> WILK関係者北西移動群について。
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> 当初指定経路――港湾方面。
> 指定目的――海路による国外移動。
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> 九月二十日以降、一部集団の経路逸脱を確認。
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> 当該集団の責任者について正式記録なし。
> 後年の証言では、元白軍将校が実質的に指揮していたとされる。
>
> 人員数――不詳。
>
> 備考。
>
> 移動開始時二十名前後。
> 以後、増加。
第194話 港へ行かなかった男
港へ行くはずだった。
少なくとも、朝までは。
街道脇に止まったトラックの前で、元白軍将校はしゃがみ込み、泥に半分埋もれた前輪を眺めていた。
運転手がその横で帽子を脱いでいる。
「駄目です」
「見れば分かる」
「軸が曲がっています」
「それも見れば分かる」
「予備部品はありません」
元白軍将校は立ち上がった。
「それも分かる」
運転手は黙った。
少し離れたところで若いWILK社員がため息をついた。
「それで、どうするんです?」
元白軍将校はトラックの荷台を見た。
「降ろせ」
「何を?」
「全部」
「全部?」
「動かないトラックを押して港まで行くつもりか」
誰も返事をしなかった。
トラックの後ろには、WILK社員とその家族、途中で合流した軍人、老人、子供、それから何故いるのか誰にも分からない犬がいた。
昨日までは二十一人だった。
朝になったら二十三人になっていた。
犬を含めるかどうかで数は変わる。
若い社員はそのことについて一度確認しようとしたが、元白軍将校から、
「歩けるなら一人でいい」
と言われ、それ以上聞くのをやめていた。
「荷物を分ける」
元白軍将校が言った。
「食料、水、薬、毛布、工具。残りは必要な物だけだ」
「必要の基準は?」
「持って歩けるか」
「それだけですか?」
「十分だ」
荷台が開かれた。
最初に出てきたのは工具箱。
次に帳簿箱。
その次が毛布。
パン袋。
鍋。
子供用の木馬。
そして大きな壁掛け時計。
元白軍将校が時計を見た。
「これは置いていけ」
途端に老人が前へ出た。
「待て!」
元白軍将校が見る。
「これは家に三十年あった時計だ!」
「重い」
「曾祖父の代からだ!」
「三十年じゃないのか」
「話の腰を折るな!」
若い社員が横を向いて笑いをこらえた。
老人は時計を抱いた。
「置いていけん」
「歩けなくなるぞ」
「それでもだ」
元白軍将校は老人を見る。
時計を見る。
また老人を見る。
「猫車の下に縛れ」
若い社員が思わず聞いた。
「いいんですか」
「本人が持つよりましだ」
「基準がどんどん曖昧になってません?」
「人間は曖昧だ」
「急に深いこと言わないでください」
荷物は次々に分けられた。
着替えは一人一組。
鍋は二つ。
食器は共同。
本は数冊だけ残した。
会計係が持ってきた書類箱は、元白軍将校が中身を確認して半分捨てた。
「これはいらん」
「必要な記録です」
「同じものが国外にある」
「これは?」
「写しがある」
「これは?」
「それは持て」
「違いは?」
「国外にない」
会計係は少し驚いた。
「知ってるんですか」
「聞いていた」
「誰から」
「昔からいると、嫌でも耳に入る」
元白軍将校は箱を閉めた。
その横では、W式猫車が三台並べられていた。
一台には工具。
一台には食料。
一台は空けた。
若い社員が聞く。
「これは?」
「怪我人用だ」
「今、怪我人いませんけど」
「そのうち出る」
「縁起でもないですね」
「戦争中だぞ」
それを言われると、誰も反論できなかった。
荷物の積み替えが終わりかけた頃、街道の向こうから人影が見えた。
最初に馬。
次に荷車。
その後ろに兵士が三人。
女性が四人。
老人。
子供。
そして足を引きずる男。
一行が自然に警戒した。
ポーランド兵の一人が銃へ手を伸ばしたが、元白軍将校が止めた。
向こうの兵士も同じように警戒している。
距離が縮まった。
先頭の兵士が敬礼する。
「西から来ました」
「見れば分かる」
若い社員が小声で言った。
「今日それ多いですね」
元白軍将校は聞かなかったことにした。
兵士は続けた。
「街道が塞がれています。橋も使えません。北へ抜けたいのですが、地図を失いました」
「人数は」
「十二人です」
「歩けるのは」
兵士が後ろを見る。
「十人」
「馬を扱える者」
老人が手を挙げた。
「できる」
「料理」
女性が一人手を挙げる。
「できます」
「怪我人の手当て」
別の女性が手を挙げた。
「少しなら」
元白軍将校はうなずいた。
「ついて来い」
兵士が固まった。
若い社員も固まった。
「ちょっと待ってください」
「何だ」
「今、二十三人ですよね」
「そうらしいな」
「十二人加わったら三十五人です」
元白軍将校は感心したように見た。
「計算できるじゃないか」
「そこじゃない!」
兵士が申し訳なさそうに言った。
「ご迷惑なら――」
「迷惑だ」
「えっ」
「だが放っておけばもっと面倒だ。来い」
若い社員が頭を抱えた。
「判断が雑すぎる……」
元白軍将校は新しく来た一団を指した。
「馬を扱える人間が増えた。料理できる人間も増えた。兵も増えた」
「口も増えました」
「手も増えた」
「そういう計算なんですか」
「そういう計算だ」
その時、足を引きずっていた男が道端へ座り込んだ。
包帯に血が滲んでいる。
元白軍将校がしゃがむ。
「いつからだ」
「昨日です」
「銃創か」
「砲弾の破片です」
包帯を少しめくる。
傷は深くない。
だが汚れている。
元白軍将校は荷物を振り返った。
「消毒液は」
誰も答えない。
「ないか」
少し考えた。
そして自分の袋から小さな瓶を取り出した。
若い社員が嫌な顔をした。
「それ、何です」
「蒸留酒」
「どこから?」
「道中で拾った」
「拾った?」
「落ちていた」
「酒が道に?」
「荷車が壊れていた」
「つまり拾ったんですね」
「そう言った」
元白軍将校は傷口を見る。
「仕方ない。傷口に飲ませてやろう」
一瞬、誰も理解しなかった。
次の瞬間、
「傷口は飲みません!」
若い社員が叫んだ。
新しく加わった女性も瓶をひったくる。
「水で洗います!」
「酒の方が――」
「水です!」
「そうか」
元白軍将校はあっさり引いた。
若い社員が呆れた。
「そこは素直なんですね」
「詳しい人間がいるなら任せる」
「最初からそうしてください」
傷を洗い直し、布を替え、怪我人は空けていた猫車へ乗せた。
その横へ子供が一人、当然のように座った。
母親が慌てる。
「降りなさい」
元白軍将校が言う。
「軽いなら乗せとけ」
「でも邪魔に」
「怪我人の足に乗らなければいい」
子供は怪我人の横へ寄った。
怪我人が笑う。
「護衛だな」
「ぼく銃ないよ」
「十分だ」
こうして一行は三十五人になった。
犬を含めれば三十六だった。
誰も数え直さなかった。
---
再び歩き始めて一時間。
若い社員は気づいた。
「そっち、港じゃありません」
元白軍将校は歩き続ける。
「知っている」
「道を間違えたんじゃ」
「違う」
「じゃあ何で曲がったんです?」
「宿がある」
「宿?」
「この先だ」
「知ってるんですか」
「昔使った」
若い社員はしばらく黙った。
「いつ頃?」
「昔だ」
「便利な言葉ですね、それ」
「便利だから使っている」
道は次第に細くなった。
舗装も途切れ、轍が深くなる。
子供が疲れ始める。
猫車を交代で引く。
兵士も荷物を持つ。
途中、馬が一度足を止めた。
老人が撫でて落ち着かせた。
元白軍将校は何度も後ろを振り返った。
人数ではなく、列が切れていないかを見る。
誰かが遅れていれば速度を落とす。
止まるとは言わない。
速度が落ちるだけだった。
若い社員がそのことに気づいたのは、三度目だった。
「待つんですね」
「何をだ」
「遅れた人を」
「列が切れると面倒だ」
「そういう言い方しかできないんですか」
「何が」
「いえ、もういいです」
夕方近く、宿が見えた。
街道沿いの古い建物だった。
二階建て。
馬小屋。
納屋。
看板は傾いている。
窓も一部板で塞がれていた。
若い社員が見上げる。
「営業してるんですか、これ」
「知らん」
「知らないんですか!」
元白軍将校は扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。
中は暗い。
誰もいない。
彼は勝手に入った。
若い社員が後ろから言う。
「いいんですか」
「昔からこうだ」
「その昔からって、便利すぎません?」
元白軍将校は食堂らしき部屋の椅子へ座った。
「待て」
「誰を」
「主人を」
「いるんですか」
「いれば出てくる」
「いなかったら?」
「寝る」
「勝手に?」
「屋根がある」
若い社員が何か言おうとした時、奥で物音がした。
扉が開く。
白髪の男が猟銃を持って立っていた。
全員が止まる。
白髪の男も止まる。
数秒。
やがて白髪の男の目が大きくなった。
「……隊長?」
元白軍将校は即答した。
「人違いだ」
白髪の男は眉を寄せた。
「いや」
「人違いだ」
「いやいやいやいや」
「老眼だ」
「そんな歳じゃない!」
若い社員がゆっくり元白軍将校を見る。
「知り合いですよね?」
「知らん」
宿の主人は猟銃を下ろした。
そして腹を抱えて笑い始めた。
「変わってない! 本当に変わってない!」
元白軍将校は不機嫌そうに言った。
「飯はあるか」
主人の笑いが止まった。
「再会して最初の言葉がそれですか」
「三十五人いる」
主人が瞬きをした。
「……何人?」
「三十五」
「何をしたんです?」
「歩いてきた」
「人数の話ですよ!」
元白軍将校は後ろを指した。
「途中で増えた」
主人が顔を覆った。
「またですか」
若い社員がすぐ反応した。
「また?」
元白軍将校が睨む。
「聞くな」
主人は楽しそうに言った。
「昔からなんですよ、この人」
「何がです?」
「撤退すると人数が増える」
「普通、減りません?」
「普通はね」
元白軍将校が言う。
「飯」
「はいはい。ありますよ。パンと芋と豆。スープなら増やせる」
「十分だ」
主人は一行を見回した。
「馬小屋と納屋を使ってください。毛布はそんなにありませんよ」
「持っている」
「酒は出しません」
元白軍将校が止まった。
「なぜだ」
「あなたがいるからです」
「失礼な」
「三十年前に地下の樽を一本空けた人が何を言ってるんです」
全員の視線が集まった。
元白軍将校は少しだけ目を逸らした。
「昔のことだ」
若い社員が吹き出した。
そこから笑いが広がった。
元白軍将校は不機嫌そうな顔のまま荷物を運び始めた。
---
夕食は騒がしかった。
三十五人分の食事など用意されていない。
スープには水が足された。
芋が追加された。
パンは薄く切られた。
それでも温かい。
子供たちは床に座り、老人は壁際へ。
兵士は銃を手の届くところに置く。
犬はいつの間にか台所の前にいた。
主人が鍋をかき混ぜながら昔話を始めた。
「この人はね、昔から宿を先に探すんですよ」
若い社員が聞く。
「宿を?」
「橋より先に」
元白軍将校が向こうから言う。
「橋も見ていた」
「でも宿も見る」
「兵は寝ないと動かん」
主人が笑う。
「これですよ」
若い社員は少し考えた。
「まともですね」
「宿がなければ勝手に作るけどね」
「どうやって?」
「農家、倉庫、教会、地主の屋敷」
元白軍将校が訂正する。
「借りた」
主人が振り返る。
「持ち主に聞いたのは?」
「後だ」
「それは借りたとは言いません」
食堂に笑いが起きた。
主人は続ける。
「馬車も借りた」
「必要だった」
「馬も」
「返した」
「一頭返ってきませんでした」
「死んだから仕方ない」
「うちの馬じゃないですけどね」
「なら問題ない」
「問題ありますよ」
笑い声がさらに大きくなる。
若い社員はパンをかじりながら元白軍将校を見た。
この男がどんな人間だったのか、WILKに入ってからも詳しく聞いたことはない。
元白軍将校。
それだけだった。
白軍の将校だった。
ロシアから来た。
それ以上は、本人が話さない。
聞いても、
「昔のことだ」
で終わる。
宿の主人は昔の部下らしい。
なら何か知っている。
若い社員が聞こうと口を開いた。
その瞬間、元白軍将校がこちらを見た。
「聞くな」
「まだ何も言ってません」
「顔に出ている」
「そういうところだけ鋭いな……」
主人がまた笑った。
「昔はもっと怖かったですよ」
「今より?」
「今より」
若い社員は真顔になった。
「それ、人間だったんですか」
元白軍将校がパンを投げた。
若い社員は避けた。
パンは犬が取った。
主人が腹を抱えて笑った。
「変わってないなあ!」
「飯を食え」
「はいはい、隊長」
「人違いだ」
---
食後。
主人が古い地図を持ってきた。
机へ広げる。
「港へ行くんでしょう」
「そのつもりだ」
「南西の街道は人で詰まってます。軍も民間も。途中の橋も危ない」
「北は」
「検問が増えたという話です」
「鉄道」
「期待しない方がいい」
「東」
主人の顔から笑いが消えた。
「勧めません」
「分かっている」
元白軍将校は地図を見る。
指が街道をなぞる。
最短経路。
それを外れる。
村道。
古い荷馬車道。
林道。
鉄道沿いの保守路。
主人が言った。
「遠回りですよ」
「知っている」
「港へ間に合わないかもしれない」
「そうだな」
若い社員が横から言う。
「そうだな、じゃないでしょう」
元白軍将校は地図から目を離さない。
「街道を行けば早い」
「なら――」
「止められなければな」
若い社員は黙った。
主人が指を置く。
「ここに別の宿があります」
元白軍将校が見る。
「まだあるのか」
「あります」
「主人は」
「代替わりした」
「知っている者か」
「あなたなら多分」
「どういう意味だ」
主人が笑う。
「行けば分かります」
その時だった。
裏手から馬の音が聞こえた。
食堂の空気が変わる。
兵士たちが立つ。
銃へ手を伸ばす。
犬まで顔を上げた。
馬は一頭ではない。
複数。
ゆっくり近づいてくる。
主人が窓から外を見る。
「街道側じゃない」
元白軍将校も立つ。
裏口が叩かれた。
三回。
少し置いて二回。
主人の顔が変わった。
「……懐かしい叩き方だ」
元白軍将校も眉を寄せた。
若い社員が聞く。
「何です?」
「昔のだ」
「また昔ですか」
主人が裏口へ向かう。
銃を持った兵士が左右に立つ。
扉を少し開ける。
外に立っていたのは、泥まみれの軍服姿の男だった。
軍服を見た瞬間、ポーランド兵が緊張する。
赤軍だった。
男は武器を下げていた。
疲れ切っている。
主人が何か言う前に、その男は食堂の奥を見た。
元白軍将校と目が合う。
男の動きが完全に止まった。
元白軍将校も止まった。
数秒。
赤軍兵の男が口を開く。
「……閣下?」
食堂にいる全員が元白軍将校を見る。
元白軍将校は目を閉じた。
深くため息をつく。
「人違いだ」
男はしばらく黙っていた。
やがて、疲れた顔で笑った。
「二十年前も同じことを言いましたよ」
若い社員が天井を仰ぐ。
「またですか」
「うるさい」
元白軍将校は男を見る。
「何をしている」
「逃げています」
「見れば分かる」
「ええ。昔からそれですね」
「何人だ」
赤軍兵は少し言いにくそうに後ろを見る。
暗闇の向こう。
人影があった。
一人。
二人。
五人。
十人。
その後ろにもいる。
荷車もある。
子供の声もする。
元白軍将校の顔が険しくなる。
「何人だ」
「三十七人です」
若い社員が反射的に計算した。
「七十二……」
「何だ」
「いや……」
元白軍将校は外を見る。
赤軍兵。
その後ろの人々。
そして宿。
宿の主人は先回りした。
「納屋、もういっぱいですよ」
「詰めろ」
「馬小屋もです」
「馬を外へ」
「雨降りますよ」
「屋根を張れ」
若い社員が叫ぶ。
「入れるんですか!」
元白軍将校は当然のように答えた。
「外に置くのか」
「いや、そうじゃなくて!」
赤軍兵が笑った。
「変わってませんね、閣下」
「人違いだ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「二十年経ちましたので」
元白軍将校は地図を畳んだ。
「入れろ。武器はまとめて確認する。怪我人を先に。子供と老人は中だ」
赤軍兵が振り返った。
「聞こえたか! 入れ!」
外で人が動き始める。
若い社員が呆然と見ていた。
朝。
二十三人。
昼。
三十五人。
夜。
七十二人。
犬を含めれば七十三。
元白軍将校はその横で主人に聞いた。
「パンは」
主人が睨む。
「ありませんよ、七十二人分なんて」
「芋は」
「少し」
「豆」
「あります」
「なら煮ろ」
「あなたも手伝ってください」
「分かった」
元白軍将校は袖をまくった。
若い社員はその姿を見ながらつぶやいた。
「港……」
元白軍将校が振り返る。
「何だ」
「港へ行くんですよね?」
「そのつもりだ」
「いつ?」
元白軍将校は少し考えた。
「明日」
宿の主人と赤軍兵が同時に笑った。
若い社員は嫌な予感がした。
たぶん。
明日も誰か増える。
そして後年。
この一行について残された記録の多くは、正確な人数を記していない。
記録するたびに人数が違ったからである。