使用継続が困難となった臨時飛行場については、航空機、搭乗員、整備員、通信要員その他必要人員を順次移動させること。
離陸可能な機体は、積載量の許す範囲で人員、工具、医療品、通信機材その他再使用可能な物資を輸送する。
飛行不能機については、使用可能部品を回収する。
ただし、回収作業のために移動を遅らせてはならない。
現地協力者については、本人の意思を確認しつつ可能な限り避難を勧告すること。
家畜および農場設備の処置は現地所有者の判断による。
航空隊は、飛行場を守るために残ってはならない。
一九三九年九月二十日。
朝。
農場主の老人は、牛舎の扉を開けていた。
普段なら一頭ずつ外へ出す。
その日は違った。
全部開けた。
牛たちはすぐには動かなかった。
いつもの時間ではない。
いつもの順番でもない。
老人が杖で地面を叩く。
「ほら、行け」
一頭が外へ出た。
それを見て、残りもゆっくり続いた。
鶏小屋も開けた。
豚囲いも外した。
農場の犬だけは、老人のそばを離れなかった。
「お前は勝手にしろ」
犬は座った。
老人は舌打ちした。
遠くで発動機が鳴っている。
昨日より少ない。
それでも、まだ航空機はいた。
Turが二機。
小型機が一機。
格納庫代わりの納屋には、すでに使える部品を抜かれた機体が一機残っている。
それを囲んでいた整備兵たちは、もう修理していなかった。
無線機。
計器。
使える配線。
予備部品。
工具。
回収できるものだけを猫車に積んでいく。
昨日までなら、その猫車は機体を飛ばすために使われていた。
今日は、ここから持ち出すために使われている。
農場主はその様子をしばらく見てから、家へ戻った。
玄関には荷物が置かれていない。
娘と孫は、もういない。
数日前に出した。
衣服も。
写真も。
家族の物も。
持たせられるものは持たせた。
自分のものだけが残っている。
老人は台所へ入り、椅子へ座った。
棚の上の瓶を見る。
酒。
まだ残っている。
「飲むには早いな」
犬が入ってきた。
「お前にはやらんぞ」
犬は老人の足元へ伏せた。
外で誰かが叫んだ。
「おーい!」
老人は顔をしかめた。
聞き慣れた声だった。
ポーランド軍将校の長男が、家の前まで来ていた。
「何だ」
「出発です」
「そうか」
「あなたも準備してください」
老人は返事をしなかった。
長男が玄関へ入る。
老人は椅子に座ったまま。
荷物もない。
上着すら着ていない。
長男は嫌な予感がした。
「準備は?」
「終わった」
「どこがです」
「牛を出した。鶏も出した。豚も出した」
「あなたの準備です」
「俺は残る」
長男は目を閉じた。
予想通りだった。
「昨日、話しましたよね」
「話したな」
「避難してください」
「断った」
「今日はお願いじゃありません」
老人が眉を上げた。
「命令か?」
「軍人じゃないあなたに命令はできません」
「なら残る」
長男は椅子を引いて老人の正面へ座った。
「ここ、もう飛行場として使えません」
「農場として使う」
「戦線が来ます」
「来たら来たでどうにかする」
「どうやって」
「昔から戦争は来る」
「だからって」
「お前らが来る前からここに住んでる」
長男は黙った。
老人は続ける。
「この家も、畑も、牛も、俺が知ってる。どこに井戸があって、どこの土が柔らかくて、どこに石が埋まってるかも知ってる」
長男は少し困った顔をした。
「だから避難して、また戻ってきてください」
老人は笑った。
「戻れるのか?」
その言葉だけは、長男にすぐ返せなかった。
老人はそれを見逃さなかった。
「ほら」
「戻れなくても、生きていれば」
「外国で何する」
「何でもできます」
「牛の世話か?」
「牛がいれば」
「俺の牛はここにいる」
長男はまた黙った。
犬が二人の間を見ている。
しばらくして長男は立ち上がった。
「分かりました」
老人が少し意外そうな顔をした。
「諦めたか」
「はい」
「物分かりがいいな」
「出発まで少し時間があります」
長男は玄関へ向かった。
老人が背中へ言う。
「飛行機、ちゃんと上げろよ」
長男は振り返らず手を上げた。
「もちろんです」
外へ出ると、整備兵が待っていた。
「どうでした」
長男は小声で答えた。
「残るそうだ」
「やっぱり」
「酒、まだあったよな」
整備兵が長男を見る。
「ありますけど」
「持ってこい」
「何するんです」
長男は農家の玄関を見た。
「説得する」
整備兵は一瞬考えた。
「それ、説得ですか」
「軍では柔軟に言葉を使う」
「親父さんそっくりになってきましたね」
長男は嫌そうな顔をした。
「それだけは言うな」
---
同じ朝。
別の道路を、元独立運動家の一行が移動していた。
車列は長くない。
長くならないように分けられている。
一台目には老人と子供。
二台目には社員家族。
三台目には医療品。
その後ろには別の家族。
元独立運動家は車に乗らず、停車するたびに名簿を持って歩いていた。
「次の車、あと何人乗れる」
運転手が答える。
「六人。ただし荷物を減らせば八人」
「減らす」
「何を」
「工具箱を後ろへ回す」
別の社員が言う。
「後ろの車もいっぱいです」
「じゃあ二台先」
「そこは子供が多いです」
元独立運動家は名簿を見る。
数字だけなら簡単だった。
人間を見ると簡単ではない。
家族を離すか。
荷物を捨てるか。
老人を歩かせるか。
子供を詰め込むか。
どれも数字の上では解決策になる。
どれも人間を見れば嫌になる。
「六人でいい」
「いいんですか」
「後ろの二人は別車へ回す。家族は分けるな」
社員が頷く。
そこへ別の車が止まった。
若い女が降りてくる。
「WILKの人ですか」
元独立運動家が振り返る。
「そうです」
「夫が社員です」
名前を聞く。
名簿を探す。
あった。
工場班。
すでに別経路で移動中。
「ご主人は工場側です」
女の顔が少し明るくなる。
「無事ですか」
元独立運動家は一瞬だけ迷った。
「移動班に名前があります」
それ以上は言えなかった。
無事という言葉は、今のポーランドではあまりにも早く古くなる。
女はそれでも頷いた。
「乗れますか」
「何人です」
「三人」
後ろに子供二人。
元独立運動家は車列を見る。
「乗れます」
本当は、まだ決まっていない。
しかし、決めた。
社員が小声で聞いた。
「どこへ」
「次の停車地で調整する」
「また増えますよ」
「増えるだろうな」
「船、大丈夫ですか」
元独立運動家は少しだけ笑った。
「船の心配は実業家に押し付けた」
社員も笑った。
「怒りますよ」
「仕事だからな」
車列が再び動き出した。
元独立運動家は最後の車に乗る前に、道路の後ろを見た。
本社のある方向。
もう見えない。
それでよかった。
戻るために止まっていたら、前へ進めない。
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午前。
工場では、元ドイツ軍技術者が最後の確認をしていた。
彼が設計に関わった機械。
彼が配置を決めた工作機械。
何度も改修した治具。
床に刻まれた傷。
油の匂い。
機械の音。
まだ動いている。
現場責任者が聞いた。
「本当に止めなくていいんですか」
「軍からの注文がある間は動かせ」
「いつまで」
「止めろという命令が来るか、材料がなくなるか、人がいなくなるまで」
「あなたは?」
「行く」
現場責任者は少し驚いたように見えた。
元ドイツ軍技術者が眉をひそめる。
「何だ」
「残ると言うかと思いました」
「なぜ」
「工場だから」
元ドイツ軍技術者は機械を見る。
「工場だから行く」
「逆では?」
「ここに私一人残って何になる」
現場責任者は黙った。
「国外には機械がある。図面がある。材料も買える。人間もいる。私が行けば、向こうでも作れる」
「ここは」
「ここは、お前たちが動かせる」
「我々も後で移動します」
「なら、それまで動かせ」
元ドイツ軍技術者は一台の機械へ手を置いた。
感傷的な別れではない。
動くか。
動かないか。
その確認だった。
「主軸、少し音が変だ」
現場責任者が苦笑した。
「最後までそれですか」
「最後ではない」
元ドイツ軍技術者は手を離した。
「次に会った時も言う」
その言葉を残して、工場を出た。
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昼前。
農場では最後の積み込みが始まっていた。
飛行可能なTur二機に、乗員以外の人間を分ける。
整備員。
通信兵。
負傷者。
近くの部隊から来た兵士。
避難できずにいた民間人。
全員は無理だ。
だから何度も数える。
一人の整備兵が叫ぶ。
「重量、こっち多い!」
別の機体から荷物を移す。
弾薬箱を一つ降ろす。
代わりに医療品を載せる。
工具箱を半分に分ける。
無線部品を別機へ移す。
長男が搭乗表を確認する。
「この二人、どっちだ」
「二号機」
「二号機はもういっぱいだ」
「じゃあ一号機」
「一号機もだ」
負傷兵が言う。
「俺は降りる」
長男が顔を上げる。
「駄目だ」
「歩ける」
「歩いてどこへ行く」
「部隊へ戻る」
「部隊がもう移動してる」
負傷兵は黙った。
長男は搭乗表を書き換える。
「工具を降ろせ」
整備兵が顔をしかめる。
「どれ」
「大箱一つ」
「向こうで困ります」
「人間一人置いていくよりいい」
整備兵はすぐ箱を降ろした。
農場主の老人の姿だけがない。
長男は家の方向を見る。
「そろそろか」
整備兵が小さな瓶を持って戻ってくる。
「強いのありました」
「どのくらい」
「本人の酒です」
「なら効くだろ」
「本当にやるんですか」
「他に方法ある?」
整備兵は考えた。
「四人で担ぐ」
「最初からそれでいい気もするな」
二人で家へ向かった。
老人は台所にいた。
昼前なのに酒瓶が出ているのを見て、少し機嫌が良くなった。
「やっと分かったか」
長男が言う。
「何がです」
「出発前くらい一杯飲め」
「飛ぶので無理です」
「つまらん」
「あなたが飲んでください」
老人は瓶を見る。
「俺の酒じゃないか」
「そうですよ」
「勝手に持ち出したな」
「返しました」
老人は睨んだ。
「減ってる」
整備兵が目を逸らした。
「味見です」
「泥棒」
「戦時徴用です」
長男が吹き出した。
老人は杯を出した。
一杯。
飲む。
もう一杯。
整備兵が注ぐ。
老人が飲む。
「お前ら、今日は気前がいいな」
長男が答える。
「最後ですから」
老人は少しだけ表情を変えた。
だが、すぐに飲んだ。
三杯。
四杯。
「いい酒だ」
「あなたのです」
「知ってる」
しばらくして。
老人の声が大きくなった。
昔の話を始めた。
この土地を買った時。
最初の牛。
洪水。
不作。
戦争。
そして二十年ほど前、初めてWILKの飛行機がこの辺りへ来た時の話。
「あの時も、ひでえ着陸だった」
長男が聞く。
「Turですか」
「名前なんか知らん。今より古いやつだ」
「WILKの?」
「そうだ。畑へ降りて、泥だらけになって、それでもまた飛んでった」
老人は笑った。
「お前ら、昔から人んちの畑を飛行場にしやがる」
長男も笑った。
「お世話になりました」
「まだ終わってない」
その返事を聞いて、長男は少しだけ困った顔をした。
老人は立とうとした。
立てなかった。
「……おい」
整備兵が目配せする。
長男が言った。
「今です」
「何が今だ」
老人の両脇に二人が入る。
「おい」
持ち上げる。
「おい!」
老人が暴れた。
だが、酒が回っている。
足に力が入らない。
「離せ!」
「すみません!」
「何がすみませんだ!」
玄関へ運ぶ。
外には別の整備兵二人が待っていた。
「お前らもか!」
「人手が必要で」
「何の人手だ!」
四人で担ぐ。
農場主は完全に理解した。
「降ろせ!」
誰も降ろさない。
「俺は残ると言っただろうが!」
長男が前を歩きながら答える。
「聞きました!」
「なら降ろせ!」
「聞いただけです!」
「この野郎!」
犬が後ろからついてくる。
老人が叫ぶ。
「犬まで連れてくるな!」
犬は無視した。
Turの前まで来る。
老人が機体を見る。
「待て!」
四人が止まらない。
「待て待て待て!」
乗せる。
「俺は乗らん!」
「もう乗ってます!」
「降ろせ!」
「離陸したら無理です!」
「まだ離陸してない!」
整備兵が笑いを堪えている。
老人は長男を睨んだ。
「WILKめ……!」
長男は一瞬だけ考えた。
「自分、軍です」
老人は怒鳴った。
「元はWILKの飛行機だろうが!」
その通りだった。
反論できない。
犬まで後から押し込まれた。
老人が犬を見る。
「お前まで何で乗ってる!」
犬は座った。
「降りろ!」
降りない。
整備兵が搭乗口を閉めた。
農場主は窓越しに自分の家を見る。
牛舎。
納屋。
畑。
開いた柵。
歩き回る牛。
家の煙突。
何十年も見てきた景色。
長男は少し離れた場所から老人を見た。
もう叫ばない。
代わりに。
ずっと農場を見ている。
長男は何も言わなかった。
---
午後。
二機のTurが草地の端へ移動した。
一機ずつ離陸する。
先に一号機。
発動機を上げる。
走る。
草が倒れる。
地面の凹凸で機体が揺れる。
農場主が何度も怒鳴っていた場所。
農場主が毎朝地面を確認していた場所。
農場主が「北は柔らかい」「今日は南から出ろ」と言い続けた場所。
その草地から。
Turが浮いた。
二号機の中で老人が窓へ顔を寄せる。
一号機が旋回して待っている。
長男が二号機の操縦席から後ろを振り返った。
「大丈夫ですか!」
老人は答えない。
「聞こえますか!」
老人がようやく怒鳴った。
「誘拐だ!」
長男は笑った。
「聞こえてますね!」
「WILKに誘拐された!」
「軍です!」
「同じだ!」
その声に、機内の何人かが笑った。
負傷兵も。
整備兵も。
通信兵も。
笑った。
農場主は怒っている。
本当に怒っている。
それでも。
その笑いを止めようとはしなかった。
Turが走り始める。
老人は最後まで農場を見ていた。
車輪が地面を離れる。
家が下がる。
牛が小さくなる。
畑が一枚の色になる。
草地に残った離着陸の跡も、上空からはほとんど見えなくなる。
老人は窓へ手を置いた。
「戻れるかねぇ」
誰に言ったのか分からない。
長男には聞こえなかった。
隣の整備兵だけが聞いた。
「戻れますよ」
老人が見る。
整備兵は少し困った顔をした。
「たぶん」
老人は鼻で笑った。
「お前ら、そればっかりだな」
しばらくして、農場は見えなくなった。
---
同じ午後。
港側の倉庫で、ユダヤ人実業家は新しい電報を受け取っていた。
船が一隻増えた。
代わりに、別の船が遅れる。
乗船予定人数がまた増えた。
燃料の手配が一部崩れた。
それでも、一昨日より状況は進んでいる。
社員が聞いた。
「全員載せられますか」
ユダヤ人実業家は紙を見る。
「全員というのは誰だ」
「名簿の全員です」
「今日の名簿か?」
社員が黙る。
実業家が続ける。
「明日には増える」
「では」
「載せられるだけ載せる」
「残った人は?」
「次の道を探す」
「船がなくても?」
「船がなければ陸路だ」
社員は地図を見る。
「東も西も」
「分かっている」
ユダヤ人実業家は別の紙を取った。
「だから、道を一つにしなかった」
その時、新しい電報が入った。
航空隊。
複数機が国内の次期集結地へ移動。
人員も同時に輸送。
一機に農場主一名。
実業家が目を止めた。
「農場主?」
社員が紙を見る。
「協力者でしょうか」
実業家は少し考えた。
「たぶん、連れてきたんだろう」
「本人希望ですかね」
実業家は電報をもう一度見た。
「WILKの連中が本人希望だけで諦めると思うか?」
社員は何も言わなかった。
実業家は電報を机へ置いた。
「生きて着けばいい」
それで処理した。
---
夕方。
二機のTurは、次の臨時飛行場へ到着した。
そこにはすでに他の機体が集まっている。
P.11。
Tur。
Bizon。
数は多くない。
しかし、各地から一機ずつ。
二機ずつ。
まだ飛べるものが集まってくる。
農場主は機体から降ろされた。
足元がふらつく。
酒のせいか。
飛行のせいか。
本人にも分からない。
地面へ降りるなり長男を指差した。
「覚えてろ」
長男が敬礼した。
「はい」
「訴える」
「戦争が終わったらどうぞ」
「会社も訴える」
「自分、軍です」
「WILKもだ」
整備兵が横から言う。
「本当に会社も訴えるんですか」
老人は胸を張った。
「誘拐された」
犬が横で尻尾を振っている。
「お前も被害者だぞ」
犬は嬉しそうだった。
長男が笑った。
「元気そうで何よりです」
老人は怒鳴ろうとした。
その時。
飛行場の端に並ぶ航空機を見た。
整備兵が走り回っている。
工具箱。
燃料缶。
負傷者。
通信機。
荷物。
誰も止まっていない。
「また飛ぶのか」
長男が答える。
「飛べるものは」
老人がTurを見る。
「こいつも?」
「直せば」
「戦争は?」
長男は少しだけ黙った。
「続きます」
老人はTurの翼を見た。
自分の農場で何度も見た機体。
穴を塞がれ。
泥を落とされ。
荷物を積み。
人を乗せ。
また飛んだ。
老人は機体を軽く叩いた。
「なら直せ」
整備兵が笑った。
「はい」
その日の夜。
例の農場には、もう航空機はいなかった。
牛だけが畑の端を歩いていた。
開いた鶏小屋から何羽かが庭へ出ている。
家の扉は閉まっている。
納屋には、回収しきれなかった壊れた部品が少し残っていた。
草地には車輪の跡がある。
そこから。
二十年近く前にも。
飛行機が飛んだ。
そして今日。
また飛んだ。
今度は。
帰ってくるためではなかった。