質問。
航空祭で配布されたパンについて、改善すべき点はあるか。
回答一。
果汁が少ない。
回答二。
乾燥果実を増やすべきである。
回答三。
木の実が入っていない。
回答四。
一九二〇年に包囲下で食べたものの方がうまかった。
追記。
回答四の人物は、当時WILK製双発機が投下したパン生地樽を実際に受領した部隊の元兵士である。
なお、民家の屋根を破損させた樽について尋ねたところ、
「あれは乳脂肪入りだった」
との証言を得た。
航空祭の翌朝、WILKの飛行場には、まだパンの匂いが残っていた。
移動式窯の灰。
洗浄を待つ木樽。
果汁を入れていた容器。
翼内から取り出された牛乳缶。
地面には観客が踏み固めた跡があり、仮設柵の近くには木匙が一本落ちていた。
元独立運動家は、臨時便所の撤去状況を確認していた。
ポーランド軍将校は、志願者名簿を整理していた。
元ドイツ帝国軍技師は、パン樽満載時の離陸距離と上昇率を再計算していた。
実業家は売上を数えていた。
元白軍将校は、残ったパンを食べていた。
「悪くない」
彼は言った。
「果汁が薄いが」
食品部門の責任者が、疲れ切った顔で振り返った。
「昨日は七千人分です。果汁を濃くすれば原価が上がります」
実業家が顔を上げる。
「どの程度ですか」
「あなたは黙ってください」
そこへ、飛行場の門番が入ってきた。
「昨日の客が来ています」
「忘れ物か」
元独立運動家が尋ねる。
「苦情だそうです」
軍将校が顔をしかめた。
「航空祭の苦情なら、まず私へ」
「パンについてです」
全員が食品部門の責任者を見た。
「私ですか」
「お前だろう」
◇
来客は五十歳を少し過ぎた男だった。
古い軍用外套を着ていたが、肩章も徽章も外されている。
左足をわずかに引きずっていた。
帽子を脱ぐと、短く刈った灰色の髪が現れた。
男は紙袋に入った昨日のパンを机へ置いた。
「これを作った者は」
食品部門の責任者が手を挙げる。
「私たちです」
「うまかった」
「ありがとうございます」
「だが違う」
軍将校が眉を寄せる。
「何と違う」
男はパンを割った。
中には少量の干し葡萄が入っている。
「昔、空から落ちてきたやつだ」
室内が静かになった。
元独立運動家が男を見る。
「どこで食べた」
「北東部だ。森と湿地に挟まれた小さな村で、三日ほど包囲された」
軍将校が椅子から立ち上がる。
元ドイツ技師が計算紙から顔を上げる。
実業家だけが、静かに帳簿を閉じた。
男は続けた。
「一機の双発機が来た。弾薬、医薬品、郵便、それから樽を落とした」
元白軍将校が聞く。
「樽はどこへ落ちた」
「最初の一樽は井戸の横だ」
「壊れたか」
「壊れなかった。兵士が三人がかりで開けた」
「蓋が固かった」
元独立運動家が呟いた。
男が彼を見る。
「なぜ知っている」
「その樽へ文字を刻んだ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
男は元独立運動家の顔を眺めた。
「蓋を開けろ」
「よく混ぜろ」
「布をかけて待て」
「膨らんだら焼け」
二人が交互に言った。
男が笑った。
「生では食うな」
元白軍将校も頷いた。
「必要な注意だ」
軍将校が彼を見る。
「お前は食ったのか」
「聞くな」
◇
男の名はヤンといった。
一九二〇年当時は歩兵大隊の一等兵。
包囲戦を生き延びた後、左脚の負傷で除隊。
現在は鉄道貨物駅で荷役監督をしている。
航空祭へ来たのは、息子がWILKの整備課程へ入りたいと言ったからだった。
「それで、何が違う」
食品部門の責任者が尋ねた。
ヤンは昨日のパンを一口食べる。
ゆっくり噛む。
「昔のは、もっと酸っぱかった」
「果汁の量ですか」
「たぶん」
「何の果汁でした」
「知らん。林檎かもしれん。李かもしれん」
「乾燥果実は」
「入っていた」
「種類は」
「腹が減っていたから、そこまで見ていない」
元ドイツ技師が紙を取り出した。
「記憶している範囲でよい。色は」
軍将校が驚く。
「聞き取りを始めるのか」
「再現するなら条件が必要だ」
「航空技師だろう」
「元の樽は航空補給物資だ」
「パンの配合だぞ!」
技師はヤンへ向き直った。
「果肉は大きかったか」
「小さく刻んであった。だが、一部は塊だった」
「木の実は」
「最初の樽にはなかった」
「最初?」
ヤンが頷く。
「三日後に、二樽来た」
元独立運動家がわずかに笑う。
「希望したな」
「した。誰が書いたかは忘れたが、二樽とバターを頼んだ」
実業家が言った。
「利用者からの追加注文です」
軍将校が睨む。
「戦場報告だ」
「需要の発生です」
「今その話をするな」
ヤンは実業家を見た。
「二度目の樽には乾燥果実が入っていた。もう一つは柔らかかった」
「乳脂肪入りだ」
元独立運動家が言う。
「そう、それだ」
「どちらがうまかった」
食品部門が尋ねる。
「乾燥果実入り」
すぐに答えた。
少し考え、付け加える。
「だが、柔らかい方も悪くなかった」
元白軍将校が聞く。
「屋根を抜いたのは、どちらだ」
ヤンはしばらく天井を見た。
「柔らかい方だ」
軍将校が額を押さえた。
「覚えているのか」
「村の者が怒っていたからな」
「中に人は」
「いなかった」
「樽は」
「無事だった」
「屋根より樽が丈夫だったのか」
「酒樽だった」
元白軍将校が満足そうに頷く。
「よい樽だ」
「家を壊している!」
◇
話を聞きつけた者が増えた。
航空祭の後片付けをしていた元兵士。
工場で働く復員兵。
警備員。
鉄道員。
近所のパン職人。
昼前には、食品試験室へ十二人が集まっていた。
全員が、戦時中に似たパンを食べたと言った。
だが証言は一致しなかった。
「林檎汁だった」
「いや、李だ」
「干し葡萄が入っていた」
「うちは干し杏だった」
「胡桃だ」
「榛の実だ」
「木の実などなかった」
「お前の部隊は補給が悪かったんだ」
「お前の家が金持ちだっただけだろう!」
食品部門の責任者は、机へ両手をついた。
「一つずつ話してください!」
元ドイツ技師が黒板を持ってきた。
地域。
部隊。
季節。
受領時期。
果汁の種類。
乾燥果実。
木の実。
生地の硬さ。
焼き方。
彼は証言を分類し始めた。
軍将校が黒板を見る。
「なぜそこまで本格的なんだ」
「同じ名称で別のパンが混ざっている」
「戦場の思い出だぞ」
「だから混ぜるな」
元独立運動家も資料を確認する。
「果汁は地域の余剰品を使った可能性が高い」
実業家が続ける。
「産地によって配合が変わったのでしょう」
「軍の正式規格ではないのか」
「最初から正式ではありません」
軍将校は黙った。
確かに、最初の一樽は余った果汁と小麦粉と酵母を混ぜたものだった。
包囲部隊へ送る食料が足りず、焼いたパンより生地の方が密に積めるという理由で樽へ入れた。
最初から規格などなかった。
それでも兵士は食べた。
そして覚えていた。
◇
午後、試作が始まった。
第一試作。
林檎汁。
干し林檎。
胡桃。
「酸味が足りない」
ヤンが言った。
第二試作。
李の果汁。
干し杏。
榛の実。
「甘すぎる」
別の元兵士が言った。
第三試作。
林檎汁と李汁の混合。
干し葡萄。
粗く割った胡桃。
少量の乳脂肪。
焼き上がったパンを、元兵士たちが囲む。
誰もすぐには喋らなかった。
ヤンが一切れ取る。
一口食べる。
噛む。
「近い」
食品部門の責任者が身を乗り出す。
「どこが違います」
「昔の方が固かった」
「焼き時間を延ばします」
「いや」
ヤンは首を振った。
「昨日食べるなら、これでいい」
「昨日?」
「戦場で食うなら固い方がいい。鞄へ入れても潰れん。だが今は、歯を痛める必要はない」
別の元兵士が笑った。
「お前、戦場でも湯へ浸して食っていただろう」
「歯が悪かった」
「昔からか」
「昔からだ」
笑いが起きた。
しばらくして、ヤンがもう一切れ取った。
「これなら息子にも食わせられる」
その言葉に、食品部門の責任者は返事をしなかった。
配合表へ、小さく印を付けた。
◇
実業家は商品化を提案した。
当然である。
「名称はどうしますか」
「商品にするのか」
軍将校が聞く。
「試作に材料費がかかっています」
「昨日の残りで作っただろう」
「人件費があります」
「元兵士は勝手に集まってきた!」
「監修料を払うべきです」
元兵士たちが一斉に実業家を見た。
「金が出るのか」
「正式に協力いただくなら」
軍将校が止める。
「待て。軍の思い出を企業が買うのか」
実業家は少し考えた。
「記録を買うのではありません。製品開発への助言へ対価を払います」
元独立運動家が頷く。
「それならよい」
「お前まで」
「復員兵へ無償で働かせる方が問題だ」
正論だった。
軍将校は反論できなかった。
商品名については揉めた。
「包囲パン」
「縁起が悪い」
「投下パン」
「落とすな」
「樽パン」
「樽ごと売るのか」
「遠征パン」
そこで全員が少し止まった。
旅。
鉄道。
工場。
軍務。
農作業。
長い仕事の途中で食べるパン。
戦争だけに結びつかない。
だが、戦場で生まれたことも消さない。
「遠征パンでよい」
ヤンが言った。
実業家が帳簿へ記す。
WILK遠征パン
果汁仕込み。
乾燥果実及び木の実入り。
復員兵聞き取りに基づく。
軍将校が広告案を覗く。
「“戦場の味”とは書かないのか」
「書きません」
実業家が答えた。
「なぜだ」
「彼らが好きだったのは、戦場ではなくパンですから」
室内が、少し静かになった。
◇
最初の製造分は、元兵士へ配られた。
次に工場食堂。
鉄道員。
郵便配達員。
長距離馬車の御者。
測量隊。
航空整備員。
よく売れた。
甘すぎず、少し酸っぱい。
乾燥果実と木の実が入り、普通のパンより腹持ちがよい。
薄く切って焼き直せば保存も利いた。
子供には柔らかい民間向け。
労働者には木の実を増やした高熱量型。
軍からは、保存性を高めた携行型の試験依頼が来た。
軍将校は書類を見て呻いた。
「結局、軍用になるのか」
「元々軍用です」
元独立運動家が答える。
「正式ではなかった」
「兵士が食べた」
「正式規格ではない!」
「なら今、規格にする」
元ドイツ技師が配合表を差し出した。
小麦粉の水分量。
果汁濃度。
酵母量。
乾燥果実の大きさ。
乳脂肪の有無。
焼成時間。
保存試験。
軍将校は表を見つめた。
「お前はいつからパン技師になった」
「ばらつきが大きかった」
「それが許せなかったのか」
「同じ製品名なら、同じ品質にしろ」
食品部門の責任者が深く頷いた。
「よく分かります」
軍将校だけが取り残された。
◇
数日後。
航空祭で使った木樽が、再び飛行場へ並べられた。
今度は投下しない。
遠征パンの生地を近隣都市へ運び、各地のパン屋で焼く試験である。
焼いたパンを運ぶより、生地の方が場所を取らない。
現地で焼けば、温かいパンを出せる。
第十話の応急補給が、民間輸送方式へ戻ってきた。
元白軍将校が樽を確認する。
「果汁は」
「入っています」
「乾燥果実は」
「別容器です。飛行中に沈み方が変わるので、現地で混ぜます」
「木の実は」
「同じく別です」
「昔より面倒だな」
元ドイツ技師が答える。
「品質を揃えるためだ」
軍将校はTurの貨物室を覗き込んだ。
パン生地樽。
乾燥果実箱。
木の実袋。
移動式温度計。
説明書。
「これでは食品輸送機ではないか」
実業家が言う。
「今日はそうです」
「明日は」
「郵便と医薬品です」
「明後日は」
「軍の写真偵察試験」
「その次は」
「航空祭で余った果汁の輸送」
軍将校は天を仰いだ。
「この機体には本職がないのか」
元白軍将校が貨物扉を閉める。
「飛ぶことが本職だ」
二基の発動機が始動した。
Turはパン生地を積み、近隣都市へ向けて離陸した。
◇
その日の夕方。
ヤンは息子とともに、WILKの門を訪れた。
息子は十七歳。
細身で、油の染みた作業着を着ていた。
「整備課程へ志願したいそうだ」
ヤンが言う。
少年は緊張した様子で帽子を握っている。
軍将校が尋ねた。
「なぜWILKだ」
少年は少し迷った。
「父から、昔の話を聞きました」
「飛行機の話か」
「パンの話です」
軍将校の顔が曇った。
少年は慌てて続ける。
「でも、そのパンを運んだ飛行機が、撃たれても戻ったと」
ヤンが訂正する。
「穴は開いたが、戻った」
「それを直す人になりたいです」
元ドイツ技師が少年の手を見る。
指先に油。
爪の間に黒い汚れ。
「何を修理している」
「鉄道駅の荷車と、時々発動機ポンプを」
「工具は使えるか」
「はい」
「朝は早い」
「鉄道よりは遅いですか」
「日による」
元白軍将校が笑った。
少年は整備課程の候補者名簿へ加えられた。
ヤンは帰り際、紙袋から遠征パンを一つ取り出した。
元独立運動家へ渡す。
「昨日より近い」
「まだ違うか」
「同じでなくていい」
ヤンは飛行場を見た。
遠くでTurが着陸態勢へ入っている。
半ば引き込まれた車輪が見えた。
「昔は、次の朝まで生きるために食った」
彼はパンを半分に割った。
「今は、明日の仕事へ行くために食える」
元独立運動家は、渡された半分を受け取った。
少し酸っぱい。
乾燥果実の甘さ。
胡桃の歯応え。
戦場で生まれた食べ物だった。
だが、もう戦場だけの物ではなかった。
◇
WILK食品部門は、その月に正式な小部門となった。
理由は、航空祭の成功ではない。
遠征パンの注文が増えたからでもない。
軍が携行食として興味を示したからでもない。
書類上の理由は、次の通りだった。
航空輸送に適する高密度食料及び現地焼成用生地の研究、製造、保存並びに配送を統括するため。
軍将校は申請書を読んだ。
「食品部門を作ろうとしているではないか」
実業家が答えた。
「既にあります」
「誰が許可した」
「兵士です」
「いつだ」
元独立運動家が言った。
「次回は二樽を希望する、と書いた時だ」
軍将校は黙った。
一九二〇年。
包囲された四十二名の兵士が、一樽の果汁入りパン生地を焼いた。
三日後、二樽を頼んだ。
一つは乾燥果実入り。
一つは乳脂肪入り。
そのうち一つは、民家の屋根を突き破った。
会社設立から年月が過ぎ、航空機は増え、工場も人も増えた。
だが食品部門の始まりをたどれば、結局そこへ戻った。
空から落ちてきた樽。
側面に刻まれた、短い説明。
膨らんだら焼け。
生では食うな。
そして、腹を空かせた兵士の一言。
次回は二樽を希望する。
WILKはその注文を、まだ作り続けていた。