北西方面から南へ転じた移動群は、街道沿いの宿泊施設、農家、倉庫、教会、旧軍関係者宅などを順に利用した。
その多くは、元白軍将校が過去に接触した人物、あるいはその親族が管理していた。
宿泊費、食料費、馬匹飼料、修理費、医薬品代について、現金による即時決済は困難だった。
代わりに、署名入りの支払証書が多数発行された。
後年、WILK財務部門ではこれらをまとめて、
「南方移動分」
と呼んだ。
現場では、もっと単純だった。
「紙で払った」
それだけである。
パン職人は拾った。
正確には、パン職人と、その妻と、怪我をした弟を拾った。
若いWILK社員は、もはや人数を声に出して数えなくなっていた。
数えると増える気がしたからである。
「今、何人です?」
途中から加わった金持ちが聞いた。
若い社員は歩きながら答えた。
「分かりません」
「それでいいのか?」
「よくないです」
「なら数えろ」
「昨日数えました」
「何人だった」
「七十何人か」
「何だその雑な帳簿は」
若い社員が金持ちを見る。
「じゃあ数えてくださいよ」
「私は同行者だぞ」
「私も昨日まではそうでした」
「今は?」
「分かりません」
前を歩く元白軍将校が振り返った。
「歩け」
二人とも黙った。
少しして金持ちが言う。
「なあ」
「何です?」
「あの男、いつもああなのか」
「私も最近知りました」
「昔からだ」
後ろから赤軍兵だった元部下が答えた。
金持ちが振り返る。
「本当に昔から?」
「ええ」
元白軍将校が前から言う。
「余計なことを言うな」
赤軍兵が笑う。
「聞こえてますね」
「声がでかい」
金持ちはしばらく元白軍将校の背中を見た。
「三十年前の舞踏会では、もう少し愛想があった気がするんだが」
元白軍将校の歩調が少し速くなった。
「昔のことだ」
「ほらまたそれだ」
若い社員が笑った。
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その日の目的地は、街道から少し外れた宿だった。
宿というより、昔ながらの馬車宿に近い。
母屋。
納屋。
馬小屋。
小さな酒蔵。
裏手に畑。
遠くからでも煙突の煙が見えた。
若い社員が聞く。
「知り合いですか」
「昔の部下だ」
「またですか」
「何だ」
「南の宿、全部元部下なんです?」
「全部ではない」
「何軒くらい」
元白軍将校は少し考えた。
「知らん」
「知らない?」
「昔はもっといた」
赤軍兵が後ろから言う。
「まだ生きてれば何軒かありますよ」
若い社員が赤軍兵を見る。
「あなたも知ってるんですか?」
「昔、通りました」
「どんな部隊だったんです、あなたたち」
元白軍将校と赤軍兵が同時に言った。
「昔のことだ」
若い社員が空を見上げた。
「増えたな、この言葉」
---
宿へ着くと、主人は庭で薪を割っていた。
年齢は六十前後。
片足を少し引きずっている。
元白軍将校が門をくぐる。
主人が顔を上げた。
止まった。
斧も止まった。
しばらく元白軍将校を見る。
「……隊長?」
「人違いだ」
主人は斧を置いた。
「いやいやいや」
「人違いだ」
「その声で否定されても無理ですよ」
元白軍将校は後ろを指した。
「泊めてくれ」
主人が見る。
人。
人。
人。
荷車。
猫車。
馬。
自転車。
トラック。
さらに人。
主人の顔から再会の喜びが消えた。
「何人です」
元白軍将校:
「八十くらい」
若い社員:
「たぶん」
金持ち:
「今のところ」
主人:
「帰れ」
即答だった。
元白軍将校も即答する。
「無理だ」
「うちも無理です!」
「納屋がある」
「見れば分かります!」
「馬小屋も」
「馬のためです!」
「馬は外でも寝る」
「人間も外で寝てください!」
赤軍兵が笑いをこらえていた。
宿の主人はその顔を見る。
今度は眉を寄せた。
「……お前」
赤軍兵も止まった。
「お久しぶりです」
主人の目が大きくなる。
「生きてたのか!」
「今のところ」
主人が近づいて肩を叩く。
「何年ぶりだ」
「二十年くらいですね」
「その軍服は何だ」
「色々ありまして」
「赤軍じゃないか」
「色々ありまして」
主人は元白軍将校を見る。
「何なんです、この集団」
元白軍将校:
「移動中だ」
「それは見れば分かる!」
若い社員が小さく言った。
「みんな同じ反応するなあ」
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結局、泊めてもらえた。
正確には、主人が諦めた。
母屋には子供と老人と怪我人。
納屋には家族連れ。
馬小屋の一角には兵士。
軒下。
倉庫。
台所。
庭には天幕。
使える場所は全部使った。
主人は近所を回り、芋を買った。
豆も。
パンも。
干し肉も少し。
元白軍将校は一緒に運んだ。
若い社員がそれを見ていた。
「昔の部下なのに、ちゃんと働くんですね」
「俺が増やしたからな」
「自覚あるんだ」
「何の話だ」
「いえ」
金持ちは別の場所で、主人の帳簿を眺めていた。
「これ全部、今日の分か?」
「そうです」
「八十人は食うな」
「あなた方が勝手に増えてるんでしょう」
「私は途中からだ」
「同罪です」
「厳しいな」
主人は帳簿を閉じた。
「現金は?」
金持ちが元白軍将校を見る。
元白軍将校は懐を探った。
硬貨。
紙幣。
少し。
宿の主人も見る。
「足りませんね」
「知っている」
「どうします?」
元白軍将校は何でもないように言った。
「紙をくれ」
若い社員が嫌な予感を覚えた。
主人はむしろ普通の顔で紙を出した。
「はい」
若い社員が主人を見る。
「普通に渡すんですか?」
「昔からです」
「何が?」
元白軍将校は机に向かった。
日付。
金額。
名前。
署名。
さらさらと書く。
主人へ渡す。
「これで」
主人が受け取る。
若い社員は固まった。
「……それで?」
「払った」
「払ってませんよ!」
主人が紙をひらひらさせた。
「払ってますよ」
「紙じゃないですか!」
「この人のなら」
若い社員が元白軍将校を見る。
元白軍将校は芋を食べ始めている。
「どういうことです?」
主人が笑った。
「昔もこうやって払ったんです」
「いつ?」
「二十年くらい前」
「で、本当に払ったんですか」
「ええ」
「いつ?」
主人は少し考えた。
「十年後」
若い社員が椅子からずり落ちそうになった。
「遅い!」
元白軍将校が口を挟む。
「利子はつけた」
主人:
「ついてました」
若い社員:
「そこじゃない!」
赤軍兵が横で笑う。
「懐かしいですな」
「あなたも知ってるんですか!」
「昔よくやってました」
元白軍将校:
「金がなかった」
主人:
「国もなかった」
赤軍兵:
「部隊もなかった」
元白軍将校:
「それでも払った」
主人がうなずく。
「だから受け取るんですよ」
若い社員は紙を見る。
「こんなので……」
金持ちが後ろから覗き込んだ。
そして顔をしかめた。
「待て」
元白軍将校が見る。
「何だ」
金持ちは紙を奪った。
「何だこれは」
「支払いだ」
「受取人の住所がない」
「ここだ」
「ここ、では後で分からん!」
「主人が分かる」
「お前と主人しか分からん!」
若い社員が、今度は金持ち側についた。
「それはそうですね」
金持ちは続ける。
「通貨単位は」
「書いた」
「略すな」
「分かるだろ」
「後で帳簿を見る人間が困る!」
「後で見るのは俺だ」
若い社員:
「多分WILKですよ」
元白軍将校が少し黙った。
金持ちが紙を机へ叩く。
「日付はある。金額もある。署名もある。だが品目がない」
「宿代」
「食料は?」
「含む」
「馬の飼料は?」
「含む」
「近所から買った芋は?」
「含む」
「全部含むで済ませるな!」
主人が笑い始めた。
赤軍兵も笑っている。
元白軍将校は不満そうだった。
「払えばいいだろ」
金持ちは深く息を吸った。
「……俺にも払わせろ」
元白軍将校が眉を上げる。
「現金は」
「ない」
「なら黙ってろ」
「切手なら何とかなる」
元白軍将校が少しだけ目を細めた。
「信用あるのか」
金持ちは胸を張った。
「会社を三つ持ってると言っただろ」
元白軍将校:
「今も?」
金持ちの動きが止まった。
「……たぶん」
若い社員が吹き出した。
「そこ弱いんですね」
金持ちは咳払いした。
「国内の会社は連絡が取れん。だが国外口座はある。取引先もある。銀行も知ってる」
元白軍将校は少し考えた。
「使えるな」
金持ちが机を叩いた。
「今さらか!」
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そこから、なぜか会議が始まった。
宿の食堂。
机の上に紙。
主人の帳簿。
若い社員のメモ。
元白軍将校の支払証書。
金持ちが座る。
「まず番号を振る」
元白軍将校:
「何でだ」
「後で照合するためだ」
「面倒だ」
「黙ってろ」
若い社員が笑う。
「立場逆転してません?」
「こいつが雑すぎる」
「昔からです」
赤軍兵が言った。
元白軍将校:
「余計なことを言うな」
金持ちは紙の上に線を引いた。
「発行番号。日付。受取人。場所。品目。金額。通貨。確認者」
若い社員が聞く。
「確認者?」
「WILKの人間がいるんだろ」
「私?」
「他に誰がいる」
若い社員が元白軍将校を見る。
元白軍将校は視線を逸らした。
「私なんですね……」
「署名しろ」
「はい」
元白軍将校が聞く。
「俺は」
「最後」
「何でだ」
「お前に最初に書かせると全部『宿代一式』になる」
宿の主人が腹を抱えた。
赤軍兵は机を叩いて笑った。
若い社員もとうとう耐えきれなかった。
元白軍将校だけ真顔だった。
「合理的だろ」
金持ち:
「会計では合理的じゃない!」
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しばらくして、一枚目の新しい支払証書が完成した。
発行番号。
日付。
受取人。
宿の所在地。
宿泊費。
食料費。
馬匹飼料。
近隣購入分。
合計。
金持ちの確認。
若いWILK社員の確認。
そして最後に、元白軍将校が署名する。
宿の主人が見る。
「ずいぶん立派になりましたね」
元白軍将校:
「紙が増えただけだ」
金持ち:
「信用とは紙を増やすことでもある」
元白軍将校:
「面倒だな」
金持ち:
「その面倒で金が動くんだ」
主人は新しい証書を古いものと並べた。
「じゃあ、こっちの昔式は?」
元白軍将校:
「捨てろ」
主人:
「嫌です」
「なぜ」
「記念です」
赤軍兵:
「私も欲しいですね」
元白軍将校:
「勝手に増やすな」
若い社員:
「増えるのは人だけで十分です」
全員が少し黙った。
そして笑った。
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翌朝。
出発準備が始まった。
主人の娘夫婦が荷物を持って庭へ出てきた。
元白軍将校が見る。
「何だ」
主人が言った。
「一緒に行かせます」
「二人?」
「三人です」
娘が子供を抱いていた。
若い社員が額を押さえる。
「増えた」
その横から、近所の鍛冶屋も荷物を持って現れた。
「俺も南へ出る」
若い社員:
「増えた」
さらに裏手から老人が一人。
「息子が向こうにいる」
若い社員:
「増えた……」
金持ちが帳簿を開いた。
「待て」
全員が見る。
「今何人だ」
元白軍将校:
「知らん」
金持ち:
「知らんじゃない!」
「歩いてるならいる」
「会計は人数が要るんだ!」
若い社員が金持ちの肩を叩いた。
「ようこそ」
金持ちが睨む。
「何がだ」
「こっち側へ」
「私は同行者だ!」
若い社員が笑った。
「昨日まで私もそうでした」
元白軍将校はすでに前を向いていた。
「行くぞ」
金持ちは帳簿を抱えたまま叫ぶ。
「待て! 人数を数えてからだ!」
元白軍将校:
「歩きながら数えろ」
金持ち:
「会計を何だと思ってる!」
宿の主人が門のところで笑っていた。
そして一行はまた南へ動き始めた。
人数は増えた。
荷物も増えた。
支払証書も増えた。
ただ一つ減ったのは、元白軍将校が好き勝手に紙一枚で済ませられる余地だった。
その日から、この旅には会計がついた。
本人はまだ、WILKへ入ったつもりなど一切なかった。