一九二九年九月
議題。
なし。
出席者。
ポーランド軍将校。
元ドイツ帝国軍技師。
元白軍将校。
実業家。
元独立運動家。
朝食。
黒パン。
卵。
燻製肉。
果実。
バター。
珈琲。
果汁「飛行中止」。
付記。
会議として招集された事実はない。
にもかかわらず、朝食終了時には国外資産、工場稼働、失業者、食料備蓄および将来の戦争について話し合われていた。
軍監督官所見。
朝食は静かに食べるべきである。
経営担当追記。
同意する。
翌朝、国外口座の追加書類を朝食卓へ持参した。
五人全員が朝食の席へそろうことは、珍しかった。
元ドイツ帝国軍技師は、工場の始業前に現場を一巡する。
元白軍将校は、地方協力拠点から戻る時間が一定しない。
実業家は、食事を取りながら帳簿を読む。
元独立運動家は、食堂、学校、診療所、宿舎のどこかで問題を見つけてくる。
ポーランド軍将校だけは、決まった時間に食堂へ来る。
規則正しいからではない。
遅れると、元白軍将校が軍将校の卵まで食べるからだった。
その朝、五人は珍しく同じ卓へ座っていた。
食堂の窓からは、工場の煙突が見える。
夜勤を終えた者と、朝番へ入る者が出入口ですれ違う。
パンを焼く匂い。
油の匂い。
珈琲の匂い。
遠くで発動機を始動する音。
平穏な朝だった。
少なくとも、元白軍将校がバターを取るまでは。
「厚い」
ポーランド軍将校が言った。
元白軍将校は、黒パンへバターを塗っている。
塗るというより、載せていた。
「何がだ」
「バターだ」
「見れば分かる」
「分かるなら減らせ」
「昨日、地方で硬いパンしか食えなかった」
「それと今朝のバターに何の関係がある」
「不足分の補給だ」
「人間の腹を兵站計画で扱うな」
元ドイツ技師が新聞を読みながら口を挟んだ。
「重量配分が悪い」
軍将校が振り向く。
「お前まで参加するな」
「片面へ集中している。噛んだ時に崩れる」
元白軍将校はパンを半分に折った。
バターが横からはみ出した。
「問題ない」
「問題が見えている」
元独立運動家が、はみ出したバターを別のパンですくった。
「余った分は使える」
軍将校は額を押さえた。
「朝から会社の経営方針をパンで再現するな」
実業家は珈琲を飲んでいる。
何も言わない。
だが元白軍将校の手が、二切れ目のパンへ伸びる前に、バター皿を自分の側へ移した。
元白軍将校が見る。
実業家も見る。
数秒後、元白軍将校は果実へ手を伸ばした。
交渉は成立した。
◇
元ドイツ技師が、新聞を一枚めくった。
紙面の大半は政治と産業記事だった。
だが彼が見ていたのは、経済欄である。
「また上がった」
軍将校が卵を切りながら尋ねた。
「何が」
「アメリカの株価だ」
元白軍将校が果実を齧る。
「良いことではないのか」
「何が良い」
「上がったのだろう」
技師は新聞を卓上へ置いた。
「理由が分からん」
軍将校が紙面を引き寄せる。
数字が並んでいる。
企業名。
前日価格。
当日価格。
高値。
安値。
取引量。
軍将校はしばらく眺めた。
「工場が儲かっているのではないか」
「どの工場だ」
「ここに名前がある」
「名前があることと、工場が儲かっていることは別だ」
「会社の株だろう」
「工場の設備は昨年から大して増えていない。生産量も、株価ほど伸びていない」
元独立運動家がパンをちぎった。
「給料は」
「株価ほど上がっていない」
「仕事は増えたのか」
「増えた会社もある」
「では問題ない」
技師は首を振った。
「増えていない会社も、同じように上がっている」
軍将校は新聞を見直した。
「期待されているのだろう」
「何を」
「将来を」
「どの将来だ」
「知らん」
「皆も知らん」
技師は新聞の数字を指で叩いた。
「知らないものへ値段が付いている」
元白軍将校が笑った。
「骨董品と同じだな」
実業家が初めて口を開いた。
「骨董品には、少なくとも品物があります」
元白軍将校は少し考えた。
「では馬だ」
「馬も見れば脚があります」
「軍票」
軍将校が睨んだ。
「縁起でもない例を出すな」
元白軍将校は肩をすくめた。
「価値があると言われている間だけ価値がある」
食卓が少し静かになった。
実業家は珈琲へ目を落としている。
技師は彼を見た。
「お前はどう思う」
「上がっていますね」
「それは見れば分かる」
「だから困っています」
軍将校が眉を寄せる。
「上がって困るのか」
「理由の説明できる上昇なら、困りません」
「説明できないのか」
「説明はできます」
「どちらだ」
実業家は卓上の新聞を自分の方へ引いた。
「値上がりするから買う。買う者が増えるから、さらに値上がりする。値上がりした実績が、次の購入理由になる」
元独立運動家が聞いた。
「品物が売れたからではない」
「それだけではありません」
「工場が増えたからでもない」
「それだけでもありません」
元白軍将校が言った。
「皆が買うから買っている」
「はい」
「戦場で皆が走るから走る兵士と同じだな」
軍将校が顔をしかめる。
「また戦場へ戻すのか」
「走っている本人は、理由を知っているつもりだ」
「実際は?」
「先頭の男も知らん」
技師が頷いた。
「機械なら停止させる」
「市場は機械ではありません」
実業家が言った。
「止めるレバーもありません」
技師は不満そうだった。
「設計が悪い」
「設計者がいません」
「なら、なお悪い」
◇
食堂の別の卓では、若い工員たちが新聞を回し読みしていた。
工員の一人が、株価欄を指さしている。
笑っていた。
隣の者が何かを言う。
さらに笑う。
元独立運動家がそちらを見た。
「工員も買っている」
軍将校が振り返る。
「何を」
「株だ」
「アメリカのか」
「仲介業者を通せば買えるらしい」
技師の眉が動いた。
「誰が教えた」
「誰かが儲けた」
「答えになっていない」
「一人が儲ければ、十人へ話す。十人のうち二人が買う。その二人が少し儲ければ、今度は二十人へ話す」
元白軍将校が笑った。
「酒場の賭けと同じだ」
「賭けなら、負けた者も見える」
実業家が言った。
「株では、負けた者は話しません」
「勝った者だけが話す」
「はい」
元独立運動家は工員たちをしばらく見ていた。
「給料を貯めずに買っているのか」
「貯金で買う者もいます」
実業家が答えた。
「借りて買う者もいます」
軍将校が手を止めた。
「借金で?」
「値上がりすれば、利息を払っても儲かると考えます」
「下がれば」
「追加の担保を求められます」
「なければ」
「売られます」
「何を」
「持っている株を」
「下がっている時にか」
「はい」
軍将校は少し考えた。
「損ではないか」
「ですから、皆、下がらないと思っています」
元白軍将校は笑わなかった。
「負ければ次で取り返すと思う者もいる」
実業家が彼を見る。
「多いでしょうね」
「一度退いた場所へ、敵が止まったから戻ろうと言い出す」
「戦争と一緒にするな」
軍将校が言う。
元白軍将校は、今度は軍将校を見なかった。
「一緒だ。損を認めたくない」
元独立運動家が静かに言った。
「給料を失うだけなら、本人の問題だ」
「家を担保にしていれば家族の問題になります」
実業家が答える。
「商店の金なら店員の問題です」
技師が加える。
「工場の運転資金なら、全員の問題だ」
軍将校は新聞を閉じた。
「そこまでやる者がいるのか」
実業家は答えなかった。
代わりに、脇へ置いていた封筒を一つ開いた。
中から短い報告書を取り出す。
「ドイツの取引先です」
技師が手を伸ばした。
「何と」
「工場の利益より、保有株式の値上がり益の方が多い」
技師の顔が固くなった。
「何を作る会社だ」
「工作機械です」
「機械を作れ」
「経営者は、株を持つ方が利益になると判断しています」
技師は報告書を机へ置いた。
「工場を閉めろ」
軍将校が驚く。
「なぜだ」
「機械を作らない工作機械会社は工場ではない」
「まだ作っている」
「いつまでだ」
誰も答えなかった。
◇
実業家は二通目の封筒を開いた。
スウェーデンからだった。
鉄鋼会社。
三通目。
英国の倉庫会社。
四通目。
ノルウェーの船会社。
五通目。
スイスの銀行。
軍将校が封筒の山を見る。
「朝食へ何を持ってきている」
「郵便です」
「食後に読め」
「食後は会議があります」
「では会議で読め」
「別件です」
軍将校は嫌な予感を覚えた。
「何をしている」
実業家は書類を整えた。
「資産の配置を変えています」
「どこへ」
「英国、ノルウェー、スウェーデン、スイスへ」
軍将校は卵を置いた。
「なぜだ」
「一か所へ置く理由がないので」
「ポーランドの会社だぞ」
「はい」
「ならポーランドへ置け」
「工場と社員は置いています」
「金も置け!」
「必要な分は」
「必要でない分は?」
「置く必要がありません」
軍将校は実業家を睨んだ。
実業家は平然としている。
元白軍将校が書類を一枚取った。
「ノルウェーの船会社」
「少数持分です」
「船を買ったのか」
「船は買っていません」
「では何を買った」
「持分、積載枠、倉庫使用権、修理契約です」
元白軍将校が感心したように頷く。
「船より使いやすいな」
軍将校が振り向く。
「感心するな!」
技師は別の紙を見ていた。
「スウェーデンの工作機械」
「優先購入契約です」
「型式が古い」
「新型は高いので」
「精度は」
「必要な精度を出せると聞いています」
「誰から」
「現地の技師から」
「信用するな」
「では確認を」
「私が行く」
軍将校が即座に止めた。
「行くな」
「なぜだ」
「お前が行くと全部分解する」
「確認には必要だ」
「戻すのに一週間かかる!」
「一週間で戻せるなら良い機械だ」
元独立運動家は英国側の書類を見ていた。
「倉庫の隣に宿舎用地がある」
実業家が頷く。
「安かったので」
「学校は」
軍将校が割り込む。
「なぜ学校の話になる!」
「家族を送るなら要る」
「誰を送る!」
元独立運動家は書類から顔を上げた。
「まだ決めていない」
「ならなぜ宿舎を買う!」
「必要になってからでは遅い」
軍将校は実業家を見る。
「お前たちは何を始めている」
実業家は少し考えた。
「始めてはいません」
「では何だ」
「終わった時に困らないようにしています」
「何が終わる」
「分かりません」
軍将校は立ち上がりかけた。
「分からないもののために国外へ資産を移すな!」
「分からないから分けています」
「確証は」
「ありません」
「なら相談しろ!」
「確証のない話を相談すると、あなたは止めます」
軍将校は口を開いた。
閉じた。
もう一度開いた。
「止めるかどうかは、話を聞いてから決める!」
元白軍将校が言った。
「今、止めている」
「お前は黙れ!」
◇
しばらくして、朝食は再開された。
バターは元白軍将校から遠い位置へ移されている。
新聞は卓上に広げられたまま。
窓の外では、工員が部品を運んでいた。
荷車。
木箱。
発動機。
果物の樽。
いつもと変わらない。
軍将校が珈琲を飲んだ。
冷めていた。
「結局、どうなる」
誰に聞いたのかは、本人にも分からなかった。
技師が答えた。
「上がり続けることはない」
「いつ下がる」
「知らん」
「どこまで」
「知らん」
「役に立たんな」
「分からないことを、分かったと言うよりは役に立つ」
元白軍将校が言った。
「一度下がれば、皆逃げるか」
実業家が首を振る。
「多くは戻ると思うでしょう」
「買い増す者もいる」
「いるでしょう」
「なぜだ」
「下がったからです」
軍将校が顔をしかめる。
「下がったのに買うのか」
「安くなったと思います」
「さらに下がれば」
「さらに安くなったと思う者もいます」
「いつ売る」
「耐えられなくなった時です」
元独立運動家が言った。
「一番悪い時か」
実業家は珈琲を置いた。
「大抵は」
技師が新聞の株価欄を見る。
「では、最初の下落では終わらん」
「おそらく」
「戻ったように見える」
「おそらく」
「そこで、まだ大丈夫だと思う」
「はい」
元白軍将校が低く言った。
「退却の途中で、一度砲声が止む」
誰も突っ込まなかった。
彼は続ける。
「兵は振り返る。敵が止まったと思う。落とした荷物を拾いに戻る。負傷者を探す。馬を取りに行く」
元独立運動家が聞いた。
「戻ってはならないのか」
「戻れる時もある」
「今回は」
元白軍将校は新聞を見た。
「分からん」
実業家が頷いた。
「だから、戻らなくても生きられる準備をします」
軍将校は、四人を順に見た。
「お前たちは、朝食の話をどこまで大きくすれば気が済む」
技師。
「株価から工場まで」
元独立運動家。
「工場から家族まで」
元白軍将校。
「家族から国境まで」
実業家。
「国境から国外資産までです」
軍将校は机を叩いた。
「聞いていない!」
食堂の者たちが振り向いた。
軍将校は咳払いをした。
声を落とす。
「では最後に聞く」
四人が見る。
「大きな問題になるのか」
誰もすぐには答えなかった。
技師は、工場の煙突を見た。
「工場が止まれば、技術者が余る」
元独立運動家は、食堂の工員たちを見た。
「仕事を失えば、理由を探す」
元白軍将校は、東の方角を見るでもなく、窓の外へ目を向けた。
「食えない者が増えれば、命令する者が強くなる」
実業家は、国外から届いた封筒をまとめた。
「そして、金を持つ者は金を引き揚げます」
軍将校が言った。
「その結果は」
技師が答える。
「西では、止まった工場を動かす注文が必要になる」
元白軍将校。
「東では、足りない物を集める命令が増える」
元独立運動家。
「どちらも、反対する者を邪魔だと思う」
軍将校は黙った。
ポーランドは、その間にある。
誰も口にしなかった。
口にしなくても、分かっていた。
◇
朝食が終わった。
元ドイツ技師は工場へ向かった。
元独立運動家は、社員家族の借金状況を調べると言った。
元白軍将校は、国外の旧部下へ手紙を書くため、実業家から便箋を持っていった。
実業家は英国、ノルウェー、スウェーデン、スイスへの書類を鞄へ入れた。
軍将校だけが食堂に残った。
卓上には、読み終えた新聞がある。
株価は上がっていた。
前日より高い。
一週間前より高い。
一年前より、はるかに高い。
記事には、好景気という文字。
繁栄という文字。
新時代という文字。
軍将校は新聞を畳んだ。
食堂の外では、若い工員が同僚へ話している。
「今からでも遅くない」
「まだ上がる」
「下がっても、また戻る」
笑い声がした。
軍将校は、実業家が残した言葉を思い出した。
続いても困らず。
終わっても困らない形にする。
その時の軍将校には、どちらが始まるのか分からなかった。
世界の大半も、分かっていなかった。
◇
一九二九年十月二十四日。
木曜日。
ニューヨークの市場で、売り注文が殺到した。
株価は崩れた。
銀行家たちは買い支えた。
新聞は、危機が収まる可能性を報じた。
多くの者は、安く買える機会だと考えた。
多くの者は、まだ戻ると思っていた。
後に、暗黒の木曜日と呼ばれる日である。