WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK福利厚生部・工員食堂利用状況報告
一九三二年四月

同年第一四半期以降、工員食堂において以下の変化が確認された。

昼食用パンの持ち帰り増加。
未使用食券の家族間譲渡。
夕食用スープの容器持参。
乳製品の分割購入。
給与日前における掛売り申請増加。

食堂側は、昼食を減らして家族へ持ち帰る者が増えたため、パンを小型二個へ変更した。

一個を昼食用、一個を持ち帰り用とすることを想定したものではない。

ただし、持ち帰りは禁止されなかった。

理由。

「禁止しても、工員は昼食を食べずに二個とも持ち帰る」

食堂主任は、当該判断を福利厚生ではなく生産維持のためと説明した。


第96話 パンを持ち帰るな

工員食堂の朝は、パンの数を数えるところから始まった。

 

大きなパンではない。

 

片手に収まるほどの小さなパンが二つ。

 

工員一人につき二個。

 

以前なら、大きな一個だった。

 

総重量はほとんど変わらない。

 

だが、分けられる。

 

一つを昼に食べる。

 

一つを布へ包む。

 

上着へ入れる。

 

家へ持ち帰る。

 

誰も、そのために二個へ変えたとは言わなかった。

 

元白軍将校は配膳台で二個を受け取り、片方をすぐ口へ運んだ。

 

もう片方は外套の内側へ入れた。

 

ポーランド軍将校が見ていた。

 

「また持ち帰るのか」

 

「夜に食う」

 

「食堂で食え」

 

「夜には閉まる」

 

「自分で買え」

 

「ここでもらった」

 

「もらったのではない。給与から食費を引いている」

 

元白軍将校は外套を押さえた。

 

「なら私の物だ」

 

「理屈は合っているが、なぜ腹が立つのだろうな」

 

元独立運動家が二個とも布へ包んだ。

 

ポーランド軍将校が彼を見る。

 

「昼は食わないのか」

 

「後で食う」

 

「二個ともか」

 

「一個は工房へ持っていく」

 

「誰に」

 

「窓を割られた染色工房の夜番だ」

 

「工房の食事まで会社が見るのか」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を見ながら答えた。

 

「食事代は契約に入っていません」

 

「なら止めろ」

 

「個人が自分のパンを渡すのは止められません」

 

元ドイツ軍技術者は自分のパンを切っていた。

 

中央を割る。

 

中身を見る。

 

「気泡が大きい」

 

食堂主任が寄ってきた。

 

「乳清を増やしました」

 

「水分が多い」

 

「柔らかくなります」

 

「日持ちは」

 

「昨日より半日ほど長いです」

 

「半日か」

 

「持ち帰る者には大きいです」

 

元ドイツ軍技術者はパンを一口食べた。

 

「塩が少ない」

 

「塩を減らしました」

 

「なぜだ」

 

「費用です」

 

ユダヤ人実業家が顔を上げた。

 

「どれくらい減りますか」

 

食堂主任が数字を答える。

 

一日分。

 

一月分。

 

年間。

 

ユダヤ人実業家は帳簿へ書き込んだ。

 

元白軍将校が言った。

 

「味が落ちる」

 

元独立運動家も食べた。

 

「まだ食える」

 

ポーランド軍将校が二人を見る。

 

「判断基準が低すぎる」

 

元ドイツ軍技術者は、残り半分へバターを薄く塗った。

 

「味を落としすぎれば食べなくなる。食べなければ午後の作業が落ちる」

 

食堂主任が答えた。

 

「では塩を戻しますか」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を閉じた。

 

「戻してください」

 

ポーランド軍将校が意外そうに彼を見る。

 

「費用は」

 

「作業能率が落ちる方が高いです」

 

元白軍将校は満足そうに頷いた。

 

「塩は必要だ」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「お前が決めたように言うな」

 

食堂の隅では、一人の若い工員がパンを二個とも包んでいた。

 

スープには手を付けていない。

 

食券だけを出し、容器へ移している。

 

食堂主任が声を掛けた。

 

「昼に食べないのか」

 

若い工員は手を止めた。

 

「後で」

 

「作業中は食べられない」

 

「分かっています」

 

「昨夜も持ち帰ったな」

 

若い工員は黙った。

 

周囲の者が、視線を逸らす。

 

食堂主任は声を少し落とした。

 

「家に何人いる」

 

「六人です」

 

「働いているのは」

 

「今は私だけです」

 

父親は鉄道修理工場。

 

週二日。

 

兄は製材所。

 

解雇。

 

妹は仕立屋。

 

店が閉じた。

 

母親と子供が二人。

 

以前なら、三人の賃金が家へ入っていた。

 

今は一人分と、父親の二日分。

 

飢えるほどではない。

 

畑も少しある。

 

ジャガイモもある。

 

だが肉は減った。

 

石炭を買う量も減った。

 

靴は直して履く。

 

医者へ行くのは熱が三日続いてから。

 

食堂主任は若い工員の容器へ、もう一杯スープを入れた。

 

「食券は一枚です」

 

若い工員が言った。

 

「今日は余った」

 

「まだ昼前です」

 

「余る予定だ」

 

「帳簿が合いません」

 

食堂主任は少し考えた。

 

隣にいた配膳係へ言った。

 

「試食分だ」

 

配膳係が頷く。

 

若い工員は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。

 

食堂主任は容器の蓋を閉めた。

 

「午後、倒れるな」

 

「はい」

 

食堂の入口に立っていたユダヤ人実業家は、そのやり取りを見ていた。

 

帳簿には何も書かなかった。

 

代わりに、食堂主任へ尋ねた。

 

「余りはどれくらいあります」

 

「日によります」

 

「記録してください」

 

食堂主任の表情が硬くなる。

 

「余分に渡した分をですか」

 

「違います」

 

「では」

 

「毎日、最後に残った量です」

 

「何のために」

 

「残るなら持ち帰り分へ回せます」

 

ポーランド軍将校が後ろから口を挟んだ。

 

「会社が家族分まで食わせるのか」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「捨てるよりは安いです」

 

「捨てずに翌日使えばよい」

 

食堂主任が首を振った。

 

「スープは傷みます」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「冷却すれば」

 

全員が彼を見る。

 

「何だ」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を開き直した。

 

「食堂用冷却槽を追加できますか」

 

ポーランド軍将校が叫んだ。

 

「貧困対策から設備投資へ飛ぶな!」

 

元独立運動家が答えた。

 

「残り物が使える」

 

「設備費がかかる!」

 

「食材を捨てる費用も減る」

 

元白軍将校が言った。

 

「翌朝、温めればよい」

 

食堂主任は考えた。

 

「肉入りは注意が要ります」

 

元ドイツ軍技術者が続ける。

 

「温度記録を付けろ。一定以下まで下がらない物は廃棄」

 

ユダヤ人実業家が書く。

 

ポーランド軍将校は額を押さえた。

 

「食堂のスープから新しい冷蔵設備を作るな」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「既存設備を小さくするだけだ」

 

「それを新製品という!」

 

昼休みが終わる頃、食堂の外で騒ぎが起きた。

 

大声ではない。

 

殴り合いでもない。

 

門の近くで、一人の町民が工員へ声を掛けただけだった。

 

工員は、布に包んだパンを手にしている。

 

町民はそれを見た。

 

「二個もあるのか」

 

工員が答える。

 

「食堂のだ」

 

「一人で二個か」

 

「一個は家へ持って帰る」

 

「贅沢だな」

 

工員は足を止めた。

 

「何がだ」

 

「仕事があって、食堂があって、パンまで持ち帰れる」

 

町民の男は、以前WILKの技能登録へ来ていた。

 

まだ呼ばれていない。

 

元は製粉所の夜勤だった。

 

夜勤班がなくなり、今は日雇いを探している。

 

工員も彼の顔を覚えていた。

 

「これは俺の食事だ」

 

「二つある」

 

「一つは昼。一つは夜だ」

 

「家へ持って帰ると言った」

 

「家で夜に食う」

 

「家族にも渡すんだろう」

 

「それがどうした」

 

男は笑った。

 

笑い方が少し歪んでいた。

 

「会社のパンを家族で食うのか」

 

「給料から引かれている」

 

「仕事のない者から見れば同じだ」

 

工員はパンを外套へ入れた。

 

「何が言いたい」

 

「別に」

 

「なら道を開けろ」

 

「WILKの者は強いな」

 

「何だと」

 

守衛が間へ入った。

 

「そこで止めろ」

 

町民は両手を上げた。

 

「何もしていない」

 

「帰れ」

 

「門の外だ」

 

「人の通行を塞いでいる」

 

男は一歩下がった。

 

工員を見た。

 

「パンを落とすなよ」

 

それだけ言って立ち去った。

 

工員は追わなかった。

 

だが午後の作業中、何度も外套の内側を確かめた。

 

パンはそこにあった。

 

潰れていた。

 

その日の夕方。

 

町の小学校で、WILK工員の息子が泣いて帰った。

 

理由を聞かれても、最初は答えなかった。

 

母親が上着を脱がせる。

 

背中へ白い粉が付いている。

 

小麦粉だった。

 

髪にも。

 

靴にも。

 

鞄の中にも少し入っている。

 

「何があったの」

 

少年は黙っていた。

 

母親がもう一度聞く。

 

「誰にされたの」

 

「遊びだって」

 

「誰が」

 

名前を言う。

 

同じ通りに住む子供。

 

父親は製粉所を解雇された。

 

「何を言われたの」

 

少年は俯いた。

 

「パン屋の犬」

 

母親は動きを止めた。

 

「誰がパン屋なの」

 

「WILK」

 

「お父さんは航空機工場で働いている」

 

「何でも作るから、パン屋だって」

 

「それで」

 

少年は鞄を握った。

 

「お前の家だけパンが二つあるって」

 

母親は何も言えなかった。

 

実際、その日の朝も夫は食堂の小さなパンを一個持ち帰っていた。

 

子供二人へ半分ずつ分けた。

 

それを近所の誰かが見ていたのだろう。

 

母親は少年の髪から小麦粉を払い落とした。

 

「明日、先生へ言います」

 

「言わないで」

 

「どうして」

 

「もっと言われる」

 

母親は白い粉の付いた上着を見た。

 

洗えば落ちる。

 

破れてはいない。

 

怪我もない。

 

ただの子供の悪戯。

 

そう呼ぶこともできる。

 

だが、子供は自分でその言葉を考えたわけではない。

 

どこかで聞いた。

 

家か。

 

通りか。

 

酒場の前か。

 

新聞の投書か。

 

大人が吐き出した言葉を、子供が拾った。

 

翌日、父親は工場の監督へ相談した。

 

監督は福利厚生部へ伝えた。

 

福利厚生部から、ユダヤ人実業家の机へ報告が来た。

 

ポーランド軍将校は紙を読んだ。

 

「学校へ抗議する」

 

元白軍将校が答えた。

 

「父親同士で話せ」

 

「感情的になる」

 

「学校へ言っても子供は止まらん」

 

元独立運動家が尋ねた。

 

「工員の子供だけか」

 

ユダヤ人実業家は別の報告を出した。

 

WILKと契約した染色工房の子供。

 

海外から来た整備員の子供。

 

ユダヤ人商店主の子供。

 

ドイツ語を話す家庭の子供。

 

以前から小さな喧嘩はあった。

 

最近は理由が変わっている。

 

仕事がある家。

外国人の家。

WILKに近い家。

WILKの商品を売る家。

 

線引きが始まっていた。

 

元ドイツ軍技術者が報告書を置いた。

 

「会社でどうにかできる話ではない」

 

ポーランド軍将校が答える。

 

「何もしないのか」

 

「何をする」

 

「学校へ働きかける」

 

「WILKが学校へ圧力を掛けたと言われる」

 

「では黙るのか」

 

「違う」

 

元ドイツ軍技術者は机上のBizon改修図を裏返した。

 

「事実を集めろ」

 

元白軍将校が言う。

 

「殴られたら殴り返せと教える」

 

ポーランド軍将校が彼を睨んだ。

 

「子供へ教えるな」

 

「逃げ続ければ追われる」

 

「喧嘩を増やすな!」

 

元独立運動家が言った。

 

「一人で帰らせるな」

 

「誰が送る」

 

「同じ通りの子供をまとめる」

 

ユダヤ人実業家が頷いた。

 

「工員住宅ごとに登下校の組を作れます」

 

ポーランド軍将校が警戒する。

 

「制服でも着せる気か」

 

「着せません」

 

「会社の旗も持たせるな」

 

「持たせません」

 

元白軍将校が言った。

 

「棒は」

 

「持たせるな!」

 

結局、工員家庭同士で子供をまとめ、交代で大人が途中まで送ることになった。

 

会社の正式制度にはしない。

 

制服も旗もない。

 

ただ同じ道を、一人で歩かせない。

 

それだけだった。

 

だが翌週には、

 

WILKが子供の護衛隊を作った。

 

という噂になった。

 

量産型Bizonの後方銃座試験は、その噂とは関係なく続いていた。

 

七・九二粍単装。

 

交換式支柱。

 

床レールと胴体隔壁へ固定。

 

飛行中の射界と振動を見る。

 

元白軍将校が射手席へ入ろうとした。

 

ポーランド軍将校が止めた。

 

「お前は乗らない」

 

「なぜだ」

 

「試験射手がいる」

 

「私も撃てる」

 

「勝手に二十発全部撃つ」

 

「標的があれば撃つ」

 

「だから駄目だ!」

 

元ドイツ軍技術者は支柱根元の調整板を確認した。

 

前回の地上射撃で生じた遊びを、薄い金属板で埋めている。

 

工具なしで交換できる。

 

ただし、緩み止めピンだけは必要。

 

元独立運動家が緑の弾薬袋を銃架へ掛けた。

 

「二十発」

 

兵装担当者が確認する。

 

「七・九二粍通常弾。黒い丸留め。一本刻み」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「飛行中は十発まで」

 

元白軍将校が尋ねた。

 

「残りは」

 

「異常確認後だ」

 

「敵は待たん」

 

「敵はいない!」

 

Bizonは離陸した。

 

後方銃座を積んだため、担架はない。

 

二輪台車もない。

 

写真機もない。

 

貨物も少ない。

 

一つの任務のため、ほかを降ろした。

 

その判断を確認する試験でもあった。

 

高度千メートル。

 

標的曳航機が後方を横切る。

 

射手が銃架を回す。

 

風が強い。

 

地上では軽かった七・九二粍機銃が、飛行中は別物のように動く。

 

銃身を外へ出せば、風が押す。

 

機体が揺れれば照準も揺れる。

 

射手は体を支柱へ預けた。

 

「射界、右後方」

 

無線で報告。

 

「射撃許可」

 

ポーランド軍将校が答える。

 

五発。

 

機銃音は発動機音に飲まれた。

 

薬莢が回収袋へ落ちる。

 

短帯が引かれる。

 

支柱が震える。

 

だが緩まない。

 

さらに五発。

 

標的布の端に穴が開く。

 

元白軍将校が窓から見た。

 

「外れた」

 

ポーランド軍将校が答える。

 

「当たっている」

 

「中央ではない」

 

「後方から来る敵へ、近づくなと知らせればよい」

 

元ドイツ軍技術者が記録する。

 

「完全な防御ではない」

 

元独立運動家が言う。

 

「ないよりよい」

 

「重さはある」

 

「専用銃座より軽い」

 

「射界は狭い」

 

「貨物室へ戻せる」

 

「専用戦闘機には勝てない」

 

元白軍将校が言った。

 

「逃げる時間が増える」

 

それで十分だった。

 

Bizonは敵機を撃墜するための機体ではない。

 

仕事を終え、戻るための機体だ。

 

後方銃座も、勝つためというより、

 

敵へ一度考えさせるために載せる。

 

接近すれば撃たれる。

 

もう一度回り込む必要がある。

 

その時間に雲へ入る。

 

低空へ降りる。

 

味方の上へ逃げる。

 

選択肢が増える。

 

WILKが作る装備は、いつも完全な解決ではなかった。

 

ただ、何もしないより一手多くする。

 

飛行試験後、銃架は十一分で外された。

 

支柱。

 

旋回架。

 

弾薬袋受け。

 

回収袋。

 

箱へ入れる。

 

床レールが空く。

 

元独立運動家は、すぐに板を持ってきた。

 

ポーランド軍将校が指を差す。

 

「何をする」

 

「荷台に戻す」

 

「機体の床だ!」

 

「台車を積む」

 

「今日は積まない!」

 

元白軍将校が言った。

 

「銃架を外したのだから、何か載る」

 

「空でもよい!」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「空間は費用です」

 

ポーランド軍将校が頭を抱えた。

 

元ドイツ軍技術者は、外した銃架の支柱を見た。

 

「この支柱、台車へ載せられるな」

 

元独立運動家が頷く。

 

「運べる」

 

「板を付ければ工具棚にもなる」

 

ポーランド軍将校が顔を上げた。

 

「お前まで用途を増やすな!」

 

元ドイツ軍技術者は少し考えた。

 

「いや、やめる。射撃支柱は射撃用に残す」

 

ポーランド軍将校は胸を撫で下ろした。

 

元白軍将校が言った。

 

「専用品の方がよい時もある」

 

「お前が言うのか」

 

「銃が落ちれば困る」

 

元ドイツ軍技術者は頷いた。

 

「そこは正しい」

 

珍しく、全員の意見が早くまとまった。

 

その夜、WILK工員住宅の一軒へ、紙が差し込まれた。

 

封筒はない。

 

扉と敷居の間へ、二つ折りの紙。

 

家主が見つけたのは朝だった。

 

中には一行。

 

パンを持ち帰るな。

 

署名なし。

 

家主は工員ではない。

 

WILKへ家を貸しているだけだった。

 

彼は紙を持って、借家人の部屋を訪ねた。

 

住んでいるのは、例の若い工員と家族。

 

「これが入っていた」

 

若い工員は紙を読んだ。

 

母親も見る。

 

父親は黙っていた。

 

子供たちは意味が分からず、朝食のパンを食べている。

 

小さなパン一個を四つに切っていた。

 

家主が言った。

 

「私は追い出すつもりはない」

 

誰も何も言っていないのに、先にそう言った。

 

「ただ、近所で変な話がある」

 

若い工員が尋ねる。

 

「どんな」

 

「WILKの者へ家を貸すと、町の家賃が上がるとか」

 

「上がっていません」

 

「分かっている」

 

「外国人が入ってくるとか」

 

「私たちはここで生まれました」

 

「分かっている」

 

家主は繰り返した。

 

分かっている。

 

だが噂は、事実を確かめてから広がるわけではない。

 

「しばらく、夜は戸を閉めろ」

 

父親が言った。

 

「前から閉めています」

 

家主は返事に困った。

 

紙を机へ置く。

 

パンを持ち帰るな。

 

命を奪うという言葉ではない。

 

出ていけとも書いていない。

 

ただ、以前なら誰も気にしなかったことを、

 

誰かが許せなくなっていた。

 

若い工員は、その日の昼も食堂へ行った。

 

小さなパンを二個受け取る。

 

一個を食べた。

 

一個を布へ包んだ。

 

手が止まった。

 

隣の工員が見ている。

 

「持って帰れ」

 

「だが」

 

「お前のだ」

 

「また紙が来る」

 

「来たら保存しろ」

 

「なぜ」

 

隣の工員は少し考えた。

 

「分からん」

 

壊れた部品を捨てない会社で働いていたため、そう言っただけだった。

 

若い工員はパンを外套へ入れた。

 

ユダヤ人実業家の机には、同じ週だけで四枚の紙が集まった。

 

パンを持ち帰るな。

 

WILKの子供をまとめて歩かせるな。

 

染色工房を返せ。

 

外国人へ仕事を渡すな。

 

どれも署名なし。

 

筆跡は違う。

 

紙も違う。

 

同じ人物ではない可能性が高い。

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

「警察へ出すか」

 

「窓を割った件は出しました」

 

「これは」

 

「犯罪と呼べる内容ではありません」

 

元白軍将校が紙を一枚取った。

 

「脅しだ」

 

元ドイツ軍技術者が答える。

 

「直接的ではない」

 

「直接でなければ脅しではないのか」

 

「法では難しい」

 

元独立運動家が言った。

 

「書いた者は、難しいと知っている」

 

ユダヤ人実業家は四枚を順番に並べた。

 

「知らないかもしれません」

 

「ではなぜ匿名だ」

 

「自分でも恥ずかしいからでしょう」

 

部屋が静かになった。

 

怒りはある。

 

不満もある。

 

だが名前を出して言えるほど、自分が正しいとは思い切れない。

 

だから署名しない。

 

しかし書かずにはいられない。

 

元白軍将校は紙を机へ戻した。

 

「何をする」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「記録します」

 

ポーランド軍将校が顔をしかめる。

 

「それだけか」

 

「食堂を閉じますか」

 

「閉じない」

 

「工員へパンを持ち帰るなと言いますか」

 

「言わない」

 

「染色工房との契約を切りますか」

 

「切らない」

 

「外国出身者を解雇しますか」

 

ポーランド軍将校の顔が変わった。

 

「あり得ない」

 

ユダヤ人実業家は頷いた。

 

「では、続けます」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「警備は増やせ」

 

「増やします」

 

元独立運動家も続ける。

 

「子供は一人にするな」

 

「続けます」

 

元白軍将校が言った。

 

「パンも二個だ」

 

「二個です」

 

ポーランド軍将校は四枚の紙を見た。

 

「反論はしないのか」

 

ユダヤ人実業家は少し考えた。

 

「誰へです」

 

相手の名前はない。

 

顔もない。

 

住所もない。

 

ただ紙だけが届く。

 

反論する相手がいない。

 

だから会社は、仕事を続けるしかなかった。

 

夕方。

 

食堂から小さなパンを持った工員たちが出てきた。

 

一つだけ持つ者。

 

二つとも腹へ入れた者。

 

布へ包む者。

 

子供へ渡す者。

 

夜勤の同僚へ持っていく者。

 

工場の門外では、技能登録を終えた人々が帰っていく。

 

その中の一人が、工員の手元を見た。

 

何も言わなかった。

 

ただ目で追った。

 

工員も、その視線に気付いた。

 

以前なら気にしなかった。

 

今はパンを外套の内側へ隠した。

 

小さな動作だった。

 

誰も声を上げていない。

 

誰も石を投げていない。

 

誰も殴られていない。

 

それでも、日常から一つ減った。

 

堂々とパンを持って帰ることができなくなった。

 

町にはまだ食料があった。

 

店も開いていた。

 

人々も働いていた。

 

ただ、以前なら羨む必要のなかった小さな物が、

 

羨まれるようになっていた。

 

そして羨望は、

 

自分にも欲しいという言葉より先に、

 

相手に持たせるなという言葉へ変わり始めていた。

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