一九一九年
当庁が必要とするものは、都市間において郵便物を迅速に運搬する航空機である。
製造側から提出された最新仕様書には、磁気羅針儀、精密時計、航法机、地図収納棚、天体観測用開口部、六分儀保管箱が記載されている。
当庁は、大西洋横断飛行を要求していない。
この点を製造側へ確認したところ、以下の回答があった。
「道路標識を空から読めないため」
なお、「星なら国境変更の影響を受けない」との追記があった。
当庁としては、まず晴天時に隣町へ到着することを希望する。
会社設立七日目。
元ポーランド独立運動家が、小屋の壁へ新しい地図を貼った。
正確には、新しい地図ではなかった。
古い地図を三枚並べ、その上から新しい国境線を赤い鉛筆で書き込んだものだった。
「線がずれている」
元ドイツ帝国軍技師が言った。
「元の地図同士がずれている」
独立運動家が答える。
「縮尺も違う」
「手に入った物を使った」
「川の位置まで違うぞ」
「川は大きく動かん」
「地図上では動いている!」
元白軍将校が、三枚の境目を指でなぞった。
「この村はどちらの地図にもある」
「名前が違う」
軍将校が言う。
「住民が呼ぶ名と、役所が使う名と、旧支配国が使った名が違う」
「同じ村に三つも名前があるのか」
実業家が帳簿から顔を上げる。
「商取引では珍しくありません」
「郵便物はどの名前で届く」
「届けば、どの名前でも構いません」
「届かなかった場合は」
「返送されます」
「飛行機なら返送先も空だぞ」
白軍将校が言った。
「返送する前に着陸場所を見つけろ」
軍将校が、机へ一枚の紙を置く。
「郵便庁から飛行予定路だ」
全員が集まった。
首都近郊。
地方都市。
鉄道駅。
河川沿いの町。
山間部。
森林地帯。
線で結べば簡単だった。
実際の地上では、簡単ではない。
「目印は鉄道だ」
軍将校が言った。
「鉄道を追えば町へ着く」
元独立運動家が首を振る。
「線路は途中で切れている」
「大きな川を使う」
「霧が出る」
「教会の塔」
「似た塔が多い」
「街道」
「泥で消える」
「山」
「雲で見えない」
軍将校は黙った。
白軍将校が満足そうに頷く。
「星を見る」
「昼間だぞ」
「太陽も星だ」
「そういう話ではない!」
ドイツ技師は、地図の横へ紙を貼った。
「磁気羅針儀は必要だ」
「それは分かる」
軍将校が答える。
「精密時計も」
「なぜだ」
「飛行時間から進行距離を推定する」
「速度が変われば」
「風を補正する」
「風はどう測る」
「地上の煙、雲、体感、予定速度との差」
「随分と曖昧だな」
「だから複数の手段を使う」
元白軍将校が言う。
「六分儀も積め」
軍将校は彼を見た。
「何を積めと?」
「六分儀だ」
「船ではない」
「空でも角度は測れる」
「国内郵便機だぞ!」
「国内でも迷う」
「隣町へ行くのに星を見るな!」
白軍将校は地図を指さした。
「隣町がどちらにあるか、地図によって違う」
軍将校は地図を見た。
反論できなかった。
◇
六分儀を持ってきたのは、実業家だった。
その日の午後。
彼は細長い木箱を抱え、小屋へ戻ってきた。
元独立運動家が箱を見る。
「買ったのか」
「借りました」
「誰から」
「川船の船長です」
「なぜ川船が六分儀を持っている」
「昔、海へ出ていたそうです」
「返却期限は」
「一週間」
「その間に飛行機ができると思うか」
「思いません」
「ではなぜ借りた」
「寸法を測るためです」
元ドイツ技師が箱を開ける。
中には、古いが手入れされた六分儀が入っていた。
白軍将校が手に取ろうとする。
「触るな」
ドイツ技師が止めた。
「見るだけだ」
「持つ必要はない」
「使い方を知っている」
「本当か」
「少し」
軍将校が眉をひそめる。
「お前の“少し”はどの程度だ」
「海軍士官から教わった」
「いつ」
「逃げている途中だ」
「状況が不安すぎる!」
実業家は箱の蓋裏へ貼られた貸出票を確認する。
「壊した場合は全額弁償です」
白軍将校は静かに手を引いた。
「技師に任せる」
「急に慎重になるな」
ドイツ技師は六分儀の寸法を測り始めた。
「保管箱を機内へ固定する」
「誰が使う」
軍将校が尋ねる。
「補助席の人間だ」
元独立運動家が答えた。
「医師か役人の席ではなかったか」
「飛行中は航法員になる」
「医師に六分儀を使わせるのか!」
「覚えればよい」
「患者を診ろ!」
「では役人が使う」
「書類を読ませろ!」
白軍将校が言う。
「操縦士が使えばよい」
ドイツ技師が即座に否定する。
「操縦中に六分儀を扱わせるな」
「水平飛行中なら」
「風で揺れる」
「片手で」
「墜落する」
「なら補助席だな」
軍将校は壁へ額をつけた。
「なぜ郵便機に航法員が乗る」
実業家が答える。
「郵便を届けるためです」
「郵便を減らして人を乗せることになるぞ」
「迷って全量失うよりよいでしょう」
「正論で殴るな」
◇
航法机の設計は、さらに揉めた。
元ドイツ技師は、折り畳み式の小さな机を提案した。
「飛行中に地図を広げられる」
軍将校が図面を見る。
「机まで積むのか」
「膝の上では書き込みにくい」
「机が揺れる」
「固定する」
「人間が揺れる」
「座席ベルトを付ける」
「また重量が増えた!」
白軍将校は机の下へ小さな引き出しを描き足した。
「鉛筆と定規を入れる」
「勝手に描くな」
ドイツ技師が言う。
「時計の予備も」
「時計は一つでよい」
「壊れたら」
「地上へ戻る」
「位置が分からなければ戻れない」
「予備を積め」
軍将校が投げやりに言った。
「よいのか」
「もう好きにしろ!」
実業家が帳簿へ書き込む。
「精密時計二個」
「高いぞ」
「必要になりました」
「私が言ったことにするな!」
元独立運動家は、地図収納棚の大きさを測っていた。
「もっと広く」
「なぜだ」
技師が尋ねる。
「地域ごとに地図が違う」
「一航路分だけ積め」
「予定外の場所へ行くかもしれん」
「なぜ」
「医者を運ぶ」
「またそれか!」
「患者を迎えに行く場合もある」
軍将校が机を叩きかけ、手を止めた。
軸受が机の端に置かれている。
ドイツ技師が見ている。
軍将校は、ゆっくり手を下ろした。
「地図棚を広げろ」
技師が頷く。
「賢明だ」
「褒めるな」
◇
最大の問題は、空を見るための場所だった。
「操縦席から見えるだろう」
軍将校は言った。
「前方と左右は」
ドイツ技師が答える。
「上は」
「首を伸ばせ」
「主翼がある」
高翼機なので、操縦席の上には大きな主翼がある。
太陽や星を見るには邪魔だった。
白軍将校が胴体上部を指さす。
「屋根へ穴を開けろ」
「窓と言え!」
軍将校が叫ぶ。
「穴でよい」
「雨が入る!」
「蓋を付ける」
「最初から窓にしろ!」
元独立運動家が図面を見る。
「開閉式なら、上を見るだけでなく外へ顔を出せる」
「飛行中に顔を出すな」
ドイツ技師が言った。
「着陸場所を見る時に便利だ」
「風圧で首を痛める」
「速度を落とす」
「速度を落としすぎれば失速する」
「翼を大きくしただろう」
「そのためではない!」
実業家が静かに尋ねた。
「観測窓として営業できますか」
軍将校が振り返る。
「何でも売ろうとするな!」
「新聞社や測量関係者へ」
「郵便庁の機体だ!」
「将来の話です」
「まだ骨組みもない!」
ドイツ技師は図面へ、小さな天窓を描いた。
「強化枠を設ける。開閉式。通常は透明板で閉じる」
白軍将校が頷く。
「非常時の脱出口にもなる」
「増やすな」
「使える」
「言うと思った!」
元独立運動家も言う。
「荷物を上から出せる」
「なぜ上から出す!」
「下が塞がっている時」
「何に塞がれる!」
「荷物に」
「積みすぎるな!」
◇
数日後。
小屋の中に、木材で作った操縦席と航法席の実物大模型が現れた。
まだ航空機の胴体はない。
だが座席だけはある。
軍将校が操縦席へ座る。
前方には計器板。
右手に操縦桿。
足元に方向舵ペダル。
頭上には大きな主翼の位置を示す木枠。
背後には補助席。
その前に折り畳み航法机。
左側に地図棚。
右側に六分儀箱。
上には天窓。
軍将校は振り返った。
「狭い」
「機体を大きくしますか」
実業家が尋ねる。
「するな」
「荷物室を削る」
ドイツ技師が言う。
「それもするな」
「では補助席を削る」
「医師が乗れなくなる」
「航法員では?」
白軍将校が尋ねた。
「どちらでもよい!」
「同時には乗れない」
元独立運動家が言う。
「なら三席にするか」
「しない!」
軍将校が叫んだ。
実業家は帳簿へ何も書かなかった。
だが鉛筆だけは持っていた。
軍将校はそれを見た。
「書くなよ」
「まだ書いていません」
「“三席案、将来検討”と書く気だろう」
「非常に有望です」
「やめろ!」
白軍将校が補助席へ座った。
航法机を広げる。
「悪くない」
地図を置く。
定規を置く。
時計を置く。
六分儀箱を開けるふりをする。
「足元が狭い」
「荷物を置くからだ」
技師が答える。
「拳銃も置けない」
「郵便機に拳銃置き場は不要だ」
「操縦士が持つかもしれん」
「自分で持て!」
「落としたら危険だ」
「では収納箱を――」
軍将校が技師の口を塞いだ。
「増やすな」
◇
試験として、元独立運動家が航法席へ座った。
軍将校は操縦席。
元白軍将校とドイツ技師が、木枠を左右から揺らす。
「何をしている!」
軍将校が叫ぶ。
「飛行中の揺れを再現している」
白軍将校が答える。
「もっと不規則に」
技師が指示する。
二人が木枠を激しく揺らした。
「揺らしすぎだ!」
「乱気流だ」
「小屋の中だぞ!」
航法席の独立運動家は、揺れる机の上で地図へ線を引こうとしていた。
鉛筆が何度も滑る。
「書けない」
「机に縁を付ける」
技師が言う。
「地図が落ちる」
「固定帯を付ける」
「定規が飛ぶ」
「収納溝を付ける」
「時計が倒れる」
「台座を作る」
軍将校が振り返った。
「揺らすのを止めろ! 要求が増え続ける!」
二人が手を離す。
木枠が傾いた。
軍将校と独立運動家が、座席ごと倒れた。
小屋の床に大きな音が響く。
全員が黙った。
ドイツ技師が倒れた座席を見る。
「床への固定が弱い」
軍将校は仰向けのまま答えた。
「先に私を起こせ」
◇
午後には、郵便庁から役人が視察へ来た。
小柄で眼鏡をかけた男だった。
役人は壁の図面を見る。
双発機。
大きな翼。
広い荷物室。
患者用の床。
貨物投下窓。
航法机。
六分儀箱。
天窓。
「我々が注文したのは、郵便機です」
「郵便を運べます」
実業家が答えた。
「六分儀は何に使うのです」
「位置を知るためです」
「国内便ですよ」
「国内でも迷います」
「街道を追えばよいでしょう」
元独立運動家が地図を見せる。
「どの街道です」
役人は地図を見る。
三枚の地図。
違う縮尺。
違う地名。
違う国境線。
「鉄道を」
「途中で切れています」
「川を」
「霧が出ます」
「教会の塔を」
「同じ形が多いです」
役人は黙った。
白軍将校が言う。
「星なら動かない」
ドイツ技師が訂正する。
「見かけ上は動く」
「位置を知る基準にはなる」
「計算が必要だ」
「だから机がある」
役人は航法机を見る。
「この机の重量は」
「まだ測っていません」
軍将校が答えた。
「測らない方がよいかもしれません」
「軍の方ですか」
「監督担当です」
「止められないのですか」
軍将校は、遠い目をした。
「努力はしています」
役人は、もう一度図面を見る。
「費用は当初契約内に収まりますか」
実業家が微笑んだ。
「追加機能について、ご相談があります」
役人は帰ろうとした。
元独立運動家が扉を閉めた。
「押しても開きません」
「なぜそれを今言う!」
◇
相談は二時間続いた。
郵便庁は追加費用を認めなかった。
ただし、医薬品輸送への使用可能性には興味を示した。
航法設備については、
「最初の一機に限り、試験目的として認める」
という曖昧な結論になった。
実業家はそれを、
「搭載承認」
と帳簿へ書いた。
軍将校が覗き込む。
「試験目的だ」
「搭載は認められました」
「恒久装備ではない」
「試験結果がよければ恒久化できます」
「結果が悪ければ」
「改良します」
「外すという選択肢は?」
「ありません」
郵便庁の役人は、帰り際に古い六分儀を見た。
「本当にこれを飛行中に使うのですか」
白軍将校が答える。
「使う」
ドイツ技師は答える。
「条件が整えば」
軍将校は答える。
「使わずに済む航路を飛ぶ」
独立運動家は答える。
「必要になれば使う」
実業家は答える。
「宣伝には使えます」
役人は何も言わず、小屋を出た。
ただし扉を押した。
開かなかった。
五人全員が言う。
「引いてください」
◇
その夜。
壁の仕様書には、新しい項目が増えていた。
磁気羅針儀。
精密時計二個。
航法机。
地図収納棚。
六分儀保管箱。
開閉式天体観測窓。
筆記具固定具。
定規収納溝。
非常脱出口兼用。
軍将校は、最後の一行を指さした。
「誰が非常脱出口を承認した」
白軍将校が答える。
「窓があるなら出られる」
「出られることと、出口として設計することは違う!」
技師が図面を確認する。
「枠を補強すれば使える」
「対応するな!」
実業家は帳簿へ費用を書き込む。
数字は、また増えた。
「軽郵便機の予算ではありませんね」
「もう軽郵便機ではない」
独立運動家が言う。
「空飛ぶ郵便馬車だ」
「馬車に六分儀は積まない」
軍将校が答える。
「空を走るから必要だ」
白軍将校が言った。
ドイツ技師はしばらく考えた。
「正確には、馬車ではなく小型輸送機に近い」
「正式名称を決めたのか」
「分類の話だ」
「会社名が先だろう」
実業家が言う。
「名前は後でも売れます」
「名前のない会社から飛行機を買う者がいるか!」
「既に軍と郵便庁が買っています」
「契約してしまった自分が憎い!」
小屋の外には、雲の切れ間から星が見えていた。
元白軍将校は扉を開け、空を見上げた。
「晴れている」
軍将校も外を見る。
「今日はな」
「星は見える」
「飛行機はない」
「いずれ飛ぶ」
元ドイツ技師が小屋の中から言った。
「その前に六分儀の使い方を正確に覚えろ」
「少し知っている」
「少しでは航法にならん」
「では教えろ」
「なぜ私が知っている前提なのだ」
「ドイツ人だからだ」
「ドイツ人を何だと思っている!」
会社設立八日目。
WILK最初の航空機は、まだ翼すらなかった。
だが操縦士が道に迷った場合、星を見て帰る準備だけは整いつつあった。