WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――ポーランド陸軍航空部・Bizon片発飛行試験報告
一九三一年

試験機は、巡航中に右発動機を停止した。

搭載物は以下の通り。

模擬負傷者 二名。
衛生兵 一名。
無線機 一基。
弾薬袋および糧食袋。
機銃運搬用二輪台車 一台。
砂袋、合計四百八十kg。

右発動機停止後、機体は高度を維持できなかった。

ただし、操縦不能には陥らなかった。

貨物の一部を投棄した後も、上昇は確認されなかった。

右発動機を再始動したところ、機体は通常飛行へ復帰した。

試験担当者は、

「一基で飛び続ける航空機ではない。一基を失っても、落下するまでに選択できる航空機である」

と報告した。

陸軍航空部は、この評価を合格とすべきか判断できず、回答を保留した。


第87話 片方で帰れ

「荷物を減らせ」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「減らさない」

 

元独立運動家が答えた。

 

前回と同じ会話だった。

 

違うのは、今度はBizonの右発動機を本当に止めることだった。

 

格納庫の前には、緑、赤、黄色の麻袋が並んでいる。

 

緑には砂。

 

赤にも砂。

 

黄色にも砂。

 

中身はすべて砂だったが、試験中の識別手順を確認するため、袋の色だけは実用品と同じにされていた。

 

ポーランド軍将校が赤い袋を持ち上げた。

 

「医薬品袋に砂を入れるな」

 

「医薬品と同じ重さを再現するためだ」

 

元独立運動家が答えた。

 

「せめて白い試験袋を作れ」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を見た。

 

「試験専用袋を作る費用はありません」

 

「麻袋一枚だろう!」

 

「麻袋一枚分の費用があります」

 

元白軍将校が赤い袋を肩へ掛けた。

 

網目へ一本の縄が通されている。

 

縄を長く取れば肩掛け。

 

短く持てば手提げ。

 

左右へ分けて通せば簡易背嚢。

 

「運べる」

 

「それは見れば分かる!」

 

ポーランド軍将校は袋を奪い、地面へ置いた。

 

「今日の目的は袋ではない。発動機だ」

 

元ドイツ軍技術者はBizonを見上げた。

 

左右の発動機は、前回までと変わらない。

 

いずれも五百馬力には届かない空冷星形発動機。

 

双発であれば、重いBizonをどうにか飛ばせる。

 

一基になればどうなるか。

 

前回は右発動機の出力を落としただけで、機体は緩やかに高度を失った。

 

今回は完全に停止させる。

 

「飛べると思うか」

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

「飛ぶ」

 

元白軍将校が答えた。

 

「高度を維持できるかと聞いている」

 

「それは分からん」

 

「分からないから試験するんだ!」

 

元ドイツ軍技術者は右発動機のプロペラを見た。

 

「問題は止まった後だ」

 

当時のBizonには、飛行中に羽根角を大きく変えて抵抗を減らす本格的なフェザリング機構はない。

 

発動機が止まれば、プロペラは風を受ける。

 

回り続ければ、巨大な空気抵抗になる。

 

完全に止めれば抵抗は減るが、停止位置によって振動や再始動条件が変わる。

 

「燃料を止める」

 

元ドイツ軍技術者が指を折った。

 

「点火を切る。プロペラの回転を確認する。止まらなければ速度を落として停止させる」

 

ポーランド軍将校が確認した。

 

「再始動できるのか」

 

「できるように作った」

 

「できなかった場合は」

 

元白軍将校が滑走路の外を指した。

 

「畑がある」

 

「そういう答えを求めていない!」

 

貨物室には、一台の二輪台車が積まれた。

 

今日は機銃を載せていない。

 

代わりに板を取り付け、その上へ砂袋と故障無線機を固定している。

 

赤い袋二つ。

 

黄色い袋三つ。

 

緑の袋六つ。

 

模擬負傷者二名は担架へ寝かされ、衛生兵役の兵士が隣に座った。

 

元独立運動家は、床レールに固定された台車を確認した。

 

「投棄する時は、このピンを抜く」

 

ポーランド軍将校が振り返った。

 

「台車ごと捨てる気か」

 

「必要なら」

 

「回収できないぞ」

 

「機体を失うより安い」

 

ユダヤ人実業家が即答した。

 

ポーランド軍将校は何も言わなかった。

 

元白軍将校が、貨物室後部の扉を見た。

 

「投棄順は」

 

「最初に黄色」

 

元独立運動家が答えた。

 

「食料から捨てるのか」

 

「今日は砂だ」

 

「実戦なら」

 

「緑からだ」

 

「弾薬を捨てるのか」

 

「機体が落ちるならな」

 

元白軍将校が頷いた。

 

「赤は最後だ」

 

医薬品。

 

負傷者。

 

衛生兵。

 

生きている人間を支える物は最後まで残す。

 

元ドイツ軍技術者が貨物表へ線を引いた。

 

「ただし、重心を崩すな。後ろだけ捨てれば機首が上がりにくくなる。前だけ捨てれば逆だ」

 

「左右も同じだ」

 

元独立運動家が言った。

 

「停止する右側から先に軽くするか」

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

元ドイツ軍技術者は首を振った。

 

「むしろ停止側へ重量が残った方が、機体の傾きを抑えやすい場合もある。だが偏らせすぎれば操縦が難しくなる」

 

元白軍将校が結論を出した。

 

「少しずつ捨てろ」

 

「最初からそう説明している!」

 

Bizonは長い滑走の後、地面を離れた。

 

二基の発動機が同じように回っている間、機体は重いだけだった。

 

操縦できる。

 

曲がれる。

 

登れる。

 

ただし、どれも急いではくれない。

 

試験高度は千五百メートル。

 

その高度まで達するのに、予想より長い時間がかかった。

 

操縦士は速度を安定させた。

 

副操縦士が計器を読み上げる。

 

「右油温、正常」

 

「右油圧、正常」

 

「燃料圧、正常」

 

後方では元ドイツ軍技術者が時計を見ていた。

 

ポーランド軍将校が操縦席の後ろから尋ねる。

 

「ここで止めるのか」

 

「まだだ」

 

「なぜだ」

 

「近くに畑が少ない」

 

「畑を基準に試験空域を選ぶな」

 

元白軍将校が窓の外を見た。

 

「向こうに牧草地がある」

 

「滑走路を探せ!」

 

「牧草地の方が広い」

 

Bizonは試験空域を一周した。

 

地上には、臨時着陸地点として選ばれた草地が三か所。

 

さらに鉄道線路。

 

小川。

 

村。

 

飛行中に発動機を失えば、すべてが意味を持つ。

 

速度。

 

高度。

 

風向き。

 

地形。

 

機体重量。

 

誰も、ただの数字として見られなくなった。

 

元ドイツ軍技術者が操縦士へ言った。

 

「右を止める」

 

操縦士が深く息を吸った。

 

「燃料弁、閉」

 

副操縦士が確認する。

 

「右燃料弁、閉」

 

「点火、切」

 

右発動機の音が乱れた。

 

排気音が途切れる。

 

プロペラは回り続けた。

 

最初は速く。

 

次第に遅く。

 

だが完全には止まらない。

 

Bizonの機首が右へ引かれた。

 

操縦士は左発動機の出力を調整し、方向舵を踏み込んだ。

 

機体が傾く。

 

速度が落ちる。

 

「機首を下げろ」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「速度を守れ。高度ではない」

 

操縦士は操縦桿をわずかに前へ押した。

 

Bizonは降下へ入った。

 

高度計の針がゆっくりと動く。

 

一分。

 

二分。

 

右プロペラはまだ回っている。

 

「風車状態だ」

 

副操縦士が言った。

 

「抵抗が大きい」

 

元ドイツ軍技術者は時計と高度計を交互に見た。

 

「速度を少し落とす。失速させるな」

 

操縦士は左発動機の出力を維持しながら、機首をわずかに上げた。

 

速度が低下する。

 

右プロペラの回転も落ちる。

 

一枚の羽根が上を向いたところで、ようやく止まった。

 

途端に機体の震えが変わった。

 

右へ引く力がわずかに弱まる。

 

だが高度は戻らない。

 

「降下率、減少」

 

副操縦士が言った。

 

「維持は」

 

「できません」

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

「左を全開にすれば」

 

元ドイツ軍技術者は首を振った。

 

「長くはもたない。発動機を壊して二基とも失う」

 

元白軍将校が高度計を見た。

 

「地面まではまだある」

 

「その考え方をやめろ!」

 

貨物室では、砂袋が揺れていた。

 

衛生兵役の兵士が担架の固定具を押さえている。

 

元独立運動家は後部扉の留め具を外した。

 

風音が強くなる。

 

「投棄する」

 

ポーランド軍将校が叫んだ。

 

「まだ早い!」

 

「高度を失っている」

 

「まず降下率を測る!」

 

「落ちる速度を測ってから軽くするのか」

 

「試験だからだ!」

 

元白軍将校が緑の麻袋を一つ持ち上げた。

 

「捨てるぞ」

 

「待て!」

 

ユダヤ人実業家がその袋を見た。

 

「それは十一粍弾薬を想定した重量です」

 

「だから何だ」

 

「袋も回収してください」

 

「空で戻ればよい」

 

「袋代がかかっています」

 

ポーランド軍将校が怒鳴った。

 

「今は袋代の話ではない!」

 

元独立運動家は袋の口へ通された縄を掴み、後部扉まで運んだ。

 

一本目。

 

投下。

 

緑の麻袋は風に叩かれ、回転しながら落ちていった。

 

機体が軽くなる。

 

だが高度計の動きは、目に見えて変わらない。

 

二本目。

 

三本目。

 

左右の重量が偏らないよう、交互に投げる。

 

「降下率、わずかに減少」

 

副操縦士が報告した。

 

「維持は」

 

「まだできません」

 

元白軍将校が台車を見た。

 

「次はあれだ」

 

ユダヤ人実業家が顔を上げた。

 

「待ってください」

 

「重い」

 

「再利用できます」

 

「地面でも使える」

 

「投棄したら壊れます」

 

「機体が落ちても壊れる」

 

ユダヤ人実業家は一瞬考えた。

 

「板だけ外しましょう」

 

「なぜだ」

 

「板は安い。台車は高い」

 

元独立運動家が板の固定ピンを抜いた。

 

砂袋二つを載せた板を、台車から滑らせる。

 

元白軍将校と二人で持ち上げ、後部扉から押し出した。

 

板は一度水平に飛び、それから裏返り、砂袋をまき散らしながら落ちた。

 

元ドイツ軍技術者が後方を見た。

 

「板に紐を付けろ」

 

ポーランド軍将校が聞き返した。

 

「何のために」

 

「砂袋を縛るためだ。空中で散った」

 

「投棄器具の改善点を今考えるな!」

 

「次も使う」

 

「次がある前提か!」

 

元白軍将校が答えた。

 

「発動機はまた止まる」

 

積載量を減らしても、Bizonは高度を維持しなかった。

 

ただし降下は穏やかになった。

 

操縦士は方向舵を踏み続けている。

 

片脚に力がかかり、額には汗が浮かんでいた。

 

「重いです」

 

「方向舵がか」

 

「脚がです」

 

元ドイツ軍技術者は操縦索の取り回しを思い出した。

 

「補助タブを付ける」

 

「今ですか」

 

「帰ってからだ」

 

「帰れるのですか」

 

元白軍将校が答えた。

 

「左が動いている」

 

誰も安心しなかった。

 

右発動機は静止している。

 

左発動機だけが、重い機体と乗員と残った荷物を引いていた。

 

高度は千メートルを切った。

 

近くの草地までの距離は十分。

 

滑空だけでも届く。

 

操縦士は地図を見た。

 

「このままなら第二着陸地へ入れます」

 

ポーランド軍将校が尋ねる。

 

「再始動は」

 

元ドイツ軍技術者は右発動機を見た。

 

「試す」

 

副操縦士が燃料弁を開いた。

 

点火を入れる。

 

始動装置だけで飛行中の発動機を回すには力が足りない。

 

そこで機首を少し下げ、速度を上げる。

 

風を受けたプロペラがゆっくり動く。

 

一回転。

 

二回転。

 

回転が速くなる。

 

副操縦士が燃料混合比を調整した。

 

右発動機が一度咳き込んだ。

 

止まる。

 

もう一度。

 

プロペラが回る。

 

排気管から黒い煙が吐き出された。

 

爆発音が不規則に続く。

 

「油圧上昇!」

 

右発動機が蘇った。

 

最初は荒く。

 

やがて一定の音へ戻る。

 

操縦士は右の出力を少しずつ上げた。

 

Bizonの機首が戻る。

 

方向舵を踏み続けていた脚が緩む。

 

高度計の針が止まった。

 

そして、ゆっくりと上へ動き始める。

 

貨物室から歓声が上がった。

 

元白軍将校は窓の外を見たまま言った。

 

「帰れる」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「まだ帰っていない」

 

着陸後、操縦士は機体から降りると、その場で右脚を伸ばした。

 

方向舵を踏み続けた脚が震えている。

 

元ドイツ軍技術者はそれを見て、手帳へ書き込んだ。

 

片発時方向舵補助。

調整式タブ。

操縦力軽減。

操縦索点検口拡大。

 

ポーランド軍将校が隣から覗いた。

 

「発動機の改良ではないのか」

 

「発動機はすぐ強くならない」

 

「では何をする」

 

「弱いままでも帰りやすくする」

 

元独立運動家は貨物室から台車を降ろしていた。

 

機銃はない。

 

板も投棄した。

 

ただの二輪台車になっている。

 

そこへ赤い袋を二つ載せる。

 

「残った荷物を運ぶ」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「その台車は帰ってきたな」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「板は失いました」

 

「試験で落としたのだ。損失として計上しろ」

 

「砂袋もです」

 

「全部だ」

 

「緑袋六枚」

 

「書け!」

 

ユダヤ人実業家は帳簿へ記した。

 

元白軍将校が尋ねた。

 

「機体はどうだった」

 

元ドイツ軍技術者はBizonを見上げた。

 

「一基では上がれない」

 

「飛べた」

 

「降りながらだ」

 

「操縦できた」

 

「脚が持たない」

 

「発動機は戻った」

 

「戻らない場合もある」

 

元白軍将校はしばらく考えた。

 

「なら、戻らない時のために作れ」

 

「何をだ」

 

「降りる場所を選べるように」

 

元ドイツ軍技術者は、手帳の空白を見た。

 

より大きな方向舵。

 

調整式補助タブ。

 

片発時の貨物投棄手順。

 

左右燃料系統の分離。

 

停止発動機側の防火遮断。

 

再始動手順。

 

乗員が一目で分かる弁配置。

 

夜間でも触って識別できる取っ手。

 

発動機を強くするだけではない。

 

止まった後に何ができるか。

 

そのための改良はいくらでもある。

 

「上昇はできない」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「今の発動機ではな」

 

元独立運動家が答えた。

 

「だが、真下へは落ちなかった」

 

ポーランド軍将校は試験記録を閉じた。

 

「軍は片発飛行可能と認めないだろう」

 

「なぜだ」

 

元白軍将校が尋ねた。

 

「高度を維持できなかった」

 

「着陸場所は選べた」

 

「軍の基準では不十分だ」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を抱え直した。

 

「では、売る時には正直に書きましょう」

 

「何と」

 

「一基で帰還できる、とは書きません」

 

「当然だ」

 

「一基を失っても、帰還を試みる時間がある」

 

ポーランド軍将校は少し考えた。

 

「宣伝文句として弱くないか」

 

元白軍将校が答えた。

 

「落ちるより強い」

 

その日の夕方。

 

格納庫の壁へ、新しい操作手順書が貼られた。

 

一、停止側を確認する。

二、速度を守る。

三、高度を守ろうとして失速するな。

四、着陸地点を選ぶ。

五、必要なら貨物を投棄する。

六、再始動を試みる。

七、再始動できなくても、操縦を続ける。

 

その下に、誰かが鉛筆で一行を書き加えた。

 

八、板は安いので先に捨てる。

 

ユダヤ人実業家は、それを見つけて消した。

 

翌朝、また書かれていた。

 

今度はさらに一行増えていた。

 

九、台車は高いので最後まで残す。

 

ユダヤ人実業家は、しばらく文字を見た。

 

そして消さなかった。

 

Bizonは、一基の発動機だけで高度を維持できなかった。

 

重かった。

 

遅かった。

 

操縦士の脚を疲れさせた。

 

貨物も捨てた。

 

それでも、すぐには落ちなかった。

 

乗員には、発動機を再び動かす時間があった。

 

草地を探す時間があった。

 

何を残し、何を捨てるか決める時間があった。

 

完全な機体ではない。

 

だが壊れた瞬間に、すべてを奪う機体でもなかった。

 

WILKが求めたのは、片方だけで飛び続ける奇跡ではない。

 

片方を失った後にも、人間へ選択を残すことだった。

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