――ポーランド軍航空部隊 九月十九日付 移動に関する通達抜粋
飛行可能機を、現在地のみを基準として運用してはならない。
継続戦闘に必要な機体を残しつつ、国外移動可能な機体については搭乗員、整備員および必要最小限の補用品とともに移動準備を進めること。
損傷機については、完全な修復を待つ必要はない。
飛行に必要な状態まで復旧できる場合は、その状態をもって移動可能と判断する。
燃料、弾薬、工具その他については、一機ごとの完全装備を目指すのではなく、到着後の再編成を前提として配分すること。
航空機を残すために搭乗員を残してはならない。
搭乗員を残すために航空機を失う必要もない。
可能なものは飛ばせ。
飛べないものからは、人を出せ。
一九三九年九月十九日。
夜明け前から、WILK本社の玄関には車が出入りしていた。
昨日までなら、五人のうち誰かが会議室へ戻ってくるたびに新しい報告が増え、全員が揃う時間を待って次の判断を下していた。
今朝、その習慣は初めて崩れた。
ユダヤ人実業家の席には、前夜に確認していた船舶一覧だけが残っている。本人はまだ暗いうちに港側へ向かい、途中の支社と倉庫を回りながら、船会社、銀行、受け入れ先との連絡を続ける予定だった。
元ドイツ軍技術者も夜明けを待たず工場班と出た。工作機械そのものより、測定具と変更記録と、それを読める人間をどこへ分けるかを最後まで確認するためだった。
元独立運動家は居住区へ戻り、家族班と合流している。
残った二人のうち、ポーランド軍将校は軍との連絡を続けていた。
もう一人。
元白軍将校は、予定通りなら北西側の移動班へ合流しているはずだった。
ポーランド軍将校は、その「予定通りなら」という部分について深く考えないことにした。
今は考える仕事が多すぎる。
電話が鳴った。
受話器を取る。
「はい」
航空部隊からだった。
飛行可能機の数。
修理可能機の数。
燃料。
搭乗員。
そして国外移動に回せる機体。
ポーランド軍将校は数字を書き取りながら尋ねた。
「Turは?」
『現時点で移動候補六機。今日中に二機増える可能性があります』
「Bizon」
『三機。四機目は右発動機の点検次第です』
「前線用を削ってないだろうな」
電話の向こうで少し間があった。
『削らなければ、国外へ出せるものがありません』
ポーランド軍将校は鉛筆を止めた。
「そうだな」
『どうします』
机の上には昨日までの戦況図が残っている。
西でも戦っている。
東でも戦っている。
空でも、まだ飛んでいる。
一機でも多く前線へ出したい。
だが、その一機が明日になれば敵の手に落ちるかもしれない。
「予定通り分けろ」
『前線から文句が来ます』
「俺の名前を出せ」
『よろしいので?』
「そのためにまだここにいる」
受話器を置いた。
以前なら、航空機をどこへ送るかという相談は、どの戦線で必要かという意味だった。
今は違う。
どの機体を国外へ出し、どの機体を最後まで国内に残すか。
同じ「配置」という言葉なのに、内容がまるで変わっていた。
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午前。
例の農場には、普段より多くの航空機が集まり始めていた。
一斉に飛んでくるわけではない。
二機来て、一機出る。
しばらくして三機来て、別の二機が燃料を受け取って飛び立つ。
農場そのものを目立たせないため、機体は納屋の陰や木立の近くへ分けられ、草地に並べられることもなかった。
農場主の老人は、やって来る機体の数を見ながら不機嫌そうだった。
「増えすぎだ」
整備兵がTurの車輪を確認しながら答える。
「すぐ減りますよ」
「そういう意味じゃない。地面が痛む」
「そこですか」
「俺の畑だぞ」
その会話の横を、一機のP.11がゆっくり移動していく。
翼には修理跡があり、胴体にも新しい板が当てられていた。
老人は目を細めた。
「あれも行くのか」
「南へ回すそうです」
「外国?」
「たぶん」
老人はしばらく機体を見送った。
「帰ってくるのか」
整備兵は工具箱を閉じた。
「分かりません」
「お前も?」
「分かりません」
老人は鼻を鳴らした。
「分からんことばっかりだな」
整備兵が笑う。
「戦争始まってから、だいたいそうですよ」
そこへ一機のTurが降りてきた。
着陸してから停止するまでが、いつもより少し長い。
老人はすぐに気づいた。
「右脚か」
整備兵も走り出した。
Turが止まり、風防が開く。
降りてきたのはポーランド軍将校の長男だった。
「右じゃないです。ブレーキが甘い」
老人が答える。
「じゃあ右脚より面倒だな」
「どういう理屈です」
「脚なら見える」
長男は苦笑しながら機体から降りた。
整備兵が近寄ってくる。
「どうだった」
「西の連絡は終わった。帰りに一人拾った」
後席から若い通信兵が降りてくる。
制服は泥だらけで、左腕には包帯が巻かれていた。
整備兵が見る。
「負傷者?」
「歩ける」
通信兵本人が答えた。
「無線も打てます」
農場主が言う。
「なら怪我人じゃないのか」
通信兵は少し迷った。
「怪我人ではあります」
「面倒だな、軍人は」
長男が笑った。
「それ昨日も言ってましたよ」
老人は無視した。
航空士官が紙を持って近づいてくる。
長男はその顔を見るだけで嫌な予感がした。
「また西ですか」
「違う」
紙を渡される。
長男が読む。
そこには機体番号と搭乗員名、そして移動先が記されていた。
国外移動準備。
長男はもう一度読んだ。
「このTurが?」
「そうだ」
「まだ飛べます」
「だからだ」
長男は紙から顔を上げた。
「今日の任務は」
「なし。整備後、移動班へ編入する」
「前線は」
「別の機体が行く」
長男は反射的にTurを振り返った。
この機体で何日も飛んだ。
弾薬を運び、負傷者を乗せ、命令書を運び、地上を撃ち、追われれば逃げた。
傷が増えるたびに誰かが塞ぎ、また飛んだ。
「まだ使えます」
航空士官は怒らなかった。
「だから国外へ出す」
同じ言葉を二度言われて、長男はようやく黙った。
これまで「使える」という言葉は、戦場へ戻す理由だった。
今日からは、戦場の外へ出す理由にもなる。
航空士官が続けた。
「お前も移動候補だ」
「自分も?」
「ああ」
「父は知ってますか」
「命令系統上は承認されている」
「そうじゃなくて」
航空士官は少しだけ笑った。
「父親として知ってるか、か?」
長男は答えなかった。
「知らん。だが、お前の名前を消せとは言ってこなかった」
それで十分だった。
農場の隅で、整備兵たちがTurを囲んだ。
完全に直す時間はない。
右側のブレーキを調整し、油漏れを確認し、機体の補修部分をもう一度叩いて見る。
無線。
燃料。
工具。
予備部品。
積める量には限界がある。
若い整備兵が木箱を持ってきた。
「予備点火栓、一箱」
年長の整備兵が首を振る。
「半分でいい」
「向こうで足りなくなったら?」
「別の機体にも積む」
「一箱くらい」
「一機に全部積んで、その一機が落ちたら全部なくなる」
若い整備兵は箱を見てから、中身を半分取り出した。
隣では工具も同じように分けられている。
一式を一機に載せない。
同じ種類の工具を三機へ分ける。
機体だけでなく、その先でもう一度飛ばすための道具まで散らしていく。
農場主がその様子を眺めていた。
「ずいぶん細かく分けるな」
整備兵が答えた。
「うちの会社の病気です」
「軍だろ」
「元は会社の飛行機です」
老人は少し考えた。
「なら病気でいいか」
誰も否定しなかった。
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同じ頃。
工場へ向かう道路で、元ドイツ軍技術者はトラックの荷台を三度目に確認していた。
運転手が呆れている。
「さっき見ましたよ」
「さっきと今で荷物が変わっていない保証はない」
「誰が走ってる車から持っていくんです」
「落ちる可能性がある」
「縛ってあります」
「縛った人間を信用する理由は?」
運転手は前を向いた。
「先生、自分で縛ったでしょう」
元ドイツ軍技術者は黙った。
荷台には大きな工作機械はない。
測定具。
ゲージ。
変更記録の一部。
小型の治具。
そして、それらを使う技術者が乗っている。
十年前なら、彼は機械を置いていくなど考えもしなかった。
今でも置いていきたいわけではない。
ただし、国外に工場がある。
別の工作機械がある。
図面もある。
そして何より、再び作り方を教えられる人間がいる。
助手席の若い技術者が聞いた。
「本当に工場を離れるんですね」
元ドイツ軍技術者は窓の外を見た。
「工場は建物ではない」
若い技術者が驚いた顔をした。
元ドイツ軍技術者は続ける。
「工作機械を動かす人間と、その人間を翌朝もう一度工場へ来させる生活全体が工場だ。建物だけ残しても意味がない」
「では、国外へ行けば」
「また工場を作る」
「一から?」
「一からではない」
元ドイツ軍技術者は荷台を親指で示した。
「持っている」
若い技術者は後ろを見た。
荷物は、思っていたより少ない。
だが、その横には技術者が何人も座っている。
「なるほど」
「何がだ」
「先生が機械より人を先に持ち出すとは思いませんでした」
元ドイツ軍技術者が睨んだ。
「次に降ろすぞ」
「国外で働く人間が一人減ります」
「……よく覚えているな」
「先生に教わりました」
元ドイツ軍技術者は、それ以上何も言わなかった。
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午後。
港へ向かう途中の事務所で、ユダヤ人実業家は電話を三本並べて使っていた。
一本は国内。
一本は国外回線。
一本は港側。
机には船名と積載量、現在位置、船主、船籍、それに乗船予定人数が書かれた紙が広げられている。
「だから一隻に増やすな」
電話の向こうで何か言われる。
「空席があるからではない。空席は次の港で使う」
別の電話が鳴る。
「はい」
今度はスウェーデン側。
英語で短く話し、紙に数字を書き込む。
電話を置く前に確認する。
「軍人ではない。社員と家族が中心だ。航空関係者については別途連絡する」
さらに三本目。
「何人だ」
返事を聞いた実業家の眉が動く。
「増えた?」
椅子の背にもたれた。
「どこからだ」
答えを聞く。
社員ではない。
協力企業の家族。
それに、途中で合流した避難民。
「名簿は」
『あります』
「子供は」
『二十七人』
「老人」
『九人』
実業家は目を閉じた。
船には余裕がない。
しかし、数字だけを削れば済む話でもない。
「第一船には載せるな。第二船へ十三。第三船へ残りを分けろ」
『第三船はまだ確定していません』
「確定させる」
『無理なら?』
「別の船を探す」
『時間がありません』
実業家は一度だけ机を指で叩いた。
「だから今探している」
電話を切る。
隣にいた社員が恐る恐る聞いた。
「また増えましたか」
「増えた」
「船は」
「増えてない」
社員は黙った。
実業家は次の電話番号を探した。
「だから船を増やす」
「そんな簡単に」
「簡単ならお前に任せている」
社員が苦笑した。
実業家は受話器を取った。
今度は、以前取引したことのある船主へつなぐ。
電話が通じるまでの短い間に、彼は机の上の名簿を見た。
会社ではない。
まだ帰ってきていない者の会社。
昔、自分でそう言った。
今は、その「まだ帰ってきていない者」が多すぎた。
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夕方。
農場では、国外移動候補となった航空機への燃料補給が続いていた。
長男はTurのそばに座り、紙を読んでいた。
最初の移動先は、まだ国外ではない。
別の臨時飛行場。
そこからさらに南へ回る。
最終的にどの国境を越えるのかは、状況を見て決める。
農場主の老人が横へ来た。
「行くのか」
「まだです」
「紙に書いてある」
「今日じゃありません」
老人は長男の持っている紙を覗こうとした。
「読めるんですか」
「字くらい読める」
「軍の書類ですよ」
「じゃあ見ない」
そう言いながら、老人はしっかり見ていた。
長男は紙を畳んだ。
「明日かもしれません」
「外国へ?」
「たぶん」
老人はしばらく黙った。
長男が聞く。
「何です」
「牛をどうするか考えてる」
「牛?」
「お前らが全部出て行ったら、ここも危ないんだろ」
長男は答えに詰まった。
老人は農場の方を見た。
牛舎。
納屋。
家。
草地。
今では航空機の離着陸跡まで残っている。
「娘と孫はもう出した」
「あなたも行ってください」
老人はすぐに首を振った。
「牛がいる」
「牛よりあなたでしょう」
「牛に聞いたか」
「聞いてません」
「なら勝手に決めるな」
長男はため息をついた。
「父と同じくらい面倒ですね」
老人は少し嬉しそうだった。
「褒めても何も出んぞ」
「褒めてません」
遠くで発動機が始動した。
一機のP.11が草地へ向かう。
その後ろでは、Turの乗員が荷物を積んでいる。
戦闘へ向かう機体。
別の飛行場へ移る機体。
国外へ出る準備をする機体。
同じ農場から、違う目的で飛んでいく。
老人は空へ上がったP.11を見ながら言った。
「飛行機ってのは、帰ってくるもんじゃないのか」
長男も空を見る。
「普通はそうですね」
「じゃあ外国へ行ったら、どこへ帰る」
長男はすぐには答えられなかった。
自宅はある。
家族は国外へ出た。
父はまだ国内にいる。
部隊は移動を始めた。
そして、この農場さえ明日使える保証はない。
「帰れる場所を作るんじゃないですか」
老人が長男を見る。
「向こうで?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「今は、それしか言えません」
老人はまた空へ目を戻した。
「なら、生きてる方が先だな」
長男は頷いた。
その言葉だけは、たぶんではなかった。
---
夜。
WILK本社の会議室には、もう五人分の気配はなかった。
ポーランド軍将校が一人で入ると、机の上に数枚の報告書が置かれていた。
ユダヤ人実業家。
港側へ到着予定。
元ドイツ軍技術者。
第一工場班と合流。
元独立運動家。
家族輸送班を二群に分割。
元白軍将校。
北西移動班と合流予定。
最後の一枚だけ、現在位置の確認欄が空白だった。
ポーランド軍将校はそれを見た。
元白軍将校。
合流予定。
まだ予定時刻を少し過ぎただけだった。
紙を戻す。
電話が鳴った。
航空部隊からだ。
『国外移動候補、追加三機です』
「状態は」
『一機は無線不調。飛行には問題なし。二機目は脚の補修済み。三機目は発動機に若干の油漏れがありますが、短距離なら飛ばせます』
「完全修理を待つな」
『分かっています』
「搭乗員は?」
『確保しました。整備員も分散して乗せます』
ポーランド軍将校は昨日の通達を思い出した。
壊れても帰れる。
WILKが航空機を作り始めた頃から、何度となく使われてきた言葉だった。
被弾しても。
片方の発動機が止まっても。
脚を傷めても。
帰ってくる。
だが今は、その言葉をそのまま使えない。
帰る飛行場そのものが消えていく。
帰る部隊も移動している。
国境さえ、明日どうなるか分からない。
「飛ばせ」
電話の向こうで確認される。
『国外へですか』
ポーランド軍将校は机の上の地図を見た。
「まず次の飛行場へ。そこから先は、その時の命令に従わせろ」
『了解』
受話器を置こうとして、少し考えた。
「待て」
『はい』
「搭乗員に伝えろ」
『何を』
ポーランド軍将校は、しばらく言葉を探した。
「帰る場所が決まってなくても、飛べとな」
電話の向こうで、ごく短い沈黙があった。
『了解しました』
通話が切れた。
会議室は静かだった。
昨日までなら、誰かがその言葉に文句をつけただろう。
元ドイツ軍技術者なら「飛行計画として曖昧すぎる」と言い、ユダヤ人実業家なら到着後の費用を聞き、元独立運動家なら搭乗員の家族について確認し、元白軍将校なら余計な一言を足したに違いない。
今夜は誰もいない。
ポーランド軍将校は椅子へ座り、次の報告書を開いた。
その頃、各地の草地や畑や臨時飛行場では、整備を終えた航空機が一機ずつ次の場所へ移っていた。
前線へ向かう機体もある。
南へ向かう機体もある。
人を拾うために飛ぶ機体もある。
そして初めて、ポーランドへ戻る予定を持たずに離陸する機体もあった。
それでも発動機の音は変わらない。
滑走の仕方も変わらない。
地面を離れる瞬間も変わらない。
変わったのは、その先だった。