一九二九年十月
確認事項。
十月二十四日、ニューヨーク株式市場において大量の売り注文が発生。
複数の大手銀行および投資家が買い支えを実施。
市場は一時的に安定。
各国新聞は、以下の見解を掲載。
危機は回避された。
優良株は割安となった。
長期的繁栄に変化なし。
売却は過剰反応である。
今こそ購入の好機である。
WILK社経営担当所見。
好機ではない。
追加質問。
何を根拠とするか。
回答。
好機であると書かれた新聞が多すぎる。
暗黒の木曜日の翌朝。
WILK本社食堂では、いつもどおりパンが焼かれていた。
いつもどおり珈琲が出された。
いつもどおり元白軍将校が、配膳前の燻製肉へ手を伸ばした。
そして、いつもどおり止められた。
「まだ皿へ載せていません」
食堂係が言った。
「載せる手間を省いただけだ」
「順番を守ってください」
「昨日、市場が暴落した」
「ここは市場ではありません」
「何が起きるか分からん時は、食える時に食うべきだ」
「朝食は全員分あります」
「市場の連中も、そう思っていた」
食堂係は燻製肉の皿を持ったまま、元白軍将校を見た。
「ではなおさら、一人で取らないでください」
元白軍将校は手を引いた。
論争に敗れたのではない。
背後から元ドイツ技師に袖をつかまれたからである。
「油が付く」
技師が言った。
「肉の油だ」
「その手で新聞を触るな」
「新聞は食えん」
「だから汚すな」
ポーランド軍将校は、既に卓へ座っていた。
目の前には国外から届いた新聞が三紙。
米国紙。
英国紙。
ドイツ紙。
どの一面にも、市場急落の記事が載っている。
だが見出しは、彼が予想したほど暗くなかった。
市場は買い支えにより安定。
著名銀行家が経済の基礎は健全と表明。
投資家の冷静な判断を求める。
優良企業の価値に変化なし。
軍将校は新聞を読み比べた。
「収まったらしいぞ」
向かいへ座った実業家が、珈琲へ砂糖を入れた。
一杯目。
二杯目。
三杯目。
軍将校はその手を見た。
「多くないか」
「昨夜から寝ていませんので」
「何をしていた」
「電話と電報です」
「市場が収まったなら、もう寝ろ」
実業家は砂糖壺を戻した。
「収まったのは売り注文です」
「新聞には危機を回避したとある」
「新聞は危機を回避しません」
元独立運動家が隣へ座る。
手には、食堂裏で受け取ったらしい紙束があった。
「社員から相談が九件」
軍将校が嫌な顔をした。
「もう来たのか」
「株を買っている者から七件。買おうとしている者から二件」
「買おうとしている?」
「安くなったからだそうだ」
元白軍将校が燻製肉を受け取りながら頷いた。
「やはり戻る気だな」
軍将校が新聞を叩く。
「大銀行が買ったのだ。戻る可能性はあるだろう」
実業家が尋ねた。
「何が戻りますか」
「株価だ」
「株価だけなら」
「それで十分ではないのか」
「借金は戻りません」
食堂係が五人分の皿を置いた。
黒パン。
卵。
燻製肉。
煮た豆。
小さな林檎。
元白軍将校が卵へ塩を振る。
「敵が止まった」
軍将校は顔をしかめた。
「またその話か」
「砲撃が止まった。追撃も見えない。なら兵は戻る」
「何のために」
「捨てた荷物を拾う。置いてきた馬を探す。まだ使える大砲を引く」
元ドイツ技師がパンを切った。
「市場の場合は、損を取り返しに戻る」
実業家が頷く。
「はい」
軍将校は四人を見た。
「では、買うなと社員へ命令するか」
「できません」
実業家が答えた。
「自分の給与です」
元独立運動家が紙束をめくる。
「ただし、会社から借りて買うことは禁止する」
軍将校が驚いた。
「会社から借りられるのか」
「生活用品の貸付制度がある。社員の一人が、用途を株式購入へ変えられないか聞いてきた」
「断れ!」
「もう断った」
技師が口を挟む。
「工員向けの工具購入貸付も確認しろ」
「株へ使うと思うか」
「分からん。昨日までなら思わなかった」
元白軍将校が豆を食べる。
「馬を買う金で酒を買う兵士はいる」
軍将校が言った。
「基準にするな」
「人間の行動例としては有効だ」
「有効であってほしくない!」
◇
午前中、WILKの事務棟には相談者が続いた。
最初に来たのは若い組立工だった。
帽子を両手で握っている。
実業家。
元独立運動家。
ポーランド軍将校。
三人が机の向こうへ座っていた。
軍将校は、この場に自分が必要なのか最後まで分からなかった。
若い組立工は言った。
「昨日、かなり下がったそうです」
実業家が頷く。
「下がりました」
「今なら安い」
「昨日よりは」
「では、買ってもよいでしょうか」
軍将校が口を開きかけた。
元独立運動家が先に尋ねる。
「何の金で買う」
「貯金です」
「全額か」
「半分ほど」
「妻は知っているか」
若い工員は黙った。
軍将校が机を指で叩く。
「まず妻へ話せ」
「ですが、今を逃すと」
実業家が尋ねた。
「何を買いますか」
工員は新聞の切り抜きを出した。
米国の自動車会社。
「有名な会社です」
「はい」
「車も売れています」
「はい」
「では戻りますよね」
実業家は切り抜きを見た。
「戻るかもしれません」
工員の顔が明るくなる。
「では」
「さらに下がるかもしれません」
「ですが有名企業です」
「有名企業の株も下がります」
「会社が倒産しなくても?」
「倒産しなくても」
「ではなぜ」
「売りたい者が、買いたい者より多ければ」
若い工員は困った顔をした。
「でも、安くなったなら買いたい者が増えるのでは」
「増えます」
「なら戻る」
「売りたい者が、それ以上に増えれば戻りません」
工員は切り抜きを見た。
実業家は続ける。
「この金を失っても、来月の家賃を払えますか」
「払えます」
「子供が病気になっても」
工員は黙った。
「仕事が減っても」
さらに黙った。
元独立運動家が言った。
「妻へ話せ。来月も要らない金だけ使え」
軍将校が付け加える。
「借りるな」
実業家。
「取り戻そうとしないでください」
工員が顔を上げる。
「まだ損をしていません」
「だから今、言っています」
◇
二人目は、食堂の仕入担当だった。
株を持っていない。
ただし義兄が持っている。
「昨日売るべきだったでしょうか」
実業家が答えた。
「昨日はもう過ぎました」
「今日売るべきですか」
「私には決められません」
「では、いつ売れば」
「生活に必要な金なら、最初から株へ入れない方がよいです」
「入れてしまった場合は」
「損を認められるうちに考えてください」
「戻るかもしれません」
「戻るかもしれません」
「なら待った方が」
「さらに下がるかもしれません」
男は頭を抱えた。
軍将校も少し頭を抱えた。
「同じ答えしかないのか」
実業家が言った。
「未来について、別の答えは用意できません」
元独立運動家が男へ尋ねた。
「義兄は何を担保に借りた」
「家です」
部屋が静かになった。
軍将校が言った。
「売れ」
実業家が軍将校を見る。
「本人の判断です」
「家を失うぞ!」
「売ってから上がれば、あなたを恨みます」
「では黙って見ていろと?」
元独立運動家が答えた。
「家族全員で決めさせる。義兄一人の金ではない」
男は急いで帰った。
軍将校は椅子へ深く座る。
「経済というものは、なぜ命令で整理できない」
実業家が答えた。
「命令で整理できる経済もあります」
元独立運動家。
「その場合、命令する者が間違える」
軍将校は目を閉じた。
「どちらも嫌だ」
◇
昼前、元ドイツ技師が事務棟へ入ってきた。
手には部品。
小さな軸受。
「何を持ってきた」
軍将校が尋ねる。
「昨日、米国製工作機械の代理店から連絡が来た」
「市場と関係があるのか」
「新型旋盤の価格を下げると言っている」
実業家が顔を上げた。
「どの程度」
「一割」
「まだ高いですね」
「そう言った」
軍将校が技師を見る。
「買わないのか」
「一割では足りん」
「昨日まで欲しがっていただろう」
「欲しい。だが急いで売る理由がある」
実業家が頷く。
「代理店が資金を必要としているのでしょう」
「なら、さらに下がる」
軍将校が驚いた。
「下がるまで待つのか」
技師は軸受を机へ置く。
「機械は逃げない」
元白軍将校が扉から顔を出した。
「人間は逃げるぞ」
軍将校が振り向く。
「いつからいた」
「今来た」
「何の用だ」
「昼飯」
「ここは食堂ではない!」
元白軍将校は室内へ入り、技師の軸受をつまんだ。
即座に手を叩かれた。
「触るな」
「見るだけだ」
「今、持った」
「代理店が倒れれば、整備工も職を失う」
実業家が言った。
「その可能性はあります」
元白軍将校は技師を見る。
「機械より先に、整備工へ手紙を出せ」
技師は少し黙った。
「氏名が分からん」
「代理店へ聞け」
「引き抜きと思われる」
「倒れてからなら遅い」
軍将校が二人の間へ手を入れる。
「買収も採用も、まだ市場が落ち着いてからにしろ!」
実業家が静かに書類へ何かを書いた。
軍将校が見る。
「何を書いた」
「米国製工作機械代理店。技術者名簿確認」
「聞いていたか!」
「はい」
「なら止めろ!」
「確認だけです」
「お前の確認は、いつも契約書の一歩手前まで行く!」
◇
午後、市場は一部で持ち直した。
電報が届いた。
株価回復。
売り圧力減少。
銀行団の買い支え成功。
新聞社は号外を出した。
危機は去った。
工場の休憩時間、若い工員たちは安心した。
昨日売らなくてよかった。
今朝買った者は、もう少しで利益になる。
まだ下がると言った者を笑う声もあった。
元独立運動家は食堂の隅で、その声を聞いていた。
隣には、朝相談へ来た組立工が座っている。
「買ったのか」
「少しだけ」
「妻には」
「話しました」
「何と言われた」
「半分にしろと」
「賢い」
工員は笑った。
「上がったら、残りも買うつもりです」
元独立運動家は笑わなかった。
「なぜ上がった後に買う」
「戻り始めた証拠だからです」
「下がれば」
「安くなった証拠です」
元独立運動家はしばらく工員を見た。
「では、いつ買わない」
工員は答えられなかった。
◇
十月二十五日。
市場は不安定ながら、一部で回復した。
十月二十六日。
土曜日。
銀行家、政府関係者、新聞、企業経営者が、経済の基礎は健全であると語った。
十月二十七日。
日曜日。
市場は閉まっていた。
教会では説教。
酒場では相場。
家庭では借金。
銀行では月曜日の準備が行われた。
WILK本社では、五人が再び同じ卓へ集まった。
今度は朝食ではない。
実業家が集めたからだった。
軍将校が椅子へ座る。
「なぜ日曜日に会議だ」
「明日、市場が開きます」
「毎週開くだろう」
「今週は違います」
技師が聞く。
「何が違う」
実業家は数字を並べた。
信用取引残高。
追加担保要求。
銀行貸出。
解約された融資。
売却予定株数。
軍将校は数字を見た。
「分からん」
実業家が一枚目を指す。
「木曜日に下がりました」
二枚目。
「金曜日に一部戻りました」
三枚目。
「戻ったため、まだ大丈夫だと考えた者がいます」
四枚目。
「下がったから買った者もいます」
五枚目。
「買うために、さらに借りた者もいます」
元白軍将校が腕を組む。
「荷物を拾いに戻った」
「はい」
技師。
「だが橋は直っていない」
「はい」
元独立運動家。
「月曜日にまた下がれば」
実業家は答えた。
「木曜日より多くの者が、売らなければならなくなります」
軍将校が尋ねる。
「売りたくなくても?」
「担保が足りなければ」
「銀行が待てばよい」
「銀行も金が要ります」
「銀行同士で貸せ」
「相手を信用できれば」
「政府が保証する」
「間に合えば」
軍将校は机を叩いた。
「全部、間に合えばではないか!」
実業家は静かに頷いた。
「はい」
技師が数字を見る。
「壊れる場所が多すぎる」
「一つ壊れると、別の場所へ力が集中します」
技師は初めて、経済の説明に機械の比喩を使われて少し満足そうだった。
「なら、先に荷重を逃がせ」
「どうやって」
「知らん。お前の仕事だ」
実業家は少しだけ嫌な顔をした。
元白軍将校が笑う。
「技師に経済を設計させると、全員の財布へ安全弁を付けるぞ」
技師は真顔で答えた。
「必要だ」
軍将校。
「勝手に財布を分解するな」
◇
十月二十八日。
月曜日。
市場が開くと、売り注文が殺到した。
買い支えは追いつかなかった。
株価は再び崩れた。
木曜日より深く。
金曜日の回復を信じた者ほど、大きく損をした。
安値で買ったつもりの株は、さらに安くなった。
追加担保を求める連絡が、投資家へ届いた。
銀行。
証券会社。
仲介業者。
電話線は鳴り続けた。
売れ。
金を入れろ。
担保を足せ。
期限は今日だ。
払えなければ処分する。
WILK本社へも、国外から電報が届いた。
米国代理店。
支払猶予を要請。
英国商社。
信用取引停止。
ドイツ工場。
米国資金の引揚げを警戒。
ノルウェー船会社。
貨物契約の再確認を要請。
スイス銀行。
追加指示を求む。
軍将校は電報を並べた。
「一日で何通来た」
実業家は答えた。
「まだ数えていません」
「数えろ」
「増えている途中です」
元独立運動家が入ってくる。
「社員相談、二十七件」
軍将校が振り返る。
「昨日の三倍だぞ」
「昨日まで相談しなかった者が来た」
「何を聞かれる」
「売るべきか。借りるべきか。家族へ言うべきか。会社は給料を前払いできるか」
「前払いは」
「生活費なら検討する。株の担保なら断る」
元白軍将校が続いて入る。
「国外の連中からも来た」
手紙ではない。
電報だった。
ドイツの修理工場。
夜勤停止。
英国の港湾労働者。
荷役減少。
ルーマニアの農場。
穀物価格下落の噂。
バルト海沿岸の船員。
荷主が契約を保留。
軍将校が言った。
「まだ一日目だぞ」
元白軍将校は首を振る。
「一日目ではない。皆、木曜日から待っていた」
技師が最後に入ってきた。
「米国代理店から再連絡」
「旋盤か」
「二割下げる」
軍将校が言う。
「買うのか」
「まだだ」
「どこまで待つ」
「会社が機械を売りたいのか、倒れる前に現金が欲しいのか、見極める」
実業家が技師を見る。
「倒れた場合、機械だけでは動きません」
「分かっている。技術者も確認した」
軍将校が叫ぶ。
「もう確認したのか!」
技師は平然としている。
「昨日言われた」
元白軍将校が胸を張る。
「私が言った」
「自慢するな!」
◇
その夜。
WILKの食堂は遅くまで開いていた。
社員相談が続いたためである。
珈琲。
薄いスープ。
黒パン。
果汁「飛行中止」。
酒は出なかった。
元白軍将校が抗議した。
「緊急時だぞ」
食堂係は答えた。
「だから出しません」
「緊急脱出は緊急時の酒だ」
「あなたが緊急事態になります」
抗議は却下された。
相談机の前には、人が並んだ。
株を買った者。
買っていないが家族が買った者。
借金の保証人になった者。
取引先の倒産を心配する者。
給料が止まるのではないかと聞く者。
実業家は一人ずつ話を聞いた。
元独立運動家は家族構成と借金を確認した。
軍将校は、会社の資金を投資損失の穴埋めへ使わないよう見張った。
技師は途中から、工員の相談を聞くより、工場設備の保守計画を作る方が役に立つと判断して席を立った。
元白軍将校は相談者へ軍事的なたとえを使いすぎ、三度注意された。
「損切りは退却だ」
「怖がらせるな」
「退却は怖いものだ」
「そういう話ではない」
「生きて帰れば負けではない」
相談者の一人が頷いた。
軍将校は少し黙った。
「今回は許す」
元白軍将校は得意げになった。
「では次も」
「次はない」
◇
十月二十九日。
火曜日。
市場が開いた。
前日の損失を見て、さらに多くの者が売ろうとした。
損失を限定するため。
借金を返すため。
追加担保を払うため。
家を守るため。
会社を守るため。
あるいは、これ以上下がるのを見ることに耐えられなかったため。
だが買い手は少なかった。
昨日まで優良と呼ばれた株も売られた。
安全だと言われた株も売られた。
長く持てば戻ると言われた株も売られた。
持ち続けたくても、借金で買った者には時間がなかった。
証券会社は売った。
銀行も売った。
個人も売った。
売りが値下がりを生み。
値下がりが新たな売りを生んだ。
市場は、売りたい者だけで満ちた。
WILK本社の通信室では、電報機が止まらなかった。
担当者が紙を切る。
読む。
机へ置く。
次が来る。
米国代理店、支払不能の可能性。
英国取引先、注文延期。
ドイツ銀行、融資更新停止。
スウェーデン企業、現金決済を要求。
ノルウェー船会社、運航計画縮小。
軍将校は積み上がる紙を見ていた。
「昨日より悪い」
実業家は電話を切った。
「はい」
「どこまで悪くなる」
「まだ分かりません」
「今度もそれか」
「今度こそ、それ以外を言うべきではありません」
元独立運動家が窓の外を見る。
工場は動いている。
煙突から煙が出ている。
食堂では昼食を作っている。
学校では子供が文字を習っている。
診療所には患者がいる。
まだ、何も止まっていない。
だが国外では、止まり始めている。
技師が入ってきた。
「米国代理店から三度目だ」
軍将校が尋ねる。
「今度はいくら下がった」
「機械ではない」
技師は紙を机へ置いた。
「会社ごと買わないかと言ってきた」
部屋が静かになった。
軍将校がゆっくり実業家を見る。
実業家は電報を読んだ。
「技術者は残りますか」
軍将校が机を叩く。
「最初に聞くことがそれか!」
技師。
「重要だ」
元独立運動家。
「家族は」
元白軍将校。
「港までの道は」
軍将校は四人を見回した。
「まだ暴落の二日目だぞ!」
実業家は訂正した。
「大きな暴落としては、です」
「訂正するな!」
実業家は電報を畳んだ。
「返答は保留します」
技師が言う。
「機械の一覧を送らせろ」
元独立運動家。
「社員名簿も」
元白軍将校。
「船便も確認する」
軍将校は両手で顔を覆った。
「お前たちは、世界が崩れている最中に買い物を始めるな」
実業家が答えた。
「崩れる前には、高すぎました」
「だからといって今買うな!」
「今すぐとは言っていません」
技師。
「検査してからだ」
「そこではない!」
◇
一九二九年十月二十九日。
火曜日。
前週の下落を一時的な混乱と考えた者。
安く買える機会だと考えた者。
損失を取り戻そうと買い増した者。
銀行家の言葉を信じた者。
市場は必ず戻ると信じた者。
その多くが、売り手となった。
売りたくなくても売らされた者もいた。
売った後に借金だけが残った者もいた。
家を失った者。
店を失った者。
会社を失った者。
まだ損失を理解していない者。
まだ戻ると信じている者。
市場の混乱は、その日だけでは終わらなかった。
後に、暗黒の火曜日と呼ばれる日である。
そして世界はようやく、株価が下がっただけでは済まないことを知り始めた。