WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

7 / 37
――地方紙『新共和国通信』
一九二〇年

当地を発着する国産双発郵便機について、住民の間で複数の呼称が使われている。

「空飛ぶ郵便馬車」
「左右違い」
「泥脚」
「医者運び」
「まだ飛ぶ号」

製造元へ正式名称を照会したところ、同社は現在も社名および機体名を決定していないと回答した。

郵便庁は、伝票処理上の都合から早急な命名を求めている。

なお、ある村の子供たちは同機を、

「狼」

と呼んでいる。

理由は「一機で来ても、いつも誰かを連れて帰るから」とのことである。


第7話 狼という名

二便目は、初便より荷物が多かった。

 

 医薬品四箱。

 

 役所文書二箱。

 

 郵便袋三つ。

 

 交換用電信部品。

 

 地方新聞の束。

 

 行政官一名。

 

 さらに、目的地近くの村へ戻る教師一名。

 

 ポーランド軍将校は、積み荷一覧を見て眉間を押さえた。

 

「なぜ増えた」

 

 実業家は帳簿から顔を上げない。

 

「最初の便が到着したからです」

 

「一度飛んだだけだぞ」

 

「一度届けば、次も頼みたくなります」

 

「機体は昨日まで壊れていた」

 

「直りました」

 

 元ドイツ帝国軍技師が即座に訂正する。

 

「応急修理だ」

 

 元白軍将校が続ける。

 

「飛ぶには十分だ」

 

「お前の十分は信用できん」

 

「昨日も帰ってきた」

 

「それを基準にするな!」

 

 元独立運動家は、貨物室へ郵便袋を押し込んでいた。

 

「あと一つ入る」

 

「入れるな」

 

 軍将校が言う。

 

「隙間がある」

 

「重量を見ろ」

 

「許容範囲内だ」

 

 技師が計算紙を見る。

 

「ぎりぎりだ」

 

「なら入る」

 

「余裕がないという意味だ!」

 

 教師が貨物扉のそばで、不安そうに機体を見上げていた。

 

「本当に飛ぶのでしょうか」

 

 軍将校は答えなかった。

 

 白軍将校が代わりに答える。

 

「昨日は飛んだ」

 

「今日は?」

 

「今日も同じ機体だ」

 

「それは安心材料ですか」

 

「少なくとも別の機体ではない」

 

「余計に不安です」

 

     ◇

 

 機体には、まだ名前がなかった。

 

 軍の書類では、

 

軽郵便試作機第一号

 

 郵便庁の伝票では、

 

双発航空郵便機・仮登録一

 

 実業家の帳簿では、

 

試作輸送機

 

 元ドイツ技師の図面では、

 

Zwei-Motor-Postflugzeug Versuchsmuster A

 

 と書かれていた。

 

 軍将校が図面を見て言う。

 

「ポーランド語で書け」

 

「技術記録だ」

 

「ここはポーランドだ」

 

「寸法は数字で共通だ」

 

「名称の話をしている!」

 

 元白軍将校は図面の端へ、勝手に、

 

Двухмоторный почтовый самолёт

 

 と書き足した。

 

 ドイツ技師が見つける。

 

「消せ!」

 

「同じ意味だ」

 

「だから何だ!」

 

「国際的になった」

 

「落書きで国際化するな!」

 

 元独立運動家は、その下へポーランド語で、

 

空飛ぶ郵便馬車

 

 と書いた。

 

 軍将校が顔を覆う。

 

「もう好きにしろ」

 

 実業家は全ての名称を見比べた。

 

「伝票へ書くには長いですね」

 

「会社名を先に決めろ」

 

 軍将校が言った。

 

「仮称で困っていません」

 

「郵便庁が困っている!」

 

「では郵便庁に決めてもらいますか」

 

「それだけはやめろ」

 

 全員が同意した。

 

 役所に名前を任せれば、

 

国立軽航空輸送機製造事業共同組合

 

 のような名称になる可能性が高かった。

 

 それだけは避けたかった。

 

     ◇

 

 二便目も、予定通りにはいかなかった。

 

 離陸は前回より滑らかだった。

 

 左右の発動機も、最初の十分間はよく回った。

 

 軍将校は、少しだけ安心した。

 

 安心した直後、後席から声が飛んだ。

 

「教師が酔った」

 

 白軍将校だった。

 

「どうしろと言う!」

 

「窓を開ける」

 

「寒いぞ!」

 

「吐かれるよりよい」

 

 教師は顔を青くしながら答える。

 

「大丈夫です」

 

 その言葉と同時に、機体が揺れた。

 

「大丈夫ではない!」

 

 貨物室の行政官が、書類箱を抱えて端へ避ける。

 

「公文書へ吐かないでください」

 

「努力します」

 

「努力では困ります」

 

「袋を渡せ!」

 

 軍将校が叫ぶ。

 

「郵便袋しかない!」

 

「使うな!」

 

 結局、新聞を包んでいた麻布が使われた。

 

 翌日の地方紙には、試験機の記事が一面に載った。

 

 ただし一部が欠けていた。

 

     ◇

 

 予定航路の途中、機体は小さな村の上空を通過した。

 

 前便の話を聞いていた住民たちが、広場へ集まっている。

 

 子供たちは空へ向かって手を振った。

 

 軍将校も翼をわずかに傾けて応える。

 

「知り合いか」

 

 白軍将校が尋ねる。

 

「知らん」

 

「ならなぜ合図を」

 

「見ているからだ」

 

 機体は村の上を一周した。

 

 教師が窓から下を見る。

 

「あそこです」

 

「何が」

 

「私の学校です」

 

 村外れに、小さな校舎が見える。

 

 屋根の一部が壊れている。

 

 教師は故郷へ戻る途中だった。

 

 列車と馬車なら、三日かかる。

 

 この機体なら、数時間。

 

「降りられますか」

 

 教師が尋ねた。

 

「予定地ではない」

 

 軍将校が答える。

 

「近くに牧草地があります」

 

「長さは」

 

「分かりません」

 

「地面は」

 

「たぶん柔らかいです」

 

「たぶんで航空機を降ろすな」

 

 白軍将校が下を見る。

 

「十分な広さがある」

 

「上から判断するな」

 

「大車輪だ」

 

「それを万能の言葉にするな!」

 

 教師は黙った。

 

 軍将校は前を見る。

 

 本来の目的地までは、あと一時間。

 

 教師はそこから馬車で村へ戻る予定だった。

 

 だが村には人々が集まり、空を見上げている。

 

 軍将校は長く息を吐いた。

 

「一度だけだ」

 

「何がです?」

 

「降りる」

 

 教師が笑顔になる。

 

 白軍将校も笑う。

 

「必要になったな」

 

「言うな」

 

     ◇

 

 牧草地は、確かに広かった。

 

 ただし平らではなかった。

 

 中央に浅い窪み。

 

 端には低い石垣。

 

 さらに羊の群れ。

 

「羊をどかせ!」

 

 軍将校が叫ぶ。

 

「空からどうやって」

 

「低く飛んで驚かせる!」

 

「散る方向が分からん」

 

「では村人が動かすまで待つ!」

 

 機体は村の上を何度も旋回した。

 

 地上の人々も、ようやく着陸する気だと理解した。

 

 大人たちが牧草地へ走る。

 

 羊を追う。

 

 子供たちも追う。

 

 羊は一度まとまり、次に三方向へ散った。

 

「増えたぞ!」

 

「羊の数は増えていない」

 

 白軍将校が答える。

 

「問題が増えた!」

 

 四周目で、ようやく牧草地が空いた。

 

 軍将校は高度を下げる。

 

 教師は貨物室の壁を掴む。

 

 行政官は書類箱を抱える。

 

 白軍将校は風向きを読む。

 

「右から風」

 

「見れば分かる」

 

「窪みは中央」

 

「見えている」

 

「石垣は奥」

 

「それも見える!」

 

「羊が一頭戻った」

 

「それは見えていない!」

 

 牧草地の中央を、一頭の羊が走っていた。

 

 軍将校は機首を少し左へ振る。

 

 着陸地点をずらす。

 

 大車輪が地面へ触れる。

 

 機体が跳ねる。

 

 二度目の接地。

 

 右へ傾く。

 

 教師が叫ぶ。

 

 行政官も叫ぶ。

 

 白軍将校は笑っている。

 

「なぜ笑う!」

 

「前より上手い」

 

「黙れ!」

 

 機体は石垣の手前で止まった。

 

 その直後、戻ってきた羊が左車輪へ頭をぶつけた。

 

 羊は驚いて逃げた。

 

 機体はびくともしなかった。

 

 白軍将校が満足そうに言う。

 

「脚は丈夫だ」

 

「羊で試験するな」

 

     ◇

 

 教師が降りると、村の子供たちが一斉に駆け寄った。

 

「先生!」

 

「本当に飛んできた!」

 

「この飛行機、左右が違う!」

 

 最後の言葉に、ドイツ技師がその場にいなくてよかったと軍将校は思った。

 

 子供たちは機体の周囲を走り回る。

 

「触るな!」

 

 軍将校が注意する。

 

「布が破れる!」

 

 一人の少年が機首を見上げた。

 

「名前は?」

 

 軍将校は答えに詰まった。

 

「まだない」

 

「飛行機なのに?」

 

「飛行機でも、名前がないことはある」

 

「馬にはあるよ」

 

「これは馬ではない」

 

「郵便馬車なんでしょ?」

 

 誰から聞いた。

 

 軍将校は周囲を見る。

 

 教師が目を逸らした。

 

 別の少女が尋ねる。

 

「二つの音がするのはどうして?」

 

「発動機が二基ある」

 

「なんで?」

 

「片方が止まっても帰れるようにだ」

 

「帰ってきたことある?」

 

「昨日帰ってきた」

 

 子供たちは感心した。

 

「強いんだ」

 

「丈夫ではある」

 

「速い?」

 

「それほどでもない」

 

「鳥より?」

 

「鳥による」

 

「鷹より?」

 

「たぶん遅い」

 

「じゃあ狼だ」

 

 軍将校は少女を見る。

 

「なぜ狼なんだ」

 

「狼は鷹みたいに飛ばないけど、ずっと走るから」

 

 別の少年が言う。

 

「一匹で来たのに、先生を連れてきた」

 

「帰りは誰かを連れていくんでしょ?」

 

 教師が、困ったように笑った。

 

「狼は群れで暮らすからね」

 

 子供たちは機体を見上げる。

 

「狼!」

 

「狼の飛行機!」

 

「狼号!」

 

 軍将校は訂正しようとした。

 

 だが、その前に村中へ広がった。

 

     ◇

 

 教師を降ろした後、医薬品一箱も村へ渡された。

 

 積載一覧にはない。

 

 目的地の病院へ運ぶ予定の品だった。

 

「一箱だけなら」

 

 白軍将校が言った。

 

「勝手に渡すな」

 

 軍将校が答える。

 

 村の診療所から来た老人が、薬箱を見ている。

 

「熱病の薬は入っていますか」

 

 行政官が箱の明細を読む。

 

「一部は余裕があります」

 

「目的地で不足する」

 

「全量ではありません」

 

 軍将校は村の子供たちを見る。

 

 教師を見る。

 

 壊れた校舎を見る。

 

「半分だけだ」

 

 薬箱を開け、必要な分だけ分けた。

 

 包装紙が足りなかったため、新聞が使われた。

 

 また地方紙が欠けた。

 

「今日の新聞、穴だらけになりますね」

 

 行政官が言う。

 

「届かないよりよい」

 

 白軍将校が答えた。

 

 機体は再び離陸した。

 

 子供たちが牧草地を走りながら手を振る。

 

「狼!」

 

「また来て!」

 

「次は手紙を持ってきて!」

 

 軍将校は翼を傾けた。

 

 今度は、理由があった。

 

     ◇

 

 本来の目的地へ到着した時、予定より二時間遅れていた。

 

 郵便局長は時計を見る。

 

「遅れましたね」

 

「途中で臨時着陸した」

 

 軍将校が答える。

 

「故障ですか」

 

「教師を降ろした」

 

「予定外です」

 

「知っている」

 

「医薬品が一部減っています」

 

「村の診療所へ渡した」

 

「伝票と合いません」

 

 実業家が同行していれば、何かしら帳尻を合わせただろう。

 

 だが今回はいない。

 

 軍将校は正直に答えた。

 

「必要だった」

 

 郵便局長は明細を見る。

 

 減った薬品。

 

 増えた時間。

 

 それでも郵便袋も公文書も届いている。

 

「次回から事前に記録してください」

 

「臨時なのに?」

 

「臨時着陸予定欄を作ります」

 

「臨時が予定になるのか」

 

「この機体なら、なりそうです」

 

 否定できなかった。

 

     ◇

 

 帰路では、村から中央の病院へ移送する少女を一人乗せた。

 

 本来の目的地で診察を受けた結果、すぐに手術が必要だと判断された。

 

 また人間を運ぶことになった。

 

 軍将校は何も言わず、貨物室の荷物を移動した。

 

 白軍将校が担架固定具を締める。

 

「役に立つ」

 

「分かっている」

 

「必要になった」

 

「言うな」

 

 少女の母親も同乗した。

 

 補助席は埋まっている。

 

 母親は郵便袋の上へ座った。

 

 軍将校は振り返った。

 

「狭くないか」

 

「大丈夫です」

 

「揺れるぞ」

 

「馬車より早いのでしょう」

 

「早い」

 

「なら大丈夫です」

 

 それ以上、何も言えなかった。

 

     ◇

 

 小屋へ戻った時、空は既に暗くなり始めていた。

 

 機体が牧草地へ降りる。

 

 今度は大きく跳ねなかった。

 

 ただし左へ流れ、農場主の柵を一本倒した。

 

「またか!」

 

 農場主が走ってくる。

 

「前より少ない!」

 

 軍将校が答える。

 

「本数の問題ではない!」

 

 小屋の前では、実業家、独立運動家、ドイツ技師が待っていた。

 

 技師は着陸直後の機体へ近づく。

 

「左発動機の音が違う」

 

「先に患者を降ろせ」

 

 軍将校が言う。

 

 前便と同じ会話だった。

 

 実業家と独立運動家が担架を運び出す。

 

 待機していた馬車へ少女と母親を乗せる。

 

 馬車が病院へ向かう。

 

 それを見送ってから、実業家が尋ねた。

 

「荷物は届きましたか」

 

「届いた」

 

「遅延は」

 

「二時間」

 

「理由は」

 

「教師を村へ降ろした」

 

「追加運賃は」

 

「ない」

 

「医薬品を渡した」

 

「代金は」

 

「ない」

 

「少女と母親を運んだ」

 

「運賃は」

 

「取っていない」

 

 実業家は目を閉じた。

 

「本日の利益は」

 

「ないと思う」

 

「思うではなく、ありません」

 

 軍将校は機体を見上げる。

 

「だが届いた」

 

「毎回それですね」

 

「届いたのは事実だ」

 

 元独立運動家が笑った。

 

「村では何と呼ばれた」

 

「何の話だ」

 

「連絡が来ている」

 

 実業家が電報用紙を見せた。

 

 目的地の郵便局から、小屋へ先に連絡が届いていた。

 

双発機、途中の村へ着陸。

教師および医薬品を届けた模様。

現地児童は同機を狼と呼称。

 

 元白軍将校が機体を見上げる。

 

「悪くない」

 

 元ドイツ技師は首を振る。

 

「正式名称としては曖昧だ」

 

「短い」

 

 実業家が言う。

 

「ポーランド語で?」

 

 独立運動家が答える。

 

「WILK」

 

 小屋の中が静かになった。

 

 軍将校が、ゆっくり口にする。

 

「ヴィルク」

 

「狼だ」

 

「分かっている」

 

 白軍将校が言う。

 

「群れで生きる」

 

 技師が続ける。

 

「単独でも長距離を移動する」

 

 独立運動家は機体の左右を見た。

 

「違う物を二つ積んでも、一緒に帰ってくる」

 

「最後の説明は余計だ」

 

 実業家は電報用紙へ、鉛筆で大きく書いた。

 

WILK

 

 少し離れて見る。

 

「会社名にも使えますね」

 

 軍将校が振り返る。

 

「機体名ではないのか」

 

「同じ印を使えば分かりやすい」

 

「機体と会社が同じ名か」

 

「最初は一機しかありません」

 

「増えたらどうする」

 

「型式を付けます」

 

「もう増える前提か」

 

「二便目でこれだけ依頼が増えています」

 

 実業家は帳簿を開いた。

 

 仮称として長々と書かれていた、

 

軽航空輸送機製作組合

 

 の文字へ線を引く。

 

 その下へ、

 

WILK航空製作所

 

 と書いた。

 

「正式登録は後日」

 

 軍将校が言う。

 

「勝手に決めるな」

 

「他に案はありますか」

 

 誰も答えなかった。

 

「では決定です」

 

「多数決を取れ!」

 

「賛成の方」

 

 実業家が手を上げる。

 

 独立運動家も上げる。

 

 白軍将校も上げる。

 

 少し遅れて、ドイツ技師も上げた。

 

 軍将校だけが上げていない。

 

「四対一です」

 

「待て。反対とは言っていない」

 

「では賛成で」

 

「そういう集計をするな!」

 

     ◇

 

 問題は、印だった。

 

 会社名が決まれば、機体へ描く標章が必要になる。

 

 独立運動家が紙へ狼を描いた。

 

 犬に見えた。

 

 白軍将校が描き直した。

 

 熊に見えた。

 

 軍将校が描いた。

 

 狐に見えた。

 

 実業家は、画家へ依頼する費用を計算した。

 

「高いですね」

 

「お前も描け」

 

 実業家が描いた。

 

 収支記号に耳を付けたようなものになった。

 

 全員が元ドイツ技師を見る。

 

「なぜ私を見る」

 

「図面が描ける」

 

「機械図面だ」

 

「狼も線でできている」

 

「同じではない!」

 

 それでも技師は鉛筆を取った。

 

 正面を向いた狼の頭部。

 

 左右対称。

 

 単純な線。

 

 遠くからでも分かる形。

 

 軍将校が紙を見る。

 

「少し怖いな」

 

「航空機の印だ」

 

 独立運動家が言う。

 

「子供が見て泣かない程度にしろ」

 

「狼は愛玩動物ではない」

 

「郵便機だぞ」

 

「敵を威圧する必要はない」

 

「敵などいない」

 

 白軍将校が言った。

 

「今はな」

 

 一瞬だけ、誰も口を開かなかった。

 

 技師は狼の目を少し丸くした。

 

「これでよいか」

 

 実業家が頷く。

 

「印刷しやすい」

 

「評価が商業的だな」

 

「会社の印なので」

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 機体の胴体へ、黒い狼の印が描かれた。

 

 塗料が足りなかったため、片側だけだった。

 

「両側へ描け」

 

 軍将校が言う。

 

「追加の黒塗料が必要です」

 

 実業家が答える。

 

「いくらだ」

 

「こちらです」

 

 金額を見る。

 

「片側でよい」

 

「飛ぶ方向によっては見えない」

 

 独立運動家が言う。

 

「次の売上で描く」

 

「看板も必要だ」

 

「次の次で」

 

「会社名の登録料は」

 

「既に支払いました」

 

 軍将校が驚く。

 

「早いな」

 

「名前を取られると困ります」

 

「誰がこんな名前を使う」

 

 実業家は答えなかった。

 

 百年後、同じ名前が食品、学校、病院、老人ホーム、墓地園、無人航空機にまで付くことになる。

 

 この時点で知る者はいない。

 

 ただ、片側だけ狼の印を描いた双発機が、三便目の荷物を積んでいた。

 

「今日はどこへ」

 

 元白軍将校が尋ねる。

 

 軍将校は一覧を読む。

 

「郵便、薬品、役人二名、農業技師一名」

 

「牛乳は?」

 

 元独立運動家が聞いた。

 

「なぜ牛乳だ」

 

「帰りに牧場から運びたいそうだ」

 

 実業家が契約書を見せる。

 

「初の民間貨物です」

 

「腐るぞ」

 

「だから飛行機で運びます」

 

 全員が、機体を見る。

 

 大きな翼。

 

 太い脚。

 

 広い貨物室。

 

 狼の印。

 

 軍将校が小さく呟いた。

 

「郵便機だったはずだ」

 

 独立運動家が答える。

 

「郵便も運ぶ」

 

「それ以外の方が多い」

 

「必要になる」

 

「もう止めん」

 

 左右の発動機が回り始める。

 

 違う音。

 

 違う振動。

 

 だが同じ方向へ機体を引く。

 

 WILKと名付けられた最初の航空機は、その日も町と町を繋ぐため、泥の牧草地を走り始めた。

 

 そして帰路には、本当に牛乳缶を積んで戻ってきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。