一九二九年十一月
開催目的。
米国株式市場の暴落が、WILK社、ポーランド国内産業、農業、輸送、雇用および周辺諸国へ与える影響を説明する。
説明担当。
経営担当。
技術責任者。
生活支援担当。
国外輸送協力担当。
軍監督官。
軍監督官追記。
説明担当者は一名でよい。
経営担当回答。
問題が一つではありません。
軍監督官再追記。
少なくとも、同時に話すな。
会議結果。
実施できず。
第75話 アメリカだけで終わると思うな
――WILK社・世界的信用収縮に関する臨時説明会記録
一九二九年十一月
開催目的。
米国株式市場の暴落が、WILK社、ポーランド国内産業、農業、輸送、雇用および周辺諸国へ与える影響を説明する。
説明担当。
経営担当。
技術責任者。
生活支援担当。
国外輸送協力担当。
軍監督官。
軍監督官追記。
説明担当者は一名でよい。
経営担当回答。
問題が一つではありません。
軍監督官再追記。
少なくとも、同時に話すな。
会議結果。
実施できず。
説明会の会場には、黒板が三枚用意されていた。
一枚目には、数字。
二枚目には、矢印。
三枚目には、世界地図。
ポーランド軍将校は、壇上へ上がるなり三枚を見比べた。
「多い」
実業家が答えた。
「問題が多いので」
「一枚にまとめろ」
元ドイツ帝国軍技師が、数字の並んだ黒板を見た。
「まとめれば、故障箇所が分からなくなる」
「これは機械ではない」
「機械なら、まだ分かりやすい」
元白軍将校は、世界地図の前へ立っていた。
「東側が狭い」
軍将校が振り向く。
「地図だぞ」
「道が足りん」
「国境線が描いてあるだろう」
「道ではない」
「描き足すな!」
元白軍将校の手には、既に赤鉛筆があった。
元独立運動家が取り上げた。
「あとで必要になる」
「なら今描けばいい」
「説明会の途中で亡命路を増やすな」
会場には、WILK各部門の責任者が集まっていた。
製造部。
整備部。
食品部。
酒造部。
人事部。
経理部。
地方協力拠点担当。
学校。
診療所。
倉庫。
運送。
軍側からは兵站局と航空部の者も来ている。
灰色背広の情報部員は、最後列へ座っていた。
目立たない場所を選んだつもりらしい。
だが元白軍将校が入室直後に、
「今日は酒蔵の話ではないぞ」
と声をかけたため、全員が彼を見た。
灰色背広は何も答えなかった。
軍将校は壇上の机を叩いた。
「始める」
会場が静かになる。
「最初に言っておく」
軍将校は出席者を見回した。
「これは株の買い方を教える会ではない」
元白軍将校が手を上げた。
「売り方は?」
「お前は黙っていろ」
「損を出した者には必要だ」
「必要でもお前からは教わらせん!」
会場の何人かが笑った。
軍将校は睨んだ。
笑いが止まる。
「米国で株価が暴落した。だが、それだけならアメリカの株を買った者の問題だ」
実業家が隣で小さく首を振った。
軍将校が気づく。
「違うのか」
「かなり」
「なら最初からそう言え」
「今、言いました」
「私に言わせてから訂正するな!」
実業家は壇上へ進み、最初の黒板を指した。
そこには、株価、融資、担保、預金、工業生産、商品価格と書かれている。
数字の横には、さらに小さな数字。
その横には注記。
軍将校が見た。
「読めん」
「後ろの方には写しを配っています」
紙が回される。
元ドイツ技師が一枚受け取り、眉を寄せた。
「線が細い」
「印刷機の限界です」
「版を作り直せ」
「説明会の後で」
「先に直すべきだった」
軍将校が言った。
「印刷会議ではない!」
◇
実業家は黒板へ、短い言葉を書いた。
株価下落。
その下へ矢印。
借金。
さらに矢印。
担保不足。
さらに矢印。
強制売却。
「株価が下がる」
実業家が言った。
「現金だけで買っていた者は、損をします」
軍将校が頷く。
「そこまでは分かる」
「借金で買っていた者は、損をするだけでは済みません」
「なぜだ」
「借りた金は返さなければなりません」
元白軍将校が腕を組む。
「負けても弾薬の請求書は来る」
軍将校が振り向く。
「軍事用語を使うな」
会場の後ろから、整備部長が言った。
「分かりやすいです」
軍将校は整備部長も睨んだ。
実業家が続ける。
「株価が下がれば、貸した側は追加の担保を求めます」
「担保がなければ」
「持っている株を売ります」
「下がっている時に?」
「はい」
「損が増えるだろう」
「ですから売りたくありません」
「なら売らなければよい」
「借金があるので、売らなければなりません」
軍将校は一瞬黙った。
「借りなければよかったのでは」
会場の空気が少し止まった。
元独立運動家が言った。
「今それを言っても、借金は消えん」
「分かっている!」
「なら次へ進め」
軍将校は壇上の中央へ戻った。
「続けろ」
実業家は二本目の矢印を書いた。
強制売却。
その下。
さらに株価下落。
「売りたい者が増えれば、値段が下がります」
「それは前回聞いた」
「値段が下がれば、別の者にも追加担保が求められます」
軍将校が黒板を見る。
「また売るのか」
「はい」
「さらに下がる」
「はい」
「また別の者が売る」
「はい」
元白軍将校が言った。
「狭い橋へ退却兵が集中する」
元ドイツ技師。
「荷重が限界を超える」
軍将校は二人を見た。
「例えを増やすな」
元独立運動家が出席者を見る。
「分かった者は手を上げろ」
会場の大半が手を上げた。
軍将校は少し黙った。
「……橋で続けろ」
元白軍将校が得意そうに壇上へ近づいた。
「敵に追われた部隊が橋へ集まる」
「近づくな。口だけで説明しろ」
「荷車も来る。馬も来る。負傷者も来る。皆、自分だけは先に渡ろうとする」
技師が黒板へ小さく書き加えた。
荷重集中。
「橋が壊れる」
元白軍将校が言った。
実業家はその下へ書いた。
信用崩壊。
軍将校は黒板を見た。
「最初から橋を描けばよかったのでは」
実業家は答えた。
「経済関係者が怒ります」
「今日は来ていない」
経理部長が手を上げた。
「おります」
軍将校は見なかったことにした。
◇
実業家は次の黒板へ移った。
銀行。
預金。
融資。
企業。
給与。
「株式市場の損失が、銀行へ移ります」
軍将校が尋ねる。
「銀行は株を買っていたのか」
「買っていた銀行もあります。株を買う者へ融資した銀行もあります。証券会社へ貸した銀行もあります」
「つまり全部関わっている」
「全部ではありません」
「どれが関わっている」
「外からは分かりません」
会場がざわついた。
元独立運動家が言った。
「分からなければ、皆を疑う」
「はい」
「預金者は金を下ろす」
「はい」
軍将校が口を挟む。
「預けた金を返せばよい」
実業家は軍将校を見る。
「銀行は、預金された金を全て金庫へ置いているわけではありません」
「ではどこへ置く」
「貸しています」
「誰に」
「企業、農家、商人、住宅購入者、投資家」
「他人へ渡したのか」
「銀行の仕事です」
軍将校は納得していない顔だった。
「預けた者が返せと言ったら」
「一部なら返せます」
「全員なら」
「返せません」
元白軍将校が頷いた。
「補給倉庫と同じだ」
軍将校がすぐに言う。
「またか」
「倉庫に一個師団分しかないのに、三個師団が同時に受け取りに来る」
兵站局の者たちが一斉に頷いた。
軍将校は嫌そうな顔をした。
「そこだけ理解が早いな」
元ドイツ技師が言った。
「在庫不足だ」
「預金は在庫ではありません」
実業家が答える。
「だが、取り付けに対して現金在庫が不足する」
「概ね」
技師は満足そうに頷いた。
軍将校が頭を抱える。
「経済を工場と軍隊でしか説明できない者しかいないのか」
元独立運動家が答えた。
「生活で説明しよう」
軍将校は少し安心した。
「頼む」
元独立運動家は出席者を見た。
「明日、銀行へ行って、貯金が返せないと言われたとする」
会場が静かになる。
「家を買うか」
誰も手を上げない。
「新しい服を買うか」
誰も動かない。
「旅行へ行くか」
元白軍将校が手を上げた。
「お前ではない」
手が下がる。
「肉を多く買うか。家具を買うか。農機具を買い替えるか」
誰も答えない。
「買わんだろう」
軍将校が頷いた。
「それは分かる」
「皆が買わなければ、店は売れん」
「そうだな」
「店が売れなければ、仕入れを減らす」
「そうだ」
「工場の注文が減る」
軍将校の顔が少し変わる。
「工場は生産を減らす」
「そうなる」
「工員を減らす」
「待て」
「減らされた工員は、さらに物を買わなくなる」
元独立運動家は黒板へ円を描いた。
売れない。
生産を減らす。
解雇する。
買える者が減る。
さらに売れない。
軍将校は円を見た。
「止めろ」
「どこで」
「どこかでだ!」
「だから今日集めた」
軍将校は実業家を見る。
「止める方法は」
「銀行への信用を戻す。企業へ資金を流す。仕事を残す。所得を残す。消費を完全に止めない」
「すぐできるか」
「簡単ではありません」
「政府が金を出せ」
「政府の税収も減ります」
「借りればよい」
「貸す者が信用を失っています」
「金を刷れ」
実業家は少し間を置いた。
「それには、また別の問題があります」
軍将校は壇上の机へ両手をついた。
「問題に問題を付けるな!」
会場の何人かが笑った。
実業家は真顔で答えた。
「こちらで付けたわけではありません」
◇
次に、世界地図が使われた。
実業家は米国から欧州へ一本の線を引いた。
軍将校が言った。
「船便か」
「資金です」
「金が海を渡るのか」
「帳簿上は」
元白軍将校が赤鉛筆を取り戻そうとした。
元独立運動家が押さえた。
実業家は続ける。
「大戦後、欧州の国々や企業は、米国の資金を借りて復興しています」
軍将校が頷く。
「戦争で壊れたからな」
「工場を直す。鉄道を直す。家を建てる。賠償を払う。借金を返す。そのために新しい資金が必要でした」
「それを米国から借りた」
「はい」
「返す金は」
「輸出や税収から」
「足りなければ」
実業家は答えなかった。
軍将校の顔が険しくなる。
「まさか」
「新しく借りる場合もあります」
「借金を返すために借金をしたのか」
「珍しくありません」
「それは返していないのでは」
「支払期日は守っています」
「そういう話ではない!」
技師が黒板の線を見る。
「亀裂の上へ塗料を重ねていた」
元白軍将校。
「橋脚を直さず、板だけ交換していた」
軍将校は二人を見た。
「今回は例えが合っている。続けろ」
実業家が米国から引いた線を、今度は逆向きに描いた。
欧州から米国。
「米国の銀行や投資家が、自国で損失を出しました」
「だから」
「国外へ貸していた金を引き揚げます」
「すぐ返せと?」
「あるいは、新しい融資をしない」
「欧州側は」
「次の資金が来ません」
技師が腕を組んだ。
「工場の設備更新が止まる」
「はい」
「原料の購入も」
「はい」
「給与も」
「場合によります」
「注文があってもか」
「運転資金がなければ」
技師は嫌そうな顔をした。
「機械はある。職人もいる。注文もある。だが途中の金だけがない」
「はい」
「最悪だ」
「はい」
軍将校が言った。
「お前たちは時々、意見が合いすぎる」
◇
元白軍将校が世界地図へ近づいた。
今度は赤鉛筆を持っていなかった。
代わりに、指で東西を示す。
「西の工場が止まる」
「そうなる可能性があります」
実業家が答える。
「失業者が増える」
元独立運動家が続けた。
「税収が減る」
軍将校。
「政府は支出を減らす」
実業家。
「さらに仕事が減る」
元独立運動家。
軍将校は眉を寄せる。
「また円になるな」
「はい」
「円にするな」
「既に円です」
元白軍将校はドイツのあたりを指した。
「失業者が増えれば、誰かが仕事を約束する」
元独立運動家が頷く。
「飯もな」
技師が加える。
「工場へ注文も出す」
軍将校が聞いた。
「何を注文する」
技師は答えなかった。
元白軍将校も黙った。
会場の空気が変わった。
軍将校は自分で答えた。
「兵器か」
技師が静かに言う。
「民間需要が消えても、国家は注文できる」
「国家に金がなくても?」
「借りる。徴収する。命令する」
元白軍将校。
「失業者には制服を着せられる」
元独立運動家。
「制服を着せる前に、敵を教える」
軍将校が二人を見る。
「敵とは」
元独立運動家は会場を見回した。
「外国人。少数者。労働組合。商人。銀行家。役人。昨日までの隣人。誰でもよい」
誰も笑わなかった。
「仕事を失った者は、理由を探す」
元独立運動家は続ける。
「理由を説明する者がいなければ、犯人を示す者についていく」
元白軍将校が低い声で言った。
「腹が減れば、話はもっと早い」
軍将校が東側を見る。
「東はどうなる」
元白軍将校が地図のソビエト連邦を指した。
「向こうは、資本主義の失敗だと言う」
「実際、今は失敗しているように見える」
軍将校が言う。
「そうだな」
「だから自分たちは正しいと言う」
「それで終わるか」
「終わらん」
元白軍将校は指を動かした。
農村。
都市。
工場地帯。
鉄道。
「外から機械を買いにくくなる。穀物を売って得る金も減る。だが工業化は止めたくない」
軍将校の顔が険しくなる。
「なら農村から取る」
「取る」
「足りなければ」
「もっと取る」
「反対すれば」
元白軍将校は答えなかった。
元独立運動家が言った。
「敵になる」
会場の後方で、誰かが息を吐いた。
技師が西側を見る。
「西は失業者を軍需工場へ入れる」
元白軍将校が東側を見る。
「東は穀物と人間を計画へ入れる」
軍将校が地図の中央を見る。
ポーランド。
「そして我々は、その間にいる」
実業家が頷いた。
「はい」
今度こそ、誰も何も言わなかった。
◇
沈黙を破ったのは、食品部門の責任者だった。
「農産物価格はどうなります」
実業家が三枚目の資料を開いた。
「下がる可能性が高い」
「安く買えるなら、食料部門には良いのでは」
元独立運動家が振り向く。
「農家が潰れる」
「だが穀物は安くなる」
「借金は安くならん」
実業家が黒板へ書いた。
作物価格低下。
借金額、不変。
税、不変または減少遅延。
農機具代、不変。
種、肥料、燃料。
「同じ量を収穫しても、得られる金が減ります」
軍将校が尋ねる。
「豊作なら、量が増える」
「皆が豊作なら、価格がさらに下がる場合があります」
軍将校は目を閉じた。
「食料が増えて困るのか」
「売る側は」
「食料があるのに、食えない者が出る」
元白軍将校が言った。
実業家が頷く。
「金へ換えられなければ」
軍将校は卓を叩かなかった。
もう叩く気力が減っていた。
「農家が払えなくなれば」
元独立運動家が答える。
「土地を失う」
「どこへ行く」
「都市へ」
「都市には仕事がない」
「だから困る」
「戻ればよい」
「土地は差し押さえられている」
軍将校は天井を見た。
「逃げ道がないではないか」
元白軍将校が答えた。
「だから道を作ってきた」
軍将校は彼を見る。
元白軍将校はいつもの調子ではなかった。
「だが道だけでは足りん。着いた先に仕事が要る」
実業家が言う。
「ですから仕事を送ります」
元独立運動家。
「学校も要る」
技師。
「工具も要る」
軍将校は四人を見回した。
「話がWILKの拡張へ戻っていないか」
実業家が答えた。
「外の問題が、こちらへ来ています」
「だから会社を大きくするのか」
「大きくしなければ受け止められない場合があります」
「どこまで受け止める気だ」
実業家は答えなかった。
元独立運動家が代わりに言った。
「来た者までだ」
軍将校は額を押さえた。
「その答えは聞いたことがある」
元白軍将校が頷く。
「有効だからな」
◇
説明会は昼を越えた。
食堂からパンとスープが運ばれた。
軍将校は一度休憩を宣言した。
だが実業家が資料を片付けなかったため、出席者は食べながら質問を続けた。
結果として、休憩は説明会の一部になった。
元白軍将校は二杯目のスープを受け取った。
「経済危機の説明は腹が減る」
技師が言った。
「お前は何をしても腹が減る」
「考えているからだ」
「食うことをか」
「生き残ることをだ」
食堂係が三杯目を断った。
「全員へ配ってからです」
元白軍将校は、食料配分について正しい判断だと認めた。
ただし不満は述べた。
軍将校はパンを持ったまま、実業家へ聞いた。
「貿易はどうなる」
実業家は食べる手を止めた。
「各国が国内産業を守ろうとします」
「良いことではないか」
「輸入を減らします」
「国内品を買えばよい」
「相手国も同じことをします」
「それで?」
「我が国の商品も買われません」
軍将校は少し考えた。
「では相手だけ輸入を続ければよい」
実業家は何も言わなかった。
元独立運動家が笑った。
「相手も同じことを言う」
「交渉しろ」
「国内の失業者が、外国製品を入れるなと言う」
「入れなければ」
「輸出部門の失業者が増える」
軍将校はパンを皿へ戻した。
「どちらでも失業者が増えるではないか」
「はい」
「経済というものは、もう少し整理して作れなかったのか!」
技師が即答した。
「設計者がいない」
会場のあちこちから笑いが起きた。
軍将校も一瞬だけ笑いそうになった。
だが元独立運動家が地図を見ているのに気づき、笑みは消えた。
◇
休憩後、説明会は対応方針へ移った。
軍将校は黒板の前へ立った。
「よし」
声を張る。
「ここまでで、外がひどいことは分かった」
実業家が言った。
「まだ悪化する可能性があります」
「今は付け足すな」
軍将校は出席者を見た。
「WILKが何をするか決める」
実業家が紙を配った。
軍将校は受け取った。
一枚目。
取引先信用の再確認。
二枚目。
現金決済比率の引き上げ。
三枚目。
食料、燃料、原材料の備蓄。
四枚目。
中古工作機械および倒産企業設備の調査。
五枚目。
失業技術者・職人の技能登録。
六枚目。
国外社員家族の移動余地確認。
七枚目。
地方協力拠点への仕事増加案。
八枚目。
学校・診療所・食堂の維持計画。
軍将校は紙束を持ったまま、実業家を見た。
「何枚ある」
「十一枚です」
「八枚しかないぞ」
「残りは別紙です」
「増やすな!」
技師が一枚目を取った。
「中古機械の検査基準が甘い」
「まだ案です」
「主軸の振れ、案内面摩耗、送りねじ、電動機、交換部品の有無を加えろ」
軍将校が言った。
「買うと決めていない!」
「買う前に基準が要る」
元独立運動家は失業者登録案を見ていた。
「家族欄が小さい」
軍将校が振り向く。
「またか!」
「一家族が五人とは限らん」
「別紙を使え!」
「最初から付けろ」
元白軍将校は国外移動案を見ている。
「港だけでは足りん」
「何を増やす」
「鉄道、河川、荷馬車、徒歩」
軍将校が怒鳴る。
「これは社員旅行案だ!」
「旅行者も駅まで歩く」
「そういう意味ではない!」
実業家は三人の修正を順に書き込んだ。
軍将校が気づく。
「全部採用するな!」
「有用なので」
「一度私へ見せろ!」
「今、見せています」
「修正後をだ!」
◇
元独立運動家が、自分の担当を説明した。
「食堂価格は維持する」
経理部長が手を上げる。
「食材価格が変われば赤字になります」
「会社が出す」
軍将校が反応した。
「簡単に言うな」
実業家が経理部長へ聞く。
「現在の余裕は」
「維持可能です。ただし利用者が増えれば」
「増えます」
元独立運動家が断言した。
「なぜ分かる」
軍将校が尋ねる。
「外で飯を減らす者が増える。会社の食堂へ来る」
「社員以外もか」
「地方拠点から来る者。失業者の家族。求職者。取引先の工員」
「全員食わせる気か」
「食わずに仕事を探せると思うか」
軍将校は反論しなかった。
元独立運動家は続ける。
「学校は閉じない」
教育担当者が頷く。
「診療所も」
医療担当者が頷く。
「家族の借金相談窓口を作る」
軍将校が言った。
「会社が借金を肩代わりするのか」
「しない」
「では何をする」
「何を担保に、どこから、いくら借りたか整理する。本人すら分かっていない家がある」
実業家が加える。
「債権者との交渉も必要です」
「お前がやるのか」
「可能な範囲で」
「仕事を増やすな」
「問題が増えていますので」
軍将校は同じ言葉を聞いた気がした。
◇
技師は製造部門の方針を説明した。
「注文が減った場合、生産を止める前に教育へ回す」
製造部長が聞く。
「何を教えます」
「標準工程。検査。測定。保守。別機種への転換」
「売れない物を作り続けるより?」
「良い」
「給与は」
実業家が答える。
「教育期間として支払います」
軍将校が実業家を見る。
「金はあるのか」
「今のところ」
「今後は」
「今後もあるように動いています」
「国外へ移した金を使うのか」
「必要なら」
「だから相談しろと言った!」
技師は話を続けた。
「稼働を減らした機械は放置するな。清掃。防錆。定期回転。消耗品記録。再始動手順を作る」
製造部長が尋ねる。
「閉鎖工場の機械も対象ですか」
「買うなら」
軍将校が割り込む。
「まだ買うな!」
技師は軍将校を見た。
「壊れてから買うのか」
「倒産して安くなってからだ!」
実業家が少し笑った。
軍将校は気づいた。
「何だ」
「同じ意見です」
「違う!」
「概ね同じです」
「言い方が違う!」
元白軍将校が言った。
「軍将校も買う気になった」
「なっていない!」
◇
元白軍将校の担当は、国外拠点と輸送だった。
彼は世界地図の前へ立った。
今度こそ赤鉛筆を持っている。
軍将校が止めようとした。
だが既に一本目の線を引いていた。
ドイツ東部からチェコスロバキア。
そこからポーランド。
別の線はバルト海沿岸。
別の線はルーマニア。
「国外の者へ、景気を報告させる」
元白軍将校が言った。
灰色背広が最後列で手帳を開いた。
軍将校がすぐに気づく。
「情報活動ではないぞ」
元白軍将校が頷く。
「仕事の話だ」
「何を聞く」
「工場の夜勤。荷物の量。船の入港。宿の空室。警察の検査。食料価格。人が移動しているか」
灰色背広の手が速く動く。
軍将校が睨んだ。
「お前は書くな」
灰色背広は書く速度を落とした。
止めなかった。
元白軍将校は続ける。
「景気が悪いという言葉は要らん」
軍将校が尋ねる。
「なぜだ」
「人によって意味が違う」
「では何を見る」
「昨日まで二交代だった工場が一交代になった。貨物列車が一日三本減った。宿に長期滞在者が増えた。外国人の書類確認が厳しくなった。そういうものだ」
技師が頷く。
「測定できる」
「そうだ」
「お前にしては良い」
「私にしては、とは何だ」
「いつもは悪い音で済ませる」
「悪い音は重要だ」
軍将校が言った。
「第七十二話を蒸し返すな」
誰も第七十二話という言葉の意味を尋ねなかった。
◇
最後に実業家が立った。
机の上へ、四つの封筒を置く。
英国。
ノルウェー。
スウェーデン。
スイス。
軍将校が嫌そうな顔をした。
「またそれか」
「資産の配置状況です」
「全員の前で話すのか」
「全ては話しません」
灰色背広の鉛筆が止まった。
実業家は続ける。
「資金は一つの銀行へ置かない。輸送権は一つの港へ集中しない。工作機械の購入先を一国へ限らない。会社の記録も一か所へ置かない」
軍将校が聞く。
「ポーランド本社を信用していないのか」
「信用しています」
「ならなぜ分ける」
「信用と集中は別です」
「銀行もか」
「はい」
「政府もか」
「はい」
軍将校は少しむっとした。
「軍もか」
実業家は少し考えた。
「特に」
会場の数か所から笑いが起きた。
軍将校は笑わなかった。
「理由を言え」
「軍は便利な物を見つけると、軍用にします」
元白軍将校が大きく頷いた。
「その通りだ」
「お前は黙れ!」
実業家は続ける。
「恐慌が深くなれば、各国政府は国外資金、工場、輸送、食料、外貨へ関心を持ちます」
灰色背広がまた書き始めた。
「だから、所有権、利用権、保管場所、運営者を分けます」
軍将校が問う。
「全体を把握する者は」
「一人ではありません」
「お前は」
「概ね」
「お前が倒れたら」
「別々の担当者が、自分の範囲を動かします」
技師が言った。
「良い」
軍将校が振り向く。
「簡単に認めるな」
「一人しか動かせない工程を信用するな」
実業家が頷いた。
「同じ考えです」
元白軍将校。
「人間も部品か」
技師。
「お前は規格外だ」
「褒め言葉だな」
「違う」
◇
説明会は、予定より三時間長引いた。
原因は質問の多さ。
資料の多さ。
例えの多さ。
そして軍将校が、四人の勝手な追加案を一つずつ止めようとしたためだった。
最終的に、軍将校は壇上へ戻った。
「結論をまとめる」
実業家が口を開こうとした。
「お前は黙っていろ」
技師も口を開きかけた。
「お前もだ」
元独立運動家。
「家族欄について」
「あとで!」
元白軍将校が手を上げた。
「酒造部門は」
「関係ない!」
軍将校は深く息を吸った。
「無駄な支出を減らす」
実業家が小声で言った。
「必要な投資は増やします」
「黙れと言った!」
「取引先を一社へ集中させない」
技師が言った。
「部品規格も」
「あとで!」
「食料と燃料を備蓄する」
元独立運動家。
「ただし市場価格を吊り上げない範囲で」
「分かっている!」
「社員を簡単に解雇しない」
経理部長が手を上げる。
「売上減少時は」
「教育、保守、地方仕事へ回す!」
技師が頷いた。
軍将校は続ける。
「銀行を一つだけ信用しない」
灰色背広が小さく笑った。
軍将校が見る。
笑いは消えた。
「国外の状況を見る」
元白軍将校。
「人が動き始めたら、地図へ書く」
「軍用地図にはするな!」
「分かっている」
「本当か!」
「軍へは見せん」
「私には見せろ!」
実業家が小さく言った。
「軍用になっていますね」
軍将校は聞こえなかったことにした。
「以上だ!」
会場から手が上がった。
軍将校は見なかった。
別の手。
さらに別の手。
「以上だと言った!」
食品部門責任者が尋ねた。
「余った果実の買い取りを増やしてよいですか」
軍将校は止まった。
元独立運動家が答える。
「農家の現金収入になる」
実業家。
「保存設備に余裕があります」
技師。
「乾燥機の二号機を使える」
元白軍将校。
「酒にもできる」
「最後の意見は却下だ!」
酒造部門責任者が手を上げた。
「既に試験中です」
軍将校は椅子へ座った。
説明会は終了しなかった。
◇
その日の夕方。
最初の取消電報が届いた。
地方郵便会社。
航空機三機。
資金調達不能のため、契約延期。
翌日。
農機具会社。
部品発注半減。
三日後。
英国商社。
冷蔵設備の支払猶予を要請。
四日後。
ドイツの工作機械会社。
従業員整理を開始。
五日後。
農産物仲買業者。
穀物価格下落により、契約条件の再協議を希望。
一週間後。
WILK本社の門前へ、仕事を求める者が並び始めた。
最初は七人。
翌日は十三人。
その翌日は二十一人。
旋盤工。
荷役夫。
帳簿係。
教師。
御者。
縫製工。
元銀行員。
農場を失った夫婦。
家族を連れた者。
工具だけを持つ者。
何も持たない者。
門番は人事部へ連絡した。
人事部は元独立運動家へ連絡した。
元独立運動家は軍将校へ書類を持っていった。
「仮登録票が足りん」
軍将校は書類を見た。
「先月、増刷しただろう」
「もう使った」
「何枚」
「二百」
「一か月で?」
「家族分を含む」
軍将校は額を押さえた。
「まだ始まったばかりだぞ」
元独立運動家は窓の外を見た。
門前の列。
手荷物。
子供。
工具箱。
「向こうにとっては、もう始まっている」
◇
暴落は、ニューヨークで始まった。
だが、そこに留まらなかった。
銀行を渡った。
手形を渡った。
汽船を渡った。
鉄道を渡った。
工場を止めた。
店を閉じた。
農産物の値を落とした。
仕事を消した。
人を国境へ向かわせた。
アメリカの株を一枚も持っていない者も、損をした。
銀行口座を持たない農民も、損をした。
株価欄を読めない工員も、仕事を失った。
そして世界は、恐慌を輸入した。
ポーランドも例外ではなかった。
WILKの工場は、まだ動いていた。
食堂では、まだパンが出ていた。
学校では、まだ子供が学んでいた。
診療所では、まだ薬が渡されていた。
だが門の外には、昨日まで別の工場で働いていた者が立っていた。
その後ろには、さらに人がいた。
軍将校は列を見た。
実業家へ尋ねた。
「何人まで受け入れる」
実業家は答えなかった。
元独立運動家が、仮登録票の束を抱えて通り過ぎる。
技師は、工具を持つ者へ技能を尋ねている。
元白軍将校は、家族連れを食堂へ案内していた。
軍将校はもう一度尋ねた。
「どこまでだ」
実業家は門の外を見た。
「仕事を作れるところまでです」
軍将校は列の長さを見る。
「足りるのか」
実業家は少し考えた。
「足りるようにします」
世界的な大不況は、始まったばかりだった。