【WILK米国事業部・農業関連事業初期記録 一九四〇年】
米国におけるWILKの農業投資は、当初、農地及び牧場の取得、農業機械の調達、移住者への就業機会提供を中心に計画された。
当時の米国農村部には、一九二〇年代から続いた農業不況と、一九二九年以降の大恐慌の傷跡がなお残っていた。
農産物価格の暴落。
農業所得の減少。
債務。
抵当。
農場の差押え。
銀行破綻。
干ばつ。
土地を失った小作人。
農業を諦め、職を求めて移動した家族。
地域によって事情は異なったが、「耕せる土地がある」ことと「農家が生きていける」ことが同じではない時代だった。
WILKには資金があった。
農地も取得できた。
牧場もあった。
農機具も購入できた。
家畜も買うことができた。
したがって当初計画では、農業生産開始のための条件は概ね整っていると判断された。
この判断に対し、現地調査を担当した一人のポーランド人農民は、帰社直後に強く異議を唱えた。
後にWILK米国農業部門の基本原則として引用される言葉の多くは、この時の発言に由来する。
「畑に人間を植えるな」
「土地だけでは来年の作物は生えん」
「安い土地には、安くなった理由がある」
「先に住んどる者も一緒に栄えてこそじゃ」
なお、当人は終始、自らを農業部門責任者とは認めなかった。
――WILK米国法人史『根を張る』第一章より
「馬鹿もん!」
扉より先に声が入ってきた。
ユダヤ人実業家が顔を上げた。
元金持ちも。
元税務官も。
米国側の担当者も。
続いて扉が開いた。
老人が入ってきた。
帽子を片手に持っている。
靴には乾いた土がついていた。
裾にも泥の跡がある。
数日どころではない。
かなり歩いたらしい。
老人は少し前までポーランドで農業をしていた。
戦争が来た。
逃げる気などなかった。
周囲から半ば無理やり飛行機へ押し込まれ。
国を出て。
海を渡り。
気づけばアメリカにいた。
WILKは彼に農地を見せた。
牧場を見せた。
資金もあると言った。
農業機械も買える。
家畜も買える。
欧州から逃れてきた農民もいる。
ならば、農業ができる。
そう考えた。
老人だけが何も答えなかった。
代わりに歩いた。
近くの農家へ行った。
小麦農家へ行った。
牛を飼う者と話した。
借地で耕す者とも話した。
農具を修理する店へ行った。
飼料屋へ行った。
家畜商へ行った。
銀行にも行った。
土地を失った元農民とも話した。
仕事を求めて遠くから来た家族とも話した。
そして戻ってきた。
怒っていた。
「何が農場じゃ!」
ユダヤ人実業家が静かに尋ねた。
「土地に問題が?」
「土地は悪くない!」
「水は?」
「ある!」
「建物は?」
「直せば使える!」
「では何が」
老人は机を叩いた。
「人じゃ!」
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「人は用意しています」
米国側担当者が言った。
老人が振り向いた。
「だから畑に人間を植えるなと言っとる!」
「……植える?」
「土地を買った!」
机を叩く。
「人を連れてきた!」
また叩く。
「種を渡した!」
もう一度。
「牛を置いた!」
そして。
「はい農家のできあがり!」
老人は両手を広げた。
「そんなわけあるか!」
誰も答えなかった。
かなり近いことを考えていたからである。
老人はそれを察した。
「お前らな」
地図を引き寄せた。
「安い土地があったから買ったんじゃろ」
「条件の良い物件は確保しました」
「なぜ安い」
沈黙。
「考えたか?」
実業家が答えた。
「経済状況、債務、需要の低下」
「言葉にすると綺麗じゃな」
老人は吐き捨てるように言った。
「わしが会った家は、父親の代からの土地をなくした」
別の地点を指す。
「こっちは牛を減らした」
別。
「ここは機械を買い替えられん」
別。
「ここは息子が町へ働きに行ったまま戻らん」
さらに別。
「こいつは自分の畑じゃない。借りて作っとる」
そして。
地図の西側へ指を滑らせた。
「もっと向こうじゃ、土そのものが飛んでいって、家ごと出て行った者までおるそうじゃ」
会議室が静かになった。
老人はアメリカへ来て初めて知った。
巨大な農業国だから。
農民も豊かだと思っていた。
違った。
大きな土地を持つ者もいた。
巨大な農場もあった。
新しい機械もあった。
だが、その隣には。
十年近く耐え続けた農家もいた。
土地を手放した者もいた。
借金だけ残った者もいた。
「安いから買う」
老人は言った。
「それだけなら誰にでもできる」
---
元金持ちが尋ねた。
「じゃあ、買うなというのか?」
老人は首を振った。
「違う」
「なら?」
「買うべき土地は買えばええ」
現実的だった。
「売りたい者から、納得する値段で買うならええ」
「では何が問題だ」
老人は元金持ちを睨んだ。
「買った後じゃ」
元金持ちの表情が変わった。
「なるほど」
彼には分かったらしい。
老人は指を置いた。
「ここにWILKの大きな農場を作る」
隣を指す。
「こいつが潰れる」
さらに。
「次も潰れる」
さらに。
「わしらが土地を買う」
広がっていく。
「また潰れる」
そして最後に。
「気がついたら、周り全部WILKじゃ」
ユダヤ人実業家は黙って聞いていた。
老人が言った。
「それで儲かったと思うか?」
「短期的には」
「十年後は?」
誰も答えない。
「誰に聞く」
雨の癖。
土の癖。
病気。
種。
牛。
道路。
井戸。
市場。
獣医。
修理工。
季節。
労働者。
「周り全部食い潰してから、誰に教えてもらうんじゃ」
ユダヤ人実業家がゆっくり頷いた。
---
老人は椅子へ座った。
ようやくだった。
「農地と牧場と金はある」
「はい」
「それはありがたい」
「はい」
「じゃが、それだけで農家ができるなら誰も苦労せん」
元独立運動家が尋ねた。
「何が必要です?」
老人は即答した。
「先に住んどる奴じゃ」
「地元の農家?」
「そうじゃ」
「競争相手では?」
老人は呆れた顔をした。
「仲間じゃ」
「仲間?」
「農家一軒で全部できると思っとるのか」
収穫時に人手が足りなければ借りる。
機械が壊れれば聞く。
牛が病めば獣医を呼ぶ。
種が足りなければ融通する。
荷車が泥にはまれば押す。
市場の値がおかしければ話す。
火が出れば走る。
嵐が来れば隣を見る。
「そういうの全部込みで農家じゃ」
老人は机を指で叩いた。
「畑を耕すだけが農業ではない」
元独立運動家が頷いた。
「生活圏ごと、ということですね」
老人が見る。
「そうじゃ」
「家だけあっても駄目」
「駄目じゃ」
「仕事だけでも」
「駄目」
「学校」
「要る」
「医者」
「要る」
「店」
「要る」
「修理」
「絶対要る」
「運送」
「要る」
「それから近隣との関係」
老人は少し驚いた。
「お前、農家か?」
「違います」
「なら何で分かる」
元独立運動家は答えた。
「人を移す仕事をしていると、同じことになるので」
ポーランドでも。
英国でも。
仕事だけ渡して人は生きられない。
家だけ渡しても生きられない。
学校だけでも。
病院だけでも。
それらが繋がって初めて生活になる。
畑も同じだった。
---
「それでな」
老人はまた地図を広げた。
「わし、何軒か話してきた」
元金持ちが笑った。
「勝手に?」
「勝手にじゃ」
「何軒?」
老人が数え始めた。
多かった。
「それはもう調査じゃないですか」
元税務官が言った。
「知らん」
「記録は?」
「頭にある」
元税務官の顔が引きつった。
「今から全部話してください」
「嫌じゃ」
「お願いします!」
元金持ちが笑った。
老人は続けた。
「大恐慌で土地をなくした奴もおる」
「はい」
「借金をまだ払っとる奴もおる」
「はい」
「銀行に金を借りるのを嫌がる奴もおる」
それも当然だった。
地方では銀行そのものが消えた記憶すら新しい。
「機械は欲しい。じゃが借金は嫌じゃと言う」
ユダヤ人実業家が聞いた。
「では貸与?」
「それも一つじゃ」
「作物の先買いは?」
老人が見る。
「どういう意味じゃ」
「来年収穫する物を、今の段階で一定量買う契約をする」
「値段は?」
「最低額を保証する」
老人は考えた。
「全部縛るのか」
「いいえ」
「他へ売ってもいい?」
「契約分以外は」
「ならええ」
元税務官がすぐに口を挟んだ。
「作柄不良時の扱いを決めないと駄目です」
老人が嫌そうな顔をした。
「また紙か」
「必要です」
「不作なのに違約金取ったりせんじゃろうな」
「取らない契約を作るために私がいるんです!」
老人が初めて少し笑った。
「なら働け」
元税務官の顔から笑みが消えた。
元金持ちが肩を叩く。
「よかったな」
「あなたもです」
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老人は話を続けた。
「農家が困っとるからといって、土地を取るな」
一つ。
「まだ作れる奴なら、来年も作らせろ」
二つ。
「機械がなくて困っとるなら貸せ」
三つ。
「売れなくて困っとるなら買え」
四つ。
「一軒では運べんならまとめて運べ」
五つ。
「牛が足りんなら早めに考えろ」
そこで。
「牛は必要になってから生えてこんからな」
元金持ちが吹き出した。
元税務官も口元を押さえた。
老人は構わず続けた。
「それから」
「はい」
「WILKの農場だけ優先して買うな」
ユダヤ人実業家が眉を上げた。
「自社農場を?」
「当たり前じゃ」
「なぜ?」
「隣で牛乳捨てとる奴がおるのに、なんでわしらが牛を増やす!」
老人は本気で怒っていた。
「牛乳が余るなら買え!」
「はい」
「果物が余るなら買え!」
「はい」
「小麦が余っとるなら買え!」
「はい」
「買って腐らせるな!」
実業家が止まった。
「では加工しましょう」
老人が止まった。
「加工?」
「牛乳ならバター、チーズ」
少し考える。
「アイスクリームも」
老人の眉が動いた。
「果物なら果汁、ジャム、乾燥品、酒」
さらに動く。
「小麦なら粉、パン、保存食」
「売れるのか」
「売ります」
「どこで」
「まず国内」
実業家は淡々と続けた。
「さらに余るなら英国へ」
老人は数秒黙った。
「……最初からそう言え」
「今、決まりました」
「今!?」
---
そこから話がおかしくなった。
農家を残す。
ならば農産物を買う。
買った物を腐らせない。
ならば倉庫が要る。
牛乳なら冷蔵設備。
肉も冷蔵。
果物も冷蔵。
加工場。
瓶。
缶。
箱。
輸送車。
鉄道との接続。
販売先。
元金持ちの前へ書類が積まれた。
「流れをまとめてください」
「俺は農家じゃない」
「会計でもないでしょう?」
元税務官が言った。
「そうだ」
「でもやるんでしょう」
「……やる」
元税務官の前にも書類が置かれた。
農産物購入契約。
最低価格。
前払い。
設備貸与。
農機具融資。
担保。
借地。
相続。
保険。
輸送中の損害。
「多い!」
「人を増やします」
ユダヤ人実業家が答えた。
「その言葉で毎回仕事を増やしてませんか!」
老人は二人を眺めた。
「大変じゃな」
元税務官が即座に返した。
「あなたもですよ」
「何がじゃ」
「現地農家との取りまとめをお願いします」
実業家が言った。
老人は即答した。
「断る」
「なぜです?」
「わしは農家じゃ」
「はい」
「部長ではない」
「部長とは言っていません」
「なら何じゃ」
「まとめ役です」
「同じじゃ!」
---
それから老人は、また歩いた。
今度はWILKの職員も一緒だった。
だが最初から契約書は出さなかった。
農場へ行く。
帽子を取る。
ポーランドから来た農民だと言う。
自分が何を育てていたか話す。
相手の畑を見る。
牛を見る。
納屋を見る。
壊れた農機具も見る。
そして聞く。
「今年はどうじゃ」
去年の値段。
今年の値段。
雨。
草。
病気。
借金。
市場。
牛乳。
子供。
跡継ぎ。
機械。
そういう話をする。
時には相手が大恐慌の話をした。
作物を売っても借金が減らなかった年。
銀行から通知が来た日。
隣人が土地を失った話。
家族が西へ行った話。
砂嵐から逃げてきた親戚。
一度失った農場を、もう一度借りて耕している男。
老人は聞いた。
WILKの職員も聞いた。
その後で初めて。
「来年も作るか」
と尋ねた。
やる。
やりたい。
分からない。
金がない。
機械がない。
牛を減らすしかない。
息子がいない。
土地は借り物だ。
答えは様々だった。
そこで初めて、紙を出した。
来年の作物を一定量買う契約。
農機具の貸与。
修理費の立替。
共同輸送。
冷蔵保管。
加工場への納入。
だが。
全量をWILKへ売る必要はない。
もっと高く買う相手がいれば、そちらへ売ってもいい。
必要以上に土地を担保に取らない。
不作時の扱いも先に書く。
老人は毎回確認した。
「囲うな」
そして。
「逃げられん契約を作るな」
元税務官側の職員が書き留めた。
それを見た老人が言う。
「ちゃんと書いとけ」
「はい」
「十年後、偉い奴が変わっても分かるようにな」
その言葉だけは。
誰も笑わなかった。
---
数週間後。
会議室に新しい地図が貼られた。
WILK所有地だけを示した地図ではなかった。
WILK農場。
独立農家。
小作農。
牧場。
乳業者。
製粉所。
飼料屋。
修理工場。
獣医。
倉庫。
鉄道。
道路。
市場。
町。
さらに。
WILKと契約していない農家まで書かれていた。
元金持ちが地図を見る。
「ずいぶん増えたな」
老人が答えた。
「土地は増えとらん」
「そうだな」
「仲間が増えたんじゃ」
ユダヤ人実業家が顔を上げた。
「仲間」
「そうじゃ」
老人は地図を指した。
「この国はでかい」
指を動かす。
「金持ちも多い」
また。
「土地も広い」
そして止める。
「じゃが、でかい国だから傷が浅いわけじゃない」
誰も口を挟まなかった。
「十年苦しんだ農家の横へ、金だけ持って来て」
老人は言った。
「土地を買い」
「はい」
「機械を買い」
「はい」
「安く大量に作って」
「はい」
「周りを潰して」
老人は首を振った。
「それを農業とは言わん」
ユダヤ人実業家が尋ねた。
「では、何をすればここで農家になれる?」
老人は、何を当たり前のことを聞くのだという顔をした。
「その土地のやり方を教えてもらえ」
「はい」
「教えてくれた奴も食えるようにせえ」
「はい」
「困った時には助けろ」
「はい」
「こっちが困った時には助けてもらえ」
地図の上で指を大きく回す。
「先に住む者も一緒に栄えてこそじゃ」
しばらく静かだった。
老人は言った。
「農地を持つだけでは、ここに住んどることにはならん」
「作物を作るだけでも?」
「ならん」
「では?」
老人は答えた。
「根を張るんじゃ」
実業家が、その言葉を繰り返した。
「根を張る」
「そうじゃ」
「奪うのではなく?」
老人は頷いた。
「奪うな」
そして地図を指した。
「根を張れ」
その言葉は後に。
農業だけではなく。
工場。
商店。
金融。
物流。
海外投資。
そして、もっと後の時代にWILKが再び東欧へ戻った時にも。
何度も使われることになる。
だが。
言った本人はそんな未来を知らない。
彼が気にしていたのは。
もっと近い問題だった。
「それでな」
「はい」
「この牧場」
地図を指す。
「牛が足りん」
実業家が尋ねた。
「買いましょうか」
老人は盛大にため息をついた。
「だから!」
机を叩く。
「牛は必要になってから生えてこんと言うとるじゃろうが!」
米国のWILK農業部門は。
土地を増やすことより先に。
隣の農家へ挨拶に行くことを覚えた。