『一九三九年秋・英国滞在初期記録』
英国到着後、WILK関係者は一時的に複数の民家、親族宅、教会施設その他へ分散収容された。
この過程で、避難行に同行していた複数名が、英国におけるWILK業務へ参加した。
正式な採用日については記録が一致しない。
本人の認識と会社側の認識にも差がある。
特に会計関係者一名については、
本人:
「私は雇われた覚えがない」
会社:
「英国到着前から働いている」
との記録が残されている。
翌朝。
元白軍将校は起こされた。
親族に。
「電話」
「何だ」
「電話しろ」
「朝飯は」
「後だ」
「茶くらい」
「電話が先だ」
元白軍将校は寝台の上で親族を見る。
親族も見る。
「……お前、昨日約束したな?」
「ああ」
「会社へ連絡すると」
「ああ」
「なら起きろ」
「まだ早い」
「何十年も連絡しなかった人間が時間を気にするな!」
廊下から若いWILK社員の笑い声がした。
元白軍将校:
「聞いてるぞ」
若い社員:
「すみません!」
元金持ち:
「聞かせてるんだよ」
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朝食後。
電話のある部屋に人が集まった。
元白軍将校。
若いWILK社員。
元金持ち。
元税務官。
元赤軍兵だった元部下。
親族。
なぜか使用人まで扉の近くにいた。
元白軍将校が見る。
「何でこんなにいる」
元金持ち:
「逃げないようにだ」
「逃げん」
親族:
「信用できん」
若い社員:
「昨日まで会社にも連絡してなかった人ですからね」
元白軍将校:
「うるさい」
番号を確認する。
何か所かを経由する。
WILKの国外連絡先。
しばらく待つ。
交換手。
別の番号。
さらに待つ。
やがて。
つながった。
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最初に出たのは、ユダヤ人実業家だった。
『はい』
元白軍将校:
「俺だ」
沈黙。
『……誰です?』
元白軍将校は名乗った。
再び沈黙。
『…………生きていたんですか』
「ああ」
『今どこです』
「英国」
また沈黙。
『英国?』
「ああ」
『いつ着いたんです』
「昨日」
電話の向こうで、何かが机へ置かれる音がした。
『昨日?』
「ああ」
『昨日英国に着いて、なぜ今電話してるんです!』
元白軍将校は受話器を少し耳から離した。
元金持ちが頷く。
「当然だ」
元白軍将校:
「忙しかった」
『何をしていたんです』
「人を泊めていた」
『何人』
元白軍将校は元金持ちを見る。
元金持ち:
「六十四」
『六十四?』
元白軍将校:
「今はもう少し減った」
『そういう問題じゃありません!』
親族が腕を組んだ。
「同じことを言われてるな」
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ユダヤ人実業家はしばらく怒った。
それから急に声が仕事へ戻った。
『英国側に何人残りました』
元金持ちが紙を出す。
元白軍将校:
「ちょっと待て」
元金持ち:
「五十八。今日午前に六人移動」
『そちらは?』
元金持ち:
「元金持ちです」
沈黙。
『……元?』
元金持ち:
「そこは説明しなくていい」
元白軍将校:
「途中で拾った」
『また拾ったんですか』
「使える」
元金持ち:
「人の紹介をそれで済ませるな」
電話の向こうで、小さく笑う声がした。
『会計をやっている方ですか』
元金持ち:
「やってません」
若い社員:
「やってます」
元税務官:
「やっています」
元白軍将校:
「やってる」
元金持ち:
「全員黙れ!」
ユダヤ人実業家:
『帳簿、あります?』
元金持ちは反射的に答えた。
「あります」
『支払証書の控えは』
「全部番号順です」
『輸送費』
「別冊」
『車両』
「所有者別」
『各地への未払い』
「確認中。請求先不明が七件」
少し間。
『……いつから働けます?』
元金持ち:
「待て」
若い社員が吹き出した。
『英国側の会計と避難費用整理、人手が足りないんです』
元金持ち:
「私はWILK社員ではない」
『今まで何をしていたんです?』
「帳簿をつけていた」
『誰の』
「WILKの」
『では働いてますね』
「違う!」
元白軍将校:
「採用でいい」
元金持ち:
「本人を飛ばすな!」
ユダヤ人実業家:
『給与は後で決めましょう』
「決まった!?」
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その後。
元ドイツ軍技術者につながった。
第一声。
『生きていたのか』
「ああ」
『なら先に連絡しろ!』
「お前もそれか」
『全員それを言う』
「まだ二人目だ」
『全員言う』
元白軍将校:
「予言するな」
『ところで技術者はいるか』
元白軍将校が後ろを見る。
若い社員:
「いますね」
元赤軍兵だった元部下:
「整備経験者なら」
元金持ち:
「車両整備二名、鍛冶一名、電気経験者一名、通信関係三名」
元ドイツ軍技術者:
『名簿を送れ』
元金持ち:
「送れるようにまとめてあります」
『助かる』
元金持ち:
「だから私は――」
『あなた誰です』
「元金持ちです」
『変な役職だな』
「役職ではない!」
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元独立運動家へ。
『子供は』
元白軍将校:
「いる」
『何人』
「知らん」
『数えなさい』
元金持ち:
「十一。十五歳以下。うち七歳以下四名」
元独立運動家:
『あなた助かりますね』
元金持ち:
「ありがとうございます」
若い社員:
「受け入れた」
元金持ち:
「違う!」
『家族単位の名簿は』
「あります」
『健康状態』
「途中で簡単な記録を」
『住居候補』
元金持ちが親族を見る。
親族:
「近隣で二軒、教会経由で三か所。あと知人に問い合わせ中だ」
元独立運動家:
『素晴らしい』
親族:
「私はWILKではないぞ」
元金持ち:
「私もです」
若い社員:
「似た者同士ですね」
二人:
「違う」
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最後。
ポーランド軍将校。
電話がつながる。
『もしもし』
元白軍将校:
「俺だ」
『……着いたのか』
「ああ」
『どこへ』
「英国」
少し間。
『いつ』
「昨日」
長い沈黙。
元白軍将校:
「何だ」
『私は港で待つなと伝えた』
「ああ」
『先へ行けとも伝えた』
「ああ」
『だが』
少し声が低くなる。
『英国まで着いてから連絡しろとは言ってないぞ』
部屋にいた全員が笑った。
元白軍将校:
「分かった」
『何が』
「次は着いたら連絡する」
『次がある前提なのか』
「分からん」
『お前は昔からそうだ』
元白軍将校:
「昔のことだ」
『今もだ!』
親族が強く頷いた。
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四人への連絡が終わる。
元白軍将校は受話器を置いた。
部屋が静かになる。
若い社員:
「どうでした?」
「怒られた」
「何人に」
「四人」
元金持ち:
「全員じゃないか」
「ああ」
親族:
「当然だ」
元白軍将校:
「お前まで言うな」
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そこで終わるはずだった。
終わらなかった。
電話が鳴った。
親族が取る。
少し話す。
元白軍将校へ渡す。
「WILK」
元白軍将校:
「何だ」
電話の向こうはユダヤ人実業家。
『さっき忘れてました』
「何を」
『英国側で動ける人間、必要なんです』
「いるぞ」
元金持ち:
「嫌な予感がする」
『会計の方』
「私は会計ではない!」
『税務経験者』
元税務官:
「はい」
『通信経験者』
元赤軍兵だった元部下が手を挙げる。
『運転手』
何人かいる。
『整備』
いる。
『通訳できる者』
いる。
『英国に残る予定のWILK社員』
若い社員:
「はい」
『では一度まとめて、英国側仮事務所を作ってください』
元金持ち:
「待て!」
ユダヤ人実業家:
『何です』
「なぜ私が入っている」
『帳簿を持ってるでしょう』
「持ってる」
『支払先を知ってる』
「知ってる」
『人員を把握してる』
「してる」
『車両の所在も』
「だいたい」
『ではあなたが一番事情を知っている』
元金持ちは黙った。
若い社員:
「採用ですね」
「違う」
元税務官:
「私は手伝えます」
元赤軍兵だった元部下:
「俺も当面は」
親族:
「屋敷は事務所にするなよ」
元白軍将校:
「一部屋くらい」
「駄目だ!」
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昼。
食卓の端に紙が積まれた。
英国側仮連絡所。
そう書いた紙を若い社員が置いた。
元金持ち:
「誰が書いた」
「私です」
「消せ」
「もう電話で三か所に伝えました」
「早い!」
元税務官が支出表を作る。
通信経験者が連絡先一覧を作る。
整備経験者は近場で使える車両を確認し始める。
運転手は駅と港への道を聞く。
親族は知人へ電話。
若い社員はWILKの国外拠点へ電報を出す。
元金持ちは。
帳簿を開いた。
元白軍将校が見る。
「働いてるな」
「整理してるだけだ」
「何を」
「英国到着後の支出」
「会社の?」
「……そうだ」
「働いてるな」
元金持ちはペンを止めた。
「お前、本当に嫌いだ」
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夕方。
電話がまた鳴った。
フランスからだった。
港に残した車両について。
一台。
二台。
三台。
後続輸送へ使用中。
燃料代。
修理費。
運転日当。
新しい避難民。
元金持ちは内容を聞きながら紙へ書く。
「はい」
「はい」
「所有者の確認は」
「ある」
「では払う」
若い社員:
「WILK払い?」
元金持ち:
「他に何がある」
「会計ですね」
元金持ち:
「黙れ」
電話を切る。
次の紙を見る。
今度はイタリア。
その次はもっと東。
どこかの駅。
どこかの宿。
どこかの修理工場。
元白軍将校たちは英国へ着いた。
だが。
彼らが通った道は、まだ動いていた。
人を乗せ。
車を走らせ。
駅へ送り。
船へ送り。
食わせ。
泊め。
直し。
そして請求書だけが、少し遅れて西へ追いついてくる。
元金持ちはその束を見る。
「……これ、いつ終わる」
元白軍将校:
「知らん」
「だろうな」
「払えるうちは払え」
元金持ちはため息をついた。
「それは最初からそのつもりだ」
元白軍将校:
「やっぱり向いてるな」
「何に」
「WILK」
元金持ちは答えなかった。
ただ次の請求書を取った。
その横で元税務官も帳簿を開いた。
元赤軍兵だった男は連絡票を整理した。
若いWILK社員は机を一つ増やした。
誰も採用式などしていない。
辞令もない。
契約書もまだない。
だが。
仕事はあった。
必要な人間もいた。
そして必要な人間が、そこにいた。
それだけで充分だった。
---
夜。
元白軍将校が電話のある部屋を通り過ぎた。
親族が呼び止める。
「おい」
「何だ」
「今日の教訓は」
元白軍将校は少し考えた。
「英国にも仕事はある」
親族:
「違う」
若い社員:
「着いたら?」
元金持ち:
「先に?」
元税務官:
「連絡を?」
元白軍将校は全員を見る。
「……着いたら先に連絡する」
親族:
「よし」
元白軍将校:
「次からな」
親族:
「次を作るな!」
笑い声が屋敷に響いた。
長い撤退は終わった。
だが。
道は残った。
道を知る人間も。
道を使う車も。
その先で人を受け取る者も。
そして、その全部を後から金でつなぐ会社も。
誰か一人が作ったわけではない。
誰か一人が命令したわけでもない。
必要な場所で。
必要な人間が。
少しずつ続きを作った。
道は、人が作る。