WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK社・創業者朝食会記録
一九二九年九月

議題。

なし。

出席者。

ポーランド軍将校。
元ドイツ帝国軍技師。
元白軍将校。
実業家。
元独立運動家。

朝食。

黒パン。
卵。
燻製肉。
果実。
バター。
珈琲。
果汁「飛行中止」。

付記。

会議として招集された事実はない。

にもかかわらず、朝食終了時には国外資産、工場稼働、失業者、食料備蓄および将来の戦争について話し合われていた。

軍監督官所見。

朝食は静かに食べるべきである。

経営担当追記。

同意する。

翌朝、国外口座の追加書類を朝食卓へ持参した。


第73話 まだ上がると思うな

五人全員が朝食の席へそろうことは、珍しかった。

 

元ドイツ帝国軍技師は、工場の始業前に現場を一巡する。

 

元白軍将校は、地方協力拠点から戻る時間が一定しない。

 

実業家は、食事を取りながら帳簿を読む。

 

元独立運動家は、食堂、学校、診療所、宿舎のどこかで問題を見つけてくる。

 

ポーランド軍将校だけは、決まった時間に食堂へ来る。

 

規則正しいからではない。

 

遅れると、元白軍将校が軍将校の卵まで食べるからだった。

 

その朝、五人は珍しく同じ卓へ座っていた。

 

食堂の窓からは、工場の煙突が見える。

 

夜勤を終えた者と、朝番へ入る者が出入口ですれ違う。

 

パンを焼く匂い。

 

油の匂い。

 

珈琲の匂い。

 

遠くで発動機を始動する音。

 

平穏な朝だった。

 

少なくとも、元白軍将校がバターを取るまでは。

 

「厚い」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

元白軍将校は、黒パンへバターを塗っている。

 

塗るというより、載せていた。

 

「何がだ」

 

「バターだ」

 

「見れば分かる」

 

「分かるなら減らせ」

 

「昨日、地方で硬いパンしか食えなかった」

 

「それと今朝のバターに何の関係がある」

 

「不足分の補給だ」

 

「人間の腹を兵站計画で扱うな」

 

元ドイツ技師が新聞を読みながら口を挟んだ。

 

「重量配分が悪い」

 

軍将校が振り向く。

 

「お前まで参加するな」

 

「片面へ集中している。噛んだ時に崩れる」

 

元白軍将校はパンを半分に折った。

 

バターが横からはみ出した。

 

「問題ない」

 

「問題が見えている」

 

元独立運動家が、はみ出したバターを別のパンですくった。

 

「余った分は使える」

 

軍将校は額を押さえた。

 

「朝から会社の経営方針をパンで再現するな」

 

実業家は珈琲を飲んでいる。

 

何も言わない。

 

だが元白軍将校の手が、二切れ目のパンへ伸びる前に、バター皿を自分の側へ移した。

 

元白軍将校が見る。

 

実業家も見る。

 

数秒後、元白軍将校は果実へ手を伸ばした。

 

交渉は成立した。

 

 

元ドイツ技師が、新聞を一枚めくった。

 

紙面の大半は政治と産業記事だった。

 

だが彼が見ていたのは、経済欄である。

 

「また上がった」

 

軍将校が卵を切りながら尋ねた。

 

「何が」

 

「アメリカの株価だ」

 

元白軍将校が果実を齧る。

 

「良いことではないのか」

 

「何が良い」

 

「上がったのだろう」

 

技師は新聞を卓上へ置いた。

 

「理由が分からん」

 

軍将校が紙面を引き寄せる。

 

数字が並んでいる。

 

企業名。

 

前日価格。

 

当日価格。

 

高値。

 

安値。

 

取引量。

 

軍将校はしばらく眺めた。

 

「工場が儲かっているのではないか」

 

「どの工場だ」

 

「ここに名前がある」

 

「名前があることと、工場が儲かっていることは別だ」

 

「会社の株だろう」

 

「工場の設備は昨年から大して増えていない。生産量も、株価ほど伸びていない」

 

元独立運動家がパンをちぎった。

 

「給料は」

 

「株価ほど上がっていない」

 

「仕事は増えたのか」

 

「増えた会社もある」

 

「では問題ない」

 

技師は首を振った。

 

「増えていない会社も、同じように上がっている」

 

軍将校は新聞を見直した。

 

「期待されているのだろう」

 

「何を」

 

「将来を」

 

「どの将来だ」

 

「知らん」

 

「皆も知らん」

 

技師は新聞の数字を指で叩いた。

 

「知らないものへ値段が付いている」

 

元白軍将校が笑った。

 

「骨董品と同じだな」

 

実業家が初めて口を開いた。

 

「骨董品には、少なくとも品物があります」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「では馬だ」

 

「馬も見れば脚があります」

 

「軍票」

 

軍将校が睨んだ。

 

「縁起でもない例を出すな」

 

元白軍将校は肩をすくめた。

 

「価値があると言われている間だけ価値がある」

 

食卓が少し静かになった。

 

実業家は珈琲へ目を落としている。

 

技師は彼を見た。

 

「お前はどう思う」

 

「上がっていますね」

 

「それは見れば分かる」

 

「だから困っています」

 

軍将校が眉を寄せる。

 

「上がって困るのか」

 

「理由の説明できる上昇なら、困りません」

 

「説明できないのか」

 

「説明はできます」

 

「どちらだ」

 

実業家は卓上の新聞を自分の方へ引いた。

 

「値上がりするから買う。買う者が増えるから、さらに値上がりする。値上がりした実績が、次の購入理由になる」

 

元独立運動家が聞いた。

 

「品物が売れたからではない」

 

「それだけではありません」

 

「工場が増えたからでもない」

 

「それだけでもありません」

 

元白軍将校が言った。

 

「皆が買うから買っている」

 

「はい」

 

「戦場で皆が走るから走る兵士と同じだな」

 

軍将校が顔をしかめる。

 

「また戦場へ戻すのか」

 

「走っている本人は、理由を知っているつもりだ」

 

「実際は?」

 

「先頭の男も知らん」

 

技師が頷いた。

 

「機械なら停止させる」

 

「市場は機械ではありません」

 

実業家が言った。

 

「止めるレバーもありません」

 

技師は不満そうだった。

 

「設計が悪い」

 

「設計者がいません」

 

「なら、なお悪い」

 

 

食堂の別の卓では、若い工員たちが新聞を回し読みしていた。

 

工員の一人が、株価欄を指さしている。

 

笑っていた。

 

隣の者が何かを言う。

 

さらに笑う。

 

元独立運動家がそちらを見た。

 

「工員も買っている」

 

軍将校が振り返る。

 

「何を」

 

「株だ」

 

「アメリカのか」

 

「仲介業者を通せば買えるらしい」

 

技師の眉が動いた。

 

「誰が教えた」

 

「誰かが儲けた」

 

「答えになっていない」

 

「一人が儲ければ、十人へ話す。十人のうち二人が買う。その二人が少し儲ければ、今度は二十人へ話す」

 

元白軍将校が笑った。

 

「酒場の賭けと同じだ」

 

「賭けなら、負けた者も見える」

 

実業家が言った。

 

「株では、負けた者は話しません」

 

「勝った者だけが話す」

 

「はい」

 

元独立運動家は工員たちをしばらく見ていた。

 

「給料を貯めずに買っているのか」

 

「貯金で買う者もいます」

 

実業家が答えた。

 

「借りて買う者もいます」

 

軍将校が手を止めた。

 

「借金で?」

 

「値上がりすれば、利息を払っても儲かると考えます」

 

「下がれば」

 

「追加の担保を求められます」

 

「なければ」

 

「売られます」

 

「何を」

 

「持っている株を」

 

「下がっている時にか」

 

「はい」

 

軍将校は少し考えた。

 

「損ではないか」

 

「ですから、皆、下がらないと思っています」

 

元白軍将校は笑わなかった。

 

「負ければ次で取り返すと思う者もいる」

 

実業家が彼を見る。

 

「多いでしょうね」

 

「一度退いた場所へ、敵が止まったから戻ろうと言い出す」

 

「戦争と一緒にするな」

 

軍将校が言う。

 

元白軍将校は、今度は軍将校を見なかった。

 

「一緒だ。損を認めたくない」

 

元独立運動家が静かに言った。

 

「給料を失うだけなら、本人の問題だ」

 

「家を担保にしていれば家族の問題になります」

 

実業家が答える。

 

「商店の金なら店員の問題です」

 

技師が加える。

 

「工場の運転資金なら、全員の問題だ」

 

軍将校は新聞を閉じた。

 

「そこまでやる者がいるのか」

 

実業家は答えなかった。

 

代わりに、脇へ置いていた封筒を一つ開いた。

 

中から短い報告書を取り出す。

 

「ドイツの取引先です」

 

技師が手を伸ばした。

 

「何と」

 

「工場の利益より、保有株式の値上がり益の方が多い」

 

技師の顔が固くなった。

 

「何を作る会社だ」

 

「工作機械です」

 

「機械を作れ」

 

「経営者は、株を持つ方が利益になると判断しています」

 

技師は報告書を机へ置いた。

 

「工場を閉めろ」

 

軍将校が驚く。

 

「なぜだ」

 

「機械を作らない工作機械会社は工場ではない」

 

「まだ作っている」

 

「いつまでだ」

 

誰も答えなかった。

 

 

実業家は二通目の封筒を開いた。

 

スウェーデンからだった。

 

鉄鋼会社。

 

三通目。

 

英国の倉庫会社。

 

四通目。

 

ノルウェーの船会社。

 

五通目。

 

スイスの銀行。

 

軍将校が封筒の山を見る。

 

「朝食へ何を持ってきている」

 

「郵便です」

 

「食後に読め」

 

「食後は会議があります」

 

「では会議で読め」

 

「別件です」

 

軍将校は嫌な予感を覚えた。

 

「何をしている」

 

実業家は書類を整えた。

 

「資産の配置を変えています」

 

「どこへ」

 

「英国、ノルウェー、スウェーデン、スイスへ」

 

軍将校は卵を置いた。

 

「なぜだ」

 

「一か所へ置く理由がないので」

 

「ポーランドの会社だぞ」

 

「はい」

 

「ならポーランドへ置け」

 

「工場と社員は置いています」

 

「金も置け!」

 

「必要な分は」

 

「必要でない分は?」

 

「置く必要がありません」

 

軍将校は実業家を睨んだ。

 

実業家は平然としている。

 

元白軍将校が書類を一枚取った。

 

「ノルウェーの船会社」

 

「少数持分です」

 

「船を買ったのか」

 

「船は買っていません」

 

「では何を買った」

 

「持分、積載枠、倉庫使用権、修理契約です」

 

元白軍将校が感心したように頷く。

 

「船より使いやすいな」

 

軍将校が振り向く。

 

「感心するな!」

 

技師は別の紙を見ていた。

 

「スウェーデンの工作機械」

 

「優先購入契約です」

 

「型式が古い」

 

「新型は高いので」

 

「精度は」

 

「必要な精度を出せると聞いています」

 

「誰から」

 

「現地の技師から」

 

「信用するな」

 

「では確認を」

 

「私が行く」

 

軍将校が即座に止めた。

 

「行くな」

 

「なぜだ」

 

「お前が行くと全部分解する」

 

「確認には必要だ」

 

「戻すのに一週間かかる!」

 

「一週間で戻せるなら良い機械だ」

 

元独立運動家は英国側の書類を見ていた。

 

「倉庫の隣に宿舎用地がある」

 

実業家が頷く。

 

「安かったので」

 

「学校は」

 

軍将校が割り込む。

 

「なぜ学校の話になる!」

 

「家族を送るなら要る」

 

「誰を送る!」

 

元独立運動家は書類から顔を上げた。

 

「まだ決めていない」

 

「ならなぜ宿舎を買う!」

 

「必要になってからでは遅い」

 

軍将校は実業家を見る。

 

「お前たちは何を始めている」

 

実業家は少し考えた。

 

「始めてはいません」

 

「では何だ」

 

「終わった時に困らないようにしています」

 

「何が終わる」

 

「分かりません」

 

軍将校は立ち上がりかけた。

 

「分からないもののために国外へ資産を移すな!」

 

「分からないから分けています」

 

「確証は」

 

「ありません」

 

「なら相談しろ!」

 

「確証のない話を相談すると、あなたは止めます」

 

軍将校は口を開いた。

 

閉じた。

 

もう一度開いた。

 

「止めるかどうかは、話を聞いてから決める!」

 

元白軍将校が言った。

 

「今、止めている」

 

「お前は黙れ!」

 

 

しばらくして、朝食は再開された。

 

バターは元白軍将校から遠い位置へ移されている。

 

新聞は卓上に広げられたまま。

 

窓の外では、工員が部品を運んでいた。

 

荷車。

 

木箱。

 

発動機。

 

果物の樽。

 

いつもと変わらない。

 

軍将校が珈琲を飲んだ。

 

冷めていた。

 

「結局、どうなる」

 

誰に聞いたのかは、本人にも分からなかった。

 

技師が答えた。

 

「上がり続けることはない」

 

「いつ下がる」

 

「知らん」

 

「どこまで」

 

「知らん」

 

「役に立たんな」

 

「分からないことを、分かったと言うよりは役に立つ」

 

元白軍将校が言った。

 

「一度下がれば、皆逃げるか」

 

実業家が首を振る。

 

「多くは戻ると思うでしょう」

 

「買い増す者もいる」

 

「いるでしょう」

 

「なぜだ」

 

「下がったからです」

 

軍将校が顔をしかめる。

 

「下がったのに買うのか」

 

「安くなったと思います」

 

「さらに下がれば」

 

「さらに安くなったと思う者もいます」

 

「いつ売る」

 

「耐えられなくなった時です」

 

元独立運動家が言った。

 

「一番悪い時か」

 

実業家は珈琲を置いた。

 

「大抵は」

 

技師が新聞の株価欄を見る。

 

「では、最初の下落では終わらん」

 

「おそらく」

 

「戻ったように見える」

 

「おそらく」

 

「そこで、まだ大丈夫だと思う」

 

「はい」

 

元白軍将校が低く言った。

 

「退却の途中で、一度砲声が止む」

 

誰も突っ込まなかった。

 

彼は続ける。

 

「兵は振り返る。敵が止まったと思う。落とした荷物を拾いに戻る。負傷者を探す。馬を取りに行く」

 

元独立運動家が聞いた。

 

「戻ってはならないのか」

 

「戻れる時もある」

 

「今回は」

 

元白軍将校は新聞を見た。

 

「分からん」

 

実業家が頷いた。

 

「だから、戻らなくても生きられる準備をします」

 

軍将校は、四人を順に見た。

 

「お前たちは、朝食の話をどこまで大きくすれば気が済む」

 

技師。

 

「株価から工場まで」

 

元独立運動家。

 

「工場から家族まで」

 

元白軍将校。

 

「家族から国境まで」

 

実業家。

 

「国境から国外資産までです」

 

軍将校は机を叩いた。

 

「聞いていない!」

 

食堂の者たちが振り向いた。

 

軍将校は咳払いをした。

 

声を落とす。

 

「では最後に聞く」

 

四人が見る。

 

「大きな問題になるのか」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

技師は、工場の煙突を見た。

 

「工場が止まれば、技術者が余る」

 

元独立運動家は、食堂の工員たちを見た。

 

「仕事を失えば、理由を探す」

 

元白軍将校は、東の方角を見るでもなく、窓の外へ目を向けた。

 

「食えない者が増えれば、命令する者が強くなる」

 

実業家は、国外から届いた封筒をまとめた。

 

「そして、金を持つ者は金を引き揚げます」

 

軍将校が言った。

 

「その結果は」

 

技師が答える。

 

「西では、止まった工場を動かす注文が必要になる」

 

元白軍将校。

 

「東では、足りない物を集める命令が増える」

 

元独立運動家。

 

「どちらも、反対する者を邪魔だと思う」

 

軍将校は黙った。

 

ポーランドは、その間にある。

 

誰も口にしなかった。

 

口にしなくても、分かっていた。

 

 

朝食が終わった。

 

元ドイツ技師は工場へ向かった。

 

元独立運動家は、社員家族の借金状況を調べると言った。

 

元白軍将校は、国外の旧部下へ手紙を書くため、実業家から便箋を持っていった。

 

実業家は英国、ノルウェー、スウェーデン、スイスへの書類を鞄へ入れた。

 

軍将校だけが食堂に残った。

 

卓上には、読み終えた新聞がある。

 

株価は上がっていた。

 

前日より高い。

 

一週間前より高い。

 

一年前より、はるかに高い。

 

記事には、好景気という文字。

 

繁栄という文字。

 

新時代という文字。

 

軍将校は新聞を畳んだ。

 

食堂の外では、若い工員が同僚へ話している。

 

「今からでも遅くない」

 

「まだ上がる」

 

「下がっても、また戻る」

 

笑い声がした。

 

軍将校は、実業家が残した言葉を思い出した。

 

続いても困らず。

 

終わっても困らない形にする。

 

その時の軍将校には、どちらが始まるのか分からなかった。

 

世界の大半も、分かっていなかった。

 

 

一九二九年十月二十四日。

 

木曜日。

 

ニューヨークの市場で、売り注文が殺到した。

 

株価は崩れた。

 

銀行家たちは買い支えた。

 

新聞は、危機が収まる可能性を報じた。

 

多くの者は、安く買える機会だと考えた。

 

多くの者は、まだ戻ると思っていた。

 

後に、暗黒の木曜日と呼ばれる日である。

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