WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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『一九三九年九月二十三日・南方移動経路に関する後年整理』

北西方面から南へ転じた移動群は、街道沿いの宿泊施設、農家、倉庫、教会、旧軍関係者宅などを順に利用した。

その多くは、元白軍将校が過去に接触した人物、あるいはその親族が管理していた。

宿泊費、食料費、馬匹飼料、修理費、医薬品代について、現金による即時決済は困難だった。

代わりに、署名入りの支払証書が多数発行された。

後年、WILK財務部門ではこれらをまとめて、

「南方移動分」

と呼んだ。

現場では、もっと単純だった。

「紙で払った」

それだけである。



第197話 紙一枚で払う男

 

 

パン職人は拾った。

 

正確には、パン職人と、その妻と、怪我をした弟を拾った。

 

若いWILK社員は、もはや人数を声に出して数えなくなっていた。

 

数えると増える気がしたからである。

 

「今、何人です?」

 

途中から加わった金持ちが聞いた。

 

若い社員は歩きながら答えた。

 

「分かりません」

 

「それでいいのか?」

 

「よくないです」

 

「なら数えろ」

 

「昨日数えました」

 

「何人だった」

 

「七十何人か」

 

「何だその雑な帳簿は」

 

若い社員が金持ちを見る。

 

「じゃあ数えてくださいよ」

 

「私は同行者だぞ」

 

「私も昨日まではそうでした」

 

「今は?」

 

「分かりません」

 

前を歩く元白軍将校が振り返った。

 

「歩け」

 

二人とも黙った。

 

少しして金持ちが言う。

 

「なあ」

 

「何です?」

 

「あの男、いつもああなのか」

 

「私も最近知りました」

 

「昔からだ」

 

後ろから赤軍兵だった元部下が答えた。

 

金持ちが振り返る。

 

「本当に昔から?」

 

「ええ」

 

元白軍将校が前から言う。

 

「余計なことを言うな」

 

赤軍兵が笑う。

 

「聞こえてますね」

 

「声がでかい」

 

金持ちはしばらく元白軍将校の背中を見た。

 

「三十年前の舞踏会では、もう少し愛想があった気がするんだが」

 

元白軍将校の歩調が少し速くなった。

 

「昔のことだ」

 

「ほらまたそれだ」

 

若い社員が笑った。

 

---

 

その日の目的地は、街道から少し外れた宿だった。

 

宿というより、昔ながらの馬車宿に近い。

 

母屋。

 

納屋。

 

馬小屋。

 

小さな酒蔵。

 

裏手に畑。

 

遠くからでも煙突の煙が見えた。

 

若い社員が聞く。

 

「知り合いですか」

 

「昔の部下だ」

 

「またですか」

 

「何だ」

 

「南の宿、全部元部下なんです?」

 

「全部ではない」

 

「何軒くらい」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「知らん」

 

「知らない?」

 

「昔はもっといた」

 

赤軍兵が後ろから言う。

 

「まだ生きてれば何軒かありますよ」

 

若い社員が赤軍兵を見る。

 

「あなたも知ってるんですか?」

 

「昔、通りました」

 

「どんな部隊だったんです、あなたたち」

 

元白軍将校と赤軍兵が同時に言った。

 

「昔のことだ」

 

若い社員が空を見上げた。

 

「増えたな、この言葉」

 

---

 

宿へ着くと、主人は庭で薪を割っていた。

 

年齢は六十前後。

 

片足を少し引きずっている。

 

元白軍将校が門をくぐる。

 

主人が顔を上げた。

 

止まった。

 

斧も止まった。

 

しばらく元白軍将校を見る。

 

「……隊長?」

 

「人違いだ」

 

主人は斧を置いた。

 

「いやいやいや」

 

「人違いだ」

 

「その声で否定されても無理ですよ」

 

元白軍将校は後ろを指した。

 

「泊めてくれ」

 

主人が見る。

 

人。

 

人。

 

人。

 

荷車。

 

猫車。

 

馬。

 

自転車。

 

トラック。

 

さらに人。

 

主人の顔から再会の喜びが消えた。

 

「何人です」

 

元白軍将校:

 

「八十くらい」

 

若い社員:

 

「たぶん」

 

金持ち:

 

「今のところ」

 

主人:

 

「帰れ」

 

即答だった。

 

元白軍将校も即答する。

 

「無理だ」

 

「うちも無理です!」

 

「納屋がある」

 

「見れば分かります!」

 

「馬小屋も」

 

「馬のためです!」

 

「馬は外でも寝る」

 

「人間も外で寝てください!」

 

赤軍兵が笑いをこらえていた。

 

宿の主人はその顔を見る。

 

今度は眉を寄せた。

 

「……お前」

 

赤軍兵も止まった。

 

「お久しぶりです」

 

主人の目が大きくなる。

 

「生きてたのか!」

 

「今のところ」

 

主人が近づいて肩を叩く。

 

「何年ぶりだ」

 

「二十年くらいですね」

 

「その軍服は何だ」

 

「色々ありまして」

 

「赤軍じゃないか」

 

「色々ありまして」

 

主人は元白軍将校を見る。

 

「何なんです、この集団」

 

元白軍将校:

 

「移動中だ」

 

「それは見れば分かる!」

 

若い社員が小さく言った。

 

「みんな同じ反応するなあ」

 

---

 

結局、泊めてもらえた。

 

正確には、主人が諦めた。

 

母屋には子供と老人と怪我人。

 

納屋には家族連れ。

 

馬小屋の一角には兵士。

 

軒下。

 

倉庫。

 

台所。

 

庭には天幕。

 

使える場所は全部使った。

 

主人は近所を回り、芋を買った。

 

豆も。

 

パンも。

 

干し肉も少し。

 

元白軍将校は一緒に運んだ。

 

若い社員がそれを見ていた。

 

「昔の部下なのに、ちゃんと働くんですね」

 

「俺が増やしたからな」

 

「自覚あるんだ」

 

「何の話だ」

 

「いえ」

 

金持ちは別の場所で、主人の帳簿を眺めていた。

 

「これ全部、今日の分か?」

 

「そうです」

 

「八十人は食うな」

 

「あなた方が勝手に増えてるんでしょう」

 

「私は途中からだ」

 

「同罪です」

 

「厳しいな」

 

主人は帳簿を閉じた。

 

「現金は?」

 

金持ちが元白軍将校を見る。

 

元白軍将校は懐を探った。

 

硬貨。

 

紙幣。

 

少し。

 

宿の主人も見る。

 

「足りませんね」

 

「知っている」

 

「どうします?」

 

元白軍将校は何でもないように言った。

 

「紙をくれ」

 

若い社員が嫌な予感を覚えた。

 

主人はむしろ普通の顔で紙を出した。

 

「はい」

 

若い社員が主人を見る。

 

「普通に渡すんですか?」

 

「昔からです」

 

「何が?」

 

元白軍将校は机に向かった。

 

日付。

 

金額。

 

名前。

 

署名。

 

さらさらと書く。

 

主人へ渡す。

 

「これで」

 

主人が受け取る。

 

若い社員は固まった。

 

「……それで?」

 

「払った」

 

「払ってませんよ!」

 

主人が紙をひらひらさせた。

 

「払ってますよ」

 

「紙じゃないですか!」

 

「この人のなら」

 

若い社員が元白軍将校を見る。

 

元白軍将校は芋を食べ始めている。

 

「どういうことです?」

 

主人が笑った。

 

「昔もこうやって払ったんです」

 

「いつ?」

 

「二十年くらい前」

 

「で、本当に払ったんですか」

 

「ええ」

 

「いつ?」

 

主人は少し考えた。

 

「十年後」

 

若い社員が椅子からずり落ちそうになった。

 

「遅い!」

 

元白軍将校が口を挟む。

 

「利子はつけた」

 

主人:

 

「ついてました」

 

若い社員:

 

「そこじゃない!」

 

赤軍兵が横で笑う。

 

「懐かしいですな」

 

「あなたも知ってるんですか!」

 

「昔よくやってました」

 

元白軍将校:

 

「金がなかった」

 

主人:

 

「国もなかった」

 

赤軍兵:

 

「部隊もなかった」

 

元白軍将校:

 

「それでも払った」

 

主人がうなずく。

 

「だから受け取るんですよ」

 

若い社員は紙を見る。

 

「こんなので……」

 

金持ちが後ろから覗き込んだ。

 

そして顔をしかめた。

 

「待て」

 

元白軍将校が見る。

 

「何だ」

 

金持ちは紙を奪った。

 

「何だこれは」

 

「支払いだ」

 

「受取人の住所がない」

 

「ここだ」

 

「ここ、では後で分からん!」

 

「主人が分かる」

 

「お前と主人しか分からん!」

 

若い社員が、今度は金持ち側についた。

 

「それはそうですね」

 

金持ちは続ける。

 

「通貨単位は」

 

「書いた」

 

「略すな」

 

「分かるだろ」

 

「後で帳簿を見る人間が困る!」

 

「後で見るのは俺だ」

 

若い社員:

 

「多分WILKですよ」

 

元白軍将校が少し黙った。

 

金持ちが紙を机へ叩く。

 

「日付はある。金額もある。署名もある。だが品目がない」

 

「宿代」

 

「食料は?」

 

「含む」

 

「馬の飼料は?」

 

「含む」

 

「近所から買った芋は?」

 

「含む」

 

「全部含むで済ませるな!」

 

主人が笑い始めた。

 

赤軍兵も笑っている。

 

元白軍将校は不満そうだった。

 

「払えばいいだろ」

 

金持ちは深く息を吸った。

 

「……俺にも払わせろ」

 

元白軍将校が眉を上げる。

 

「現金は」

 

「ない」

 

「なら黙ってろ」

 

「切手なら何とかなる」

 

元白軍将校が少しだけ目を細めた。

 

「信用あるのか」

 

金持ちは胸を張った。

 

「会社を三つ持ってると言っただろ」

 

元白軍将校:

 

「今も?」

 

金持ちの動きが止まった。

 

「……たぶん」

 

若い社員が吹き出した。

 

「そこ弱いんですね」

 

金持ちは咳払いした。

 

「国内の会社は連絡が取れん。だが国外口座はある。取引先もある。銀行も知ってる」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「使えるな」

 

金持ちが机を叩いた。

 

「今さらか!」

 

---

 

そこから、なぜか会議が始まった。

 

宿の食堂。

 

机の上に紙。

 

主人の帳簿。

 

若い社員のメモ。

 

元白軍将校の支払証書。

 

金持ちが座る。

 

「まず番号を振る」

 

元白軍将校:

 

「何でだ」

 

「後で照合するためだ」

 

「面倒だ」

 

「黙ってろ」

 

若い社員が笑う。

 

「立場逆転してません?」

 

「こいつが雑すぎる」

 

「昔からです」

 

赤軍兵が言った。

 

元白軍将校:

 

「余計なことを言うな」

 

金持ちは紙の上に線を引いた。

 

「発行番号。日付。受取人。場所。品目。金額。通貨。確認者」

 

若い社員が聞く。

 

「確認者?」

 

「WILKの人間がいるんだろ」

 

「私?」

 

「他に誰がいる」

 

若い社員が元白軍将校を見る。

 

元白軍将校は視線を逸らした。

 

「私なんですね……」

 

「署名しろ」

 

「はい」

 

元白軍将校が聞く。

 

「俺は」

 

「最後」

 

「何でだ」

 

「お前に最初に書かせると全部『宿代一式』になる」

 

宿の主人が腹を抱えた。

 

赤軍兵は机を叩いて笑った。

 

若い社員もとうとう耐えきれなかった。

 

元白軍将校だけ真顔だった。

 

「合理的だろ」

 

金持ち:

 

「会計では合理的じゃない!」

 

---

 

しばらくして、一枚目の新しい支払証書が完成した。

 

発行番号。

 

日付。

 

受取人。

 

宿の所在地。

 

宿泊費。

 

食料費。

 

馬匹飼料。

 

近隣購入分。

 

合計。

 

金持ちの確認。

 

若いWILK社員の確認。

 

そして最後に、元白軍将校が署名する。

 

宿の主人が見る。

 

「ずいぶん立派になりましたね」

 

元白軍将校:

 

「紙が増えただけだ」

 

金持ち:

 

「信用とは紙を増やすことでもある」

 

元白軍将校:

 

「面倒だな」

 

金持ち:

 

「その面倒で金が動くんだ」

 

主人は新しい証書を古いものと並べた。

 

「じゃあ、こっちの昔式は?」

 

元白軍将校:

 

「捨てろ」

 

主人:

 

「嫌です」

 

「なぜ」

 

「記念です」

 

赤軍兵:

 

「私も欲しいですね」

 

元白軍将校:

 

「勝手に増やすな」

 

若い社員:

 

「増えるのは人だけで十分です」

 

全員が少し黙った。

 

そして笑った。

 

---

 

翌朝。

 

出発準備が始まった。

 

主人の娘夫婦が荷物を持って庭へ出てきた。

 

元白軍将校が見る。

 

「何だ」

 

主人が言った。

 

「一緒に行かせます」

 

「二人?」

 

「三人です」

 

娘が子供を抱いていた。

 

若い社員が額を押さえる。

 

「増えた」

 

その横から、近所の鍛冶屋も荷物を持って現れた。

 

「俺も南へ出る」

 

若い社員:

 

「増えた」

 

さらに裏手から老人が一人。

 

「息子が向こうにいる」

 

若い社員:

 

「増えた……」

 

金持ちが帳簿を開いた。

 

「待て」

 

全員が見る。

 

「今何人だ」

 

元白軍将校:

 

「知らん」

 

金持ち:

 

「知らんじゃない!」

 

「歩いてるならいる」

 

「会計は人数が要るんだ!」

 

若い社員が金持ちの肩を叩いた。

 

「ようこそ」

 

金持ちが睨む。

 

「何がだ」

 

「こっち側へ」

 

「私は同行者だ!」

 

若い社員が笑った。

 

「昨日まで私もそうでした」

 

元白軍将校はすでに前を向いていた。

 

「行くぞ」

 

金持ちは帳簿を抱えたまま叫ぶ。

 

「待て! 人数を数えてからだ!」

 

元白軍将校:

 

「歩きながら数えろ」

 

金持ち:

 

「会計を何だと思ってる!」

 

宿の主人が門のところで笑っていた。

 

そして一行はまた南へ動き始めた。

 

人数は増えた。

 

荷物も増えた。

 

支払証書も増えた。

 

ただ一つ減ったのは、元白軍将校が好き勝手に紙一枚で済ませられる余地だった。

 

その日から、この旅には会計がついた。

 

本人はまだ、WILKへ入ったつもりなど一切なかった。

 

 

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