一九二八年
過去八か月間に確認された侵入企図。
正門突破。
偽造伝票。
空樽潜伏。
合鍵作製。
警備員買収。
屋根上侵入。
排水路侵入。
清掃員への変装。
委員会設置による正規試飲権限の獲得。
航空試験を名目とした蒸留酒搬出。
夜間落下傘降下。
以上の全事例について、外国諜報機関の関与は確認されていない。
侵入者の目的は、全件において蒸留酒「緊急脱出」の取得であった。
主たる首謀者は、WILK創業者の一人である。
なお同人は、いずれの事例についても失敗を認めていない。
理由。
「最後には一杯飲んだからだ」
外国武官たちは笑っていた。
ポーランド軍将校は笑っていなかった。
長机の上には、酒造倉庫警備主任が持ち込んだ三冊の記録簿が積まれている。
フランス。
英国。
ドイツ。
アメリカ。
イタリア。
それぞれの国の軍服を着た男たちが、WILKの酒を前に席へ着いていた。
背後には通訳、補佐官、書記、随員。
そのうち何人かは、本当にただの随員だった。
何人かは違った。
だがポーランド軍将校は、彼らの正体を一人ずつ問いただすつもりはなかった。
理由は単純だった。
今日説明しなければならない相手は、外国人ではない。
記録簿の中にいる。
「これは、防諜訓練の記録ですか」
英国武官が尋ねた。
軍将校は答えた。
「違う」
「では、警備演習?」
「違う」
「実際の侵入事件なのですか」
「そうだ」
英国武官の顔から笑みが少し消えた。
「外国工作員による?」
軍将校は目を閉じた。
できるなら、そうだと答えたかった。
敵国工作員が相手なら、逮捕すれば終わる。
報告書を書き、外交問題にし、責任者を拘束すればよい。
だが今回の相手は、捕まえても翌週また来る。
「飲兵衛だ」
英国武官は聞き返した。
「何と?」
「飲兵衛だ」
隣のフランス武官が吹き出した。
イタリア武官は机を叩いて笑った。
アメリカ武官は手帳を開いた。
ドイツ武官だけは真面目な顔のまま、記録簿を見ていた。
軍将校は全員を睨んだ。
「笑うのは最初だけにしておけ」
警備主任が一冊目を開いた。
「では、第一号事例から説明します」
◇
第一号事例は、正門突破だった。
夜間閉門後、元白軍将校が整備員三名を伴って酒造倉庫正門へ来た。
武器なし。
許可証なし。
燻製肉あり。
杯あり。
元白軍将校は門番へ言った。
「開けろ」
門番は答えた。
「許可証を」
「私だ」
「許可証ではありません」
「創業者だぞ」
「なおさら許可証が必要です」
元白軍将校は、自分が創業者であり、酒造部門設立にも協力し、品質確認の権利を持つと主張した。
門番は、自分が夜間の入退室管理を任されており、創業者であることは無許可立入の免責理由にならないと主張した。
議論は七分続いた。
八分目に、元白軍将校は門を押した。
九分目に取り押さえられた。
「負傷者は?」
フランス武官が尋ねた。
「いない」
「警備員の対応は適切ですね」
「そうだ」
「侵入者側の反省点は?」
警備主任は記録を読んだ。
正面警備は強固。
門番は権威に屈しない。
次回は許可証を用意すること。
英国武官が頷いた。
「正しい分析です」
軍将校が机を叩いた。
「次回を計画するなという意味で記録したんだ!」
◇
第二号は、偽造伝票だった。
搬出品目。
発動機洗浄用酒精 二瓶
搬出先。
技術部実験室
緊急度。
高
書式は正しかった。
印章も正しかった。
署名は判読困難だったが、WILKの書類では珍しくなかった。
問題は、備考欄にあった。
品名 緊急脱出
可能なら冷却済みのもの
倉庫係は疑問を持った。
ちょうど通りかかった元ドイツ帝国軍技師へ確認した。
技師は伝票を一目見て言った。
「発動機へ果実香のある蒸留酒を使うな」
偽造発覚。
印刷所員一名が協力していた。
「印章の精度は?」
ドイツ武官が尋ねた。
「何だと」
「再現精度です」
警備主任が伝票を渡した。
ドイツ武官は光へ透かした。
「かなり良い」
軍将校が低い声で言った。
「評価するな」
「しかし軍用書式の複製としては――」
「評価するな!」
背後に立つドイツ側の随員は、笑っていなかった。
彼は伝票を見ていた。
印章。
紙質。
署名。
搬出先。
偽造だけなら、自分たちにもできる。
だが用途確認が技術部まで回る。
書類を通しても、現物の使用目的で止められる。
随員は小さく記した。
文書単独による搬出、困難。
◇
第三号は、空樽潜伏。
返却される空樽二本に、樽職人が一人ずつ入った。
倉庫へ運び込まれた後、夜間に出て蒸留酒を持ち出す計画だった。
樽には人間だけでなく、パン、燻製肉、塩漬け胡瓜、杯六個が入っていた。
「六個?」
フランス武官が尋ねた。
警備主任が答える。
「成功後、外の仲間を呼ぶ予定だったそうです」
「連絡方法は?」
「窓から歌う」
「符号化された歌ですか」
「酒場歌です」
フランス武官は笑いながら顔を覆った。
空樽は入庫前に重量を量られた。
通常より百三十七キログラム重かった。
倉庫係が樽を叩く。
「何が入っている」
樽の中から返事。
「空気だ」
「重い空気だな」
樽が開けられた。
作戦終了。
この事件以後、空容器を含む全ての出入荷物について、重量記録が残されるようになった。
英国側随員の一人が、笑う武官たちの後ろで記した。
容器潜伏、対策済み。
空容器を例外扱いせず。
隣に立つ男が小声で言った。
「貨車内の空箱も量るだろうな」
「おそらく」
「酒蔵だぞ」
「分かっている」
◇
第四号は合鍵だった。
元白軍将校は、石鹼、蝋、柔らかい鉛板を使い、鍵の形を写し取ろうとした。
全て失敗。
最後には倉庫係へ直接頼んだ。
「五分だけ貸せ」
「何に使います」
「確認だ」
「何の」
「鍵の」
当然、拒否された。
鍵職人へ依頼した時点で、実業家へ連絡が入った。
実業家は鍵職人へ相談料を支払った。
元白軍将校は抗議した。
「鍵を作っていないのに金を払ったのか」
「時間を使わせましたので」
「なら作らせろ」
「それは別の問題です」
事件後、酒蔵は二重鍵になった。
一方を酒造責任者。
もう一方を実業家が管理する。
二人が揃わなければ、重要区画は開かない。
英国武官が感心した。
「内部協力者一人では突破できない」
軍将校は答えた。
「内部協力者しか想定していなかった」
背後の随員は、さらに考えた。
鍵を二つ盗むだけでは足りない。
開閉時刻も記録される。
瓶数も照合される。
持ち出し先の署名も要る。
鍵だけでは終わらない。
酒泥棒のせいで、警備が多層化していた。
◇
第五号は買収。
夜勤警備員へ提示された報酬。
緊急脱出一杯。
燻製肉。
翌日の勤務交代。
警備員は応じたふりをし、警備主任へ報告した。
作戦当夜。
元白軍将校と工員五人が現れた。
倉庫前には、椅子と机が用意されていた。
実業家が座っていた。
机には人数分の杯が並んでいた。
「交渉しましょう」
元白軍将校は周囲を見た。
「罠か」
「既に罠へ来ています」
一人一杯の正式試飲が認められた。
倉庫への立入は認められなかった。
全員の氏名は記録された。
警備員へ買収を持ちかけた事実も記録された。
元白軍将校は主張した。
「交渉で解決した」
実業家は答えた。
「交渉前に買収しています」
「謝礼だ」
「では経費申請を」
誰も申請しなかった。
アメリカ武官が笑った。
「内部通報制度まで試験されたのですか」
「試験ではない」
「ですが結果として」
「結果を言うな」
本職の随員は、この事例だけ二度読んだ。
内部協力者へ接触しても、相手が応じたふりをする。
しかも報告した警備員は処罰されず、逆に勤務を評価されている。
接触相手が本当に転ぶか、二重に動くか分からない。
買収工作には向かない環境だった。
「工員の借金を狙うしかない」
随員が囁く。
隣の男が首を振る。
「診療所と住宅組合がある。急な金の動きも実業家の帳簿に出る」
「では家庭問題」
「元独立運動家が先に聞く」
二人は黙った。
◇
第六号は、規則による侵入だった。
元白軍将校を委員長とする「酒造製品品質確認委員会」の設置申請。
全十二頁。
目的。
高品質製品の安定供給。
構成員。
元白軍将校、整備員、教官、樽職人ほか。
権限。
各製造樽から二杯ずつ試飲。
頻度。
毎週。
必要経費。
黒パン、燻製肉、塩漬け胡瓜、玉葱。
軍将校は七頁目まで真面目に読んだ。
八頁目で叫んだ。
「酒盛りの予算申請ではないか!」
元白軍将校は反論した。
「品質管理だ」
元ドイツ技師が試飲総量を計算した。
「この量では、製品より先に委員が不良になる」
申請却下。
ただし月一回の正式品質試験制度は採用された。
英国武官が言った。
「制度内部から権限を獲得しようとした」
軍将校が睨んだ。
「違う」
「しかし手法としては」
「酒を飲みたかっただけだ!」
英国武官の後ろで、随員が静かに書いた。
委員会、監査、品質確認等の名目による継続アクセスは審査対象。
権限、消費量、構成員、経費を照合。
彼は顔を上げなかった。
笑えば、自分たちのやり方を笑うことになる。
◇
第七号は屋根上侵入。
借用された梯子。
目的欄。
雨漏り確認。
当日の天候。
快晴。
警備員が尋ねた。
「どこの雨漏りです」
元白軍将校は答えた。
「将来の雨漏りだ」
梯子没収。
翌日、別の短い梯子を持参。
屋根へ届かなかった。
さらに翌日、木箱を積み上げた。
崩れた。
怪我人なし。
事件後、梯子を含む高所作業器具には貸出記録が付けられた。
屋根の点検口は内側から施錠された。
雨樋は人間の体重を支えない形へ変更された。
ドイツ武官は図を見て言った。
「屋根上からの接近も対策済み」
軍将校が答える。
「三日続けて来たからな」
「執念深い」
「酒に対してだけだ」
◇
第八号は排水路侵入。
元白軍将校は、酒造設備の排水図面を入手した。
図面は機密ではなかった。
酒造職員と設備工が共有する保守用図面だった。
排水路の一部が、人の肩幅に近かった。
細身の工員が選ばれた。
入口から三メートル。
工員は戻った。
「果実の滓と泥がひどい」
元白軍将校は前進を求めた。
工員は拒否した。
報酬として緊急脱出一本が提示された。
工員は再び入った。
五メートル地点。
鼠避け格子に阻まれた。
技師の記録。
排水路を成人が通行する可能性は想定していなかった。
今後、酒への執着を保守設計条件へ含める。
イタリア武官が腹を抱えて笑った。
アメリカ武官は質問した。
「報酬は支払われたのですか」
「正式試飲一杯へ減額された」
「労働争議にならなかった?」
「元独立運動家が仲裁した」
「何と?」
警備主任が別紙を読んだ。
作業内容が事前説明と異なり、衛生上の問題があったため、工員へ臨時手当を支給する。
ただし酒一瓶の現物支給は認めない。
軍将校は両手で顔を覆った。
「なぜ酒泥棒未遂に労務仲裁が要る」
「工員を排水路へ入れたからです」
元独立運動家は会議にいなかった。
だが声が聞こえるようだった。
◇
第九号は清掃員への変装。
夜間清掃班の作業着を入手。
帽子。
長靴。
桶。
床洗浄用ブラシ。
侵入者は、倉庫入口まで到達した。
警備員に止められる。
「どこの床から洗う」
侵入者は答えられなかった。
酒造倉庫には洗浄順序があった。
発酵室。
瓶詰室。
通路。
最後に出入口。
逆に洗えば、汚れを奥へ運ぶ。
清掃員なら必ず知っている。
変装発覚。
英国武官が笑いながら言った。
「仕事を知らない変装は見破られる」
背後の随員が、同じ言葉を書いた。
彼は笑わなかった。
制服を盗むだけでは足りない。
勤務手順。
道具の扱い。
職員同士の呼び方。
作業開始位置。
そこまで覚えなければならない。
WILKの人間は、互いの顔だけでなく仕事を見ている。
◇
第十号は空輸。
元白軍将校は食品部門へ、蒸留酒一樽の試験飛行を申請した。
目的。
高高度環境における熟成変化の確認。
元ドイツ技師が申請書を読んだ。
「蒸留後の酒を飛ばして何を発酵させる」
「味だ」
「却下」
軍将校へ直訴。
「航空食品研究だ」
「飛行機へ酒を積み、戻って飲みたいだけだろう!」
「着陸してから飲む」
「なら地上で飲め!」
最終的に許可されたのは、空瓶一本の輸送試験だけだった。
離陸前、元白軍将校が瓶を持ち上げた。
「空だぞ」
技師が答えた。
「容器だけの試験だ」
「重量変化は」
「ない」
「なら何を試す」
「お前が勝手に中身を入れないかだ」
空瓶は問題なく帰還した。
報告書。
蒸留酒容器の空輸に支障なし。
内容物については未確認。
武官たちは声を上げて笑った。
軍将校は笑わなかった。
その後ろで、本職の者たちは考えていた。
正規試験への貨物混入。
積載前確認。
着陸後照合。
空容器すら対象。
物流へ紛れ込ませる手段も潰れている。
◇
警備主任は、一度水を飲んだ。
「次が、現時点で最大規模の事例です」
軍将校が低く言った。
「説明しなくてもよいのではないか」
「外国武官から正式な閲覧申請が出ています」
「誰が出した!」
英国、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリアの武官が、それぞれ少し視線を逸らした。
軍将校は悟った。
こいつら、楽しんでいる。
警備主任は三冊目を開いた。
「第十一号。夜間落下傘侵入」
武官たちの目が輝いた。
随員たちの表情が消えた。
◇
発端は、前日の会話だった。
英国武官の一人が冗談として言った。
「屋根も排水路も駄目なら、上空から降りればよいのでは」
ポーランド軍将校は即座に答えた。
「言うな」
元白軍将校は黙っていた。
元ドイツ技師だけが、その顔を見た。
「その顔をやめろ」
「何だ」
「思いついた顔だ」
「冗談だ」
「お前の冗談は着地する」
二日後。
元白軍将校は、整備員、樽職人、航空学校教官補佐を集めた。
使用装備。
小型機一機。
落下傘四具。
厚底ゴム靴四足。
工場周辺地図。
酒蔵配置図。
夜間風向記録。
「ゴム靴?」
フランス武官が聞いた。
警備主任は頷いた。
「着地音を消すためです」
イタリア武官は膝を叩いた。
「素晴らしい!」
軍将校が睨んだ。
「何がだ!」
作戦計画。
一、夜間試験飛行名目で離陸。
二、酒造倉庫後方の空き地上空を通過。
三、四名が順次降下。
四、ゴム靴により着地音を低減。
五、倉庫裏へ集合。
六、侵入。
七、緊急脱出を確保。
八、祝杯。
備考。
帰路については現地で判断する。
ドイツ武官が言った。
「帰路計画がない」
軍将校は答えた。
「そこだけが問題だと思うか?」
降下当夜、風は予定より少し強かった。
地上誘導灯は使用されなかった。
理由。
点灯すれば警備員に発見されるため。
教官補佐が尋ねた。
「夜間に地面をどう見ます」
元白軍将校は答えた。
「気合で見る」
武官たちはまた笑った。
随員たちは笑わなかった。
低高度夜間降下。
無灯火。
静粛装備。
複数人。
冗談として片づけるには、構成が整いすぎていた。
◇
一人目の整備員は、耕した畑へ降りた。
着地音は小さかった。
べしゃ。
ゴム靴ごと膝まで泥に沈んだ。
本人の証言。
「音は消えたが、足も消えた」
二人目の樽職人は、低い柵へ引っかかった。
柵ごと倒れた。
がしゃん。
静粛性、喪失。
三人目の教官補佐は、物置の屋根へ降りた。
屋根を滑り、藁束へ落ちた。
怪我なし。
最後の元白軍将校は、四名中もっとも美しく着地した。
ただし酒蔵裏ではなかった。
食堂の裏庭だった。
夜勤明けの食堂係が煙草を吸いに出ていた。
空から元白軍将校が降りてきた。
食堂係は尋ねた。
「何をしているんです」
「着地だ」
「見れば分かります」
「音はしなかっただろう」
「ええ」
「成功だ」
その時、遠くで柵の倒れる音がした。
さらに物置から助けを求める声。
元白軍将校は言い直した。
「部分的成功だ」
◇
警備員が集まった。
夜勤工員。
食堂係。
警備主任。
犬。
最後に軍将校が到着した。
木の枝には落下傘が一枚引っかかっていた。
畑から整備員の上半身が出ていた。
樽職人は柵の下にいた。
教官補佐は藁まみれだった。
軍将校は叫んだ。
「何をしている!」
元白軍将校は答えた。
「静粛侵入だ」
「静粛ではなかった!」
「着地までは静かだった」
「なぜ落下傘で酒蔵へ来る!」
「上からなら見張りを避けられる」
「避けられていない!」
「配置が悪かった」
「お前の頭の配置が悪い!」
会議室では、外国武官たちが腹を抱えていた。
ポーランド軍将校だけは、当時と同じ顔をしていた。
◇
だが本職の随員たちは、警備主任が読み上げる対策を聞いていた。
夜間上空からの接近を想定。
倉庫周辺空地への木柵および障害物追加。
物置、屋根、畑を含む夜間巡回範囲拡大。
工場所属機の夜間飛行許可手続き厳格化。
飛行計画と搭乗者名簿の照合。
落下傘および救命装備の貸出記録導入。
上空からの物体落下に対する通報手順整備。
一人の随員が小声で言った。
「空からも駄目だ」
隣の男が答えた。
「低高度降下をやる前から捕捉される」
「別の飛行場から飛ぶ」
「工場周辺の夜間飛行は目立つ」
「高高度から」
「降下範囲が広がる。周囲の村までWILKの人間がいる」
「では滑空機」
「先月、WILKが曳航試験をしたばかりだ。音と飛び方を知っている」
二人は記録簿を見た。
酒を盗もうとする者たちが、自分たちの案を先回りして失敗している。
しかもWILKは毎回、その失敗を記録し、対策していた。
「次は地下だろう」
一人が言った。
警備主任が頁をめくった。
「なお、第十二号事例として床下掘削計画を確認しています」
二人は黙った。
◇
床下掘削計画は、実行前に発覚した。
工場工具庫から、短柄シャベル、つるはし、手押し車が借り出された。
使用目的。
排水改善。
元独立運動家が借用書を見た。
施工予定地。
酒造倉庫西側。
雨季でもない。
排水問題の報告もない。
問いただすと、元白軍将校は答えた。
「予防的工事だ」
「何を予防する」
「正面から入れない事態を」
計画書には、地下通路の予定線と掘削班の交代表まで書かれていた。
食料班もあった。
換気方法だけ決まっていなかった。
元独立運動家は計画書を没収した。
「埋めるぞ」
「まだ掘っていない」
「お前たちをだ」
掘削は未実施。
工具の貸出目的審査が厳格化された。
酒蔵周辺では、地下水位と地盤の再確認が行われた。
外国武官たちは、もう笑い疲れていた。
本職の随員たちは、さらに青ざめていた。
地下も対策される。
◇
「率直に申し上げます」
ドイツ武官が記録簿を閉じた。
「これほど多様な侵入方法を、同一人物が継続的に試した例は珍しい」
英国武官も頷いた。
「正面突破、文書偽造、容器潜伏、内部買収、制度利用、変装、屋根、排水、航空輸送、空挺侵入、地下掘削」
フランス武官が笑う。
「酒が目的でなければ、かなり優秀な工作指導者です」
軍将校は机を叩いた。
「酒が目的だから困っている!」
アメリカ武官は対策一覧を見た。
「しかし全事例が警備改善につながっている」
「そうだ」
「実地侵入試験としては、費用も低い」
「警備員の残業代と、壊された柵と、荒らされた畑と、落下傘の補修費がかかっている!」
「それでも専門部隊を使うよりは安い」
「比較するな!」
イタリア武官が杯を掲げた。
「首謀者は毎回、生還している」
軍将校は言葉に詰まった。
WILKの機体も、人間も、帰還を重視する。
だが、この件まで理念に含めたくはなかった。
「捕まっているだけだ」
「しかし宿舎へ帰っている」
「警備員に連行されてな!」
◇
その時、会議室の扉が開いた。
元白軍将校が立っていた。
背後には整備員二人。
一人は丸めた縄を持っている。
もう一人は折り畳み式の小さな錨を持っている。
軍将校は立ち上がった。
「何だ、それは」
「何がだ」
「その縄と錨だ!」
「牽引試験用だ」
「どこで使う」
「まだ決めていない」
「決めるな!」
元白軍将校は外国武官たちを見回した。
「私の作戦研究会だと聞いた」
軍将校は警備主任を見た。
「誰が入れた」
元独立運動家が扉の向こうから答えた。
「知り合いの親戚だ」
「お前まで何をしている!」
「こいつを外へ置くと、次の準備をする」
それは正しかった。
元白軍将校は空いている席へ座った。
「記録には失敗例しか載っていない」
空気が変わった。
英国武官が身を乗り出した。
「成功例があるのですか」
軍将校が叫ぶ。
「聞くな!」
警備主任は記録簿を確認した。
「成功事例はありません」
元白軍将校は胸を張った。
「公式にはな」
外国武官たちが一斉に手帳を開いた。
本職の随員たちも、無意識に姿勢を正した。
そこへ実業家が入ってきた。
「ありませんよ」
元白軍将校が振り向く。
「なぜ分かる」
「瓶数が合っています」
「全てか」
「毎日」
「では、私が飲んだあれは」
「正式試飲です」
「警備を突破したから飲めた」
「倉庫前の椅子へ座らせて出しました」
「目的は飲酒だ。飲んだ。成功だ」
「代金も払っています」
「商取引を成立させた。大成功だ」
実業家は少し考えた。
「商売としては、こちらの成功ですね」
外国武官たちは笑った。
軍将校は天井を見た。
本職の随員たちは、別の意味で元白軍将校を見ていた。
この男には、失敗という概念が薄い。
目的を細分化し、得られた成果を拾い、次へ修正する。
厄介だった。
非常に厄介だった。
◇
会議が終わった後、外国武官たちはWILK酒場へ移った。
英国武官は「問題なし」。
フランス武官は「視界不良」。
アメリカ武官は「機関不調」。
イタリア武官は迷わず「緊急脱出」。
ドイツ武官はしばらく考え、「乾燥注意」と水を頼んだ。
ポーランド軍将校は何も頼まなかった。
疲れていた。
武官たちは、どの作戦が最も優れていたかを論じ始めた。
「偽伝票だ」
「空樽潜伏だろう」
「いや、委員会設置が最も洗練されている」
「落下傘は大胆だった」
「ゴム靴は有効だったらしい」
軍将校は卓を叩いた。
「評価するな!」
酒場の隅では、各国の随員たちが小声で話していた。
彼らの杯はほとんど減っていなかった。
「正門は無理だ」
「裏口も見られている」
「職員買収は危険」
「貨物偽装も重量で止まる」
「書類は技術確認へ回る」
「清掃員は手順を聞かれる」
「空からは巡回範囲が広がった」
「地下は工具貸出で発覚する」
一人が言った。
「酒造倉庫に、そこまでして入る価値があるのか」
隣の男は、奥に並ぶ瓶を見た。
「ない」
「なら問題ない」
「問題は、同じ警備習慣が設計庫にも広がっていることだ」
全員が黙った。
酒蔵そのものには、航空機の設計図はない。
軍契約書もない。
生産計画もない。
重要な技術資料は別の区画へ保管されている。
だが酒蔵へ侵入しようとした飲兵衛たちのおかげで、
異常を報告する。
用途を確認する。
空容器も量る。
鍵を一人へ預けない。
内部買収を報告する。
作業手順を知る者だけを通す。
正規申請でも目的を調べる。
そうした習慣が、工場全体へ染み出していた。
「酔漢が防諜教育をしたのか」
一人が呟いた。
「本人たちは酒を飲みたかっただけだ」
「それで我々の手口が潰れた?」
「そのようだ」
「笑えんな」
「武官は笑っている」
視線の先では、イタリア武官が夜間落下傘侵入を身振り付きで再現していた。
フランス武官は笑いすぎて涙を拭いている。
ポーランド軍将校は、両手で顔を覆っていた。
本職たちは笑わなかった。
◇
後日、各国へ二種類の報告書が送られた。
公開可能な報告。
WILK酒造倉庫では、社内関係者による酒類盗難企図が頻発している。
これに対応するため警備が強化されているが、軍事的重要性は限定的である。
蒸留酒「緊急脱出」は高品質である。
機密付録。
WILK社に対する通常の潜入方法は、既に社内の反復的侵入企図によって試験されている可能性が高い。
文書偽造、貨物潜伏、内部協力者獲得、変装、設備経路利用、正規制度の悪用、上空および地下からの接近について、実地経験に基づく対策が存在する。
同社従業員は専門的防諜教育を受けていないように見える。
ただし異常を報告し、原因を記録し、再発防止策を共有する習慣が広く定着している。
潜入を企図する場合、既知の方法を避けること。
本国から返信。
既知でない方法を提示せよ。
現地担当者は、三日考えた。
回答できなかった。
その間にWILKから、酒造倉庫警備記録の追補が届いた。
第十三号事例。
隣接倉庫の壁を一時的に外し、内部から接近する計画を確認。
首謀者、元白軍将校。
実行前に発覚。
発覚理由。
壁材の再利用計画まで技術部へ相談したため。
現地担当者は追補を読み、報告書の末尾へ一行だけ加えた。
新規手法については、対象企業内部の飲酒者集団が現在も継続して研究中である。
◇
その夜。
酒造倉庫の前で、警備員は元白軍将校を止めた。
「今日は何です」
「何もない」
「縄は」
「散歩用だ」
「錨は」
「散歩中に必要になるかもしれん」
「帰ってください」
元白軍将校は不満そうに酒蔵を見た。
二重扉。
鉄格子。
夜間巡回。
重量計。
開閉記録。
その向こうには、緊急脱出がある。
さらに奥には、誰も価値を知らない出荷帳簿がある。
だが元白軍将校は、帳簿にはまったく興味がなかった。
「一杯だけだ」
「酒場で買ってください」
「ここから出したばかりの方がうまい」
「同じです」
「確認せねば分からん」
警備員は首を振った。
「だから入れません」
元白軍将校は夜空を見上げた。
警備員も、つられて見上げた。
その隙に動くのかと思ったが、何もしなかった。
「風が弱いな」
元白軍将校が言った。
警備員は即座に笛を吹いた。
数分後、軍将校が走ってきた。
「落下傘を全部確認しろ!」
元白軍将校は抗議した。
「まだ何もしていない!」
「考えただろう!」
「考えるのは自由だ!」
「お前の場合は準備段階だ!」
酒造倉庫の灯りが増えた。
夜間警備員が配置につく。
落下傘庫へ確認の電話が入る。
外国の本職たちが見たなら、やはり笑わなかっただろう。
WILKの酒蔵は、その夜も守られた。
主として、味方から。