WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――ポーランド軍某歩兵連隊 九月四日午前戦闘日誌

敵歩兵の小銃および機関銃射撃は、前日までと比較してやや散発的であった。

原因は不明。

ただし、前面の敵部隊に対する補給の遅延、および後方道路における友軍航空機の活動が確認されている。

同日午後、補給任務を終えたTur一機が友軍地域内へ不時着。

搭乗員は生存。

機体は飛行不能。

使用可能装備の回収を開始した。



第181話 落ちても、まだ使える

 

一九三九年九月四日。

 

朝。

 

ポーランド軍のある歩兵陣地では、昨日までより少しだけ静かな時間が続いていた。

 

砲撃が止まったわけではない。ときおり迫撃砲弾が落ち、小銃弾も塹壕の上を通り過ぎていく。MG34も撃ってくる。

 

ただ、その射撃が妙に短かった。

 

一人の兵士が塹壕の縁から慎重に顔を出した。遠くの生垣沿いにドイツ軍の陣地があり、その辺りから数発の小銃弾が飛んできたため、すぐに頭を引っ込める。

 

しばらく待った。

 

昨日なら、その後に機関銃が長く続いていた。

 

今日は来ない。

 

兵士は隣にいた伍長を見る。

 

「なんか今日のジャガイモ連中、元気なくないですか」

 

伍長は双眼鏡を覗いたまま答えた。

 

「頭を出したら撃ってきただろ」

 

「でも昨日なら、今ので機関銃まで来てましたよ」

 

「向こうにも都合があるんだろ」

 

「弾がないとか」

 

伍長はそこで初めて双眼鏡を下ろした。

 

「ドイツ軍が開戦四日目で弾切れしてたら、こっちはもうベルリンまで行ってる」

 

兵士は少し笑った。

 

「じゃあ腹減ってるとか」

 

「それならあり得る」

 

「何でそっちはあり得るんです」

 

「俺が腹減ってるからだ」

 

二人とも朝食は済ませていた。

 

量は少ない。

 

硬いパンと温かい飲み物、それに昨夜の残りが少し。

 

十分とは言えないが、何もないわけではなかった。

 

兵士は敵陣の方をもう一度見る。

 

「向こうも同じですかね」

 

伍長は答えなかった。

 

ただ、その日のドイツ軍の射撃が少し弱いということだけは、塹壕にいる兵士でも感じ取ることができた。

 

理由が分かるのは、もう少し後だった。

 

---

 

その数時間前。

 

ドイツ軍の補給車列が、前線へ向かう道路の上で止まっていた。

 

原因は一つではない。

 

先頭近くでは、前夜から続く車両の混雑がまだ解消していなかった。道路脇へ退避したトラックの一台は車輪を泥へ取られ、別の車両がそれを引き出そうとしている。

 

さらに後方では、昨日の航空攻撃で損傷した通信車を避けるため、車列の順序そのものが乱れていた。

 

補給部隊の将校が腕時計を見た。

 

予定時刻はすでに過ぎている。

 

「前を動かせ」

 

下士官が答える。

 

「牽引が終われば動きます」

 

「何分だ」

 

「十分か、二十分」

 

「どっちだ」

 

「終わってみないと」

 

将校は舌打ちした。

 

その時、道路沿いの兵士が空を指した。

 

「航空機!」

 

昨日までなら、ほとんど反射的に何挺もの機関銃が空を向いていた。

 

今日は違った。

 

命令が出ている。

 

敵航空機に対する射撃は指定された機関銃を中心とし、小銃による無秩序な対空射撃を避けること。

 

敵機が遠い段階から弾薬を浪費しないこと。

 

前日の報告を受ければ当然だった。

 

ポーランド軍の低空攻撃機が来るたび、車列中の機関銃も小銃も空へ向いていた。その結果、敵機を落とせた例は少ない一方で、歩兵用の弾薬だけが目に見えて減っている。

 

しかも、敵味方を見分ける前に撃ち始めた部隊まであった。

 

合理的に考えれば、射撃統制を厳しくするしかない。

 

空に見えた機体が近づく。

 

兵士たちはじっと見た。

 

ドイツ機だった。

 

指定機関銃も撃たない。

 

補給将校は少し安心して、もう一度前方へ目を戻した。

 

「車列を動かせ。今日中に前へ届けるぞ」

 

しかし、そのおよそ二十分後。

 

今度は本当にBizonが来た。

 

最初に気づいた兵士が叫ぶ。

 

「敵機!」

 

指定されたMG34が二挺、すぐに空へ向けられた。

 

小銃兵の多くは撃たない。

 

命令通りだった。

 

Bizonの操縦士は、低空からその変化を見ていた。

 

「昨日より少ないな」

 

後席が周囲を確認する。

 

「地上射撃ですか」

 

「ああ」

 

「別の場所に対空砲でもいるんじゃないですか」

 

「いるなら嫌だな」

 

眼下にはトラック。

 

弾薬車。

 

食料。

 

燃料。

 

そして牽引車。

 

Bizonは一度だけ進入した。

 

前方四門から短い射撃が走り、車列中程のトラックが急停止する。その後ろを走っていた車両が避けようとして道路脇へ入り、湿った畑で車輪を取られた。

 

二挺のMG34が撃ってくる。

 

弾は近い。

 

だが昨日までのように、道路のあちこちから小銃弾まで伸びてくる状態ではない。

 

Bizonはそのまま抜けた。

 

後席が言った。

 

「戦闘機は見えません」

 

操縦士は一度振り返るように道路を見た。

 

昨日から、二撃目を欲張らないよう何度も言われている。

 

ただし今は、地上射撃が明らかに薄い。

 

「もう一回だけ入る」

 

「本当に一回だけですよ」

 

「分かってる」

 

Bizonが再び向きを変えた。

 

地上では、補給将校がそれを見て顔を歪めた。

 

「また来るぞ!」

 

MG34が撃つ。

 

今度は何人かの兵士が我慢できずに小銃も撃った。

 

それでも最初の日ほどではない。

 

Bizonは二度目の射撃で通信車付近を叩き、そのまま離脱した。

 

追わない。

 

三度目もない。

 

補給将校は敵機が遠ざかるのを確認すると、すぐ道路へ向き直った。

 

止まったトラックが一台。

 

畑へ入って動けなくなった車両が一台。

 

直接の損害だけを見れば、それほど大きくない。

 

問題は、その後だった。

 

道路を塞いだ車両をどけなければならない。

 

負傷者もいる。

 

積荷を別の車両へ移す必要がある。

 

泥へ入ったトラックを引き戻すため、別の車両を使わなければならない。

 

後続車列はその間も止まる。

 

補給将校は時計を見た。

 

朝から何度目か分からない。

 

隣にいた下士官が小さく言った。

 

「壊されたのは二台です」

 

将校は道路の後ろまで続く車列を見た。

 

「その二台のために何台止まってる」

 

下士官も振り返る。

 

数える気にはならなかった。

 

「かなり」

 

「そういうことだ」

 

将校は帽子を押し直した。

 

「動かせ。前線は待ってくれん」

 

---

 

その前線では、本当に待っていた。

 

ドイツ軍の一個歩兵中隊。

 

昼を過ぎても、予定されていた補給の一部が来ていない。

 

小銃弾はある。

 

機関銃弾もある。

 

だが、余裕がない。

 

必要なだけ撃つことはできる。

 

必要以上に撃つ余地がなくなっている。

 

食事も遅れていた。

 

若い兵士が空になった飯盒を覗き込み、意味もなく蓋を閉めた。

 

「まだ来ないのか」

 

隣の古参兵が銃を手入れしながら答える。

 

「来ないから食ってないんだろ」

 

「パンくらいないんですか」

 

「朝ので終わりだ」

 

「コーヒーは」

 

「ない」

 

若い兵士は顔をしかめた。

 

「ポーランドに来てから、ずっと道路を歩いて、撃たれて、空からも撃たれて、飯までない」

 

古参兵は笑った。

 

「戦争に何を期待してた」

 

「もっと早く終わるかと」

 

「まだ四日目だ」

 

少しして。

 

風向きが変わった。

 

若い兵士が鼻を動かした。

 

「何か匂いません?」

 

古参兵も顔を上げる。

 

煙の匂いではない。

 

焼いたパン。

 

それに、何か煮ている匂い。

 

風はポーランド側から来ていた。

 

若い兵士が嫌そうに言う。

 

「向こう、飯食ってるぞ」

 

「嗅ぐな」

 

「鼻を閉じろって?」

 

「考えるなってことだ」

 

「腹が減ってる時にパンの匂いがしたら考えますよ」

 

古参兵はしばらく黙っていたが、やがて銃を持ち直した。

 

「飯が欲しけりゃ進むしかないな」

 

若い兵士は笑おうとした。

 

だが、あまり面白くなかった。

 

---

 

午後。

 

その中隊へ新しい命令が届いた。

 

前進。

 

前方のポーランド軍陣地を押し、道路を確保する。

 

予定より遅れている。

 

隣接部隊は先行している。

 

中隊長は地図を見た。

 

本来なら、もう少し砲兵の準備を待ちたかった。

 

補給車列も来てほしい。

 

少なくとも兵士へ食事を取らせてから動かしたい。

 

だが、戦線全体は一個中隊の都合では止まらない。

 

副官が聞いた。

 

「補給を待ちますか」

 

中隊長は時計を見る。

 

「いつ来る」

 

「連絡では、もうすぐと」

 

「その『もうすぐ』を朝から聞いている」

 

「砲兵支援は」

 

「予定より少ないが来る」

 

副官は少し黙った。

 

「攻撃しますか」

 

中隊長は地図を畳んだ。

 

「する」

 

無謀な命令ではない。

 

敵陣は強固な要塞ではない。

 

こちらにも機関銃がある。

 

迫撃砲もある。

 

兵士の訓練も悪くない。

 

ただ、いつもより条件が少し悪い。

 

その「少し」が、いくつも重なっていた。

 

食事が遅れている。

 

弾薬に余裕がない。

 

砲兵支援も予定より短い。

 

中隊全体も、この数日の行軍と戦闘で疲れている。

 

それでも前進しなければならない。

 

ドイツ軍は進んでいる。

 

だからこそ、進み続ける必要があった。

 

---

 

ポーランド側の塹壕。

 

朝に「今日は元気がない」と言っていた兵士が、今度は双眼鏡を持つ伍長の横へ身体を寄せた。

 

「来ます」

 

「見えてる」

 

ドイツ歩兵が前進してくる。

 

散開している。

 

動きも悪くない。

 

ただ、攻撃前の砲撃は短かった。

 

機関銃の援護射撃も、昨日ほど長く続いていない。

 

兵士が聞いた。

 

「撃ちます?」

 

伍長は首を振った。

 

「まだ待て」

 

敵を近づける。

 

撃てばこちらの位置も分かる。

 

弾も無限ではない。

 

距離が縮まる。

 

伍長はようやく片手を上げた。

 

「撃て」

 

ポーランド軍陣地から一斉に射撃が始まった。

 

ドイツ兵が伏せる。

 

すぐにMG34が返してくる。

 

だが、その射撃は長く続かなかった。

 

数秒撃つ。

 

止まる。

 

また撃つ。

 

昨日までのように、こちらの頭を上げさせないためだけに長く弾を撒く余裕がない。

 

伍長が気づいた。

 

朝の違和感は間違いではなかった。

 

「機関銃が短い」

 

隣の兵士も分かったらしい。

 

「本当に弾がないんですかね」

 

「少ないだけかもしれん」

 

「同じようなもんじゃ」

 

「全然違う。少ない奴は撃ってくる」

 

その言葉通り。

 

またMG34が撃つ。

 

塹壕の土が跳ねる。

 

ドイツ歩兵も前進を再開する。

 

訓練された部隊だった。

 

一度伏せただけで崩れはしない。

 

しかし、砲撃と機関銃射撃で十分に頭を押さえられないまま歩兵が進めば、守る側にも撃つ時間が増える。

 

ポーランド側の迫撃砲弾が落ち始めた。

 

数は多くない。

 

それでも、前進する歩兵を止めるには役に立つ。

 

ドイツ側の一部が横へ流れた。

 

指揮官が立て直そうとする。

 

もう一度前へ出る。

 

だが、今度はポーランド側の機関銃がそこを捉えた。

 

攻撃はしばらく続いた。

 

簡単には終わらない。

 

ドイツ兵も撃ち返し、ポーランド側にも負傷者が出る。

 

それでも午後遅く、中隊長は攻撃続行に意味がないと判断した。

 

退却命令が出る。

 

ドイツ歩兵が少しずつ下がっていく。

 

朝の兵士が塹壕からその様子を見る。

 

「下がりましたね」

 

伍長も見る。

 

「追うなよ」

 

「分かってます」

 

「本当に分かってるか」

 

「昨日から何回言われたと思ってるんです」

 

伍長は少し笑った。

 

「ならいい」

 

兵士は敵の後退をしばらく見てから、朝と同じことを言った。

 

「やっぱり今日、元気なかったですね」

 

今度は伍長も否定しなかった。

 

「少なくとも、昨日よりはな」

 

---

 

その日の午後、別のポーランド軍部隊が一人のドイツ兵を捕虜にした。

 

若い兵士だった。

 

肩を負傷している。

 

ひどく疲れていて、渡された水をほとんど一息で飲んだ。

 

通訳が簡単な質問をする。

 

「部隊番号は」

 

答える。

 

「どこから来た」

 

答える。

 

「補給は」

 

そこで兵士が少し顔を歪めた。

 

「遅れている」

 

「何が」

 

「弾薬。食料。燃料も」

 

「道路が破壊されたのか」

 

兵士は首を横に振った。

 

「全部じゃない」

 

通訳が待つ。

 

兵士は自分で続けた。

 

「飛行機が来る。撃つ。車が道路から出る。止まる。戻す。壊れた車をどける。また飛行機が来る」

 

少し休む。

 

「それだけでも遅れる」

 

通訳は後ろにいた将校を見る。

 

将校も何も言わなかった。

 

捕虜の説明は、妙に納得できた。

 

車列を壊滅させる必要はない。

 

道路を完全に破壊する必要もない。

 

一度止まらせれば、その後に仕事が生まれる。

 

散った車列を戻す。

 

負傷者を運ぶ。

 

車両を牽引する。

 

積荷を移す。

 

対空警戒をする。

 

そして、空へ撃った弾薬を補充する。

 

どれも一つだけなら、小さな問題だった。

 

小さな問題が毎日、何度も起きている。

 

それだけだった。

 

---

 

同じ頃。

 

Tur一機が前線近くを飛んでいた。

 

任務は補給だった。

 

孤立しかけている部隊へ、小銃弾、医療品、無線機用の部品、それに命令書を届ける。

 

大きな輸送機ほど積めるわけではない。

 

だが、道路が使えない場所へ今必要なものを少量届けるには役に立つ。

 

Turは低空へ降り、友軍陣地の後方へ荷を落とした。

 

地上の兵士たちが走る。

 

箱を拾う。

 

袋を拾う。

 

無線部品を持った兵士が、その場で中身を確かめている。

 

後席銃手がそれを見た。

 

「受け取りました」

 

操縦士も一瞬だけ地上を見る。

 

「なら帰る」

 

Turは東へ向きを変えた。

 

その途中。

 

小さな道路が見えた。

 

ドイツ軍の車列。

 

大規模ではない。

 

トラック数台。

 

オートバイ。

 

後ろに牽引車。

 

後席が聞いた。

 

「行きますか」

 

操縦士は少しだけ考えた。

 

戦闘機は見えない。

 

地上射撃も少なそうに見える。

 

「一回だけ」

 

Turが低空へ入った。

 

前方四門が短く火を噴く。

 

道路脇へ弾が走り、先頭近くのトラックが急停止した。

 

兵士が散る。

 

機関銃が上を向く。

 

Turはそのまま抜ける。

 

本来なら、そこで終わりだった。

 

昨日までに何度も言われている。

 

一度で帰れ。

 

追うな。

 

欲張るな。

 

操縦士は一度後ろを見た。

 

地上射撃は薄い。

 

戦闘機もいない。

 

止まった車列はまだ見える。

 

後席が先に言った。

 

「帰りましょう」

 

操縦士は数秒だけ黙った。

 

「もう一回」

 

後席の返事が遅れた。

 

「さっき一回だけって」

 

「分かってる」

 

「だったら」

 

「今ならいける」

 

Turが旋回する。

 

地上では、今度は兵士たちが完全に待っていた。

 

一度目の攻撃で指定機関銃が位置を取っている。

 

さらに何人かの兵士が命令を無視して小銃を構えていた。

 

Turが進入する。

 

地上から射撃が始まる。

 

一発。

 

二発。

 

機体の周囲を弾が抜ける。

 

操縦士はそのまま機首を向けた。

 

十一ミリを撃つ。

 

道路が跳ねる。

 

その直後。

 

右側で大きな音がした。

 

機体が震えた。

 

計器の針が動く。

 

後席が叫ぶ。

 

「右発動機から煙!」

 

操縦士はすぐに攻撃を中止した。

 

「帰る!」

 

今度は迷わない。

 

Turは低空のまま東へ向かう。

 

右発動機の回転が不安定になっていた。

 

油圧も落ちていく。

 

後席が何度も振り返る。

 

「追撃なし!」

 

「右は」

 

「煙が増えてます」

 

操縦士は前方を見ながら、基地までの距離を頭の中で計算した。

 

遠い。

 

この状態で農場飛行場まで戻るのは危険だった。

 

もっと近い場所に友軍地域がある。

 

平坦な草地も見える。

 

「基地まで行かない」

 

後席がすぐ理解した。

 

「下ろしますか」

 

「あの草地」

 

「友軍います」

 

「ならちょうどいい」

 

右発動機を止める。

 

機体の振動が少し変わった。

 

片側だけでも飛ぶ。

 

高度を失いながら、Turは草地へ向かった。

 

地上のポーランド兵が、低く近づく双発機を見つけて走り出す。

 

Turの脚が草へ触れた。

 

一度跳ねる。

 

もう一度接地する。

 

機体が少し右へ流れ、右翼端が草を大きく削った。

 

主脚の片側が耐えきれずに曲がる。

 

Turは斜めになりながら数十メートル滑り、ようやく止まった。

 

地上の兵士たちが駆け寄る。

 

「火は!」

 

後席銃手が先に顔を出した。

 

「今のところない!」

 

操縦士も風防を開ける。

 

「右発動機を見てくれ!」

 

兵士の中に整備経験のある男がいた。

 

煙は出ている。

 

燃料の匂いもする。

 

だが大きな火災にはなっていない。

 

搭乗員二人が機体から降りた。

 

操縦士は数歩離れてから振り返った。

 

右翼。

 

主脚。

 

右発動機。

 

胴体の弾痕。

 

今すぐ再離陸できる状態ではないことは、航空機に詳しくない者でも分かった。

 

近くにいた歩兵将校が聞いた。

 

「飛ばせるか」

 

操縦士は機体を見たまま答えた。

 

「ここでは無理です」

 

「回収は」

 

「機体ごとは簡単じゃないでしょう」

 

将校も周囲を見る。

 

前線は遠くない。

 

いつまでこの場所が友軍側であるかも分からない。

 

操縦士は少し考えてから言った。

 

「整備兵を呼べますか」

 

「やってみる」

 

「使えるものだけでも持っていきたい」

 

将校がTurを見る。

 

「まだ使えるものがあるのか」

 

操縦士は少し笑った。

 

「飛行機が飛べないだけです」

 

---

 

それからしばらくして。

 

W印の猫車を押した整備兵が二人やってきた。

 

一台には工具。

 

もう一台には空の箱や布。

 

さらに後ろから、歩兵がもう一台押している。

 

この辺りではすでに、WILK製の手押し車を説明する必要はなかった。

 

壊れにくい。

 

重い物も載る。

 

多少乱暴に扱っても車輪が外れにくい。

 

それだけで、戦場では十分役に立つ。

 

整備兵はTurの周りを一周した。

 

右発動機を確認する。

 

主脚を見る。

 

翼の損傷を見る。

 

胴体の弾痕も確認した。

 

操縦士が聞く。

 

「どうだ」

 

整備兵はしゃがんだまま答えた。

 

「ここで飛ばすのは無理だ」

 

「後ろへ引ければ」

 

「設備があれば直せる可能性はある。ただ、今この機体をそのまま運ぶ手段がない」

 

歩兵将校が聞いた。

 

「では置いていく?」

 

整備兵は立ち上がり、機体を見た。

 

「全部は置かない」

 

まず無線。

 

次に弾薬。

 

持ち運べる計器。

 

工具。

 

その他、現場で外せる範囲の部品。

 

航空機用の十一ミリ火器も、回収できるものは持っていく。

 

整備兵は歩兵将校へ言った。

 

「これは航空機としては今日は終わりです。でも中にあるものまで全部死んだわけじゃない」

 

将校が頷いた。

 

「必要な人を出す」

 

作業が始まった。

 

兵士が猫車を押す。

 

整備兵が外した装備を積む。

 

弾薬箱が重ねられる。

 

無線機も載る。

 

操縦士と後席銃手も手伝った。

 

しばらくすると、猫車はすっかり重くなった。

 

歩兵の一人が押しながら言う。

 

「飛行機を持って帰るって、もっと大きい物だと思ってた」

 

整備兵が答える。

 

「飛行機そのものは置いていくかもしれん」

 

「じゃあ何を持って帰ってるんです」

 

整備兵は猫車の上を指した。

 

「まだ使えるところ」

 

兵士は少し考えた。

 

「なるほど」

 

それから重い猫車を押し直した。

 

「でも重いな」

 

「飛行機だからな」

 

「飛んで帰ってほしかった」

 

後ろから操縦士が言った。

 

「俺もそう思う」

 

---

 

夕方。

 

回収した装備が後方へ運ばれていく途中。

 

一台のW印の猫車には弾薬箱と工具、迷彩用に切った枝、それに水が載っていた。

 

歩兵二人が休憩している。

 

一人は射撃が上手い。

 

もう一人は双眼鏡を持っていた。

 

射手が猫車の荷へ肘を置き、何気なく前方を見た。

 

「これ、具合いいな」

 

観測役が聞く。

 

「何が」

 

「高さ」

 

双眼鏡を覗いていた男が少し笑った。

 

「荷車を射撃台にするなよ」

 

「置いてあるんだから使うだけだ」

 

しばらくして、遠くで敵兵らしい人影が動いた。

 

観測役が位置を伝える。

 

射手は猫車の上へ身体を預けたまま、一発だけ撃った。

 

結果は二人にもよく分からない。

 

すぐにその場から離れる。

 

猫車には再び弾薬と工具と水が載ったまま、普通に前線後方へ押されていった。

 

誰もそれを新しい兵器だとは思わなかった。

 

便利な物がそこにあったから使った。

 

戦場では、それだけで十分だった。

 

---

 

夜。

 

WILK本社。

 

今日の損失報告が一枚、机の上へ置かれた。

 

ポーランド軍将校が読み上げる。

 

「Tur一機。前線近くへ不時着。搭乗員二名は生存」

 

元ドイツ軍技術者がすぐに聞いた。

 

「火災は」

 

「なし」

 

「機体は」

 

「飛行不能。現地からの回収は困難」

 

技術者の顔が少し険しくなった。

 

「敵に取られる可能性は」

 

「ある」

 

「装備は」

 

「回収できるものから運び出している」

 

そこで元白軍将校が報告書を取った。

 

「十一ミリ、弾薬、無線、計器。搭乗員も帰る」

 

元ドイツ軍技術者は黙っている。

 

元独立運動家が横から覗いた。

 

「猫車で運んだのか」

 

「そうらしい」

 

元白軍将校が笑った。

 

「またWのやつか」

 

技術者が顔を上げる。

 

「正式な型式がある」

 

ユダヤ人実業家が聞いた。

 

「何だった」

 

技術者は一瞬黙った。

 

元白軍将校が笑いを堪える。

 

「お前もすぐ出てこないじゃないか」

 

「番号なら分かる」

 

「前線では誰も番号で呼ばんだろ」

 

ポーランド軍将校が別の紙を見ながら言った。

 

「前線では『Wの猫車』で通じるらしい」

 

元独立運動家が少し笑う。

 

「うちの飛行機より呼びやすいな」

 

「それは認めん」

 

元ドイツ軍技術者はそう言ったが、声にはそれほど力がなかった。

 

彼はもう一度、損失報告へ目を落とした。

 

機体は飛べない。

 

このまま置けば、失われる可能性は高い。

 

それでも搭乗員は生きている。

 

無線も戻る。

 

火器も一部戻る。

 

部品も戻る。

 

何より、同じ操縦士と後席銃手は、別の機体があればまた飛べる。

 

ユダヤ人実業家が机の上の報告書を指した。

 

「全損になってる」

 

元ドイツ軍技術者が見る。

 

損失区分。

 

全損。

 

おそらく現場から上がった時点でそう記入されたのだろう。

 

元白軍将校が聞く。

 

「違うのか」

 

技術者はすぐには答えなかった。

 

鉛筆を取り、回収装備の欄をもう一度確認する。

 

それから赤鉛筆へ持ち替えた。

 

「航空機としては失った」

 

「なら全損だろ」

 

「機体はな」

 

元白軍将校は、その言葉の意味を理解して黙った。

 

技術者は「全損」の文字へ一本線を引いた。

 

その横へ新しく書く。

 

機体喪失。

 

搭乗員生存。

 

装備一部回収。

 

書き終えると、紙をポーランド軍将校へ戻した。

 

「これでいい」

 

ポーランド軍将校は訂正された欄を見た。

 

「細かいな」

 

元ドイツ軍技術者は椅子へ座り直した。

 

「会社というのは、細かいものを数えるところだ」

 

元白軍将校が笑った。

 

「戦争中でも?」

 

「戦争中だからだ」

 

それ以上の説明は必要なかった。

 

---

 

同じ夜。

 

前線近くの野営地では、不時着したTurの操縦士と後席銃手が、遅い夕食を取っていた。

 

二人とも大きな怪我はない。

 

後席銃手がパンをちぎりながら言う。

 

「機体、置いてくることになりそうですね」

 

操縦士は少し黙ってから頷いた。

 

「ああ」

 

「長く乗ってたんですか」

 

「俺より年上だ」

 

「それは言い過ぎでしょう」

 

「登録はかなり古い」

 

後席銃手は笑った。

 

「中身はほとんど新品だったじゃないですか」

 

「何度も直してるからな」

 

「帰れませんでしたね」

 

操縦士はパンを口へ入れ、しばらく噛んだ。

 

「俺たちは帰った」

 

後席銃手が顔を上げる。

 

操縦士は少し離れた場所を見る。

 

そこには、今日Turから外された装備を積んだ猫車が置かれていた。

 

明日の朝には、また別の場所へ運ばれる。

 

後席銃手もそれを見る。

 

「そうですね」

 

二人はそのまま食事を続けた。

 

翌日になれば、別の仕事が来る。

 

別の機体に乗るかもしれない。

 

しばらく地上勤務になるかもしれない。

 

それはまだ分からない。

 

少なくとも今夜。

 

飛行機は一機減った。

 

搭乗員は二人とも残った。

 

そして、猫車の上には、まだ使えるものが積まれていた。

 

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