WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――ポーランド軍航空部 九月三日戦時運用注意

Tur、Bizonは戦闘機ではない。

敵戦闘機との継続交戦を避けること。

敵戦闘機を認めた場合、任務継続より離脱を優先すること。

ただし、離脱不能、追撃継続、正面交差が避けられない場合は、前方火器を用いて敵の接近を妨げること。

後方防御火器は、追撃機を撃墜するためではなく、追撃そのものを困難にするために用いる。

目的は撃墜ではない。

帰還である。



第179話 戦闘機が来たら逃げろ

 

一九三九年九月三日。

 

朝。

 

例の農場飛行場では、昨日の爆撃跡を避けるようにして機体が並べられていた。

 

完全に修復したわけではない。

 

大きな爆弾穴はそのまま残し、浅いものだけを埋め、使える草地を少し横へずらしただけだった。

 

それでも夜のうちに丸太を引き、土をならし、明け方にはまた何機かが離着陸できる状態になっていた。

 

老人は朝露の残る草地を歩きながら、飛行機ではなく地面を見ていた。

 

その横では、一機のBizonが昨夜から整備を受けている。

 

胴体側面に弾痕。

 

左主翼にも穴。

 

後席近くの装甲板には、浅いへこみがいくつか残っていた。

 

若い整備兵が、その一つを指でなぞる。

 

「ここにも当たってる」

 

後席銃手が覗き込んだ。

 

「昨日ですか」

 

整備兵は顔も上げなかった。

 

「昨日以外にいつ撃たれるんだ」

 

「訓練中とか」

 

「お前らは訓練中にも十一ミリ持った戦闘機に追われるのか」

 

少し離れたところから、老人が口を挟んだ。

 

「訓練ならもっと酷いことやっとったぞ」

 

整備兵が振り返る。

 

「また初号機の話ですか」

 

「初号機だけじゃない。Turも沈んだ」

 

「それは地面の話でしょう」

 

「地面を馬鹿にするな。飛行機は最後に地面へ帰ってくるんだ」

 

そこへBizonの操縦士が来た。

 

機体を見る。

 

「飛べる?」

 

整備兵は即答せず、まだ確認を続けていた。

 

発動機。

 

脚。

 

燃料系統。

 

操縦索。

 

無線。

 

前方四門。

 

後方一門。

 

それからようやく立ち上がる。

 

「飛べる」

 

操縦士が頷いた。

 

整備兵は続けた。

 

「ただし、昨日と同じだけ撃たれたら知らん」

 

「撃たれないようにする」

 

「昨日もそう思ってただろ」

 

返事はなかった。

 

そこへ航空士官が紙を持ってきた。

 

「新しい運用注意だ」

 

操縦士が受け取る。

 

読む。

 

少し笑う。

 

「戦闘機が来たら逃げろ」

 

整備兵が言った。

 

「当然だ」

 

後席銃手も横から覗き込む。

 

「正面から来たら?」

 

「撃つ」

 

「後ろから来たら?」

 

「お前が撃て」

 

「それでも追ってきたら?」

 

操縦士は紙を畳んだ。

 

「もっと逃げる」

 

老人が遠くから言った。

 

「それが一番賢い」

 

航空士官が振り返る。

 

「航空戦術まで分かるんですか」

 

老人は鼻を鳴らした。

 

「牛でも狼が来たら逃げる」

 

「同じですかね」

 

「死ぬよりましだ」

 

それについては、誰も反論しなかった。

 

---

 

午前。

 

Bizon二機が地上攻撃任務へ出た。

 

目標は道路上を移動するドイツ軍部隊。

 

昨日までと同じく、優先するのは戦車そのものではない。

 

補給。

 

通信。

 

牽引。

 

燃料。

 

歩兵を歩かせ、戦車を止め、砲兵を遅らせるもの。

 

二機は低空を保ちながら進んでいた。

 

後席が右上を見た。

 

「二機」

 

操縦士も確認する。

 

遠い。

 

小さい。

 

だが、速い。

 

「Bf109」

 

「見えてる」

 

「目標まではあと少しです」

 

前方には道路が見えている。

 

車列も見える。

 

撃てる。

 

あと少し行けば、確実に攻撃できる。

 

だが、その上から敵戦闘機が近づいている。

 

後席がもう一度聞いた。

 

「どうします」

 

操縦士は数秒だけ道路を見た。

 

そこに燃料車もいる。

 

牽引車もいる。

 

確かに狙いたい。

 

それでも。

 

「中止」

 

二番機へ短く連絡する。

 

二機は目標手前で向きを変えた。

 

後席が少し不満そうに言った。

 

「撃てましたよ」

 

「撃てた」

 

「なら」

 

操縦士は後ろを見ない。

 

「撃った後に帰れなくなるかもしれない」

 

それで話は終わった。

 

戦果はゼロ。

 

燃料は使った。

 

時間も使った。

 

何一つ壊していない。

 

だが、Bizonは二機とも残る。

 

それなら翌日、また飛べる。

 

---

 

後方のBf109二機は追ってきた。

 

速度では向こうが上だった。

 

Bizonは戦闘機ではない。

 

旋回戦をすれば負ける。

 

上昇しても負ける。

 

速度だけで逃げ切ることも難しい。

 

だから。

 

低空へ降りる。

 

真後ろから来れば、後席が撃つ。

 

一機のBf109が距離を詰めた。

 

「来ます!」

 

後席銃手が叫ぶ。

 

操縦士は進路を変えずに答えた。

 

「引きつけろ!」

 

「それ、怖いんですけど!」

 

「俺も怖い!」

 

後席の十一ミリが火を噴いた。

 

Bf109は少し横へ外れた。

 

すぐには攻撃を続けない。

 

再び位置を取り直す。

 

その間。

 

Bizonは逃げる。

 

別のBf109が前へ出ようとする。

 

後席が言った。

 

「一機、前へ回ります!」

 

操縦士も見た。

 

「正面来るな」

 

「どうします」

 

「逃げられん」

 

前へ回ったBf109が、Bizonの進路を切るように旋回した。

 

正面。

 

距離が縮まる。

 

ここで横へ大きく逃げれば、もう一機に後ろを取られる。

 

操縦士は決めた。

 

「正面で一回」

 

Bizonの機首が少し上がる。

 

十一ミリ四門。

 

Bf109も射撃姿勢に入る。

 

両者。

 

一瞬。

 

真正面。

 

射撃。

 

Bizonの前方火器が火を噴く。

 

Bf109側からも弾が飛ぶ。

 

曳光弾が交差する。

 

距離が一気に詰まる。

 

Bf109は直前で機首をずらした。

 

交差。

 

そのまま横へ抜ける。

 

Bizonは追わない。

 

向きも変えない。

 

そのまま低空で逃げる。

 

後席が振り返った。

 

「追ってきます!」

 

「どっち」

 

「一機!」

 

「もう一機は」

 

「分かりません!」

 

「なら今は一機だけ見ろ!」

 

後席がまた撃つ。

 

Bf109が距離を取る。

 

また近づく。

 

また後席が撃つ。

 

追撃側も楽ではない。

 

真後ろへ張りつけば十一ミリ。

 

前へ出すぎれば機首四門。

 

Bizonに空戦能力で負けるわけではない。

 

だが。

 

雑に近づけば危険。

 

だから距離を選ぶ。

 

角度を選ぶ。

 

時間を使う。

 

その時間だけ、Bizonは少しずつ東へ逃げていく。

 

---

 

地上では、ポーランド軍の小部隊がその追撃戦を見ていた。

 

一人の兵士が空を指す。

 

「あれ、味方だ」

 

「双発?」

 

「Bizonだろ」

 

「戦闘機に追われてるぞ」

 

Bizonが低空を抜ける。

 

その後ろをBf109。

 

射撃。

 

地上の兵士まで身を縮める。

 

「敵、速いな」

 

「当たり前だ。戦闘機だぞ」

 

Bizonの後席が撃つ。

 

Bf109が少し外れる。

 

兵士が言った。

 

「当たった?」

 

「分からん」

 

「でも嫌そうだな」

 

隣の下士官が、その言葉に頷いた。

 

「嫌なんだろ」

 

「勝てるのに?」

 

「勝てる相手でも、撃たれたくはない」

 

それが。

 

一番近かった。

 

---

 

別の空域では、一機のTurが偵察任務から戻っていた。

 

前線の道路。

 

敵車列。

 

橋。

 

砲兵位置。

 

確認したものを持ち帰る途中だった。

 

TurはBizonより遅い。

 

さらに。

 

この機体は決して新しくない。

 

登録上。

 

古参。

 

骨格の一部も長年使われている。

 

だが。

 

発動機は換装済み。

 

無線も新しい。

 

配線。

 

計器。

 

脚まわり。

 

構造補強。

 

何度も手を入れられている。

 

外見は古い。

 

中身は。

 

長年の改修の塊だった。

 

後席が空を見る。

 

「左後方。戦闘機」

 

操縦士がすぐ聞く。

 

「距離」

 

「まだあります」

 

「機数」

 

「一機」

 

Bf109。

 

Turを見つけた。

 

追う。

 

Turは逃げる。

 

速度では勝てない。

 

後席銃手が機銃を向ける。

 

最初の接近。

 

射撃。

 

Bf109は外れる。

 

再び上へ出る。

 

角度を変える。

 

Turの後席が言った。

 

「また来ます」

 

「撃て」

 

「もう撃ってます」

 

二度目の接近。

 

Bf109は今度、真後ろへ長く居ない。

 

上から。

 

斜め。

 

射撃。

 

Turに弾が当たる。

 

機体が揺れる。

 

後席の近くで大きな音。

 

「当たった!」

 

「どこ」

 

「分かりません!」

 

Bf109は一度抜けた。

 

その後。

 

前へ回る。

 

操縦士は気づいた。

 

「正面来るぞ」

 

後席も前を見る。

 

「逃げます?」

 

「横へ逃げたら後ろを取られる」

 

Bf109が機首を向けてくる。

 

距離が縮む。

 

操縦士はTurの機首を少し合わせた。

 

「撃つ」

 

前方十一ミリ四門。

 

射撃。

 

Bf109も撃つ。

 

弾が風防の横を抜ける。

 

一発。

 

翼。

 

もう一発。

 

胴体。

 

それでもTurは機首を下げない。

 

Bf109は最後まで正面に残らず、横へ抜けた。

 

Turは追わない。

 

そのまま逃げる。

 

後席が振り返る。

 

しばらく見る。

 

「追ってません!」

 

操縦士は前を見る。

 

「帰る」

 

「被弾してます」

 

「知ってる」

 

「大丈夫ですか」

 

操縦士は計器を見る。

 

発動機。

 

動いている。

 

操縦。

 

効く。

 

燃料。

 

漏れ。

 

今のところ。

 

致命的ではない。

 

「飛んでる」

 

それが。

 

今。

 

必要な答えだった。

 

---

 

午後。

 

Turが農場飛行場へ戻った。

 

着陸。

 

少し荒い。

 

整備兵が走る。

 

機体を見る。

 

「どこだ」

 

操縦士が降りる。

 

「右翼。胴体も」

 

後席銃手も降りた。

 

自分の座席後ろを見る。

 

装甲板。

 

そこに。

 

新しいへこみがあった。

 

一発。

 

止まっている。

 

貫通していない。

 

整備兵が指で触る。

 

後席銃手も。

 

同じ場所へ手を置いた。

 

「……ここですか」

 

「そうだ」

 

「これがなかったら」

 

整備兵は答えない。

 

操縦士が言った。

 

「だから付けてる」

 

後席銃手はしばらく装甲板を見ていた。

 

「外して持って帰っていいです?」

 

整備兵が顔を上げた。

 

「何にする」

 

「お守り」

 

「機体に戻せ」

 

「ですよね」

 

装甲板は。

 

英雄になるために付いているわけではない。

 

撃たれた後。

 

生きて帰るため。

 

その目的だけは。

 

果たしていた。

 

---

 

同じ日の午後。

 

ドイツ空軍側にも報告が戻っていた。

 

一機のBf109が損傷。

 

原因。

 

ポーランド双発機の防御射撃。

 

担当将校が資料を読む。

 

「双発機?」

 

「はい」

 

「戦闘機ではない?」

 

「攻撃機と思われます」

 

「追撃中?」

 

「はい」

 

「後席銃にやられたのか」

 

「その可能性があります」

 

さらに別の報告。

 

正面交差時。

 

ポーランド双発機の前方火力が強く、接近を断念。

 

将校は資料を並べた。

 

「前に何門」

 

「十一ミリ四門と見られます」

 

「後ろは」

 

「一門」

 

「装甲もある?」

 

「座席後方その他に確認されています」

 

将校は少し考えた。

 

「戦闘機ではないんだな」

 

「はい」

 

「なら、戦闘機として相手をする必要はない」

 

部下が聞く。

 

「どういう意味です」

 

将校は一枚ずつ報告を指した。

 

「追えば逃げる。なら逃げる相手として追え」

 

「はい」

 

「ただし、真後ろへ不用意に張りつくな」

 

次。

 

「正面へ長く残るな」

 

次。

 

「一機に時間をかけすぎるな」

 

部下が頷く。

 

つまり。

 

ドイツ側も。

 

すぐに学ぶ。

 

戦争だから。

 

同じ失敗を。

 

何日も繰り返してはくれない。

 

TurとBizonは。

 

無敵ではない。

 

むしろ。

 

戦闘機に捕まれば。

 

明確に不利。

 

だから。

 

戦う方法を磨くのではない。

 

逃げる方法を。

 

少しずつ。

 

覚えていく。

 

---

 

夕方。

 

WILK本社。

 

ポーランド軍将校が今日の報告を持ってきた。

 

「地上攻撃を中止したBizonが二機」

 

元白軍将校が聞く。

 

「戦闘機?」

 

「ああ」

 

「正しい」

 

「戦果はゼロ」

 

元白軍将校はすぐに答えた。

 

「機体二機」

 

元ドイツ軍技術者が顔をしかめる。

 

「そういう数え方をするな」

 

「だが帰った」

 

「帰還は戦果ではない」

 

ユダヤ人実業家が書類から顔を上げた。

 

「機体一機を今新造するのに、どれくらいかかる」

 

元ドイツ軍技術者は少し考えた。

 

「国内の状況込みなら、簡単ではない」

 

「搭乗員一組は」

 

ポーランド軍将校が答える。

 

「もっと簡単ではない」

 

元独立運動家が言った。

 

「なら、帰った方がいい」

 

部屋が少し静かになる。

 

当たり前。

 

その当たり前を。

 

二十年間。

 

会社で繰り返してきた。

 

一つに全部を賭けない。

 

使えるからといって使い切らない。

 

今日。

 

残っているからといって。

 

今日。

 

全部消費しない。

 

ポーランド軍将校は運用注意をもう一度見る。

 

戦闘機が来たら逃げろ。

 

勇ましくない。

 

格好良くもない。

 

撃墜数にもならない。

 

だが。

 

必要。

 

元白軍将校が言った。

 

「撃墜数で戦争が終わるわけじゃない」

 

ポーランド軍将校が少し笑う。

 

「航空兵に言うと嫌われるぞ」

 

「ならお前が言え」

 

「もっと嫌われる」

 

元ドイツ軍技術者が口を挟む。

 

「嫌われても言え」

 

元白軍将校が技術者を見る。

 

「お前が言うと説得力あるな」

 

「なぜだ」

 

「普段から嫌われてる」

 

「帰れ」

 

「ここ本社だぞ」

 

ほんの少し。

 

笑い。

 

その後。

 

また。

 

報告へ戻る。

 

---

 

夜。

 

例の農場。

 

Bizonが整備を受けている。

 

Turも。

 

少し離れた草地では、P.11が明日に備えている。

 

老人がランタンを持って歩く。

 

整備兵が被弾したTurの装甲板を確認している。

 

老人が聞いた。

 

「今日も戦闘機に追われたのか」

 

整備兵が答える。

 

「そうらしいです」

 

「逃げた?」

 

「逃げました」

 

「ならいい」

 

少し離れたところ。

 

操縦士がその会話を聞いている。

 

老人が気づく。

 

「何だ」

 

「何でもありません」

 

「明日も飛ぶのか」

 

操縦士がTurを見る。

 

「飛べれば」

 

整備兵がすぐ言う。

 

「直ればだ」

 

老人は草地を見る。

 

「なら朝は東側を使え。西側は今日の雨で少し緩い」

 

操縦士が頷く。

 

「分かりました」

 

老人はそのまま歩いていった。

 

Turの後席銃手は、自分の座席後ろに残ったへこみをもう一度見た。

 

戦闘機と戦って勝ったわけではない。

 

撃墜を確認したわけでもない。

 

ただ。

 

帰ってきた。

 

それで。

 

明日が一日増えた。

 

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