WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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『一九三九年秋・英国到着後の受入記録断片』

英国到着後、同行者は順次分離した。

英国国内に親族、知人、勤務先、軍関係者、取引先その他の受入先を持つ者については、それぞれの目的地へ移動。

ポーランド軍関係者の一部についても、指定された連絡先へ移送された。

問題となったのは、

「行く先のない者」

であった。

その人数。

六十四名。

当該六十四名の一時受入先について、元白軍将校は、

「親族のところへ行く」

と述べた。

事前連絡。

なし。



第206話 電話一本出せ

 

 

英国へ着いた。

 

本当に着いた。

 

船を降りた若いWILK社員は、港の石畳に両足をつけたまま、しばらく動かなかった。

 

風は冷たい。

 

空は曇っている。

 

港には船。

 

倉庫。

 

貨物。

 

兵士。

 

港湾労働者。

 

そして英語。

 

「英国だ……」

 

横で元金持ちが帳簿を開いている。

 

「そうだな」

 

「もう少し感動ありません?」

 

「今から仕分ける」

 

「仕分け?」

 

「人間をだ」

 

若い社員は現実に引き戻された。

 

船から次々に人が降りてくる。

 

荷物。

 

子供。

 

老人。

 

軍人。

 

家族。

 

職人。

 

元赤軍兵。

 

WILK社員。

 

途中から加わった者。

 

途中から加わって途中で一度列車へ乗り、なぜか別便でまた合流した者。

 

元金持ちはすでに名簿を持っていた。

 

「英国国内に親族がいる者!」

 

何人も手が挙がる。

 

「住所が分かる者は右!」

 

移動する。

 

「取引先がある者!」

 

また手が挙がる。

 

「軍関係者!」

 

ポーランド兵たちが集まる。

 

英国側の受入担当者も動き始めた。

 

若い社員が感心する。

 

「減りますね」

 

元金持ち:

 

「減らす」

 

「言い方」

 

「適切だ」

 

元白軍将校は少し離れたところで、それを見ていた。

 

元赤軍兵だった元部下が隣に立つ。

 

「ずいぶん減りますな」

 

「ああ」

 

「寂しいですか」

 

「荷物が軽くなる」

 

元部下は笑った。

 

「昔からそういう言い方ですね」

 

「昔のことだ」

 

「今もです」

 

---

 

昼を過ぎる頃には、かなり整理された。

 

軍へ向かう者。

 

ロンドンへ行く者。

 

親族のところへ行く者。

 

教会関係の受入先へ行く者。

 

大学関係者に引き取られる学生。

 

企業へ連絡が取れた技術者。

 

次々に港を離れていく。

 

別れは短い。

 

「世話になりました」

 

「ああ」

 

「また」

 

「ああ」

 

「連絡します」

 

「そうしろ」

 

元白軍将校はそれだけだった。

 

元金持ちは一人ずつ帳簿へ印をつけていく。

 

夕方。

 

最後のまとまった一団が港を離れた。

 

元金持ちは残った名簿を見る。

 

「……六十四」

 

若い社員:

 

「まだそんなに?」

 

「そんなにいる」

 

「行く先は?」

 

「ない」

 

若い社員は残った人々を見る。

 

子供。

 

老人。

 

若い夫婦。

 

職人。

 

兵士だった者。

 

元赤軍兵だった者の家族。

 

英国に知人のない者。

 

とりあえず西へ、西へと来た結果、本当に英国まで来てしまった者。

 

若い社員が元白軍将校へ聞いた。

 

「どうします?」

 

「親族のところへ行く」

 

若い社員の顔が明るくなる。

 

「英国に親族いるんですね」

 

「ああ」

 

元金持ちも顔を上げた。

 

「どこだ」

 

元白軍将校が場所を言う。

 

元金持ちは地図を確認した。

 

「行けなくはない」

 

若い社員:

 

「連絡してあります?」

 

「してない」

 

沈黙。

 

元金持ちが顔を上げる。

 

「何?」

 

「してない」

 

「いつ英国へ来ると知らせた」

 

「知らせてない」

 

「手紙は」

 

「出してない」

 

「電報」

 

「出してない」

 

「電話」

 

「番号を知らん」

 

元金持ちはゆっくり帳簿を閉じた。

 

「……最後に会ったのは?」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「何十年か前だ」

 

元金持ち:

 

「せめて電話一本出せ!」

 

港に声が響いた。

 

六十四人が一斉にこちらを見た。

 

元白軍将校:

 

「番号を知らんと言っただろ」

 

「調べろ!」

 

「行った方が早い」

 

「六十四人連れて!?」

 

若い社員が小さく言った。

 

「途中で増えた人数としては少ない方ですよ」

 

元金持ち:

 

「お前まで感覚を壊すな!」

 

---

 

結局。

 

行った。

 

元金持ちは最後まで、

 

「先に連絡しろ」

 

と言い続けた。

 

だが住所は分かる。

 

移動手段もある。

 

六十四人を港へ放置するわけにもいかない。

 

元白軍将校の親族宅へ向かうことになった。

 

英国へ持ち込めた車両は限られていたため、鉄道と現地で手配したバス、貨物車を組み合わせた。

 

もちろん代金は払った。

 

元金持ちが。

 

正確にはWILKが。

 

「私は本当に社員じゃないんだからな」

 

切符を数えながら元金持ちが言った。

 

若い社員:

 

「はいはい」

 

「返事が軽い!」

 

---

 

夕方近く。

 

一行は英国の郊外へ着いた。

 

街を離れた。

 

住宅が少なくなる。

 

木々。

 

畑。

 

石壁。

 

そして少し大きな屋敷。

 

若い社員が見る。

 

「ここ?」

 

「ああ」

 

元金持ち:

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「住所間違ってないな?」

 

「たぶん」

 

「たぶん!?」

 

元白軍将校は門を見る。

 

古い。

 

だが手入れされている。

 

元金持ちが念を押す。

 

「最後に聞く」

 

「何だ」

 

「本当に連絡してない?」

 

「してない」

 

「帰りたくなってきた」

 

若い社員:

 

「どこへ?」

 

元金持ち:

 

「フランス」

 

---

 

門を開ける。

 

敷地へ入る。

 

最初の車が停まる。

 

次も。

 

次も。

 

六十四人。

 

荷物。

 

子供。

 

老人。

 

元赤軍兵。

 

WILK社員。

 

元金持ち。

 

元白軍将校は一人で玄関へ歩いた。

 

扉を叩く。

 

少し待つ。

 

使用人らしい男が出てきた。

 

元白軍将校を見る。

 

「ご用件は」

 

元白軍将校は名乗った。

 

使用人の顔が止まった。

 

もう一度聞き返す。

 

元白軍将校がもう一度名乗る。

 

使用人は明らかに動揺した。

 

「……少々、お待ちください」

 

扉が閉まる。

 

若い社員が後ろから見ていた。

 

「知ってましたね」

 

元金持ち:

 

「そりゃ親族なら名前くらい知ってるだろ」

 

数分。

 

長かった。

 

そして扉が開いた。

 

今度は、年配の男が出てきた。

 

元白軍将校より少し上。

 

あるいは同年代。

 

白髪。

 

英国風の服装。

 

だが顔立ちには、どこか元白軍将校と似た部分があった。

 

男は玄関先で止まった。

 

元白軍将校も止まる。

 

長い。

 

長い沈黙。

 

男が口を開いた。

 

「……本当に、お前か」

 

「ああ」

 

「生きていたのか」

 

「ああ」

 

「何十年ぶりだ」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「昔のことだ」

 

男の顔が引きつった。

 

「そこは昔から変わってないな!」

 

---

 

再会は抱擁ではなかった。

 

最初に肩を叩かれた。

 

かなり強く。

 

次に、

 

「馬鹿者」

 

と言われた。

 

それから屋敷へ入れられた。

 

元金持ちと若い社員も続く。

 

親族の男は元白軍将校を応接室へ座らせた。

 

自分も向かいに座る。

 

しばらく顔を見る。

 

「手紙くらい出せたろ」

 

元白軍将校:

 

「忙しかった」

 

「何十年も?」

 

「色々あった」

 

「こっちにも色々あった!」

 

声が大きくなる。

 

「移住してすぐ何もかも順調だったと思うなよ。家も仕事も人脈も、ほとんど一からだった」

 

元白軍将校は黙って聞く。

 

「言葉だってそうだ。こっちで根を張るまで何年かかったと思ってる」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃない」

 

親族の男はため息をついた。

 

怒っている。

 

だが、目は何度も元白軍将校の顔を確認していた。

 

本当にそこにいるのか確かめるように。

 

「死んだと思っていた時期もあった」

 

少し静かになった。

 

元白軍将校はしばらく黙った。

 

「……悪かった」

 

親族の男が止まった。

 

若い社員も止まった。

 

元金持ちまで顔を上げた。

 

親族は数秒黙ってから、

 

「そういうことを言えるなら、先に手紙を書け」

 

と返した。

 

元白軍将校:

 

「それは別だ」

 

「別じゃない!」

 

---

 

少しして。

 

茶が出た。

 

元金持ちはようやく少し落ち着いた。

 

若い社員も椅子へ座る。

 

親族の男は元白軍将校を見る。

 

「それで」

 

「何だ」

 

「お前、この何十年、何をしていた」

 

元白軍将校は茶を見る。

 

「働いていた」

 

親族:

 

「どこで」

 

「ポーランド」

 

「それは知ってる」

 

「会社を作った」

 

「会社?」

 

「ああ」

 

「何の会社だ」

 

元白軍将校は普通に答えた。

 

「WILK」

 

親族の男の手が止まった。

 

元金持ちがその反応を見る。

 

若い社員も。

 

親族:

 

「……何?」

 

「WILK」

 

「綴りは」

 

元白軍将校が答える。

 

親族の男は額へ手を当てた。

 

「待て」

 

「何だ」

 

「お前、あのWILKか?」

 

若い社員:

 

「知ってるんですか?」

 

親族は若い社員を見る。

 

「知ってるも何も」

 

元白軍将校を見る。

 

「軍の技術者から何度も聞いたぞ!」

 

元白軍将校:

 

「そうか」

 

「そうか!?」

 

親族は立ち上がった。

 

「変な双発機作ってる会社だろ!」

 

若い社員:

 

「変なは余計です」

 

「頑丈で、やたら現場修理が利いて、部品の考え方がおかしいって聞いた!」

 

元白軍将校:

 

「褒められてるな」

 

「褒めてるのか困ってるのか分からん話だった!」

 

元金持ちが小さく笑った。

 

親族は続ける。

 

「Turだろ」

 

「ああ」

 

「Bizon」

 

「ああ」

 

「それから、あの二輪の台車」

 

元白軍将校:

 

「猫車」

 

「そう、それ!」

 

若い社員が小声で言う。

 

「やっぱり猫車が強い」

 

親族:

 

「軍の技術者がな、“飛行機会社なのに、なぜか台車が便利だ”って言ってたんだぞ」

 

元白軍将校:

 

「便利ならいい」

 

「お前が作ったのか!」

 

「五人で作った会社だ」

 

親族が止まる。

 

「五人?」

 

「ああ」

 

「誰と」

 

元白軍将校は指を折るでもなく、淡々と言った。

 

「元ドイツ軍技術者」

 

親族:

 

「うん」

 

「ユダヤ人実業家」

 

「……うん?」

 

「元独立運動家」

 

「待て」

 

「ポーランド軍将校」

 

「待てと言ってる」

 

「俺」

 

親族は両手で顔を覆った。

 

元金持ちが笑いをこらえる。

 

若い社員は慣れていた。

 

親族:

 

「何だ、その会社」

 

元白軍将校:

 

「WILKだ」

 

「名前を聞いてるんじゃない!」

 

---

 

親族は部屋を歩き始めた。

 

「お前、ロシアから消えて」

 

「ああ」

 

「ポーランドへ行って」

 

「ああ」

 

「会社を作って」

 

「ああ」

 

「飛行機を作って」

 

「俺は作ってない。技術者が作った」

 

「会社としてだ!」

 

「ああ」

 

「それが今度はポーランドが陥落して」

 

「ああ」

 

「英国へ来た」

 

「ああ」

 

「何十年ぶりに何の連絡もなく」

 

「ああ」

 

「突然」

 

そこで親族の男が窓の方を見た。

 

ようやく気づいた。

 

屋敷の前。

 

人影。

 

たくさん。

 

若い社員が嫌な顔をした。

 

元金持ちは目を逸らした。

 

親族:

 

「……外に何かいるな」

 

元白軍将校:

 

「同行者だ」

 

「何人」

 

元白軍将校:

 

「六十くらい」

 

元金持ち:

 

「六十四」

 

元白軍将校が見る。

 

「言わなくていい」

 

親族:

 

「六十四!?」

 

元金持ち:

 

「私は正確な数字を言っただけです」

 

若い社員:

 

「この人、会計なので」

 

元金持ち:

 

「会計ではない!」

 

親族は窓へ駆け寄った。

 

庭を見る。

 

子供。

 

老人。

 

荷物。

 

兵士。

 

元赤軍兵。

 

家族。

 

知らない人。

 

さらに知らない人。

 

親族はゆっくり振り返った。

 

「……全員?」

 

元白軍将校:

 

「当てがない」

 

「だから?」

 

「今夜だけ」

 

元金持ちが小さく咳払いした。

 

「恐らく一晩では済みません」

 

元白軍将校:

 

「余計なことを言うな」

 

親族:

 

「電話一本出せ!」

 

---

 

その後。

 

屋敷は戦場になった。

 

ただし敵はいなかった。

 

寝床との戦争だった。

 

親族の男が使用人を呼ぶ。

 

家族も集まる。

 

部屋を数える。

 

客間。

 

書斎。

 

空き部屋。

 

使用人部屋。

 

屋根裏。

 

納屋。

 

馬小屋。

 

庭。

 

近隣の親族。

 

知人。

 

教会。

 

親族の男は電話を使い始めた。

 

元白軍将校が横で見ている。

 

「何をしている」

 

親族:

 

「お前がしなかったことだ!」

 

「何だ」

 

「連絡!」

 

一軒目。

 

「久しぶりだ。悪いが、人を何人か泊められないか」

 

二軒目。

 

「家族連れだ」

 

三軒目。

 

「いや、戦争の話は後でいい」

 

四軒目。

 

「六十四人全部うちには入らん!」

 

元金持ちはその横で人数を割り振る。

 

「子供連れ十二名はこちら」

 

若い社員:

 

「老人六名、教会側」

 

元赤軍兵:

 

「男だけなら納屋で十分です」

 

親族:

 

「お前は?」

 

赤軍兵:

 

「途中で拾われました」

 

親族は元白軍将校を見る。

 

元白軍将校:

 

「昔の部下だ」

 

親族:

 

「赤軍服だぞ」

 

赤軍兵:

 

「色々ありまして」

 

親族:

 

「もう聞かない」

 

---

 

夜。

 

何とか全員に屋根がついた。

 

少なくとも雨は避けられる。

 

食事も出た。

 

近隣からパンが来た。

 

スープ。

 

温かい茶。

 

子供たちは眠った。

 

老人も。

 

元金持ちは最後まで帳簿を書いていた。

 

親族の男が隣へ座る。

 

「あなたもWILK?」

 

元金持ち:

 

「違います」

 

「では?」

 

「途中で拾われました」

 

親族はしばらく黙った。

 

「……それ、流行ってるのか」

 

元金持ち:

 

「私も知りたいです」

 

元白軍将校が向こうから言う。

 

「会計だ」

 

元金持ち:

 

「違う!」

 

親族が初めて笑った。

 

---

 

寝る前。

 

親族の男は元白軍将校へ一枚の紙を渡した。

 

「何だ」

 

「電話番号だ」

 

「誰の」

 

「うちの」

 

元白軍将校:

 

「もう来たぞ」

 

「今度来る前に使え」

 

「また来るのか」

 

「お前なら来る!」

 

元白軍将校は紙を見る。

 

ポケットへ入れる。

 

親族:

 

「失くすなよ」

 

「ああ」

 

「それと」

 

「何だ」

 

「明日、WILKにも連絡しろ」

 

元白軍将校は少し黙った。

 

若い社員が顔を上げる。

 

元金持ちも手を止める。

 

親族の男が眉を寄せた。

 

「……まさか」

 

元白軍将校:

 

「まだしてない」

 

親族は目を閉じた。

 

そして静かに言った。

 

「お前」

 

一呼吸。

 

「英国に着いたことを、会社にも連絡してないのか」

 

元白軍将校:

 

「忙しかった」

 

親族:

 

「明日最初に電話しろ」

 

元白軍将校:

 

「ああ」

 

元金持ち:

 

「絶対だぞ」

 

若い社員:

 

「四人とも怒るでしょうね」

 

元白軍将校:

 

「何でだ」

 

部屋にいた全員が元白軍将校を見る。

 

誰も答えなかった。

 

答える必要がなかった。

 

明日。

 

元白軍将校は、ようやくWILKへ電話をかける。

 

何十年ぶりに親族へ顔を出した男が。

 

今度は数週間ぶりに、会社の仲間へ生存報告をするために。

 

順序が全部逆だった。

 

 

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