WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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『一九三九年九月下旬・南方国境付近移動記録』

移動群は主要国境道を避け、複数の農道、林道、旧街道を使用した。

正確な越境地点は記録されていない。

理由について、後年のWILK関係者は、

「記録しない方がよかった」

と証言している。

また、同行者数についても記録は一定しない。

国境直前。

百名を超過。

以上。


第199話 国境は道ではない

 

「百十一」

 

元金持ちが言った。

 

若いWILK社員が振り返る。

 

「減りました?」

 

「増えた」

 

「昨日百七でしたよね」

 

「だから百十一だ」

 

「四人?」

 

「四人」

 

「誰です」

 

元金持ちは帳簿を見る。

 

「御者が一人。農夫が二人。元郵便局員の弟」

 

「何ができます?」

 

元金持ちが顔を上げる。

 

「お前までそれを聞くようになったな」

 

若い社員は少し考えた。

 

「……染まりましたね」

 

「手遅れだ」

 

前を歩く元白軍将校が振り返る。

 

「静かにしろ」

 

二人とも黙った。

 

今日だけは、いつもより声が低かった。

 

国境が近い。

 

---

 

道はもう、道らしい道ではなかった。

 

畑の脇。

 

林の中。

 

牛が通る細い跡。

 

使われなくなった荷馬車道。

 

ところどころ泥。

 

ところどころ石。

 

トラックは何度も止まった。

 

馬車は進める。

 

猫車はもっと進める。

 

人間はさらに進める。

 

元白軍将校は何度も列を分けた。

 

「車はここまで」

 

「ここから先は?」

 

「歩く」

 

元金持ちが聞く。

 

「荷物は」

 

「必要な物だけ」

 

「また減らすのか」

 

「国境へ会社の倉庫ごと持っていく気か」

 

元金持ちは帳簿を抱え直す。

 

「これは持つ」

 

「好きにしろ」

 

若い社員:

 

「壁掛け時計は?」

 

元白軍将校が見る。

 

老人がしっかり抱えていた。

 

「……本人に聞け」

 

老人:

 

「持っていく」

 

元白軍将校:

 

「そうか」

 

元金持ち:

 

「それだけは最後まで行きそうだな」

 

---

 

昼前。

 

一行は林の中で止まった。

 

先行していた学生二人が戻ってくる。

 

「先に道があります」

 

元白軍将校:

 

「人は」

 

「少ないです」

 

「兵は」

 

「見えません」

 

「車」

 

「一台」

 

元金持ちが聞く。

 

「検問は?」

 

学生は首を横に振る。

 

「今のところ」

 

赤軍兵だった元部下が地図を見る。

 

「この先を抜ければ、あと半日くらいです」

 

元白軍将校がうなずく。

 

「日が落ちてから動く」

 

若い社員が聞く。

 

「夜に?」

 

「人が少ない」

 

「車は?」

 

「置いていく物は置く」

 

元金持ち:

 

「せっかく買ったのに」

 

元白軍将校:

 

「まだ買ってない」

 

「そうだったな」

 

しばらく沈黙。

 

今までなら誰かが笑うところだった。

 

今日は笑いが小さい。

 

---

 

午後。

 

元白軍将校は全員を集めた。

 

百人以上が、林の中でばらばらに立つ。

 

兵士。

 

WILK社員。

 

赤軍離脱組。

 

職人。

 

家族。

 

老人。

 

子供。

 

農夫。

 

元金持ち。

 

犬。

 

鶏。

 

そして壁掛け時計。

 

元白軍将校は長い話をしなかった。

 

「ここから先、全員一緒には動かない」

 

ざわめきが起きる。

 

「十人から十五人で分ける」

 

元金持ちがすぐ聞く。

 

「番号振ります?」

 

「振れ」

 

「珍しく素直だな」

 

「後で数える」

 

若い社員:

 

「数えるんですね」

 

元白軍将校:

 

「国境だからな」

 

そこで空気が少し変わった。

 

いつも人数に無頓着な男が、今回は数えると言った。

 

「老人と子供を先に。怪我人も」

 

ポーランド兵が聞く。

 

「護衛は?」

 

「各組に二人以上」

 

「赤軍の者も?」

 

元白軍将校は赤軍兵を見る。

 

赤軍兵が肩をすくめる。

 

「今さらでしょう」

 

元白軍将校:

 

「使えるなら使え」

 

若い社員:

 

「結局それですね」

 

---

 

元金持ちと元税務官が、木の幹を机代わりに名簿を作る。

 

第一組。

 

第二組。

 

第三組。

 

途中で元金持ちが叫ぶ。

 

「誰だ、名前を書かずに“靴屋”とだけ書いたのは!」

 

若い社員が手を挙げる。

 

「私です」

 

「名前!」

 

「聞いてません」

 

「聞け!」

 

「元白軍将校は職業しか聞かないので」

 

「知ってる!」

 

元白軍将校:

 

「名前は後でもいい」

 

元金持ち:

 

「今がその後だ!」

 

少し笑いが戻った。

 

---

 

日が落ちる。

 

林の中で順番に動き始める。

 

最初の組。

 

老人。

 

子供。

 

負傷者。

 

護衛。

 

その次。

 

家族。

 

職人。

 

また兵士。

 

一組ずつ。

 

間隔を空ける。

 

元白軍将校は最後尾に残った。

 

若い社員が聞く。

 

「あなたは?」

 

「最後」

 

「またですか」

 

「先に行って詰まったら困る」

 

元金持ち:

 

「それと」

 

「何だ」

 

「お前、国境越えたら支払証書の通貨どうする」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「お前が決めろ」

 

元金持ち:

 

「……本当に会計になってるな、俺」

 

若い社員:

 

「ようこそ」

 

「うるさい」

 

---

 

夜。

 

最後の組が動き出す。

 

荷物は減った。

 

声も小さい。

 

靴音。

 

車輪。

 

馬の鼻息。

 

子供を背負う大人。

 

眠った子供を抱く兵士。

 

元白軍将校は途中で何度も止まった。

 

前を見る。

 

後ろを見る。

 

列が切れていないか。

 

昔と同じだった。

 

赤軍兵だった元部下が隣を歩く。

 

「懐かしいですな」

 

「何がだ」

 

「こういう夜」

 

元白軍将校はしばらく黙った。

 

「昔のことだ」

 

「今日は言うと思いました」

 

「黙れ」

 

赤軍兵は笑った。

 

---

 

国境そのものは、思っていたより地味だった。

 

大きな門もない。

 

石碑。

 

柵。

 

道。

 

暗い畑。

 

その向こうに別の国。

 

若い社員が立ち止まる。

 

「……これ?」

 

元白軍将校:

 

「これだ」

 

「もっとこう」

 

「何だ」

 

「国境らしいものが」

 

元白軍将校は暗い道を見る。

 

「国境は道じゃない」

 

若い社員:

 

「では?」

 

「人が決めた線だ」

 

元金持ちが後ろから言う。

 

「その線のせいで、俺の会社三つが向こうなんだが」

 

「昔のことだ」

 

元金持ち:

 

「まだ今のことだ!」

 

久しぶりに、少し大きな笑いが出た。

 

でもすぐ静かになった。

 

---

 

一組目が越える。

 

二組目。

 

三組目。

 

誰も走らない。

 

急がない。

 

騒がない。

 

ただ進む。

 

元白軍将校は人数を聞く。

 

「第一組?」

 

「十三」

 

「第二」

 

「十二」

 

「第三」

 

「十四」

 

元金持ちが答える。

 

「全部いる」

 

「よし」

 

次。

 

次。

 

次。

 

いつの間にか、ポーランド側に残る人数が減っていく。

 

若い社員が振り返る。

 

暗い向こう。

 

町も見えない。

 

煙も見えない。

 

何もない。

 

それでも分かる。

 

あちらが、今までいた国だった。

 

「戻れますかね」

 

誰かが言った。

 

元白軍将校は答えなかった。

 

代わりに、

 

「次」

 

と言った。

 

---

 

最後の組。

 

元白軍将校。

 

元金持ち。

 

若いWILK社員。

 

赤軍兵だった元部下。

 

ポーランド兵数名。

 

元税務官。

 

そして老人。

 

壁掛け時計。

 

老人が息を切らしながら歩く。

 

元金持ちが時計を見る。

 

「貸せ」

 

「嫌だ」

 

「落とすぞ」

 

「嫌だ」

 

元白軍将校:

 

「二人で持て」

 

元金持ち:

 

「何で俺が!」

 

「手が空いてる」

 

「帳簿持ってる!」

 

若い社員が笑う。

 

「国境越えまで時計とは思わなかったな」

 

老人:

 

「当たり前だ」

 

「何がです」

 

「家だ」

 

誰も何も言わなくなった。

 

少しして、元白軍将校が時計の反対側を持った。

 

老人が驚く。

 

「何だ」

 

「重い」

 

「だから置いていけと言ったろ」

 

「今さら言うな」

 

二人で持つ。

 

元金持ちが横で笑った。

 

「結局手伝うんじゃないか」

 

「黙れ」

 

---

 

線を越える。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

誰も拍手しなかった。

 

誰も叫ばなかった。

 

ただ、歩いた。

 

少し先で待っていた人々が、こちらを見る。

 

若い社員が息を吐く。

 

「……越えましたね」

 

元白軍将校:

 

「ああ」

 

元金持ちが帳簿を見る。

 

「全員?」

 

元税務官が数える。

 

「確認します」

 

しばらくして。

 

「全員います」

 

元白軍将校が初めて、後ろを振り返った。

 

暗い。

 

何も見えない。

 

長くは見なかった。

 

「行くぞ」

 

若い社員が驚く。

 

「今?」

 

「ここにいる理由がない」

 

元金持ち:

 

「待て」

 

「何だ」

 

「今夜くらい休め」

 

元白軍将校は人々を見る。

 

老人。

 

子供。

 

兵士。

 

家族。

 

皆、疲れている。

 

少し考える。

 

「……そうだな」

 

元金持ち:

 

「珍しく聞いた」

 

「うるさい」

 

---

 

夜営地は、国境から少し離れた農場になった。

 

納屋。

 

干し草。

 

井戸。

 

少しの食料。

 

人々は次々と横になる。

 

元金持ちは最後まで帳簿を書いていた。

 

若い社員が隣へ座る。

 

「何書いてるんです?」

 

「人数」

 

「何人?」

 

元金持ちは答える。

 

「百十一」

 

「全員?」

 

「全員」

 

若い社員は少し笑った。

 

「出発した時、二十人くらいでしたよね」

 

「らしいな」

 

「増えましたね」

 

元金持ちは前を見る。

 

元白軍将校は、壁掛け時計を納屋の柱へ掛けていた。

 

「……あいつに言うな」

 

「何を」

 

「また増えたって」

 

「言わなくても知ってますよ」

 

「人数覚えてないだろ」

 

「それはそう」

 

二人は笑った。

 

---

 

夜が深くなる。

 

元白軍将校は眠る前、地図を広げた。

 

若い社員が覗く。

 

「明日は?」

 

元白軍将校は南を指す。

 

「町へ行く」

 

「そこで?」

 

「車を買う」

 

「車?」

 

「ここから先、歩いて英国まで行く気か」

 

若い社員が目を丸くする。

 

元金持ちが後ろから聞いた。

 

「何台」

 

元白軍将校:

 

「買えるだけ」

 

元金持ち:

 

「待て」

 

元白軍将校:

 

「何だ」

 

元金持ち:

 

「それは俺の仕事になる気がする」

 

「そうだな」

 

元金持ちは頭を抱えた。

 

「やっぱりか」

 

若い社員が笑った。

 

明日。

 

彼らは国外へ出る。

 

正確には、もう線の向こう側にはいた。

 

だが、旅は終わらない。

 

徒歩の避難行が終わるだけだった。

 

次に始まるのは。

 

車列だった。

 

 

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