国外資産。
国外口座。
契約書。
土地権利書。
工場取得書類。
倉庫使用権。
代理人名簿。
非常時連絡先。
これらについて、一名の管理者が全情報を保有することを避ける。
各担当者は、その業務の遂行に必要な範囲のみを知ること。
全情報を一か所へ集約しない。
全権限を一人へ集中しない。
ただし、必要な情報を必要な時に再構成できること。
付記。
信頼と、全てを知らせることは同義ではない。
元白軍将校の親族宅。
その日の朝。
親族は新聞を読む前に、使用人へ尋ねた。
「今日は何人だ」
最近では、それが朝の日課になりつつあった。
使用人は予定表を見る。
「九名です」
「政府?」
「違います」
「軍?」
「違います」
「航空会社?」
「違います」
親族は少し安心した。
「では誰だ」
「ユダヤ人実業家のご親族だそうです」
親族は新聞を置いた。
「九人?」
「はい」
「全員、親族?」
「はい」
親族はしばらく黙った。
「……家族会議なら別の場所でやってくれ」
廊下の向こうから元金持ちの声がした。
「仕事らしいですよ」
「なお悪い」
---
来客は一度には来なかった。
二人。
一人。
三人。
また一人。
最後に二人。
英国在住。
フランス方面から来た者。
米国との取引経験がある者。
銀行。
法律。
保険。
商社。
海運。
工場経営。
年齢も経歴もばらばらだった。
ただし。
親族は何人目かで、妙な共通点に気づいた。
全員、人の話を聞く時の目が似ている。
元金持ちへ小声で言う。
「似てるな」
「顔ですか?」
「目だ」
「目?」
「値段を見てる」
元金持ちも見る。
「……ああ」
親族は今度は元金持ちを見る。
「お前も昔はああだったんだろ」
「元をつけるな」
「自分で最初に言っただろ」
---
最後にユダヤ人実業家が入った。
資料箱を持っている。
一箱。
二箱。
三箱。
親族:
「それ、全部ここへ?」
実業家:
「今日は」
「今日は?」
「一部です」
親族は少し遠い目をした。
「その言い方、最近よく聞くな」
元金持ち:
「慣れました?」
「慣れたくはなかった」
---
会議が始まる。
実業家は地図を広げた。
英国。
フランス。
ポルトガル。
米国。
アイルランド。
港。
銀行。
倉庫。
工場。
農地。
鉄道。
それぞれに小さな印。
元金持ちは地図を見ながら言った。
「増えましたね」
実業家:
「増やしました」
「意図的に?」
「当然です」
---
実業家は一族を見る。
「今日決めるのは、後継者ではありません」
一人が聞いた。
「では何を」
「仕事です」
英国。
銀行。
保険。
政府との契約。
英国法。
航空産業との支払い。
フランス。
現地法人。
部品会社。
航空企業。
工場契約。
亡命ポーランド側との商取引。
米国。
農地。
工場。
倉庫。
工作機械。
鉄道。
金融。
アイルランド。
民需工場。
農場。
食品加工。
将来の倉庫候補。
一つずつ。
担当者を決めていく。
親族の一人が聞いた。
「全部を一社で管理した方が簡単では?」
実業家:
「簡単です」
「なら」
「だから危ない」
相手が黙る。
実業家:
「一社が止まれば全部止まる」
「一つの銀行が止まれば全部動かなくなる」
「一つの港が閉じれば全部詰まる」
「一人が倒れれば全員が困る」
少し間。
「簡単なのは平時には便利です」
「戦争では弱い」
---
元金持ちは会議録を書きながら聞く。
「じゃあ、全体を知るのは誰です」
実業家:
「必要ですか?」
「必要でしょう」
「なぜ」
元金持ちは少し止まった。
実業家は米国を指す。
「米国の農地担当が、フランス軍との航空機契約を知る必要がありますか」
「ない」
「英国の銀行担当が、アイルランドの全倉庫候補を知る必要は」
「ないですね」
「フランスの工場担当が、米国の予備口座を」
「それもない」
実業家:
「では教えません」
元金持ち:
「すごく割り切りますね」
「その方が安全です」
---
一族の若い男が聞いた。
「代表者は全部知るんですか」
「いいえ」
「代表なのに?」
「代表だからです」
「では何を知るんです」
実業家は少し考えた。
「人です」
「人?」
「誰が何を持っているか」
「誰が倒れた時、誰が代われるか」
「どこへ問い合わせれば情報が戻るか」
「どこに何が残っているか」
「全部を覚える必要はありません」
少し間。
「会社を再構成する方法を知っていればいい」
元金持ちはその言葉で筆を止めた。
それから、ゆっくり書いた。
---
次。
情報管理。
通常資料。
制限資料。
最重要資料。
三つに分ける。
元金持ち:
「最重要は?」
実業家:
「国外資産の一部」
「予備資金」
「代替契約」
「原本保管先」
「重要人物の所在地」
「設備の移転先」
「予備輸送経路」
「その他、失えば再開能力そのものを損なうもの」
一族の一人:
「親族なら見られる?」
「いいえ」
「一族でも?」
「必要がなければ見せません」
少し空気が変わった。
だが、実業家は続けた。
「信用していないからではありません」
「むしろ逆です」
「必要のない情報まで持たせれば、その人間に必要のない危険まで背負わせる」
「知る必要がない者は知らなくていい」
元金持ち:
「創業者でも?」
実業家:
「もちろん」
---
元金持ちが顔を上げる。
「他の四人も?」
「担当外なら」
「……本当に?」
実業家は不思議そうに見る。
「なぜ航空技術者が私の秘密口座を知る必要があるんです?」
元金持ち:
「ありませんね」
「住宅を担当する人間に、予備契約原本の場所を教える意味は?」
「ない」
「軍との窓口に、国外資産の全配置を?」
「……ないですね」
「そういうことです」
元金持ちは少し考えた。
「創業者同士なら全部共有してるものかと」
実業家:
「それでは五人同時に捕まったら全部失います」
元金持ち:
「それはまあ」
実業家:
「それ以前に」
少し笑う。
「知る必要がありません」
---
そして。
問題が残った。
最重要資料の一時保管。
銀行貸金庫へ置くもの。
別拠点へ送る複製。
国外へ分散する原本。
それでも、英国側で一時的に保管しなければならない物がある。
親族:
「それで」
実業家:
「少し場所を借りたいのですが」
親族:
「また部屋か」
「いえ」
実業家が少し視線を動かす。
親族はその方向を見る。
何もない。
だが。
何となく分かった。
「……酒蔵か」
実業家:
「よく分かりましたね」
「地下で壁が厚くて、人が勝手に入らない場所なんて、この家じゃあそこしかない」
元白軍将校が端から口を出す。
「向いてる」
親族:
「お前は黙ってろ」
---
実業家。
親族。
元金持ち。
そして、なぜか元白軍将校。
四人で地下へ降りた。
「何でお前まで来る」
親族が聞く。
元白軍将校:
「見学」
「信用できん」
「まだ何もしてない」
「その言葉がもう怖い」
---
酒蔵。
石壁。
樽。
瓶。
棚。
奥。
少し空いた空間。
実業家は壁を見る。
扉を見る。
床。
換気。
天井。
人の出入り。
しばらく黙って確認した。
「使えます」
親族:
「でしょうね」
元金持ち:
「本当に酒蔵でいいんです?」
「条件は悪くありません」
元白軍将校:
「酒もある」
親族:
「お前はそれが目的だろ」
元白軍将校:
「それもある」
元金持ち:
「それも?」
---
元白軍将校は酒蔵の奥を眺めていた。
妙に楽しそうだった。
実業家がそれを見る。
「何です」
「いや」
「何か」
元白軍将校:
「また酒蔵かと思ってな」
元金持ちが振り返った。
「また?」
実業家の顔が少しだけ変わる。
「……覚えていましたか」
「聞いたことはある」
「どこまで」
「酒蔵に何か置いていた」
「場所は?」
「知らん」
「なら結構です」
元金持ち:
「何の話です?」
実業家:
「ポーランド時代の話です」
---
元金持ち:
「ポーランドでも酒蔵に重要書類を?」
「一部を」
「誰が知ってたんです」
「必要な者だけです」
「他の創業者は?」
「基本的には知りません」
元金持ちはまた元白軍将校を見る。
「じゃあ、こいつは何で知ってるんです?」
実業家も見る。
少し嫌そうだった。
「勘です」
元白軍将校:
「なんかあると思った」
元金持ち:
「何で」
「警備の仕方が少し変だった」
実業家:
「そこに気づかなくて結構だったんですが」
元白軍将校:
「気づいた」
---
親族:
「で?」
元白軍将校:
「酒もあった」
親族:
「やっぱり酒じゃないか」
元白軍将校:
「だから試した」
元金持ち:
「何を」
「入れるか」
元金持ち:
「……何で?」
元白軍将校:
「酒がある」
「それは分かった」
「何か隠してる」
「それも分かった」
「なら入ってみる」
元金持ち:
「その三段論法はおかしい!」
---
実業家は腕を組んだ。
「最初は本当に酒目当てだと思っていました」
元白軍将校:
「酒目当てでもあった」
「余計に悪い」
「でも入れた」
実業家:
「一度だけです」
「一度入れれば十分だろ」
親族:
「何が十分なんだ」
---
元金持ち:
「どうやって入ったんです」
実業家:
「色々です」
元白軍将校:
「正面」
「最初から?」
「最初は簡単な方からだ」
「止められた?」
「止められた」
「次は」
「裏」
実業家:
「その次は搬入に紛れました」
元白軍将校:
「偽の伝票も使った」
元金持ち:
「仕事が本格的なんだよ!」
親族:
「酒を飲むためにそこまでやるな!」
元白軍将校:
「ついでだ」
「何がついでだ」
「警備を見る」
---
実業家:
「最初は本当に困りました」
酒蔵管理者が鍵を変えた。
元白軍将校は次の経路を探す。
搬入口を厳しくした。
今度は別の入口。
夜間巡回を増やした。
巡回間隔を見られた。
内部者確認を厳しくした。
今度は別の方法。
元金持ち:
「全部対策されたんです?」
実業家:
「その都度」
元白軍将校:
「良くなった」
実業家:
「あなたに褒められると腹が立つんです」
---
元白軍将校:
「地上が固くなったから上からも試した」
元金持ち:
「上?」
親族:
「上って何だ」
実業家:
「聞かなくていいです」
元白軍将校:
「空から」
元金持ち:
「空?」
実業家:
「説明しなくていいと言いましたよね」
元白軍将校:
「小型機で」
「やめなさい」
「落下傘で」
「やめなさい」
親族が元白軍将校を見る。
「お前、酒蔵へ落下傘で入ろうとしたのか」
「夜なら静かだ」
「静かじゃない!」
元白軍将校:
「だからゴム靴を使った」
親族:
「そういう問題じゃない!」
---
元金持ちはもう笑い始めていた。
「成功したんです?」
元白軍将校:
「途中まで」
実業家:
「同行者が着地点を外しました」
「素人だったからな」
「なぜ素人を連れて行くんです」
「酒好きだった」
元金持ち:
「そこだけは一貫してるな!」
---
実業家:
「それで屋根側も対策しました」
親族:
「何で酒蔵に上空侵入対策が必要になるんだ」
元白軍将校:
「俺が来たから」
「自慢するな!」
実業家はため息をつく。
「問題はそこで終わらなかったんです」
元金持ち:
「まだあるんですか」
元白軍将校:
「上が駄目なら下がある」
親族が止まる。
「下?」
「地下」
親族:
「ここ地下だぞ」
「だからさらに下」
元金持ち:
「掘ったのか!?」
元白軍将校:
「試した」
実業家:
「やめさせました」
「地盤も見られた」
「見なくていいんです」
「排水も」
「見なくていい!」
「基礎も」
「だから!」
元金持ちは机もないのに頭を抱えた。
「この人、酒蔵一つに何してるんです?」
実業家:
「私も何度か同じことを聞きました」
---
結果。
酒蔵管理者の仕事は増えた。
酒の在庫。
温度。
湿気。
鍵。
入退室。
搬入。
防火。
換気。
地下設備。
屋根側。
床。
壁。
警備。
そして。
機密保管。
元金持ち:
「もう酒蔵管理者じゃないですね」
実業家:
「最終的には、保守と警備も兼ねていました」
元白軍将校:
「昇進した」
実業家:
「本人に言ったら殴られると思います」
「そうか?」
「かなり嫌われていました」
元白軍将校は少し考えた。
「仕事は良かった」
親族:
「嫌われた理由がよく分かる」
---
元金持ち:
「でも」
少し考える。
「途中からわざとやってません?」
元白軍将校:
「何を」
「侵入できそうな場所を探して、塞がせてたでしょう」
元白軍将校は答えなかった。
実業家も見る。
元金持ち:
「最初は酒と好奇心でも」
「途中から完全に警備試験ですよね」
元白軍将校:
「……ついでだ」
実業家:
「やはり」
元白軍将校:
「俺が入れるなら、他にも入れる」
「だから最初からそう言ってください」
「言ったら面白くない」
「そこです!」
---
親族はしばらく元白軍将校を見る。
「つまり」
「ああ」
「お前は酒を盗もうとするふりをして」
「ふりではない」
「そこは本当に酒も欲しかったのか」
「もちろん」
「余計に悪い!」
元金持ち:
「でも、結果的には警備が強くなった」
親族:
「結果だけ見ればな!」
---
実業家は英国の酒蔵を見回す。
少し考えた。
「では、ここも」
元白軍将校:
「試すか」
「あなたには頼んでいません」
「でも穴が」
「探さなくていい」
「あるぞ」
親族:
「もう見つけたのか!?」
元白軍将校は天井を見る。
「上」
親族:
「帰れ!」
---
最終的に。
酒蔵の奥に小さな区画を設けることになった。
扉。
鍵。
耐火箱。
帳簿保管棚。
ただし、最重要資料を全部置くわけではない。
あくまで一部。
原本も複製も分散する。
親族:
「条件がある」
実業家:
「何でしょう」
「こいつに鍵を渡すな」
元白軍将校:
「俺?」
「お前だ」
実業家:
「当然です」
元金持ち:
「賛成です」
元白軍将校:
「お前まで」
元金持ち:
「今の話を聞いて反対する理由がない」
---
地上へ戻る。
会議再開。
今度は一族そのものの将来。
若い一人が聞く。
「代表は長男が継ぐんですか」
実業家:
「いいえ」
「では最年長」
「違います」
「一番資産を持つ者?」
「それも違う」
「では誰が」
実業家は少し考える。
「その時代に必要な人間です」
銀行に強い。
法律に強い。
国際契約に強い。
人をまとめられる。
どの国で何ができるか分かる。
それらは時代によって違う。
「代表は相続財産ではありません」
「役目です」
---
別の一人が聞く。
「なら一族である意味は?」
実業家は地図を見る。
英国。
フランス。
米国。
ポルトガル。
アイルランド。
そして。
もう失われたポーランド。
「覚えておくことです」
「何を?」
「なぜ分けたか」
「なぜ一か所へ集めなかったか」
「なぜ全部を一人に教えないか」
「なぜ工場を複数国へ置くのか」
「なぜ銀行まで分けるのか」
「それを覚えておく」
少し間。
「書類だけでは、理由までは残りません」
「数字も」
「制度も」
「いつか形だけになる」
一族を見る。
「だから、人が覚える」
---
元金持ちは会議録を書いていた。
いつの間にか。
実業家一族用。
英国担当用。
フランス担当用。
米国担当用。
アイルランド担当用。
銀行関係。
資産管理。
機密管理。
八つに分かれていた。
元金持ち:
「……また増えた」
実業家:
「助かります」
「私は会計ですよね?」
「違うと言っていたでしょう」
元金持ち:
「最近、自信がなくなってきた」
---
その夜。
親族宅の酒蔵。
新しい保管区画の扉が取り付けられた。
仮設。
まだ完全ではない。
親族が様子を見に降りる。
そこに。
元白軍将校がいた。
親族:
「何してる」
「見てる」
「どこを」
「扉」
「帰れ」
元白軍将校は蝶番を見る。
壁を見る。
換気口を見る。
床を見る。
それから天井。
親族:
「言うなよ」
元白軍将校:
「何を」
「弱い場所」
少し間。
元白軍将校:
「三つある」
親族:
「帰れ!」
---
翌朝。
三か所とも補強された。
元白軍将校はそれを見て。
満足そうに頷いた。
親族:
「お前、最初からそれが目的だっただろ」
元白軍将校:
「酒も欲しい」
「どっちかにしろ!」
元白軍将校は笑った。
どちらか一つである必要は。
本人にはなかった。
---
後年。
WILKの実業家一族には、
「今代の代表」
と呼ばれる者が置かれるようになった。
長男だからではない。
最年長だからでもない。
最も裕福だからでもない。
その時代に。
必要だから。
そして。
必要のない情報を知らないことも。
彼らの仕事の一つになった。
同じ頃。
WILKの重要資料保管施設には。
妙な伝統が残った。
屋根を確認する。
床下を確認する。
搬入口を確認する。
内部者を信用しすぎない。
侵入方法を一方向だけで考えない。
理由を尋ねられると。
古参は答えた。
「昔、全部やった人がいる」
誰が。
何のために。
そこまで聞くと。
大抵。
少し困った顔をして。
こう答えた。
「酒を飲むためだったらしい」
半分だけ。
正しい話だった。