WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK社・国外出身雇用希望者仮登録簿
一九二九年

氏名。

本人申告による。
綴り、三種類。

生年月日。

不明。
本人は「収穫前」と記憶。

出生地。

出生当時はロシア帝国領。
現在の国境区分について、本人は理解していない。

国籍。

未確定。

旅券。

なし。

出生証明。

なし。

婚姻証明。

なし。

技能。

旋盤加工。
農業機械修理。
蒸気機関の基礎整備。

所有物。

工具箱一個。
測定具二本。
衣類一式。
家族写真一枚。

家族。

妻一名。
子二名。

保証人。

道中の修理工一名。
鉄道員一名。
同行者二名。

採用可否。

軍監督官意見。

身元確認のできない者を、軍需企業へ雇用してはならない。

WILK社人事担当意見。

身元を失ったため、当社へ来た者である。

経営担当意見。

では、別の方法で確認する。


第69話 名前のない者を雇うな

男は、工具箱を両膝の間へ置いていた。

 

三十代にも見える。

 

四十代にも見える。

 

頬は痩せ、髪には白いものが混じっている。

 

隣には妻。

 

その膝に、眠っている幼い娘。

 

少し離れた椅子には、十歳ほどの息子が座っていた。

 

息子は部屋の中を見回している。

 

机。

 

書類棚。

 

制服を着たポーランド軍将校。

 

元独立運動家。

 

実業家。

 

元ドイツ帝国軍技師。

 

壁際には、灰色の背広を着た軍情報部の男。

 

元白軍将校だけはいなかった。

 

国外の道を見に出ている。

 

それが幸いなのか、不幸なのかは分からない。

 

軍将校は書類を持ち上げた。

 

「名前を確認する」

 

男が、自分の名を答えた。

 

軍将校は紙を見る。

 

「ここでは別の綴りだ」

 

「駅員が書きました」

 

「こちらは?」

 

「最初に働いた工場です」

 

「さらにこちらは?」

 

「軍にいた時です」

 

「どの軍だ」

 

男は黙った。

 

妻がわずかに顔を伏せた。

 

軍将校は続けた。

 

「隠せば採用できん」

 

男はしばらく考えた。

 

「赤軍です」

 

部屋の空気が少し硬くなった。

 

灰色背広の男が手帳を開く。

 

軍将校が尋ねる。

 

「所属は」

 

「鉄道修理部隊」

 

「階級は」

 

「兵です」

 

「本当に?」

 

男は答えなかった。

 

軍将校の目が細くなる。

 

「旅券はない。出生証明もない。軍歴も正確に言わない。妻との婚姻証明もなく、子供の出生記録もない」

 

男の妻が顔を上げた。

 

「教会が焼けました」

 

「記録の写しは」

 

「役所へ行けば、夫が捕まります」

 

「なぜ」

 

「軍から逃げたからです」

 

軍将校は額を押さえた。

 

一つ確認すると、問題が二つ増える。

 

「これで、どうやって本人だと証明する」

 

元独立運動家が答えた。

 

「ここにいる」

 

「そういう意味ではない!」

 

「ここへ来るまで、妻と子供を連れて歩いた。道中で三人が証言している」

 

「三人とも、同じ経路で来た亡命者だ」

 

「だから何だ」

 

「口裏を合わせられる」

 

「合わせたかもしれん」

 

元独立運動家は、男の子供を見る。

 

「坊主」

 

息子が身を固くした。

 

「父親のことを何と呼ぶ」

 

少年は父親を見る。

 

「父さん」

 

「家では?」

 

少年は首を傾げた。

 

母親が何か言いかける。

 

元独立運動家は手で止めた。

 

「母親は答えるな」

 

少年は考えた。

 

「寝坊助」

 

男が顔をしかめた。

 

妻は口元を押さえた。

 

元独立運動家は軍将校を見る。

 

「少なくとも一緒に暮らしていた」

 

「家族である証明にはならん」

 

「だが、知らない男ではない」

 

軍将校は反論しなかった。

 

 

実業家は、男の工具箱を自分の前へ引いた。

 

「開けても?」

 

男が頷く。

 

箱は古かった。

 

角が潰れ、蝶番の片方が別の金属で補修されている。

 

中には、やすり。

 

小型のハンマー。

 

ねじ切り工具。

 

ノギス。

 

マイクロメーター。

 

測定棒。

 

油を含ませた布。

 

数本の刃物。

 

実業家は、工具を一つずつ持ち上げた。

 

技師なら、精度を見る。

 

軍将校なら、隠し物を疑う。

 

実業家が見たのは、刻印だった。

 

「この工具箱は、どこで手に入れました」

 

「父から」

 

「父親の職業は」

 

「農機具工場の修理工です」

 

「町は」

 

男が答える。

 

実業家は知らない町名を聞いたような顔をしなかった。

 

「工場の近くに市場がありましたか」

 

男が驚く。

 

「ありました」

 

「市場の北側に鍛冶屋が二軒」

 

男はさらに驚いた。

 

「三軒です」

 

「十五年前は二軒でした」

 

「一軒増えました」

 

実業家は測定棒の端を見た。

 

小さな印が打たれている。

 

花にも、車輪にも見える印。

 

「これは市場北側の鍛冶組合の印ですね」

 

男の妻まで驚いた。

 

軍将校が実業家を見る。

 

「なぜ知っている」

 

「以前、そこの馬車業者と取引しました」

 

「いつだ」

 

「十五年ほど前です」

 

「何を売った」

 

「売っていません。車輪材を買う資金を貸しました」

 

「ロシア帝国の地方市場へ?」

 

「当時の取引先が必要としていました」

 

軍将校は少し間を置いた。

 

「お前はいったい何か国で商売をしている」

 

実業家は工具を戻しながら答えた。

 

「国で数えていません」

 

男が尋ねた。

 

「その鍛冶屋を知っているのですか」

 

「何人かは」

 

「生きていますか」

 

実業家は答えなかった。

 

代わりに聞く。

 

「この測定具は、工具箱と同じ時期の物ではありませんね」

 

男は測定具を見る。

 

「後で買いました」

 

「どこで」

 

「南の町です」

 

「店の名前は」

 

男は答えた。

 

実業家は紙へ書く。

 

「誰と一緒に買った」

 

「工場の同僚です」

 

「名前は」

 

男は答えた。

 

「生きていますか」

 

「分かりません」

 

「工具代は自分で払った?」

 

「半分は妻が出しました」

 

軍将校が口を挟む。

 

「なぜ妻が」

 

妻が答えた。

 

「嫁入り前に縫製で貯めた金です」

 

実業家は別の欄を作る。

 

測定具二本。

夫婦共同購入。

妻の資金負担、およそ半額。

 

軍将校がその紙を覗く。

 

「身元確認をしているのではないのか」

 

「しています」

 

「これは財産記録だ」

 

「財産の由来は、本人の経歴とつながります」

 

実業家は工具箱の蝶番を指した。

 

「これは誰が直しました」

 

男が答える。

 

「弟です」

 

「職業は」

 

「鍛冶工」

 

「今は」

 

男は黙った。

 

妻が小さく答えた。

 

「残りました」

 

実業家は書く。

 

工具箱補修者。

本人の弟。

鍛冶工。

現在地不明。

 

軍将校は紙を見た。

 

工具箱一つから、家族、職業、町、市場、工場、弟、妻の金まで出てきた。

 

「なぜ、こんな確認方法を知っている」

 

実業家はさらりと答えた。

 

「書類を持てない人間と取引したことがあります」

 

「誰だ」

 

「多くいます」

 

「答えになっていない」

 

「一つの名前で括れる人々ではありません」

 

元独立運動家が実業家を見る。

 

「市場の者たちか」

 

「市場だけではありません」

 

「旅をする者か」

 

「旅をしない者もいます」

 

「馬車商、職人、船員、行商人」

 

実業家は肯定も否定もしなかった。

 

ただ、工具箱を男へ返した。

 

「国が記録していないからといって、誰もこの人を知らないわけではありません」

 

 

男の技能試験は、元ドイツ技師が担当した。

 

工場の一角。

 

古い旋盤。

 

鉄の丸棒。

 

図面一枚。

 

「これを作れ」

 

技師が言った。

 

男は図面を見た。

 

「材料は」

 

「そこだ」

 

「刃物は」

 

「自分の物を使ってもよい」

 

男は工具箱を開く。

 

刃物を選ぶ。

 

旋盤へ丸棒を固定する。

 

機械を動かす前に、主軸を手で回した。

 

次に、刃物台へ手を置く。

 

送りねじを確認する。

 

油差しを見る。

 

技師は黙っている。

 

軍将校が尋ねる。

 

「何を見ている」

 

「機械の癖だ」

 

男が答えた。

 

技師が言う。

 

「聞いていない」

 

「すみません」

 

「続けろ」

 

旋盤が動いた。

 

男は速くなかった。

 

だが急がない。

 

一度削る。

 

測る。

 

刃物の位置を直す。

 

また削る。

 

途中で異音がした。

 

男はすぐ機械を止めた。

 

「刃物ではない」

 

技師が尋ねる。

 

「何だ」

 

「ベルトが緩い」

 

確認すると、その通りだった。

 

技師はベルトを張らせた。

 

作業再開。

 

完成品は、許容差の中へ収まった。

 

技師は測定する。

 

もう一度測る。

 

「どこで習った」

 

「父から」

 

「工場では」

 

「現物修理が多かった」

 

「量産経験は」

 

「少しだけ」

 

「何個」

 

「同じ軸を八十本」

 

「検査方法は」

 

男が説明する。

 

技師は質問を重ねた。

 

どの材料を使ったか。

 

不良は何本出たか。

 

刃物は何本使ったか。

 

途中で寸法が変わった時、何を疑ったか。

 

男は全てには答えられなかった。

 

忘れているものもある。

 

記録していなかったものもある。

 

だが、分からない時には「分からない」と言った。

 

技師は試験記録へ書いた。

 

旋盤加工技能あり。

 

現物修理経験が中心。

量産および記録作業には追加教育を要する。

 

異常音への反応、測定具の扱い、加工途中の確認は良好。

 

軍将校が尋ねる。

 

「本当に本人の経歴と一致するか」

 

技師は答えた。

 

「工場にいたことは分からん」

 

「なら」

 

「だが旋盤工ではある」

 

「身元確認にはならない」

 

「雇う理由にはなる」

 

軍将校は頭を抱えた。

 

技師まで採用側へ回った。

 

 

問題は、家族関係だった。

 

妻との婚姻証明がない。

 

子供二人の出生証明もない。

 

元独立運動家は、家族を別室へ分けて話を聞いた。

 

夫には、子供が生まれた時の話。

 

妻には、最初に住んだ家。

 

息子には、父親の怪我。

 

娘には、母親が歌う歌。

 

内容は完全には一致しなかった。

 

息子が生まれた季節について、夫は「雪解け前」と言い、妻は「川が溢れた後」と言った。

 

最初に住んだ家の屋根について、夫は木板と答え、妻は藁だったと言う。

 

軍将校が言った。

 

「食い違っている」

 

元独立運動家は夫婦を同じ部屋へ戻した。

 

「最初の家の屋根は、木か藁か」

 

夫が答える。

 

「木板だ」

 

妻が怒る。

 

「寝室側は藁だったでしょう」

 

「後から直した」

 

「あなたは直していない。隣の親方が直した」

 

「私は手伝った」

 

「半日だけ!」

 

夫婦喧嘩が始まった。

 

元独立運動家は軍将校を見る。

 

「夫婦だな」

 

「喧嘩で確認するな」

 

「同じ家で暮らした者しか、屋根の直し方でここまで揉めん」

 

次に子供。

 

息子は、父親の左手にある傷を知っていた。

 

娘は、夜中に怖い夢を見ると父親の上着へ潜り込む癖があった。

 

妻は夫が寝言で旧部隊の番号を言うことを知っていた。

 

夫は妻が食料を隠す場所を知っていた。

 

紙はない。

 

だが生活の積み重ねはあった。

 

元独立運動家は記録へ書く。

 

家族関係について、同行者証言および生活記憶の整合を確認。

 

法的証明は未完。

実生活上の家族関係について、重大な疑義なし。

 

軍将校が読む。

 

「法的証明ではない」

 

「だから、そう書いた」

 

「これを役所へ出せると思うか」

 

「出せる形にするのは、お前の仕事だ」

 

軍将校は黙った。

 

また自分のところへ来た。

 

 

午後。

 

五人のうち四人と、灰色背広が会議室へ集まった。

 

机には、男一家の資料。

 

本人申告。

 

同行者証言。

 

技能試験。

 

工具所有記録。

 

家族関係確認。

 

移動経路。

 

保証人。

 

軍将校は全てを並べた。

 

「これだけ集めても、正式な身元証明にはならん」

 

実業家が答える。

 

「では暫定的な身元記録にします」

 

「そんな制度はない」

 

元独立運動家が言う。

 

「作ればいい」

 

「簡単に言うな」

 

技師。

 

「機体も、必要な規格がなければ作る」

 

「人間と飛行機を一緒にするな!」

 

実業家が新しい書式を差し出した。

 

WILK社仮雇用登録証。

 

軍将校は受け取った。

 

「いつ作った」

 

「昨夜です」

 

「相談しろ!」

 

「今しています」

 

内容を見る。

 

仮登録番号。

 

本人申告名。

 

別綴り。

 

推定生年。

 

出生地。

 

国籍未確定。

 

技能。

 

家族。

 

保証人。

 

所有物。

 

健康状態。

 

正式書類取得の進捗。

 

六か月ごとの再確認。

 

就業可能区域。

 

機密区画への立入制限。

 

軍将校は最後まで読んだ。

 

「機密区画へは入れない?」

 

「身元確認が終わるまでは」

 

灰色背広が頷く。

 

「妥当です」

 

「軍情報部まで賛成するな」

 

「全面採用か全面拒否かより管理しやすい」

 

軍将校は書式を机へ戻した。

 

「仮雇用登録だけでは、居住資格がない」

 

実業家は次の紙を出す。

 

WILK社仮宿舎居住保証書。

 

「家族の扱いは」

 

元独立運動家が出す。

 

家族同伴者生活登録票。

 

「子供の学校は」

 

仮就学証明。

 

「診療所は」

 

社内診療対象者証。

 

軍将校は四枚の紙を見た。

 

「お前たちは、最初から全部作る気だったな」

 

元独立運動家が笑う。

 

「反対すると思ったから、先に用意した」

 

「なら私を呼ぶ意味がない!」

 

実業家が答える。

 

「役所へ通すには、あなたが必要です」

 

軍将校は立ち上がった。

 

「結局そこか!」

 

制止役ではない。

 

合法化担当者である。

 

本人だけがまだ認めていなかった。

 

 

軍将校は三日間、役所を回った。

 

内務関係。

 

地方自治体。

 

労働行政。

 

警察。

 

軍需監督部門。

 

どこでも同じことを言われた。

 

「前例がない」

 

軍将校も同じことを返した。

 

「前例がないから持ってきた」

 

「旅券がない者を軍需会社へ?」

 

「機密区画へは入れない」

 

「国籍が分からない」

 

「だから仮登録だ」

 

「保証人は?」

 

「二名以上」

 

「その保証人も外国人では」

 

「一人はWILK地方協力修理所の責任者、一人は国内鉄道員だ」

 

「正式な身分証明ではない」

 

「正式な身分証明がない者を、正式な身分証明がないという理由だけで野放しにする方が危険だ」

 

この論理は効いた。

 

雇わず、住居も与えず、記録もしなければ、本人は消える。

 

地下へ潜る。

 

偽名を使う。

 

違法な仕事へ流れる。

 

監督できない。

 

なら仮でも登録する。

 

居住地を決める。

 

仕事を与える。

 

定期的に確認する。

 

軍需企業の重要区画からは遠ざける。

 

役所側も、完全拒否よりましだと判断した。

 

ただし条件が増えた。

 

毎月の就業報告。

 

住所変更の届出。

 

給与記録。

 

保証人の更新。

 

警察照会。

 

軍将校は条件を一つずつ受け入れ、余計なものを削った。

 

「家族を別々の宿舎へ入れる必要はない」

 

「身元確認のためです」

 

「家族を分ければ逃げる可能性が上がる」

 

「子供も監視対象に」

 

「十歳と四歳だぞ!」

 

「規則上は――」

 

「規則を書き直せ!」

 

軍将校は朝から晩まで怒鳴った。

 

そして五日後。

 

制度は通った。

 

名称。

 

国外出身者臨時雇用・居住登録制度。

 

元独立運動家が書類を読んだ。

 

「結局、雇えるようにしたな」

 

軍将校は即座に答えた。

 

「雇ってよいとは言っていない!」

 

「雇用登録制度と書いてある」

 

「管理するためだ!」

 

実業家が微笑む。

 

「管理対象には、給与が必要です」

 

「分かっている!」

 

技師。

 

「明日から訓練へ入れる」

 

「身元確認が――」

 

「機密区画ではない。教育工場だ」

 

軍将校は机へ両手をついた。

 

また法的に止められない。

 

自分で止められない制度を作った。

 

 

男一家へ、仮登録証が渡された。

 

軍将校が説明する。

 

「これは旅券ではない」

 

男は紙を見る。

 

「はい」

 

「国籍証明でもない」

 

「はい」

 

「国外へ出れば通用しない」

 

「はい」

 

「住所を変える時は届け出ろ。六か月ごとに再確認。機密区画へは入れない。虚偽が分かれば登録を取り消す」

 

男は頷く。

 

妻は横から紙を覗く。

 

子供たちは意味が分かっていない。

 

男が尋ねた。

 

「では、これは何の紙です」

 

軍将校は答えようとして、止まった。

 

役所の説明なら言える。

 

臨時雇用と居住を認める証明。

 

正式身元確認までの暫定書類。

 

だが男が聞いているのは、そういう意味ではなかった。

 

軍将校は少し考えた。

 

「少なくとも、この会社では、お前が誰かを忘れないための紙だ」

 

男は、登録証を両手で持った。

 

そこには三種類の名前が書かれている。

 

本人が名乗る名前。

 

工場で使っていた綴り。

 

軍務記録にあった綴り。

 

どれが正しいかは、まだ決まっていない。

 

それでも全て消さずに書かれていた。

 

妻。

 

息子。

 

娘。

 

旋盤工。

 

工具箱。

 

保証人。

 

来た道。

 

男は紙を丁寧に折ろうとした。

 

軍将校が止めた。

 

「折るな。保護袋へ入れる」

 

実業家が、既に透明な油紙袋を用意していた。

 

軍将校が睨む。

 

「なぜある」

 

「紙を持ち歩く者と取引したことがあります」

 

またそれだった。

 

 

実業家の帳簿には、男一家の記録が作られた。

 

普通の人事帳簿とは違う。

 

氏名。

 

家族。

 

技能。

 

給与。

 

それだけではない。

 

工具箱一個。

父親から相続したと本人申告。

弟による蝶番補修。

 

測定具二本。

夫婦共同購入。

妻の婚前資金を含む。

 

売却時、妻の同意を要する。

 

本人死亡時。

第一承継者、妻。

妻死亡または所在不明時、長男。

 

弟から所有権主張があった場合、蝶番補修のみをもって共同所有とは認めない。

追加証言を要する。

 

軍将校が帳簿を見た。

 

「工具箱一つに、ここまで書くのか」

 

実業家はペンを止めない。

 

「工具箱一つしか持っていない人間だからです」

 

「相続まで?」

 

「本人が死んだ後が、一番盗まれやすい」

 

「会社が管理することか」

 

「会社へ置く工具です。誰かが勝手に会社の物だと言い出すかもしれません」

 

軍将校は黙った。

 

実業家は別の頁を開く。

 

似た記録が既にある。

 

馬車一台。

 

三家族共同所有。

 

馬は別人所有。

 

車輪は鍛冶屋への未払い分が残る。

 

楽器一式。

 

演奏者本人所有。

 

ケースは兄の所有。

 

冬季の市場区画。

 

土地所有ではなく、季節使用権。

 

鍛冶道具。

 

父系親族と姻族による共同使用。

 

口約束による借入。

 

証人四名。

 

軍将校は頁をめくった。

 

「これはWILKの帳簿ではないな」

 

「一部は私の別事業の記録です」

 

「どんな事業だ」

 

「融資、運送、倉庫、共同購入、保険の代替、取引保証」

 

「相手は」

 

実業家は少しだけ間を置いた。

 

「国家の書類だけでは、財産関係を説明できない人々です」

 

「例えば」

 

「市場商人。季節労働者。移動する職人。船員。馬車業者。楽師。国境を越えて親族が住む家族」

 

元独立運動家が帳簿を見た。

 

「昔から、こういう記録を?」

 

「必要な時だけです」

 

「何のために」

 

実業家は答えた。

 

「記録のない財産は、最初に盗まれます」

 

その言葉に、軍将校も何も返さなかった。

 

国家が安定している時には、帳簿がなくても馬車は馬車主の物だ。

 

近所が知っている。

 

家族が知っている。

 

市場が知っている。

 

だが国境が変わる。

 

警察が替わる。

 

所有者が逃げる。

 

家族が散る。

 

その瞬間、知っていた人間の言葉は「証明にならない」と言われる。

 

紙がなければ、なかったことにされる。

 

実業家は、それを以前から知っていた。

 

 

数週間後。

 

仮登録制度を使う者は、男一家だけではなくなった。

 

元鉄道員。

 

縫製工。

 

看護助手。

 

鍛冶工。

 

元兵士。

 

出生地の国名を三つ持つ老人。

 

夫婦だが、宗教儀式だけで役所登録をしていない二人。

 

両親を亡くし、叔母に連れられてきた子供。

 

名前を二つ使う行商人。

 

軍将校は一件ずつ審査した。

 

「この老人の生年月日は」

 

元独立運動家。

 

「本人は葡萄が不作だった年と言っている」

 

「何年だ!」

 

実業家。

 

「市場記録と地方の不作年を照合します」

 

「そんな物まで持っているのか」

 

「取引先が葡萄酒商ですので」

 

別の案件。

 

「この二人は本当に夫婦か」

 

「二十七年一緒にいる」

 

「婚姻証明は」

 

「ない」

 

「子供は」

 

「六人」

 

「六人もいて証明がないのか!」

 

「六人いることが証明だろう」

 

「法的には違う!」

 

別の案件。

 

「この馬は誰の所有だ」

 

老人が答える。

 

「半分は私」

 

「馬の半分?」

 

「購入代の半分を甥が出した」

 

甥。

 

「ただし飼料は叔父が払った」

 

実業家が帳簿を開く。

 

「使用権は?」

 

「仕事の日は私。市場の日は叔父」

 

軍将校が叫ぶ。

 

「馬一頭のために四者契約を作るのか!」

 

実業家。

 

「三者です。馬は契約当事者ではありません」

 

「分かっている!」

 

WILKの人事部は、次第に役所より細かい記録を持つようになった。

 

国籍は未確定。

 

だが技能は確定。

 

出生年月日は推定。

 

だが家族関係は複数証言あり。

 

正式所有権は確認中。

 

だが現時点の使用者は明確。

 

曖昧な部分を、曖昧なまま記録する。

 

無理に一つへ決めない。

 

「不明」を空欄にしない。

 

不明であることを書く。

 

それが後に大きな意味を持つとは、まだ誰も知らなかった。

 

 

ある日。

 

灰色背広の男が、実業家の事務室へ来た。

 

「少し確認したいことがあります」

 

「どうぞ」

 

「あなたの帳簿に記載されている保証人です」

 

一枚の写しを置く。

 

国境市場の馬商。

 

河川沿いの船頭。

 

巡回鍛冶職人。

 

楽団の会計係。

 

冬だけ都市へ来る露店商。

 

「この人々は、相互に連絡を取っていますか」

 

実業家は写しを見る。

 

「取る者もいるでしょう」

 

「あなたが組織している?」

 

「いいえ」

 

「では、なぜ彼らの所有物、家族関係、移動時期まで記録している」

 

「取引に必要だったからです」

 

「普通の銀行は、楽器ケースの所有者まで記録しません」

 

「普通の銀行が融資しなかったので、私のところへ来たのでしょう」

 

灰色背広は黙った。

 

「彼らは、国外へ物や人を運べますか」

 

実業家の視線が少しだけ冷たくなった。

 

「その質問は、取引の確認ではありませんね」

 

「軍情報部としてです」

 

「なら答えません」

 

「国家安全保障に関わる可能性があります」

 

「彼らの名前を軍へ渡すことの方が、安全を損なう可能性があります」

 

灰色背広は椅子へ座った。

 

「元白軍将校の網と接続していますか」

 

「一部は」

 

「どの程度」

 

「必要な時だけ」

 

「全体像は」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

実業家は帳簿を閉じた。

 

「あなた方は、網を見ると中心を探します」

 

「当然です」

 

「中心がない場合もあります」

 

「あなたが中心では?」

 

「私は記録しているだけです」

 

「記録を持つ者が中心になる」

 

実業家は少し笑った。

 

「帳簿は道ではありません」

 

「ですが、誰がどこにいるか分かる」

 

「誰が、どこにいたかです」

 

「違いは」

 

「人は動きます」

 

灰色背広は、これ以上聞いても答えないと理解した。

 

立ち上がる。

 

扉へ向かう前に振り返った。

 

「なぜ彼らと取引を始めたのです」

 

実業家は机の上の仮登録簿を見る。

 

「払える物を持っていたからです」

 

「金を?」

 

「信用を」

 

 

最初に仮登録された旋盤工は、教育工場で働き始めた。

 

朝。

 

作業台が一つ用意されている。

 

工具箱を置く場所。

 

個人番号。

 

貸与工具。

 

記録用紙。

 

技師が言う。

 

「今日から加工記録を書け」

 

男は紙を見る。

 

「字が得意ではありません」

 

「数字は書けるか」

 

「はい」

 

「異常があれば印を付けろ。後で教員が聞く」

 

「教員?」

 

「元白軍将校だ」

 

男の顔が少し曇った。

 

「白軍の?」

 

「そうだ」

 

「私は赤軍にいました」

 

技師は顔を上げた。

 

「旋盤はどちらでも同じ方向へ回る」

 

「しかし」

 

「工場内で内戦をするな」

 

話は終わった。

 

昼過ぎ。

 

元白軍将校が教育工場へ来た。

 

男を見る。

 

男も相手を見る。

 

互いに、何かを察した。

 

元白軍将校が尋ねる。

 

「鉄道修理部隊か」

 

男は身を固くした。

 

「はい」

 

「機関車は扱えるか」

 

「少し」

 

「なら今度、教材に使う」

 

それだけだった。

 

男が思わず尋ねる。

 

「私が赤軍にいたことは」

 

「聞いた」

 

「問題では」

 

「ここで誰かを売るか」

 

「いいえ」

 

「家族を置いて逃げるか」

 

「いいえ」

 

「なら仕事を覚えろ」

 

元白軍将校は作業記録を取る。

 

「字が下手だな」

 

男は少し腹を立てた。

 

「読めます」

 

「私には読めん」

 

「数字は正しい」

 

「なら教員に清書させるな。自分で読める字を書け」

 

白軍と赤軍の因縁は、字の汚さへ負けた。

 

 

夕方。

 

男は仮登録証を胸ポケットへ入れ、宿舎へ戻った。

 

妻は縫製部門の仕事を紹介されている。

 

息子は学校へ入った。

 

娘は共同保育。

 

一家は、まだポーランド国民ではない。

 

正式な難民認定も終わっていない。

 

本人の年齢すら、二年ほど幅がある。

 

それでも給与が出た。

 

宿舎番号がある。

 

診療所の記録がある。

 

子供の出席簿がある。

 

工具箱の所有も、帳簿へ残った。

 

妻が仮登録証を見る。

 

「名前が三つもある」

 

男が答える。

 

「どれも私らしい」

 

「本当の名前は」

 

男は少し考えた。

 

「お前が呼ぶ名前でいい」

 

妻は笑った。

 

「寝坊助?」

 

「それはやめろ」

 

子供たちが笑う。

 

一家の声が、薄い宿舎の壁を越えて隣室まで聞こえた。

 

 

その夜。

 

実業家は帳簿へ最後の記載を加えた。

 

氏名、暫定。

 

出生地、確認中。

 

国籍、未確定。

 

職業、旋盤工。

 

家族、妻一名、子二名。

 

工具箱および測定具の所有関係、記録済み。

 

本人の存在について、異議なし。

 

軍将校が後ろから読んだ。

 

「最後の一文は必要か」

 

「必要です」

 

「本人がそこにいる」

 

「いつか、いなかったことにする者が出るかもしれません」

 

「誰が」

 

実業家は答えなかった。

 

国家。

 

軍。

 

警察。

 

相続人。

 

新しい所有者。

 

昔の雇用主。

 

あるいは、記録を失った次の時代。

 

誰が消そうとするかは分からない。

 

だから先に書く。

 

名前。

 

家族。

 

技能。

 

財産。

 

証人。

 

道。

 

軍将校は帳簿を見た。

 

「お前は、以前にもこういう者を記録したことがあるのだな」

 

実業家はペンを置いた。

 

「あります」

 

「どれほど」

 

「数えていません」

 

「なぜ」

 

「人間を数える目的で始めた記録ではないので」

 

「何のためだ」

 

実業家は静かに答えた。

 

「奪われた時に、返す相手を間違えないためです」

 

軍将校はそれ以上聞かなかった。

 

工場の外では、夜勤の旋盤が回っている。

 

そのうち一台を、正式な身元を持たない男が扱っていた。

 

国家が彼の名前を確認するには、まだ時間が必要だった。

 

だが翌朝も、彼の作業台はそこにある。

 

工具箱には所有者がいる。

 

妻には仕事がある。

 

子供には席がある。

 

そして帳簿には、彼が存在したと書かれていた。

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