「昨日の夜露が残っとる。手前が柔らかい」
「今は急いでいます」
老人はようやく顔を上げた。
「急いで沈めるのか?」
士官が黙る。
「二十年、お前らの飛行機がここへ来るたび地面見てきた。飛べる場所は向こうだ」
老人が指した先へ、整備兵が走る。
Turがゆっくりと移動を始めた。
若い整備兵が老人へ叫ぶ。
「草を潰します!」
「昨日も潰した!」
「補償は記録します!」
老人が一瞬だけ黙った。
「戦争中でもか!」
「WILKですから!」
老人は鼻を鳴らした。
「ならちゃんと書いとけ!」
Turの二基の発動機が唸り、草地を走り始める。
車輪がわずかに沈む。
だが速度は上がった。
機体が浮く。
老人は帽子を押さえながら、その後ろ姿を見送った。
「最初からあっち使えばいいんだ」
誰にも聞こえない声だった。
その朝。
ポーランド航空隊は、燃えている常設飛行場だけから戦争を始めたのではなかった。
農場。
牧草地。
小規模飛行場。
昨日まで軍事施設には見えなかった場所。
そこから一機ずつ空へ上がった。
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午前。
ドイツ軍のある車列は、農村地帯を東へ進んでいた。
トラック。
オートバイ。
歩兵。
馬匹。
砲兵。
前方には装甲車も見える。
国境を越えてから抵抗は受けていたが、進撃そのものは続いていた。
道路脇を歩いていた兵士が空を見上げる。
「飛行機」
隣の男は水筒を飲みながら言った。
「味方だろ」
朝から何度もドイツ機が頭上を通っている。
だから、最初は誰も急いで伏せなかった。
双発機が低く近づいてくる。
下士官が目を細めた。
翼。
機首。
標識。
「敵機だ!」
声が上がった直後、道路の土が弾けた。
Turの前方火器が車列へ短い射撃を入れた。
トラックの側面に穴が開き、オートバイが道路脇へ倒れる。驚いた馬が横へ跳ね、後ろの車両が急停止した。
「撃て!」
MG34が上を向く。
小銃兵も空へ射撃する。
曳光弾が低空を抜けていく。
Turの胴体近くで火花が散った。
「当たった!」
兵士が叫ぶ。
もう一発。
翼の近く。
また火花。
機体はそのまま抜けた。
兵士たちは空を見上げる。
落ちない。
その事実を確認している間に、Turは遠ざかっていく。
下士官が怒鳴った。
「空ばかり見るな! 車両をどけろ!」
その時。
別の音が近づいた。
今度は速い。
Bizonだった。
兵士たちが気づいた時には、もう攻撃姿勢に入っている。
前方四門。
短い射撃。
道路の後方。
燃料車。
通信車。
牽引車。
戦車ではない。
戦車の後ろを動かしているものを狙う。
一台が止まり、後ろが詰まる。
Bizonはそのまま低空で離れていった。
下士官は二機を見比べる余裕などなかった。
一機目は見えた。
撃った。
当てた。
それでも来た。
二機目は気づいた時には、もう撃たれていた。
その日。
TurとBizonという名前を知っているドイツ兵は、まだ多くなかった。
だが、印象だけは先に残った。
遅い双発機は、当ててもすぐには止まらない。
速い双発機は、見つけた時にはもう撃っている。
そしてどちらも、道路を狙う。
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昼前。
WILK本社へ最初の航空戦闘報告が戻ってきた。
元ドイツ軍技術者が紙を読む。
「Tur一機、被弾して帰還」
元白軍将校が聞いた。
「どの程度」
「まだ分からん。複数箇所」
「飛べる?」
「だから今確認してる」
ポーランド軍将校が横から言った。
「無理に今日もう一度飛ばすな」
元ドイツ軍技術者が顔を上げる。
「まだ何も言っていない」
「言いそうな顔をしている」
「お前まで農場主みたいなことを言うな」
元白軍将校が笑った。
「直せるなら直せ」
「当然だ」
「今日?」
「今日直れば」
「無理なら」
元ドイツ軍技術者は少しだけ考えた。
「明日」
その言葉で、五人の間に短い沈黙が生まれた。
昨日までは。
明日という言葉を使う時、どこかで疑っていた。
明日まで国が平時であるか。
明日まで鉄道が動くか。
明日まで工場が普通に操業できるか。
だが。
戦争が始まった後も。
明日は必要だった。
むしろ、戦争が始まったからこそ必要になる。
今日だけ全力で飛んで。
今日だけ全部撃って。
今日だけ全部壊す。
それでは一日しか戦えない。
元白軍将校が言った。
「今日、全部飛ばすな」
ポーランド軍将校が頷く。
「分かっている」
「今日で戦争が終わるなら別だ」
ユダヤ人実業家が書類から顔を上げた。
「終わりますか」
誰も答えなかった。
答えがなくても。
次に何をするかは分かる。
帰った機体を直す。
飛べる機体を残す。
搭乗員を休ませる。
燃料を使い切らない。
弾薬も全部撃たない。
そして。
明日も飛ぶ。
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午後。
別の常設飛行場が再び爆撃された。
滑走帯に新しい穴が開き、地上施設も燃えた。
それでも、その攻撃が終わるころには、十数キロ離れた別の草地からP.11が上がっていた。
別の農場ではKaraśが発動機を回している。
さらに遠くではTurが偵察任務へ出た。
常設飛行場は確かに壊されている。
爆撃が無意味なわけではない。
地上員も死ぬ。
燃料も失う。
整備設備も減る。
それでも。
そこだけを壊せば。
航空隊全体が消えるわけではなかった。
ドイツ側の偵察報告には、早くも妙な文言が増え始めていた。
「○○飛行場、攻撃成功」
その数行下に。
「同地域においてポーランド軍航空活動継続」
さらに。
「発進地点、不明」
まだ九月一日。
誰も。
それが数日後にどれだけ面倒な問題になるのかは知らない。
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夕方。
一機のBizonが地上攻撃から戻っていた。
後席が空を見ている。
「後方、戦闘機!」
操縦士の肩が少し固くなった。
「距離は」
「詰めています」
Bf109。
速い。
Bizonは戦闘機ではない。
勝とうとする相手ではない。
操縦士は低空を保ったまま速度を上げる。
後席の十一ミリが火を噴いた。
追ってきたBf109が少し横へ外れる。
また位置を取る。
後席が叫ぶ。
「もう一回来ます!」
「撃て!」
「撃ってます!」
短い射撃。
ドイツ戦闘機がまた距離を取る。
それでも追撃は続いた。
Bizonは旋回戦に入らない。
上昇もしない。
ただ逃げる。
後席が撃つ。
操縦士が帰る。
その繰り返し。
数分後。
Bf109はようやく離れた。
後席が後ろを見続ける。
「行きました!」
操縦士は前だけを見る。
「追うな」
後席が思わず笑った。
「追えませんよ!」
農場飛行場へ戻る。
着陸。
整備兵がすぐに寄ってくる。
機体を見る。
「穴、増えたな」
操縦士が降りる。
「飛べる?」
整備兵は睨んだ。
「それを今から見る」
後席が機銃から離れながら言う。
「一発くらい当てたと思います」
「敵に?」
「多分」
操縦士が割り込む。
「確認してない」
整備兵が聞く。
「なぜ」
「帰るのが仕事だった」
それでいい。
その日のポーランド側には、撃墜数を追いかけている余裕はなかった。
敵の戦闘機が強いことは、最初から分かっている。
なら。
生きて帰る。
明日も使う。
それが先だった。
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夜。
WILK本社。
五人は、初日の報告書を前にしていた。
常設飛行場の損害。
航空機の損失。
帰還機。
未帰還。
負傷者。
死亡者。
修理可能。
重損。
燃料。
弾薬。
各農場発着地点の状態。
元独立運動家が聞いた。
「航空隊は」
ポーランド軍将校が数字を答えた。
昨日より減っている。
当然だった。
それでも。
元独立運動家はもう一度聞いた。
「飛べる?」
「飛べる」
元白軍将校が元ドイツ軍技術者を見る。
「今日帰ったTurは」
「何機か明日までに戻せる」
「Bizonは」
「やる」
ユダヤ人実業家が聞いた。
「家族移送は」
元独立運動家が答えた。
「止めてない」
戦争が始まっても。
会社は一つのことだけをしていなかった。
飛行機を飛ばす。
機体を直す。
家族を送る。
工場を動かす。
国外支部へ連絡する。
銀行口座を確認する。
昨日まで決めたことを、そのまま続ける。
本社の窓の外は暗くなっていた。
西の方角では、まだ燃えている飛行場もある。
一方。
農場の片隅。
ランタンの下。
一機のTurが修理を受けていた。
翼には穴が開いている。
整備兵は泥の上に工具を並べ、疲れた顔で作業を続けている。
そこへ。
農場主の老人がランタンを持ってきた。
「暗いだろ」
整備兵が顔を上げる。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
老人はTurを見た。
「明日飛ぶのか」
整備兵も機体を見る。
「直れば」
「直る?」
「直します」
老人は少しだけ黙った。
それから足元の草地を見た。
「明日の朝はこっちから出せ。向こうはまだ柔らかい」
整備兵は笑った。
「分かりました」
老人は帰っていく。
整備兵はランタンを置き直し、また機体へ向かった。
一九三九年九月一日。
常設飛行場はいくつも燃えた。
格納庫も壊れた。
地上設備も失った。
飛行機も落ちた。
搭乗員も死んだ。
それでも夜が来た時、農場ではまだ整備が続いていた。
翌朝に飛ばす機体が残っていたからだ。
飛行場は燃えた。
航空隊は残った。