移動群は主要街道を避け、宿、農家、倉庫、旧軍関係者宅を中継点として南下した。
経路について、統一された地図は確認されていない。
後年の証言では、元白軍将校が、
「次の宿までは知っている」
と繰り返していたという。
なお、その「次の宿」が何軒あったのかについては不明である。
「九十三」
元金持ちが言った。
若いWILK社員が振り返る。
「本当に?」
「三回数えた」
「犬は?」
「入れた」
「鶏は?」
「人間の人数を聞いている!」
「いや昨日までは鶏も数えてたので」
「昨日の私は間違っていた」
元金持ちは帳簿を閉じた。
一行は朝から南へ向かっていた。
昨日まで「会社を三つ持つ金持ち」だった男は、今や肩から帳簿袋を下げ、胸ポケットには鉛筆を三本差し、歩きながら人数を数えていた。
若いWILK社員がその姿を見る。
「似合ってきましたね」
「何がだ」
「会計」
「私は会計ではない」
「昨日、支払証書の様式を作りましたよね」
「必要だったからだ」
「朝から人数数えてますよね」
「必要だからだ」
「帳簿持ってますよね」
「必要だからだ!」
少し前を歩く元白軍将校が振り返った。
「会計、遅れるな」
元金持ちの顔が引きつった。
「誰が会計だ!」
元白軍将校はもう前を向いていた。
若い社員が小声で言う。
「定着しましたね」
「定着させるな」
---
道は細かった。
いわゆる主要街道ではない。
荷馬車がすれ違える程度の道。
途中で舗装が消える。
畑の脇を通る。
林に入る。
また村へ出る。
地図には載っている道もあれば、載っていない道もある。
元金持ちは前を歩く元白軍将校へ追いついた。
「本当にこの道でいいのか」
「いい」
「根拠は」
「次の宿がある」
「その次は」
「別の宿がある」
「その次は?」
「また別の宿だ」
元金持ちが眉を寄せた。
「お前、いったい何軒宿を知ってるんだ」
元白軍将校は少し考えた。
「昔は多かった」
「昔は、じゃない。今だ」
「行けば分かる」
「昨日からそればかりだな!」
後ろを歩く赤軍兵だった元部下が笑った。
「閣下は昔から、道を町の名前じゃなく人の名前で覚えてましたよ」
元金持ちが見る。
「どういう意味だ」
「この先に誰がいる。その次に誰がいる。そこから何日で誰のところへ行ける。そうやって覚えるんです」
若い社員が感心する。
「便利ですね」
元金持ちは逆に顔をしかめた。
「地図がなくなったらどうする」
赤軍兵は元白軍将校を見る。
「本人が地図です」
元白軍将校:
「大げさだ」
赤軍兵:
「昔はもっといました」
元白軍将校:
「昔のことだ」
元金持ちが即座に言った。
「その言葉は禁止にしないか」
「嫌だ」
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昼前。
最初の宿へ着いた。
前日の宿より小さい。
宿というより、農家に客間と馬小屋を足した程度だった。
庭では老婆が干し物を取り込んでいる。
元白軍将校が門へ入る。
老婆が顔を上げる。
少し眺める。
元白軍将校も見る。
「……」
「……」
若い社員は期待した。
そろそろ来る。
老婆が口を開いた。
「まだ生きてたのかい」
元白軍将校:
「そっちこそ」
若い社員が目を丸くした。
「今回は人違いって言わないんですね」
老婆が笑った。
「私には昔から通じないよ」
元白軍将校は少し嫌そうな顔をした。
「旦那は」
「十年前に死んだよ」
「そうか」
「あんたより先にね」
「俺を基準にするな」
老婆はその後ろを見る。
九十人以上。
荷車。
猫車。
馬。
自転車。
犬。
鶏。
老婆の目が細くなる。
「また増やしたね」
元白軍将校:
「今回は俺だけじゃない」
赤軍兵:
「私も少し」
若い社員:
「認めるんだ」
老婆はため息をついた。
「泊められないよ」
元金持ちがすぐ帳簿を開いた。
「何人までなら」
老婆:
「そういう問題かい?」
元金持ち:
「今はそういう問題です」
若い社員が小声で言った。
「もう完全に会計だ」
元金持ち:
「聞こえてるぞ」
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結局、その宿には全員泊まらなかった。
泊まれなかった。
元白軍将校は庭と建物を見て、すぐに分けた。
怪我人。
子供。
老人。
それだけを宿へ。
残りは近くの納屋、空き家、農家へ分散。
老婆が村を回った。
「昔の厄介者が来たよ!」
という一言で話が通った。
元白軍将校が顔をしかめる。
「呼び方を考えろ」
老婆:
「二十年前も厄介だったろ」
「昔のことだ」
元金持ち:
「禁止したいな、その言葉」
村人が次々と現れた。
毛布。
芋。
干し肉。
牛乳。
パン。
藁。
若い社員は目を見張った。
「ずいぶん集まりますね」
老婆が言う。
「昔、この人たちに村を空けてもらったことがあるんだよ」
若い社員が元白軍将校を見る。
「何したんです?」
元白軍将校:
「避難させた」
老婆:
「砲撃の前日にね」
「運がよかった」
「三日前から騒いでたじゃないか」
元白軍将校:
「昔のことだ」
老婆:
「昔だから話してるんだよ」
元金持ちが笑った。
---
夕方。
元金持ちは村の家ごとに紙を切っていた。
芋。
パン。
牛乳。
藁。
馬の飼料。
宿泊。
医薬品。
若いWILK社員が横で確認する。
「これは誰宛てです」
「北側の農家」
「名前は?」
元金持ちが顔を上げる。
「聞いてこい」
「あなたが聞いてくださいよ」
「私は金額をまとめてる」
「会計じゃないんでしょう?」
元金持ちが黙った。
若い社員が笑った。
「行ってきます」
元白軍将校は少し離れたところで、村の老人たちと地図を見ていた。
元金持ちはその姿を見ながら言う。
「なあ」
若い社員が振り返る。
「はい」
「WILKは、こういう支払いを本当にするのか」
「すると思います」
「思います?」
「実業家が見たら怒るでしょうけど」
「何に」
「様式」
元金持ちは胸を張った。
「昨日より百倍ましだ」
「だから多分払います」
「会社の承認もないのに?」
若い社員は少し考えた。
「この人が署名してるので」
二人とも元白軍将校を見る。
元金持ち:
「そんなに信用あるのか」
若い社員:
「WILKの創業者です」
元金持ちが止まった。
「……何?」
「聞いてなかったんですか」
「いや、WILKの人間だとは聞いていた」
「創業者ですよ」
元金持ちはしばらく元白軍将校を見る。
「あれが?」
「はい」
「舞踏会にいたあれが?」
「知りません」
「白軍にいたあれが?」
「そこも本人が認めないので」
「今は避難民を九十三人連れて歩いてるぞ」
「それは見れば分かります」
元金持ちは額を押さえた。
「何なんだ、あの男」
赤軍兵が通りがかりに答えた。
「昔からです」
元金持ち:
「便利だな、お前らそれで全部済ませるの」
---
夜。
食事の最中、老婆が一枚の紙を持ってきた。
古い紙だった。
黄ばんでいる。
折り目もある。
元白軍将校が見て、顔をしかめた。
「まだ持っていたのか」
「持ってたよ」
元金持ちが興味を示す。
「何だ」
老婆が紙を渡す。
そこには、昔の支払証書。
金額。
日付。
署名。
そして裏面に、別の書き込み。
元金持ちが読む。
「……支払済?」
老婆:
「十年後にね」
若い社員:
「また十年後だ」
老婆:
「利子まで来たよ」
元金持ちは紙を裏返す。
「誰が持ってきた」
「知らない男」
元白軍将校:
「手配した」
老婆:
「だから今回も紙でいい」
元金持ちは少しだけ黙った。
「なるほど」
若い社員が聞く。
「何がです?」
「信用ってのは、こういうものか」
元白軍将校:
「払うと言ったから払っただけだ」
元金持ち:
「その『だけ』を二十年続けるのが難しいんだよ」
元白軍将校は何も答えず、パンを食べた。
老婆が笑う。
「昔もこうだったよ。この人、褒めると黙るんだ」
若い社員:
「いいこと聞いた」
元白軍将校:
「忘れろ」
---
翌朝。
また増えた。
元金持ちは門の前で人を数えていた。
「九十四、九十五、九十六……」
若い社員が横を通る。
「増えました?」
「七人」
「何で」
「村から四人。昨日の宿から聞いて来たのが三人」
「誰です?」
「鍛冶屋夫婦。娘。御者。それと……」
元金持ちは帳簿を見る。
「元郵便局員」
若い社員:
「使えそう」
元金持ち:
「お前も染まってきたな」
「その次は?」
「靴職人」
「使える」
「最後は?」
元金持ちは顔を上げた。
「元税務官」
若い社員は少し考えた。
「……使える?」
元金持ち:
「ものすごく使える」
「何に?」
「帳簿」
元白軍将校が前から言う。
「お前の手伝いだ」
元金持ち:
「勝手に部下を増やすな!」
元税務官が帽子を取った。
「よろしくお願いします」
元金持ち:
「早い!」
若い社員は笑いながら帳簿を一冊渡した。
「ようこそ」
元金持ち:
「だから私はWILKじゃない!」
---
一行は再び南へ向かった。
百人を越えた。
若い社員はとうとう数えるのをやめた。
代わりに元金持ちと元税務官が数え始めた。
それだけでも旅は少し進歩していた。
道中、元白軍将校は老婆からもらった小さな紙を見ていた。
次の宿の名前。
その次の村。
さらに南の農場。
三つ先まで書いてある。
赤軍兵が覗き込む。
「まだ残ってましたか」
「らしい」
「懐かしい名前ですね」
元金持ちが後ろから聞く。
「また元部下か」
「一人は」
「残りは?」
「知らん」
「知らんのに行くのか」
元白軍将校は紙を畳んだ。
「道がある」
元金持ち:
「それは地図にもある」
元白軍将校:
「人がいる」
元金持ちは少し黙った。
その答えだけは、妙に納得できた。
しばらくして、前方を走っていた学生が戻ってきた。
「次の村です!」
元白軍将校:
「宿は」
「あります!」
「主人は」
「分かりません!」
「人は」
学生が息を切らしながら答える。
「宿の前に十五人くらいいます!」
若い社員が空を見る。
元金持ちは帳簿を開く。
元税務官も鉛筆を出す。
赤軍兵が笑う。
「増えますな」
元白軍将校は当然のように歩調を速めた。
若い社員が叫ぶ。
「まだ泊まるとも言ってませんよ!」
元白軍将校:
「まず聞く」
「何を!」
「何ができるか」
元金持ちが頭を抱えた。
「会計が追いつかん!」
元白軍将校は振り返らない。
「歩きながらやれ」
元金持ち:
「お前、会計を何だと思ってる!」
その声を聞きながら、一行は南へ進んだ。
宿を一つ越えるたびに。
昔の話が一つ増えた。
支払証書が数枚増えた。
そして人間は、もっと増えた。
国境はまだ遠かった。
だが、その間にある宿の数だけは、どうやら十分にあった。