WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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『一九三九年秋・フランス北部港湾移動記録』

フランス国内を北西へ移動した一行は、海峡沿岸の港湾に到達。

英国向け船便の確保を開始した。

この時点で同行者数は、直前の鉄道分流によって減少していた。

その後。

増加した。

かなり増加した。

なお、港湾到着以前に鉄道輸送へ移された車両の一部は、到着先において後続避難民の輸送へ転用された。

所有者の同意あり。

運転者の日当、燃料費、修理費、飼料費その他については、WILK名義または関連支払証書によって決済された。

後年、この方式について尋ねられた関係者は、

「車を送ったら、向こうでまた働き始めた」

とだけ答えている。


第205話 海峡を越えろ

 

海が見えた。

 

また海だった。

 

若いWILK社員は助手席から顔を出し、遠くに見える港を眺めた。

 

「今度こそですね」

 

元白軍将校:

 

「ああ」

 

「英国まで、海一つ」

 

「ああ」

 

「もう国境ありませんよね」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「英国に入る時にある」

 

若い社員は頭を抱えた。

 

「そういう意味じゃない!」

 

後ろの車から元金持ちがクラクションを鳴らした。

 

停車。

 

元金持ちが降りてくる。

 

帳簿を抱えている。

 

「八十四」

 

若い社員:

 

「今?」

 

「今」

 

「減りましたね」

 

「列車で送ったからな」

 

「車も?」

 

「小型車を四台」

 

元白軍将校:

 

「向こうで使える」

 

元金持ち:

 

「その話だ」

 

若い社員:

 

「何かありました?」

 

元金持ちは一枚の紙を出した。

 

「昨日送った十八号車」

 

「はい」

 

「到着した」

 

「早いですね」

 

「そのまま別の避難民を次の駅まで運んだ」

 

若い社員:

 

「もう?」

 

「もうだ」

 

元白軍将校:

 

「使えるな」

 

元金持ち:

 

「だからお前、その一言で全部済ませるな!」

 

---

 

実際。

 

列車で先に送られた人間たちは、到着地で事情を理解し始めていた。

 

車両を貨車から降ろす。

 

家族を降ろす。

 

荷物を降ろす。

 

そこで駅員が聞く。

 

「その車、まだ動く?」

 

持ち主が答える。

 

「動く」

 

「西へ向かう人が二十人いる」

 

少し考える。

 

「……乗せようか?」

 

それだけだった。

 

一度やれば、次は早い。

 

トラック。

 

小型貨物車。

 

自家用車。

 

馬車。

 

それぞれが、到着地で新しい役割を持った。

 

誰かを次の駅へ。

 

誰かを港へ。

 

負傷者を病院へ。

 

荷物を倉庫へ。

 

元金持ちのところには、そのたびに請求が来る。

 

燃料。

 

修理。

 

宿泊。

 

飼料。

 

日当。

 

若い社員が紙を見る。

 

「増えてますね」

 

元金持ち:

 

「人じゃなく請求がな!」

 

元白軍将校:

 

「払え」

 

「払う!」

 

即答だった。

 

若い社員が笑う。

 

「そこは迷わないんですね」

 

元金持ち:

 

「車を出した人間が損したら、次は誰も出さん」

 

元白軍将校はうなずいた。

 

「正しい」

 

元金持ちは一瞬止まった。

 

「……珍しく褒めたな」

 

「昔から正しいことは褒める」

 

「昔のことだ、じゃないのか」

 

「今のことだ」

 

若い社員が吹き出した。

 

---

 

港へ到着。

 

船を探す。

 

最初の船会社。

 

断られた。

 

「人数が多い」

 

元金持ち:

 

「次」

 

二社目。

 

「軍人がいる」

 

「次」

 

三社目。

 

「車両は無理」

 

元白軍将校:

 

「人だけでいい」

 

元金持ち:

 

「交渉は私がする!」

 

四社目。

 

話を聞いた。

 

五社目。

 

条件付き。

 

六社目。

 

ようやく可能性が見えた。

 

元金持ちは机に座る。

 

相手は船会社の男。

 

その横に港湾代理人。

 

さらに通訳。

 

若い社員。

 

元白軍将校。

 

元税務官。

 

書類が積まれる。

 

船会社の男:

 

「何人です」

 

元金持ち:

 

「八十四」

 

元白軍将校:

 

「今は」

 

元金持ちが振り返る。

 

「余計なことを言うな」

 

船会社:

 

「今は?」

 

元金持ち:

 

「八十四です」

 

若い社員が小声で言う。

 

「たぶん」

 

元金持ち:

 

「言うな!」

 

---

 

問題は運賃だった。

 

一人いくら。

 

荷物。

 

食事。

 

甲板。

 

船室。

 

軍人。

 

民間人。

 

元金持ちは計算する。

 

船会社も計算する。

 

元白軍将校は待つ。

 

五分。

 

十分。

 

十五分。

 

「まだか」

 

元金持ち:

 

「黙れ」

 

二十分。

 

元白軍将校:

 

「WILK払いで」

 

元金持ち:

 

「今それをやってる!」

 

船会社の男が顔を上げた。

 

「WILK?」

 

若い社員:

 

「はい」

 

男は少し考える。

 

「ポーランドの会社?」

 

「そうです」

 

「機械?」

 

「はい」

 

「航空機?」

 

「はい」

 

さらに考える。

 

「荷車?」

 

元白軍将校:

 

「また猫車だ」

 

元金持ち:

 

「今そこはどうでもいい!」

 

船会社の男:

 

「銀行取引は?」

 

元金持ち:

 

「あります」

 

「英国側の受取先は?」

 

「あります」

 

元白軍将校:

 

「親族もいる」

 

元金持ちが振り返る。

 

「それを保証に使うな」

 

「使えるだろ」

 

「本人に言ってないだろ!」

 

---

 

交渉の末。

 

一隻確保。

 

定員。

 

百二十。

 

元金持ちは深く息を吐いた。

 

「よし」

 

若い社員:

 

「全員乗れますね」

 

「ああ」

 

「やりましたね」

 

元白軍将校:

 

「空きがある」

 

元金持ちの顔が凍る。

 

「何が」

 

「三十人以上」

 

「言うな」

 

「もったいない」

 

「船の席を倉庫の空きみたいに言うな!」

 

若い社員が笑った。

 

「まあ、増えなければ余裕です」

 

元金持ち:

 

「その言葉、今すぐ撤回しろ」

 

遅かった。

 

---

 

港の外。

 

人がいた。

 

一人。

 

二人。

 

十人。

 

二十人。

 

さらに来る。

 

荷物。

 

家族。

 

ポーランド語。

 

フランス語。

 

別の言葉。

 

軍服。

 

私服。

 

鞄。

 

工具箱。

 

子供。

 

元金持ちはその光景を見た。

 

動かなかった。

 

若い社員も見た。

 

「……増えましたね」

 

「言うな」

 

一人の男が走ってくる。

 

「WILKですか!」

 

元白軍将校:

 

「そうだ」

 

元金持ち:

 

「一部だけだ!」

 

男:

 

「英国へ渡ると聞きました!」

 

「誰から聞いた!」

 

「駅で!」

 

元金持ち:

 

「駅ぇ!」

 

若い社員:

 

「つながりましたね」

 

「つながるな!」

 

---

 

まず九人。

 

次に七人。

 

その次に一家族五人。

 

さらにポーランド軍人六人。

 

英国に親族がいる者。

 

ロンドンに取引先がある商人。

 

技術者。

 

看護経験者。

 

学生。

 

元金持ちは名簿を書く。

 

書く。

 

書く。

 

書く。

 

「百七」

 

若い社員:

 

「まだ乗れますね」

 

「言うな」

 

さらに来る。

 

「百十五」

 

元金持ちの筆圧が強くなる。

 

「百十九」

 

全員が少し黙った。

 

若い社員:

 

「あと一人」

 

元金持ち:

 

「来るなよ」

 

元白軍将校:

 

「来たぞ」

 

元金持ち:

 

「何で分かる!」

 

一人の老人が歩いてきた。

 

鞄ひとつ。

 

元金持ちは老人を見る。

 

老人も見る。

 

「英国へ?」

 

「……はい」

 

「一人?」

 

「はい」

 

元金持ちは目を閉じた。

 

「百二十」

 

若い社員:

 

「ぴったり」

 

元白軍将校:

 

「よかったな」

 

元金持ち:

 

「何がだ!」

 

---

 

その直後。

 

トラックが三台来た。

 

元金持ちは何も言わなかった。

 

ただ海を見た。

 

若い社員が恐る恐る聞く。

 

「見ます?」

 

「見ない」

 

元白軍将校:

 

「見る」

 

「お前は見るな!」

 

一台目から男が降りる。

 

「西へ行く人を運んできました」

 

元金持ち:

 

「何人」

 

「十四」

 

元金持ちは空を見た。

 

二台目。

 

「こちら九人」

 

三台目。

 

「十一人」

 

若い社員が計算する。

 

「三十四」

 

元金持ち:

 

「計算するな」

 

「船、足りませんね」

 

「分かってる!」

 

元白軍将校:

 

「もう一隻頼め」

 

元金持ち:

 

「簡単に言うな!」

 

---

 

ただし、その三台のトラックは空ではなかった。

 

運転手たちが言った。

 

「車は残していきます」

 

元金持ちが見る。

 

「何?」

 

「我々は船に乗りたい」

 

「車は?」

 

「後続に使ってください」

 

若い社員:

 

「いいんですか?」

 

一人の運転手が笑う。

 

「ここまで、この車で来ました」

 

別の男:

 

「向こうへ持っていくより、ここで使った方がいい」

 

三人目:

 

「まだ来るでしょう」

 

全員が元金持ちを見る。

 

元金持ちは少し黙った。

 

そして帳簿を開いた。

 

「所有権は?」

 

「私のです」

 

「買い取るか?」

 

「貸すでもいい」

 

元白軍将校:

 

「使わせてもらえ」

 

元金持ち:

 

「分かってる」

 

一台ずつ状態を確認。

 

所有者。

 

燃料。

 

修理履歴。

 

元金持ちが記録する。

 

「使用期間中の燃料、修理、必要経費はこちら持ち」

 

運転手:

 

「本当に?」

 

「車を出してもらうんだ。当然だ」

 

元白軍将校:

 

「日当も」

 

元金持ち:

 

「それも書く!」

 

若い社員:

 

「息ぴったりですね」

 

二人同時に、

 

「違う」

 

と答えた。

 

---

 

二隻目の船を探す。

 

今度は港側も事情を理解していた。

 

「また増えた?」

 

元金持ち:

 

「増えた」

 

港湾代理人:

 

「何人」

 

「三十四」

 

「今のところ?」

 

元金持ちは無言になった。

 

代理人が笑った。

 

「分かりました。探します」

 

一時間。

 

二時間。

 

小型貨物船の空き。

 

補助的な客扱い。

 

条件付き。

 

元金持ちは飛びついた。

 

「取る」

 

元白軍将校:

 

「早いな」

 

「今度は増える前に押さえる!」

 

若い社員:

 

「学習しましたね」

 

「学習させられた!」

 

---

 

夕方。

 

港に二つの乗船列ができた。

 

第一便。

 

百二十人。

 

第二便。

 

三十数人。

 

その間にも何人か来た。

 

元金持ちは途中から何も言わなくなった。

 

ただ書いた。

 

名前。

 

行き先。

 

職業。

 

同行者。

 

荷物。

 

若い社員が横で手伝う。

 

元税務官も。

 

港の職員も。

 

気づけば誰がWILK社員で誰がそうでないか、よく分からなくなっていた。

 

一人の港湾職員が聞く。

 

「この人たち、全部あなたの会社ですか?」

 

元金持ち:

 

「違う」

 

元白軍将校:

 

「だいたいそうだ」

 

「違う!」

 

---

 

出港前。

 

元白軍将校は港へ残るトラックを見に行った。

 

三台。

 

そこへさらに、列車で先に送った車のうち二台が別経路から戻ってきていた。

 

若い社員が驚く。

 

「これ、前に見た車ですよね」

 

運転手:

 

「そうです」

 

「何でここに?」

 

「駅から港へ何往復かしてました」

 

元金持ち:

 

「何人運んだ」

 

「今日だけで四十人くらい」

 

元金持ちは頭を抱えた。

 

「働きすぎだ」

 

運転手:

 

「燃料代、請求していいんですよね」

 

元金持ち:

 

「しろ」

 

「修理も」

 

「しろ」

 

「タイヤ一本」

 

「書け」

 

元白軍将校:

 

「使えるな」

 

元金持ち:

 

「お前はそれ以外の感想を覚えろ!」

 

---

 

船が出る。

 

フランスの港が離れる。

 

甲板には人。

 

荷物。

 

子供。

 

兵士。

 

商人。

 

職人。

 

元赤軍兵。

 

WILK社員。

 

元金持ち。

 

元白軍将校。

 

若い社員は岸を見る。

 

残ったトラックが見える。

 

その周りには、既に次の避難民が集まり始めていた。

 

「……あれ」

 

元金持ちも見る。

 

「もう使ってる」

 

元白軍将校:

 

「いいことだ」

 

若い社員:

 

「後続、まだ来ますね」

 

「来るだろうな」

 

元金持ちは海を見た。

 

「請求も来るな」

 

若い社員:

 

「来ますね」

 

「何年くらい」

 

元白軍将校:

 

「知らん」

 

元金持ち:

 

「そこだけは知らんでいてほしかった」

 

---

 

海峡。

 

風。

 

寒い。

 

でも船は進む。

 

若い社員が元白軍将校へ聞く。

 

「これで本当に英国ですね」

 

「ああ」

 

「長かったですね」

 

「ああ」

 

「何人連れてきたんでしょう」

 

元白軍将校:

 

「今乗ってる分か?」

 

「最初から累計で」

 

元金持ちが振り返る。

 

「やめろ」

 

「何で」

 

「計算したくない」

 

元税務官が横から言う。

 

「概算ならできます」

 

元金持ち:

 

「やめろ!」

 

元白軍将校:

 

「六百くらいか」

 

全員が止まった。

 

元金持ち:

 

「お前、覚えてたのか」

 

「だいたい」

 

「現在人数は覚えないくせに!」

 

元白軍将校:

 

「今いるかどうかは見れば分かる」

 

元金持ち:

 

「累計は見ても分からんだろ!」

 

「だから覚えていた」

 

元金持ちはしばらく黙った。

 

「……本当に変なところだけ几帳面だな」

 

---

 

しばらくして。

 

水平線の向こうに陸が見えた。

 

英国。

 

若い社員が立ち上がる。

 

「見えた!」

 

今度は何人も反応した。

 

人が集まる。

 

子供。

 

兵士。

 

老人。

 

元金持ちも見る。

 

元白軍将校も。

 

今度ばかりは、少しだけ長く見た。

 

若い社員が聞く。

 

「何か言わないんです?」

 

元白軍将校は考えた。

 

「着いたら宿を探す」

 

元金持ち:

 

「お前なあ!」

 

甲板に笑いが起きた。

 

英国はもう目の前だった。

 

だが。

 

元白軍将校の親族はまだ知らない。

 

この男が何十年ぶりかに帰ってくることを。

 

そして。

 

一人で帰ってこないことを。

 

 

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