WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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『一九三九年九月二十四日・南方移動記録断片』

移動群は主要街道を避け、宿、農家、倉庫、旧軍関係者宅を中継点として南下した。

経路について、統一された地図は確認されていない。

後年の証言では、元白軍将校が、

「次の宿までは知っている」

と繰り返していたという。

なお、その「次の宿」が何軒あったのかについては不明である。



第198話 南へ続く宿

 

 

「九十三」

 

元金持ちが言った。

 

若いWILK社員が振り返る。

 

「本当に?」

 

「三回数えた」

 

「犬は?」

 

「入れた」

 

「鶏は?」

 

「人間の人数を聞いている!」

 

「いや昨日までは鶏も数えてたので」

 

「昨日の私は間違っていた」

 

元金持ちは帳簿を閉じた。

 

一行は朝から南へ向かっていた。

 

昨日まで「会社を三つ持つ金持ち」だった男は、今や肩から帳簿袋を下げ、胸ポケットには鉛筆を三本差し、歩きながら人数を数えていた。

 

若いWILK社員がその姿を見る。

 

「似合ってきましたね」

 

「何がだ」

 

「会計」

 

「私は会計ではない」

 

「昨日、支払証書の様式を作りましたよね」

 

「必要だったからだ」

 

「朝から人数数えてますよね」

 

「必要だからだ」

 

「帳簿持ってますよね」

 

「必要だからだ!」

 

少し前を歩く元白軍将校が振り返った。

 

「会計、遅れるな」

 

元金持ちの顔が引きつった。

 

「誰が会計だ!」

 

元白軍将校はもう前を向いていた。

 

若い社員が小声で言う。

 

「定着しましたね」

 

「定着させるな」

 

---

 

道は細かった。

 

いわゆる主要街道ではない。

 

荷馬車がすれ違える程度の道。

 

途中で舗装が消える。

 

畑の脇を通る。

 

林に入る。

 

また村へ出る。

 

地図には載っている道もあれば、載っていない道もある。

 

元金持ちは前を歩く元白軍将校へ追いついた。

 

「本当にこの道でいいのか」

 

「いい」

 

「根拠は」

 

「次の宿がある」

 

「その次は」

 

「別の宿がある」

 

「その次は?」

 

「また別の宿だ」

 

元金持ちが眉を寄せた。

 

「お前、いったい何軒宿を知ってるんだ」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「昔は多かった」

 

「昔は、じゃない。今だ」

 

「行けば分かる」

 

「昨日からそればかりだな!」

 

後ろを歩く赤軍兵だった元部下が笑った。

 

「閣下は昔から、道を町の名前じゃなく人の名前で覚えてましたよ」

 

元金持ちが見る。

 

「どういう意味だ」

 

「この先に誰がいる。その次に誰がいる。そこから何日で誰のところへ行ける。そうやって覚えるんです」

 

若い社員が感心する。

 

「便利ですね」

 

元金持ちは逆に顔をしかめた。

 

「地図がなくなったらどうする」

 

赤軍兵は元白軍将校を見る。

 

「本人が地図です」

 

元白軍将校:

 

「大げさだ」

 

赤軍兵:

 

「昔はもっといました」

 

元白軍将校:

 

「昔のことだ」

 

元金持ちが即座に言った。

 

「その言葉は禁止にしないか」

 

「嫌だ」

 

---

 

昼前。

 

最初の宿へ着いた。

 

前日の宿より小さい。

 

宿というより、農家に客間と馬小屋を足した程度だった。

 

庭では老婆が干し物を取り込んでいる。

 

元白軍将校が門へ入る。

 

老婆が顔を上げる。

 

少し眺める。

 

元白軍将校も見る。

 

「……」

 

「……」

 

若い社員は期待した。

 

そろそろ来る。

 

老婆が口を開いた。

 

「まだ生きてたのかい」

 

元白軍将校:

 

「そっちこそ」

 

若い社員が目を丸くした。

 

「今回は人違いって言わないんですね」

 

老婆が笑った。

 

「私には昔から通じないよ」

 

元白軍将校は少し嫌そうな顔をした。

 

「旦那は」

 

「十年前に死んだよ」

 

「そうか」

 

「あんたより先にね」

 

「俺を基準にするな」

 

老婆はその後ろを見る。

 

九十人以上。

 

荷車。

 

猫車。

 

馬。

 

自転車。

 

犬。

 

鶏。

 

老婆の目が細くなる。

 

「また増やしたね」

 

元白軍将校:

 

「今回は俺だけじゃない」

 

赤軍兵:

 

「私も少し」

 

若い社員:

 

「認めるんだ」

 

老婆はため息をついた。

 

「泊められないよ」

 

元金持ちがすぐ帳簿を開いた。

 

「何人までなら」

 

老婆:

 

「そういう問題かい?」

 

元金持ち:

 

「今はそういう問題です」

 

若い社員が小声で言った。

 

「もう完全に会計だ」

 

元金持ち:

 

「聞こえてるぞ」

 

---

 

結局、その宿には全員泊まらなかった。

 

泊まれなかった。

 

元白軍将校は庭と建物を見て、すぐに分けた。

 

怪我人。

 

子供。

 

老人。

 

それだけを宿へ。

 

残りは近くの納屋、空き家、農家へ分散。

 

老婆が村を回った。

 

「昔の厄介者が来たよ!」

 

という一言で話が通った。

 

元白軍将校が顔をしかめる。

 

「呼び方を考えろ」

 

老婆:

 

「二十年前も厄介だったろ」

 

「昔のことだ」

 

元金持ち:

 

「禁止したいな、その言葉」

 

村人が次々と現れた。

 

毛布。

 

芋。

 

干し肉。

 

牛乳。

 

パン。

 

藁。

 

若い社員は目を見張った。

 

「ずいぶん集まりますね」

 

老婆が言う。

 

「昔、この人たちに村を空けてもらったことがあるんだよ」

 

若い社員が元白軍将校を見る。

 

「何したんです?」

 

元白軍将校:

 

「避難させた」

 

老婆:

 

「砲撃の前日にね」

 

「運がよかった」

 

「三日前から騒いでたじゃないか」

 

元白軍将校:

 

「昔のことだ」

 

老婆:

 

「昔だから話してるんだよ」

 

元金持ちが笑った。

 

---

 

夕方。

 

元金持ちは村の家ごとに紙を切っていた。

 

芋。

 

パン。

 

牛乳。

 

藁。

 

馬の飼料。

 

宿泊。

 

医薬品。

 

若いWILK社員が横で確認する。

 

「これは誰宛てです」

 

「北側の農家」

 

「名前は?」

 

元金持ちが顔を上げる。

 

「聞いてこい」

 

「あなたが聞いてくださいよ」

 

「私は金額をまとめてる」

 

「会計じゃないんでしょう?」

 

元金持ちが黙った。

 

若い社員が笑った。

 

「行ってきます」

 

元白軍将校は少し離れたところで、村の老人たちと地図を見ていた。

 

元金持ちはその姿を見ながら言う。

 

「なあ」

 

若い社員が振り返る。

 

「はい」

 

「WILKは、こういう支払いを本当にするのか」

 

「すると思います」

 

「思います?」

 

「実業家が見たら怒るでしょうけど」

 

「何に」

 

「様式」

 

元金持ちは胸を張った。

 

「昨日より百倍ましだ」

 

「だから多分払います」

 

「会社の承認もないのに?」

 

若い社員は少し考えた。

 

「この人が署名してるので」

 

二人とも元白軍将校を見る。

 

元金持ち:

 

「そんなに信用あるのか」

 

若い社員:

 

「WILKの創業者です」

 

元金持ちが止まった。

 

「……何?」

 

「聞いてなかったんですか」

 

「いや、WILKの人間だとは聞いていた」

 

「創業者ですよ」

 

元金持ちはしばらく元白軍将校を見る。

 

「あれが?」

 

「はい」

 

「舞踏会にいたあれが?」

 

「知りません」

 

「白軍にいたあれが?」

 

「そこも本人が認めないので」

 

「今は避難民を九十三人連れて歩いてるぞ」

 

「それは見れば分かります」

 

元金持ちは額を押さえた。

 

「何なんだ、あの男」

 

赤軍兵が通りがかりに答えた。

 

「昔からです」

 

元金持ち:

 

「便利だな、お前らそれで全部済ませるの」

 

---

 

夜。

 

食事の最中、老婆が一枚の紙を持ってきた。

 

古い紙だった。

 

黄ばんでいる。

 

折り目もある。

 

元白軍将校が見て、顔をしかめた。

 

「まだ持っていたのか」

 

「持ってたよ」

 

元金持ちが興味を示す。

 

「何だ」

 

老婆が紙を渡す。

 

そこには、昔の支払証書。

 

金額。

 

日付。

 

署名。

 

そして裏面に、別の書き込み。

 

元金持ちが読む。

 

「……支払済?」

 

老婆:

 

「十年後にね」

 

若い社員:

 

「また十年後だ」

 

老婆:

 

「利子まで来たよ」

 

元金持ちは紙を裏返す。

 

「誰が持ってきた」

 

「知らない男」

 

元白軍将校:

 

「手配した」

 

老婆:

 

「だから今回も紙でいい」

 

元金持ちは少しだけ黙った。

 

「なるほど」

 

若い社員が聞く。

 

「何がです?」

 

「信用ってのは、こういうものか」

 

元白軍将校:

 

「払うと言ったから払っただけだ」

 

元金持ち:

 

「その『だけ』を二十年続けるのが難しいんだよ」

 

元白軍将校は何も答えず、パンを食べた。

 

老婆が笑う。

 

「昔もこうだったよ。この人、褒めると黙るんだ」

 

若い社員:

 

「いいこと聞いた」

 

元白軍将校:

 

「忘れろ」

 

---

 

翌朝。

 

また増えた。

 

元金持ちは門の前で人を数えていた。

 

「九十四、九十五、九十六……」

 

若い社員が横を通る。

 

「増えました?」

 

「七人」

 

「何で」

 

「村から四人。昨日の宿から聞いて来たのが三人」

 

「誰です?」

 

「鍛冶屋夫婦。娘。御者。それと……」

 

元金持ちは帳簿を見る。

 

「元郵便局員」

 

若い社員:

 

「使えそう」

 

元金持ち:

 

「お前も染まってきたな」

 

「その次は?」

 

「靴職人」

 

「使える」

 

「最後は?」

 

元金持ちは顔を上げた。

 

「元税務官」

 

若い社員は少し考えた。

 

「……使える?」

 

元金持ち:

 

「ものすごく使える」

 

「何に?」

 

「帳簿」

 

元白軍将校が前から言う。

 

「お前の手伝いだ」

 

元金持ち:

 

「勝手に部下を増やすな!」

 

元税務官が帽子を取った。

 

「よろしくお願いします」

 

元金持ち:

 

「早い!」

 

若い社員は笑いながら帳簿を一冊渡した。

 

「ようこそ」

 

元金持ち:

 

「だから私はWILKじゃない!」

 

---

 

一行は再び南へ向かった。

 

百人を越えた。

 

若い社員はとうとう数えるのをやめた。

 

代わりに元金持ちと元税務官が数え始めた。

 

それだけでも旅は少し進歩していた。

 

道中、元白軍将校は老婆からもらった小さな紙を見ていた。

 

次の宿の名前。

 

その次の村。

 

さらに南の農場。

 

三つ先まで書いてある。

 

赤軍兵が覗き込む。

 

「まだ残ってましたか」

 

「らしい」

 

「懐かしい名前ですね」

 

元金持ちが後ろから聞く。

 

「また元部下か」

 

「一人は」

 

「残りは?」

 

「知らん」

 

「知らんのに行くのか」

 

元白軍将校は紙を畳んだ。

 

「道がある」

 

元金持ち:

 

「それは地図にもある」

 

元白軍将校:

 

「人がいる」

 

元金持ちは少し黙った。

 

その答えだけは、妙に納得できた。

 

しばらくして、前方を走っていた学生が戻ってきた。

 

「次の村です!」

 

元白軍将校:

 

「宿は」

 

「あります!」

 

「主人は」

 

「分かりません!」

 

「人は」

 

学生が息を切らしながら答える。

 

「宿の前に十五人くらいいます!」

 

若い社員が空を見る。

 

元金持ちは帳簿を開く。

 

元税務官も鉛筆を出す。

 

赤軍兵が笑う。

 

「増えますな」

 

元白軍将校は当然のように歩調を速めた。

 

若い社員が叫ぶ。

 

「まだ泊まるとも言ってませんよ!」

 

元白軍将校:

 

「まず聞く」

 

「何を!」

 

「何ができるか」

 

元金持ちが頭を抱えた。

 

「会計が追いつかん!」

 

元白軍将校は振り返らない。

 

「歩きながらやれ」

 

元金持ち:

 

「お前、会計を何だと思ってる!」

 

その声を聞きながら、一行は南へ進んだ。

 

宿を一つ越えるたびに。

 

昔の話が一つ増えた。

 

支払証書が数枚増えた。

 

そして人間は、もっと増えた。

 

国境はまだ遠かった。

 

だが、その間にある宿の数だけは、どうやら十分にあった。

 

 

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