WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

2 / 46

――創業者私的帳簿、余白への書き込み
一九一九年

軽郵便機一機を受注。
前金なし。材料支給なし。設備提供なし。完成後払い。

通常であれば断るべき案件である。

しかし軍人は廃棄予定品の一覧を持参した。
活動家は町の職人を訪ねて回った。
ロシア人は壊れた発動機を分解した。
ドイツ人は、その分解方法が間違っていると怒鳴った。

今日、誰も逃げなかった。

ならば、共同経営者にしてもよいかもしれない。



第2話 今日、誰も逃げなかった

 

 翌朝。

 

 五人全員が、また小屋へやってきた。

 

 最初に来たのは、元ドイツ帝国軍技師だった。

 

 日の出前から発動機を分解し、部品を布の上へ並べている。

 

 次に元白軍将校が来た。

 

 部品の並びを一目見て、そのうち一つを勝手に持ち上げた。

 

「触るな」

 

 元ドイツ技師が言った。

 

「見るだけだ」

 

「持ち上げた時点で見るだけではない」

 

「摩耗している」

 

「分かっている」

 

「削れば使える」

 

「削るな」

 

「ではどうする」

 

「寸法の合う代替品を探す」

 

「どこにある」

 

「これから探す」

 

 元白軍将校は部品を元の位置へ戻した。

 

 ただし向きが逆だった。

 

 元ドイツ技師が無言で直す。

 

 そこへ元独立運動家が入ってきた。

 

 背中に木箱を背負い、両手にも工具を抱えている。

 

「町の鍛冶屋から借りてきた」

 

 箱を床へ下ろす。

 

 中には大小さまざまな工具が入っていた。

 

 元ドイツ技師が一つ手に取る。

 

「寸法が違う」

 

「使えないか」

 

「使えなくはない」

 

「なら使える」

 

「そういう分類をするな」

 

 四人目に来た実業家は、扉の前で一度立ち止まった。

 

 室内を見る。

 

 既に口論が始まっている。

 

 発動機は昨日より多くの部品へ分かれている。

 

 床には油が広がっている。

 

 工具箱は軍用品、農具、鍛冶道具が入り混じっていた。

 

「おはようございます」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 実業家は自分の机まで歩き、帳簿を油から遠ざける。

 

 最後にポーランド軍将校が来た。

 

 肩に重そうな麻袋を担いでいる。

 

 扉を押した。

 

 開かなかった。

 

「引いてください」

 

 四人が同時に言った。

 

 軍将校は無言で扉を引いた。

 

「点火栓だ」

 

 麻袋を机へ置く。

 

 金属音が響いた。

 

 実業家が袋の中を見る。

 

「大量ですね」

 

「軍倉庫の廃棄予定品だ」

 

「正式に廃棄されたのですか」

 

「予定品だと言った」

 

「まだ軍の所有物ですね」

 

「三日後には廃棄される」

 

「三日後に持ってくればよかったのでは?」

 

「今日必要だろう!」

 

 実業家は軍将校の顔を見る。

 

「借用書は」

 

「ない」

 

「受領書は」

 

「ない」

 

「上官の許可は」

 

「口頭で取った」

 

「どなたから?」

 

「私からだ」

 

「あなたが許可を出したのですか」

 

「私は上官だ!」

 

「ご自分の行動に、ご自分で許可を」

 

「問題があるか」

 

「非常にあります」

 

 元独立運動家が麻袋の中を覗いた。

 

「使えるものはあるのか」

 

 元ドイツ技師が点火栓を一本ずつ確認する。

 

「半分は不良品だ」

 

「半分は使えるのだな」

 

「そういう数え方をするな」

 

「皆、その数え方をするぞ」

 

 元白軍将校が一本を受け取る。

 

「火花が出れば使える」

 

「絶縁状態も確認しろ」

 

「火花が出た後に考える」

 

「先に考えろ!」

 

 朝の作業は、そのように始まった。

 

     ◇

 

 そもそも、なぜこの五人が同じ小屋にいるのか。

 

 五人とも、自分から説明する気はなかった。

 

 聞かれれば答える。

 

 ただし相手の説明に誤りがあれば、即座に訂正する。

 

 そのため、彼らの馴れ初めを知ろうとした者は、大抵途中で後悔することになった。

 

     ◇

 

 実業家と元独立運動家の付き合いが始まったのは、ポーランドがまだ国として地図に載っていなかった頃である。

 

 当時の元独立運動家は、偽名を三つ使い分け、印刷機の部品、医薬品、紙、インクを集めていた。

 

 ある日、彼は実業家の倉庫へやってきた。

 

「印刷機用の歯車と、医薬品を譲ってほしい」

 

 実業家は帳簿から顔を上げなかった。

 

「代金は」

 

「後で払う」

 

「いつです?」

 

「国ができたら」

 

 実業家はそこで初めて顔を上げた。

 

「国家は支払い保証人になりません」

 

「なら私が払う」

 

「あなたが生きていれば」

 

「生きる」

 

「皆そう言います」

 

「私は逃げない」

 

「皆それも言います」

 

 元独立運動家は黙って立っていた。

 

 追い返されても帰る気がないらしい。

 

 実業家はしばらく彼を見た後、注文品の七割を倉庫から出した。

 

「全部ではないのか」

 

「全額未払いの相手へ、全量を渡す商人はいません」

 

「なぜ七割だ」

 

「あなたは返済できなくても、逃げない顔をしている」

 

「褒められた気がしない」

 

「褒めていません」

 

 数年後。

 

 ポーランドが独立すると、元独立運動家は本当に金を持って現れた。

 

 服は擦り切れ、片腕には包帯を巻き、持ってきた金額は足りなかった。

 

「利息分が不足しています」

 

 実業家は淡々と言った。

 

「国ができたばかりだ」

 

「国家事情は債務に影響しません」

 

「少しは喜べ」

 

「喜びと会計は別です」

 

「ではどうする」

 

「労働で返してください」

 

 元独立運動家は、その日から倉庫仕事を手伝い始めた。

 

 荷を運び、人を集め、職人と交渉し、警官と喧嘩した。

 

 借金は半年で返し終えた。

 

 しかし実業家は、それを本人へ伝えなかった。

 

 それからさらに半年、元独立運動家は働き続けていた。

 

     ◇

 

「私の借金は、あといくら残っている」

 

 現在の小屋で、元独立運動家が唐突に尋ねた。

 

 実業家は帳簿を閉じる。

 

「今は発動機の話をしています」

 

「質問に答えろ」

 

「後で」

 

「怪しいな」

 

「怪しくありません」

 

 軍将校が口を挟む。

 

「お前、まだ借金を返していたのか」

 

「そのはずだ」

 

「独立前の話だろう」

 

「利息があるらしい」

 

「どれだけ高い利息だ!」

 

 実業家は視線を逸らした。

 

 元独立運動家が立ち上がる。

 

「帳簿を見せろ」

 

「機密です」

 

「私の借金だぞ」

 

「個人情報でもあります」

 

「本人が見せろと言っている!」

 

 元ドイツ技師が発動機を指さした。

 

「喧嘩なら外でしろ。埃が入る」

 

「扉が開くたびに雪が入っているだろう」

 

「だから増やすな!」

 

     ◇

 

 元独立運動家とポーランド軍将校は、独立運動の時代から知り合いだった。

 

 仲がよかったわけではない。

 

 むしろ顔を合わせるたびに揉めた。

 

 軍将校は軍事組織を作ろうとし、元独立運動家は住民組織を守ろうとした。

 

「若者を集めすぎだ」

 

 ある夜、元独立運動家が言った。

 

「人が足りん」

 

「村から働き手を抜けば、冬を越せなくなる」

 

「戦わなければ村そのものがなくなる」

 

「勝った後に人がいなければ、何のための国だ」

 

「負ければ国も人も残らん!」

 

 二人は最後まで結論を出せなかった。

 

 翌朝、それぞれ別の場所へ向かった。

 

 しかし敵の捜索隊が村へ近づいた時、軍将校は自分の兵を送り、元独立運動家は住民を逃がした。

 

 二人とも、自分の担当が終わるまで逃げなかった。

 

 だから軍将校が航空郵便の話を持ち込んだ時、最初に訪ねたのは彼だった。

 

「飛行機を作れる人間を知らんか」

 

「知らん」

 

「即答するな」

 

「知っていたら、もう紹介している」

 

「では金を出せる人間は」

 

「一人いる」

 

「信用できるか」

 

「金に関しては」

 

「それ以外は」

 

「知らん」

 

 そうして軍将校は、実業家の倉庫へ連れてこられた。

 

 実業家は軍将校の話を最後まで聞き、こう答えた。

 

「採算が合いません」

 

「国に必要だ」

 

「必要性と採算性は別です」

 

「ならどうすればいい」

 

「安く作る」

 

「作れるのか」

 

「技師がいれば」

 

「技師を知らんか」

 

 実業家は少し考えた。

 

「一人、面倒なのがいます」

 

     ◇

 

 元ドイツ帝国軍技師は、戦後の軍需品処分場で拾われた。

 

 本人は拾われたという表現を嫌った。

 

「雇用契約を結んだ」

 

 と毎回訂正する。

 

 だが実際の状況は、かなり拾われたに近い。

 

 戦争が終わり、軍需工場が縮小され、彼は職を失った。

 

 新しい国境。

 

 新しい政府。

 

 古い制服。

 

 ドイツ人というだけで断られる仕事も多かった。

 

 そんな彼を、実業家は廃棄部品の山で見つけた。

 

 技師は一人で、ねじ、歯車、軸受、配管を寸法別に並べていた。

 

「何をしているのです」

 

 実業家が尋ねた。

 

「規格が混ざっている」

 

「すべて廃棄品でしょう」

 

「廃棄品だから混ぜてよいという規則はない」

 

「誰も使いませんよ」

 

「誰かが拾うかもしれない」

 

「拾った人が困ると?」

 

「寸法が違えば事故になる」

 

 実業家は積まれた部品を見る。

 

 どれも錆び、汚れ、半分は壊れている。

 

「発動機を直せますか」

 

「型式による」

 

「型式は不明です」

 

「状態は」

 

「悪い」

 

「部品は」

 

「足りない」

 

 技師は実業家を見た。

 

「直せるとは言えない」

 

「直せないとも言っていませんね」

 

「現物を見なければ判断できない」

 

「では来てください」

 

「賃金は」

 

 実業家は金額を提示した。

 

「安い」

 

「住む場所と食事を付けます」

 

「作業環境は」

 

「屋根があります」

 

「それは環境ではない」

 

「雨は防げます」

 

「窓は」

 

「一枚割れています」

 

「話にならん」

 

「では、ここで廃棄部品を並べ続けますか」

 

 技師は黙った。

 

 その日の夕方、小屋へ来た。

 

     ◇

 

「拾われたのではない」

 

 現在の元ドイツ技師が言った。

 

 誰もその話をしていなかった。

 

 軍将校が振り返る。

 

「急に何だ」

 

「今、拾われたと言われた気がした」

 

「誰も言っていない」

 

「雇用契約だ」

 

「分かった、分かった」

 

「分かっていない返事だ」

 

 元白軍将校が笑う。

 

「捨てられた部品の横にいたのだろう」

 

「お前に言われたくない」

 

「私は捕虜収容所にいた」

 

「より悪いではないか」

 

     ◇

 

 元白軍将校を連れてきたのは、ポーランド軍将校だった。

 

 敗残兵、難民、元捕虜、家族を失った者たちが国境を越えて流れ込んでいた頃。

 

 白軍将校は、疲れ切った二十人ほどの部下とともに、臨時収容所へ現れた。

 

「武器を置け」

 

 ポーランド軍将校が命じた。

 

「先に部下へ食事を出せ」

 

 白軍将校は答えた。

 

「銃を持った人間へ食事は出せん」

 

「三日食っていない」

 

「だから武器を置け」

 

「武器を置いた後に撃たれない保証は」

 

「私がする」

 

「お前を知らん」

 

「私もお前を知らん」

 

 二人はしばらく睨み合った。

 

 結局、白軍兵が一人ずつ銃を地面へ置き、その横でポーランド兵が一人ずつパンを渡した。

 

「同時か」

 

 白軍将校が言った。

 

「文句があるか」

 

「ない」

 

 その日の夕方。

 

 白軍将校は収容所の隅で、故障した輸送車を勝手に分解していた。

 

「何をしている」

 

「修理だ」

 

「逃走準備か」

 

「動かない車でどう逃げる」

 

「誰が分解してよいと言った」

 

「誰も直していなかった」

 

「だからといって勝手に触るな!」

 

「動けば便利だ」

 

「そういう問題ではない!」

 

 三時間後、輸送車は動いた。

 

 ポーランド軍将校は、白軍将校を営倉へ入れるか、整備班へ入れるか悩んだ。

 

 最終的に、小屋へ連れてきた。

 

「航空機の経験は」

 

「少しある」

 

「どの程度だ」

 

「墜落した機体から、使える部品を取る程度」

 

「飛ばした経験は」

 

「ない」

 

「なら航空機経験とは言わん!」

 

「整備経験だ」

 

「先にそう言え!」

 

     ◇

 

 白軍将校とドイツ技師が初めて顔を合わせたのは、小屋ではない。

 

 実業家が買い付けた、廃棄予定の航空発動機を引き取りに行った時だった。

 

 二人は同じ発動機の前で、同時に足を止めた。

 

「この発動機は使える」

 

 白軍将校が言った。

 

「使えない」

 

 ドイツ技師が答えた。

 

「圧縮は残っている」

 

「主軸が摩耗している」

 

「隙間を詰めればよい」

 

「規格外だ」

 

「動けばよい」

 

「規格通りに動かなければ、動いたとは言わない」

 

 白軍将校は発動機の側面を開けた。

 

 ドイツ技師がその手を払いのける。

 

「順序が違う」

 

「中を見れば分かる」

 

「先に記録を取れ」

 

「記録を取る前に日が暮れる」

 

「記録を取らないから、次も同じ失敗をする!」

 

「次まで生きていればな!」

 

 二人は部品を奪い合い、分解し、組み直し、互いの作業へ文句をつけ続けた。

 

 日が暮れる頃。

 

 動かないはずだった発動機が、一度だけ回った。

 

 数秒で止まった。

 

 白煙が上がった。

 

 油も漏れた。

 

 それでも回った。

 

 実業家は二人を見た。

 

「お二人とも雇います」

 

 二人が同時に振り返る。

 

「こいつと?」

 

「嫌なら発動機を置いて帰ってください」

 

 二人は互いを見る。

 

 発動機を見る。

 

 誰も帰らなかった。

 

     ◇

 

「回ったのは三秒だ」

 

 現在のドイツ技師が言った。

 

「五秒だ」

 

 白軍将校が返す。

 

「三秒だ」

 

「五秒はあった」

 

「記録では三・八秒だ」

 

「四捨五入すれば四秒だな」

 

「なぜ増やした!」

 

「間を取った」

 

「何の間だ!」

 

 元独立運動家が発動機の下へ布を敷いた。

 

「油漏れが増えている」

 

 二人が同時に屈み込む。

 

 口論が止まった。

 

 発動機の修理は午前中いっぱい続いた。

 

 点火栓を交換。

 

 燃料配管を清掃。

 

 摩耗した部品の代用品を加工。

 

 ひび割れた箇所へ補強材を当てる。

 

 元白軍将校は、現場で簡単に直せる方法を選んだ。

 

 元ドイツ技師は、その方法で事故が起きない最低限の寸法を決めた。

 

 二人の意見はほとんど一致しない。

 

 だが完成した部品だけは、妙に実用的だった。

 

 元独立運動家は町を回り、足りない銅管、布、油、針金を集めた。

 

「代金は」

 

 実業家が尋ねる。

 

「後払いだ」

 

「勝手に借金を増やさないでください」

 

「お前の名前を出した」

 

「さらに悪い!」

 

 軍将校は倉庫と小屋を往復した。

 

 昼過ぎに戻ってくると、今度は木箱を抱えていた。

 

「何です?」

 

「工具だ」

 

「廃棄予定品ですか」

 

「修理予定品だ」

 

「軍が修理する予定の品を、なぜ持ってきたのです」

 

「ここで修理する」

 

「軍の修理計画とは」

 

「今決めた」

 

「誰が」

 

「私が」

 

 実業家は額を押さえた。

 

「この会社が始まる前に、軍法会議で終わりそうですね」

 

「会社なのか、ここは」

 

 軍将校が尋ねる。

 

 実業家は答えなかった。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 発動機は、どうにか再び組み上がった。

 

 見た目は朝より悪くなっている。

 

 配管の一部は別の機械から外したもの。

 

 固定具は鍛冶屋の手製。

 

 点火栓は軍倉庫から持ち出した廃棄予定品。

 

 配線を束ねているのは、元独立運動家がどこかから持ってきた麻紐だった。

 

 元ドイツ技師が麻紐を見る。

 

「燃える」

 

「燃料漏れを起こさなければ燃えん」

 

「燃料漏れを前提にしろ」

 

「縁起でもない」

 

「安全設計だ!」

 

 元白軍将校が始動用クランクを握る。

 

「回すぞ」

 

「待て」

 

 ドイツ技師が各部をもう一度確認する。

 

「今度こそよいか」

 

「待て」

 

「さっきから待っている」

 

「確認中だ」

 

「日が暮れる」

 

「暗くなっても発動機は逃げない」

 

「我々が凍える」

 

「凍える前に確認を終える」

 

 軍将校が暖炉へ薪を放り込む。

 

「早くしろ。今朝持ち出した点火栓を、今日中に一度は使わねばならん」

 

「使えば合法になるのか」

 

 実業家が尋ねた。

 

「無駄にはならない」

 

「合法かと聞いています」

 

「回すぞ!」

 

 白軍将校がクランクを回した。

 

 一度目。

 

 何も起きない。

 

 二度目。

 

 発動機が咳き込む。

 

 三度目。

 

 白煙が上がった。

 

「燃料を絞れ!」

 

「絞っている!」

 

「足りん!」

 

「これ以上絞れば止まる!」

 

「まだ動いていない!」

 

 四度目。

 

 激しい破裂音。

 

 全員が身を伏せた。

 

 発動機が震える。

 

 金属音。

 

 白煙。

 

 油が一滴、床へ落ちる。

 

 それでも回った。

 

 一度止まりかけ、元白軍将校が燃料を調整する。

 

 元ドイツ技師が点火時期を変える。

 

 回転が安定する。

 

 小屋全体が震えた。

 

 窓枠に積もった雪が落ちる。

 

 全員の顔が、油と煤で黒くなっていた。

 

 誰も歓声を上げなかった。

 

 誰も拍手しなかった。

 

 ただ発動機の音を聞いた。

 

 いつ止まるか。

 

 どこが壊れるか。

 

 異音はないか。

 

 油圧は保たれているか。

 

 彼らは喜ぶ前に、確認した。

 

 数分後。

 

 元ドイツ技師が手を上げた。

 

「止めろ」

 

 白軍将校が燃料を絞る。

 

 発動機の回転が落ちる。

 

 最後に一度大きく咳き込み、停止した。

 

 静かになった小屋に、金属が冷えていく音だけが響く。

 

 軍将校が最初に口を開いた。

 

「動いたな」

 

 元ドイツ技師が答える。

 

「安定運転とは言えない」

 

 元白軍将校が続ける。

 

「飛行時間一時間程度なら持つ」

 

「根拠は」

 

「音だ」

 

「音で耐久時間を決めるな!」

 

 元独立運動家は暖炉の前へ座った。

 

「一基目はできた」

 

「できていない」

 

「回った」

 

「整備が必要だ」

 

「なら、ほぼできた」

 

「その言葉を技術者の前で使うな!」

 

 実業家は全員を見た。

 

 朝から働き続け、誰もまともに食事を取っていない。

 

 全員、服も顔も油だらけ。

 

 軍将校が持ってきた点火栓。

 

 独立運動家が集めた工具。

 

 白軍将校が考えた代替部品。

 

 ドイツ技師が決めた寸法。

 

 それらを買い、借り、記録し、責任を背負う自分。

 

 誰か一人がいなくても、発動機は回らなかった。

 

「話があります」

 

 実業家は自分の机へ戻った。

 

 引き出しから、五枚の紙を取り出す。

 

 元独立運動家が眉をひそめる。

 

「また借用書か」

 

「違います」

 

「軍への謝罪文か」

 

 軍将校が尋ねる。

 

「それも必要になるでしょうが、違います」

 

 紙を机へ並べる。

 

「共同経営契約書です」

 

 四人が黙った。

 

 軍将校が最初に口を開く。

 

「会社だったのか、ここは」

 

「まだ違います」

 

「ではこれは何だ」

 

「会社にするための書類です」

 

 元独立運動家が契約書を取る。

 

「私は借金を返している途中だぞ」

 

「もう返済は終わっています」

 

 小屋が静かになる。

 

「いつ」

 

「半年前です」

 

「なぜ言わなかった」

 

「よく働いていたので」

 

 元独立運動家は契約書を机へ置いた。

 

「殴ってよいか」

 

「共同経営者への暴力は禁止条項に入れます」

 

「まだ署名していない」

 

「では署名前ならよいと?」

 

 実業家が一歩下がった。

 

 軍将校が契約書を見る。

 

「私は現役軍人だ」

 

「軍籍のまま技術顧問として参加してください」

 

「軍が許可するか」

 

「あなたが許可を出すのでは?」

 

「私の会社参加へ、私が許可を出すのか」

 

「点火栓ではそうしていました」

 

「同じにするな!」

 

 元白軍将校は契約書へ触れなかった。

 

「私は国を失った」

 

 実業家が答える。

 

「契約書に国籍欄はありません」

 

「身元保証人もいない」

 

「ここに四人います」

 

 元白軍将校は四人を見る。

 

「こいつらが保証人か」

 

「不満ですか」

 

「不安だ」

 

「全員同じです」

 

 元ドイツ技師が契約書を読んでいた。

 

 一行ずつ。

 

 条文の番号。

 

 文字の間隔。

 

 署名欄の位置。

 

 すべて確認する。

 

「私は、このロシア人と働きたくない」

 

「同感だ」

 

 白軍将校が即答した。

 

 実業家は二人の前へ契約書を滑らせた。

 

「では、どちらか帰りますか」

 

 誰も動かなかった。

 

 外では雪が降っている。

 

 元ドイツ技師には、帰ったところで仕事がなかった。

 

 元白軍将校には、帰る国そのものがなかった。

 

 元独立運動家には、新しく生まれた国でやるべきことが多すぎた。

 

 軍将校には、その国を動かすための飛行機が必要だった。

 

 実業家には、四人を帰す理由がなかった。

 

「会社名は」

 

 軍将校が尋ねた。

 

「まだ決めていません」

 

「決めずに契約書を作ったのか」

 

「仮称で登録します」

 

「仮称は」

 

「軽航空輸送機製作組合」

 

 全員が嫌そうな顔をした。

 

「長い」

 

「格好悪い」

 

「何を作る会社か分かる」

 

「郵便以外を作れなくなる」

 

「では皆さんで決めてください」

 

 実業家はペンを置いた。

 

「その前に、署名を」

 

 元ドイツ技師が紙を指さす。

 

「署名欄の位置が右に寄りすぎている」

 

 元白軍将校が言う。

 

「空いている場所へ書けばよい」

 

「契約書だぞ」

 

「読めれば同じだ」

 

「同じではない!」

 

 二人は署名欄の位置を巡って一時間揉めた。

 

 その間に軍将校が署名した。

 

 元独立運動家も署名した。

 

 実業家は最初から署名済みだった。

 

 最後に、元白軍将校と元ドイツ技師が、互いに一番離れた場所へ署名した。

 

 五枚すべてが埋まった。

 

 実業家は契約書を重ね、帳簿へ挟んだ。

 

「これで、会社になりました」

 

 軍将校が小屋を見回す。

 

 割れた窓。

 

 傾いた煙突。

 

 油まみれの床。

 

 分解された発動機。

 

「これが会社か」

 

「書類上は」

 

「実態は」

 

「これからです」

 

 元独立運動家が鍋を暖炉へ置いた。

 

「まず飯にしよう」

 

「何がある」

 

 白軍将校が尋ねる。

 

「じゃがいも」

 

「それだけか」

 

「塩もある」

 

「会社設立祝いがじゃがいもか」

 

「嫌なら食うな」

 

「食う」

 

 元ドイツ技師が発動機へ布をかける。

 

「油の近くで食べるな」

 

「他に場所がない」

 

「机がある」

 

 実業家が即座に答える。

 

「帳簿があります」

 

「片づけろ」

 

「拒否します」

 

 五人は暖炉の周りへ座った。

 

 鍋の中で、じゃがいもが煮えている。

 

 誰も会社設立の演説はしなかった。

 

 未来の話もしなかった。

 

 郵便機が完成する保証すらなかった。

 

 ただ、発動機が一基回った。

 

 契約書へ五人が署名した。

 

 そしてその日も、誰も逃げなかった。

 

 夜。

 

 四人が帰った後、実業家は帳簿を開いた。

 

 日付の下へ、昼間の支出を書き込む。

 

 点火栓。

 

 銅管。

 

 工具。

 

 燃料。

 

 じゃがいも。

 

 最後に、余白へ一行だけ記した。

 

> 今日、誰も逃げなかった。

 

 しばらく考え、その下へ付け加える。

 

> ならば、会社にしてもよいかもしれない。

 

 翌朝。

 

 最初に小屋へ来た元ドイツ技師は、昨日の発動機を再び分解していた。

 

 元白軍将校がその部品を勝手に持ち上げる。

 

「触るな」

 

「見るだけだ」

 

「持ち上げるな」

 

 会社設立二日目。

 

 共同経営者同士の最初の口論は、前日とまったく同じ内容だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。