WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK国内販売部・小売店契約状況報告
一九三二年六月

同年五月末より、一部地域においてWILK製品の取扱停止、陳列縮小および返品が確認された。

対象商品。

乳清入りパン混合粉。
小分けバター。
粉乳。
農産物用木箱。
民間型二輪台車。
小型冷蔵設備。
交換部品。

取扱停止理由として、以下が申告された。

売上不振。
保管場所不足。
地域住民からの要望。
他店との関係維持。
詳細回答拒否。

販売部は各店へ理由確認を行った。

経営部は、

「買わない理由まで帳簿に書くな」

と指示した。

販売部は、

「売れない理由を記録しなければ、次の商品を作れない」

と回答した。

経営部は、

「店主の思想を商品規格へ入れるな」

と再指示した。

協議は未完了である。


第98話 買わない者まで数えるな

町の食料品店から、黄色い包みが消えていた。

 

店の棚には、小麦粉、塩、瓶詰め、石鹸、乾燥豆が並んでいる。

 

一週間前まで、その下段にはWILKの小分けバターと粉乳が置かれていた。

 

安い。

 

量が少ない。

 

一度に払う金額を抑えられる。

 

よく売れていた。

 

それがなくなった。

 

買い物へ来た女が店主へ尋ねた。

 

「小さいバターは」

 

「置かなくなった」

 

「売り切れか」

 

「仕入れていない」

 

「なぜ」

 

店主は帳簿を閉じた。

 

「ほかの物を買ってくれ」

 

女は棚を見る。

 

大きな包みのバターはある。

 

値段も書かれている。

 

買えないほど高くはない。

 

だが一度に出すには重い。

 

「半分にはできないか」

 

「包装を開ければ日持ちしない」

 

「切り売りは」

 

「今はしていない」

 

女はしばらく迷った。

 

結局、バターを買わず、塩と豆だけを持って会計へ来た。

 

店主は何も言わなかった。

 

外へ出た女は、向かいの店へ入った。

 

そこにはWILKの小分けバターがあった。

 

買った。

 

その様子を、最初の店主は窓越しに見ていた。

 

午後。

 

最初の店へ、国内販売部の職員が来た。

 

返品された黄色い包みを確認する。

 

賞味期限。

 

包装破損。

 

温度表示札。

 

異常なし。

 

「商品に問題はありません」

 

職員が言った。

 

店主は答えなかった。

 

「売れませんでしたか」

 

「売れていた」

 

「では、なぜ返品を」

 

「置けなくなった」

 

職員は棚を見る。

 

場所は空いている。

 

「保管場所でしょうか」

 

「違う」

 

「契約上の問題ですか」

 

「違う」

 

「では」

 

店主は店の扉を見た。

 

外に人はいない。

 

それでも声を落とした。

 

「夜に紙を貼られた」

 

職員は黙った。

 

店主が帳場の下から、折り畳んだ紙を出す。

 

町の金をWILKへ渡すな。

 

署名はない。

 

その次の日には、窓へ泥を塗られた。

 

三日目。

 

常連客の一人が、

 

「あの会社の商品を置くなら、別の店へ行く」

 

と言った。

 

「何人です」

 

販売部職員が尋ねた。

 

「一人だ」

 

「一人だけですか」

 

「口に出したのはな」

 

「売上は」

 

「落ちていない」

 

「では商品を戻せます」

 

店主は職員を見る。

 

「お前は夜、ここにいない」

 

販売部職員は紙へ視線を落とした。

 

「警察へは」

 

「届けた」

 

「何と」

 

「紙を剥がせと言われた」

 

「泥は」

 

「洗えと」

 

「脅迫では」

 

「何をされるとは書いていない」

 

販売部職員は返品票を閉じた。

 

店主は言った。

 

「私はWILKが嫌いなわけではない」

 

「分かっています」

 

「安いし、売れる」

 

「分かっています」

 

「だが店を守らなければならん」

 

「それも分かります」

 

店主は少し苛立った。

 

「全部分かると言うな」

 

販売部職員は口を閉じた。

 

分かる。

 

だが分かったところで、棚へ商品は戻らない。

 

返品された小分けバターは、工場へ戻された。

 

品質検査。

 

再冷却。

 

包装確認。

 

問題なし。

 

食堂用へ回す。

 

ユダヤ人実業家は返品理由の一覧を見た。

 

「地域住民からの要望」

 

ポーランド軍将校が読み上げる。

 

「要望とは何だ」

 

販売部職員が答えた。

 

「店主も詳しくは」

 

「聞かなかったのか」

 

「聞きました」

 

「では」

 

「言いたくないとのことです」

 

元白軍将校が言った。

 

「紙を貼られた」

 

全員が彼を見る。

 

「知っているのか」

 

「守衛から聞いた」

 

ユダヤ人実業家が販売部職員へ尋ねる。

 

「なぜ報告書へ書かなかったのです」

 

「確認できませんでした」

 

「紙は」

 

「店主が持っています」

 

「なら確認できる」

 

元ドイツ軍技術者が口を挟んだ。

 

「商品返品報告へ嫌がらせを混ぜるな。別記録にしろ」

 

ポーランド軍将校が頷く。

 

「治安案件だ」

 

元独立運動家が言った。

 

「分けると関係が見えなくなる」

 

「一緒にすると商品不良に見える」

 

「両方へ書け」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「同じ内容を二度書くのか」

 

ユダヤ人実業家は帳簿を開いた。

 

「商品側には、品質外理由による返品」

 

「治安側には、取扱店への圧力」

 

「販売側には」

 

ポーランド軍将校が嫌な顔をする。

 

「販売側にも必要です」

 

「紙が増える」

 

元白軍将校が言った。

 

「紙は燃える」

 

全員が黙った。

 

元白軍将校は、机の端へ置かれた返品伝票を指した。

 

「写しを作れ」

 

元独立運動家が頷く。

 

「別の場所へ置く」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「全部を一か所へ保管するな」

 

ユダヤ人実業家は記録係へ指示した。

 

本社。

 

食品棟。

 

国外支社の一つ。

 

同じ記録を三か所へ保管する。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「バターの返品一件だぞ」

 

ユダヤ人実業家は答えた。

 

「商品が返品されたことではなく、返品させられた理由を残します」

 

量産型Bizonの後方銃座では、射手用の腰帯が試されていた。

 

幅広い布帯。

 

両端に金具。

 

片手で解除できる。

 

飛行中の揺れへ耐え、射手の腰を支える。

 

だが拘束しすぎない。

 

機体から脱出する時、一動作で外れなければならない。

 

製作したのは、町の馬具工房だった。

 

馬の鞍帯。

 

荷車用の固定帯。

 

農具を馬へ取り付ける革具。

 

長年作ってきた工房である。

 

元ドイツ軍技術者は試作品を引いた。

 

「縫い目が厚い」

 

馬具職人が答えた。

 

「切れないようにした」

 

「射手の腰へ当たる」

 

「布を重ねる」

 

「さらに厚くなる」

 

「革を薄くする」

 

「強度が落ちる」

 

元独立運動家が帯を腰へ巻いた。

 

銃座へ立つ。

 

前後へ体を傾ける。

 

「痛くない」

 

元ドイツ軍技術者が帯を引いた。

 

元独立運動家の体が後ろへ引かれた。

 

「何をする」

 

「荷重試験だ」

 

「言ってからやれ」

 

元白軍将校が銃把を握った。

 

「私も試す」

 

ポーランド軍将校が止める。

 

「撃つな」

 

「銃は空だ」

 

「お前は空でも引金を引く」

 

「動作確認だ」

 

ユダヤ人実業家は馬具工房の見積りを見ていた。

 

「この金具は高いですね」

 

馬具職人が答える。

 

「片手で外れ、勝手に外れず、手袋でも扱える物だ」

 

「量産できますか」

 

「金具屋次第だ」

 

元独立運動家が解除具を引いた。

 

帯が外れる。

 

早い。

 

だが金具が床へ強く当たった。

 

元ドイツ軍技術者が拾い上げる。

 

「毎回落とせば変形する」

 

馬具職人が言った。

 

「紐を付ける」

 

「絡まる」

 

「短くする」

 

「短すぎれば意味がない」

 

「では革の輪で支柱へ留める」

 

元白軍将校が言う。

 

「外した時、帯は射手に残せ」

 

「脱出時に邪魔だ」

 

「機体に残せば再使用できる」

 

ポーランド軍将校が叫んだ。

 

「墜落する時に帯の再使用を考えるな!」

 

元ドイツ軍技術者は金具を何度か動かした。

 

「解除後、支柱側へ残る構造にする」

 

元独立運動家が尋ねた。

 

「射手が外へ出ても」

 

「帯は機体側」

 

「機体が燃えたら」

 

「その時は捨てろ!」

 

馬具職人は、五人を順番に見た。

 

「いつもこうなのか」

 

ポーランド軍将校が答えた。

 

「今日は静かな方だ」

 

試験後、馬具職人は工房へ戻った。

 

店先には新しい札が貼られていた。

 

当工房はWILK専属ではありません。

 

妻が書いたものだった。

 

馬具職人は札を見上げた。

 

「誰に言われた」

 

妻は店の奥から答える。

 

「誰にも」

 

「なら、なぜ貼った」

 

「昨日、客が帰った」

 

「何の客だ」

 

「荷車の革帯」

 

「なぜ」

 

「WILKの仕事をしているなら、別の店へ行くと言った」

 

馬具職人は黙った。

 

工房の中には、Bizon用腰帯の材料が置かれている。

 

幅広布。

 

革。

 

金具。

 

WILKの検査札。

 

「専属ではない」

 

妻が言った。

 

「分かっている」

 

「仕事の二割にもならない」

 

「分かっている」

 

「でも、外からはそう見えない」

 

馬具職人は札へ手を伸ばした。

 

剥がそうとする。

 

妻が止めた。

 

「置いておいて」

 

「なぜだ」

 

「客が戻るかもしれない」

 

「戻らなければ」

 

「仕方ない」

 

彼は札を剥がさなかった。

 

その日の午後。

 

別の客が来た。

 

農家。

 

馬具の修理。

 

札を読む。

 

「本当か」

 

馬具職人が答える。

 

「何が」

 

「専属ではないというのは」

 

「見れば分かる。お前の馬具も直す」

 

「WILKの物と同じ革を使うのか」

 

「用途が違えば厚みも違う」

 

「軍用の余りを使うんじゃないのか」

 

「余りが合えば使う」

 

農家は少し考えた。

 

「安くなるか」

 

「少しは」

 

「なら使え」

 

馬具職人は修理品を受け取った。

 

客はWILKを嫌っているのかもしれない。

 

だが安い革は使う。

 

不買も排斥も、生活費を超えるとは限らない。

 

人の信念は、財布と同じ場所へ入っているわけではなかった。

 

町の商店主たちは、夜に集まった。

 

正式な組合会議ではない。

 

酒場の奥。

 

店を閉めた後。

 

食料品店。

 

靴屋。

 

仕立屋。

 

馬具工房。

 

金物屋。

 

薬局。

 

話題はWILK製品だった。

 

「置くなとは言わん」

 

金物屋が言った。

 

「だが、店先へ大きく出すのはやめた方がいい」

 

食料品店主が答える。

 

「売れる物を奥へ置くのか」

 

「客が言えば出せばよい」

 

「それでは売れない」

 

「売れない方がいいと言っている者もいる」

 

「誰だ」

 

「町の者だ」

 

馬具職人が尋ねた。

 

「町の者とは誰だ」

 

金物屋は杯を持ち上げた。

 

「またその話か」

 

「答えろ」

 

「ここで商売している者だ」

 

「WILKの工員もここで暮らしている」

 

「工員は会社から買えばいい」

 

「町の店を使うなと?」

 

「そうは言っていない」

 

「言っている」

 

薬局の主人が間へ入った。

 

「喧嘩をするために集まったのではない」

 

靴屋が言う。

 

「なら何を決める」

 

誰も最初に言い出さなかった。

 

WILK製品を置く店へ嫌がらせがある。

 

それを避けたい。

 

だが、置くなと決めれば自分たちが圧力をかける側になる。

 

店ごとの判断に任せれば、置いた店だけが標的になる。

 

誰も責任を取りたくない。

 

だから言葉を選ぶ。

 

「地域商品を優先する」

 

「WILKも地域で作っている」

 

「地元資本を優先する」

 

「出資者まで調べるのか」

 

「小規模店を守る」

 

「WILKの製品を売るのも小規模店だ」

 

「外国品を減らす」

 

「粉乳は国内生産だ」

 

どの表現も、実際の標的を完全には隠せない。

 

酒場の隅で、最初にWILK製品を返品した食料品店主が言った。

 

「紙にするな」

 

皆が見る。

 

「決めないのか」

 

「決めれば残る」

 

「口頭ならよいと?」

 

「何も決めなかったことにできる」

 

馬具職人が彼を睨んだ。

 

「それで窓を割られた時、誰も知らなかったと言うのか」

 

食料品店主は答えなかった。

 

しばらくして、薬局の主人が言った。

 

「各店の判断に任せる」

 

無難な結論だった。

 

何も決めていない。

 

だが翌日から、WILK製品を棚の奥へ移す店が増えた。

 

誰かが命じたわけではない。

 

皆が同じように判断しただけだった。

 

国外支社からも、似た報告が届いていた。

 

フランス。

 

WILK製冷蔵設備を導入した肉屋の窓へ、

 

外国の箱で肉を冷やすな。

 

と書かれた。

 

冷蔵箱は現地製造だった。

 

英国。

 

粉乳を扱う商店が、地域団体から仕入れ先の公開を求められた。

 

粉乳原料は英国産だった。

 

ベルギー。

 

WILKの木箱を使った農家が、市場で荷を置く場所を変えられた。

 

木箱は現地の製材所製だった。

 

スウェーデン。

 

現地包装したバターへ、

 

外国会社の商品

 

という札が勝手に付けられた。

 

バターは国内の牛乳から作られていた。

 

ポーランド軍将校は報告を読んだ。

 

「外国とは何だ」

 

ユダヤ人実業家が答える。

 

「気に入らない物へ付ける名前でしょう」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「製造地を書けばよい」

 

「既に書いてあります」

 

「原料地も」

 

「書いてあります」

 

「では読まないのか」

 

元独立運動家が答えた。

 

「読む必要がないのだろう」

 

元白軍将校は世界地図を見る。

 

黄色い印。

 

取扱停止。

 

赤い印。

 

窓破損。

 

白い印。

 

取引先への警告。

 

「同じ者が回っているのか」

 

ポーランド軍将校が尋ねる。

 

ユダヤ人実業家は首を振った。

 

「国が違います」

 

「団体が繋がっている」

 

「一部はあるでしょう」

 

「なら調べろ」

 

「全部ではありません」

 

元白軍将校が地図へ指を置いた。

 

「同じ命令がないのに、同じ動きをするのか」

 

元独立運動家が答えた。

 

「同じ不満がある」

 

元ドイツ軍技術者は報告書をまとめた。

 

「原因が同じなら、故障も似る」

 

ユダヤ人実業家が彼を見る。

 

「人間を機械に例えるなと言われますよ」

 

「まだ言っていない」

 

ポーランド軍将校が顔をしかめた。

 

「言うつもりだった」

 

WILK内部でも、視線が変わり始めていた。

 

食堂。

 

組立棟。

 

倉庫。

 

工員同士の会話。

 

誰の紹介で入った。

 

どの工房から来た。

 

誰が短期雇用から正式採用へ移った。

 

何語を話す。

 

どの教会へ行く。

 

どの通りに住む。

 

以前から知られていたことが、別の意味を持ち始める。

 

木箱部門へ新しく入った男が、休憩中に尋ねられた。

 

「誰の紹介だ」

 

「登録からだ」

 

「抽選か」

 

「違う。木工経験で呼ばれた」

 

「どこの木工所」

 

「南の村だ」

 

「町の者ではないのか」

 

男は手を止めた。

 

「ここへ越してきた」

 

「いつ」

 

「二年前」

 

「二年で町の者か」

 

隣にいた年配の旋盤工が言った。

 

「何年ならよい」

 

質問した工員は笑った。

 

「別に、何でもない」

 

「なら聞くな」

 

「会話だろう」

 

「相手が答えたくないなら会話ではない」

 

若い工員が言った。

 

「爺さん、WILKへ入ってから偉そうだな」

 

旋盤工は彼を見る。

 

「三日の短期からだ」

 

「今は正式だ」

 

「まだ試用だ」

 

「それでもパンは二個もらう」

 

空気が止まった。

 

若い工員自身も、言った後で気付いた。

 

何を口にしたか。

 

「冗談だ」

 

誰も笑わなかった。

 

旋盤工は作業台へ戻った。

 

それ以上は言わない。

 

だが、その日から休憩時間に若い工員の隣へ座らなくなった。

 

殴り合いもない。

 

報告書もない。

 

ただ一つ、日常から席が減った。

 

夕方。

 

人事部へ匿名の紙が届いた。

 

採用者の出身地を公開せよ。

 

二枚目。

 

外国人および外国人の紹介者を先に雇うな。

 

三枚目。

 

地元出身者比率を示せ。

 

ポーランド軍将校が紙を机へ並べた。

 

「地元出身者比率は出せるか」

 

人事担当者が答えた。

 

「地元の定義がありません」

 

「出生地」

 

「隣の村は」

 

「含める」

 

「隣県は」

 

「含めない」

 

「十年前から住んでいる者は」

 

「含める」

 

「一年前は」

 

ポーランド軍将校が黙る。

 

元独立運動家が言った。

 

「線を引けば、その外側ができる」

 

元白軍将校が答える。

 

「線がなければ、好きに外へ出される」

 

元ドイツ軍技術者は採用票を見た。

 

「技能だけで選べ」

 

人事担当者が苦い顔をした。

 

「技能が同じ者が多すぎます」

 

ユダヤ人実業家が尋ねる。

 

「今は何で選んでいます」

 

「経験。欠員。通勤距離。家族状況。健康。教育の必要時間。配属先の意見」

 

「紹介は」

 

「参考にはします」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「紹介を廃止するか」

 

元独立運動家が首を振る。

 

「知らない技能を見つける時に要る」

 

「では不公平と言われる」

 

「何をしても言われる」

 

元白軍将校が紙を一枚取った。

 

「出身地を公開すれば、次は何を公開させる」

 

誰も答えなかった。

 

宗教。

 

名字。

 

母語。

 

家族。

 

友人。

 

何を公開しても、その次がある。

 

ユダヤ人実業家は三枚を保管袋へ入れた。

 

「公開しません」

 

ポーランド軍将校が確認する。

 

「理由は」

 

「採用に必要ない情報まで、外部へ渡す理由がありません」

 

「地元雇用を示せと言われる」

 

「雇用総数は示せます」

 

「出身地は」

 

「示しません」

 

元ドイツ軍技術者が頷いた。

 

「機体の部品表にも、職人の出生地は書かない」

 

元白軍将校が言った。

 

「敵地生まれでも、ねじを締められればよい」

 

ポーランド軍将校が睨む。

 

「言い方を選べ」

 

その夜、町の掲示板に新しい紙が貼られた。

 

以前の「誰の町か」という投書の隣。

 

今度は短い。

 

買う者も、売る者も、雇う者も覚えておけ。

 

脅迫とは書いていない。

 

何をするとも書いていない。

 

ただ覚えておけ。

 

その言葉だけ。

 

翌朝、食料品店主は自分の店先を確認した。

 

異常なし。

 

馬具職人も窓を見る。

 

異常なし。

 

薬局。

 

金物屋。

 

染色工房。

 

どこも壊されていない。

 

それでも皆、最初に窓を見た。

 

掲示板の紙は警官が剥がした。

 

理由。

 

無許可掲示。

 

内容については記録されなかった。

 

量産型Bizonの腰帯は、飛行試験へ回された。

 

後方銃座。

 

七・九二粍単装。

 

射手は新しい帯を腰へ巻く。

 

発動機が始動する。

 

離陸。

 

高度を上げる。

 

標的機が後方へ回る。

 

射手は銃架を振った。

 

帯が腰を支える。

 

以前より上体が安定する。

 

十発。

 

標的布へ三発。

 

旋回。

 

さらに五発。

 

支柱に異常なし。

 

帯の縫い目も切れない。

 

ポーランド軍将校が無線で尋ねた。

 

「解除できるか」

 

射手が片手を下げる。

 

金具を引く。

 

帯が外れた。

 

支柱側へ残る。

 

「解除良好」

 

元独立運動家が帯を回収した。

 

「使える」

 

元ドイツ軍技術者が縫い目を見る。

 

「一部が擦れている」

 

「交換するか」

 

「まだ早い。何回で切れるかを見る」

 

ユダヤ人実業家が尋ねる。

 

「量産は」

 

「試験を続ける」

 

元白軍将校が言った。

 

「戦場では試験回数を待たない」

 

「今は戦場ではない」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

元白軍将校は窓の外を見た。

 

町。

 

工場。

 

門前。

 

掲示板の前へ集まる人々。

 

「まだな」

 

機内で、その言葉を聞いた者はいなかった。

 

馬具工房へ試験結果が届いた。

 

改修指示。

 

帯の端を補強。

 

金具周辺の布を二重。

 

解除具の形を少し大きく。

 

手袋でも扱いやすく。

 

同時に、別の紙も届いた。

 

署名なし。

 

軍の犬へ革を売るな。

 

馬具職人は二枚を作業台へ並べた。

 

片方には寸法。

 

材料。

 

縫い方。

 

試験結果。

 

もう片方には一行。

 

妻が言った。

 

「どうする」

 

馬具職人は改修指示を取った。

 

「帯を直す」

 

「もう一枚は」

 

「何も作れん」

 

紙を捨てようとした。

 

だが手が止まる。

 

以前、WILKの者が言っていた。

 

壊れた物を隠すな。

 

彼は匿名の紙を引き出しへ入れた。

 

妻が尋ねる。

 

「残すの」

 

「次に何かあった時、最初ではなかったと分かる」

 

それだけ言って、帯の縫い目をほどき始めた。

 

週末。

 

町の通りはいつもより静かだった。

 

商店は開いている。

 

市場も立つ。

 

子供も歩く。

 

教会の鐘も鳴る。

 

ただ、人々は店先の品を以前より長く見る。

 

値段だけではない。

 

どこの製品か。

 

誰が売っているか。

 

誰が買ったか。

 

向かいの店主が見ていないか。

 

隣人に何と思われるか。

 

ある女がWILKの粉乳を手に取った。

 

棚の奥から出された小さな包み。

 

家には幼い子供がいる。

 

医者は乳を補うよう言った。

 

女は店主へ金を渡す。

 

包みを買い物籠の底へ入れた。

 

上から豆の袋を載せる。

 

隠した。

 

店を出る。

 

通りの向こうに知人がいた。

 

挨拶する。

 

知人も挨拶を返した。

 

二人とも、相手の籠を一度見た。

 

何も言わない。

 

すれ違う。

 

その日の夕方、掲示板にはまた紙が貼られた。

 

我々は見ている。

 

誰が。

 

誰を。

 

何のために。

 

書かれていない。

 

だが、読む者は皆、自分なりの答えを持った。

 

WILKの事務室。

 

ユダヤ人実業家は、今週届いた報告を束ねた。

 

取扱停止。

 

返品。

 

棚移動。

 

窓への泥。

 

匿名投書。

 

採用情報公開要求。

 

馬具工房への警告。

 

国外支社の不買。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「まだ大きな被害はない」

 

元ドイツ軍技術者が答えた。

 

「小さな異常が多すぎる」

 

元独立運動家は窓を見る。

 

「皆、互いを見るようになった」

 

元白軍将校が言った。

 

「敵を探している」

 

ポーランド軍将校が否定する。

 

「敵とは限らない」

 

「なら何だ」

 

「裏切る者だと思っているのだろう」

 

元白軍将校は少し考えた。

 

「敵より悪い」

 

ユダヤ人実業家は報告書の表紙へ題名を書いた。

 

地域取引環境悪化記録。

 

元ドイツ軍技術者が覗き込む。

 

「曖昧だ」

 

「暴動ではありません」

 

「まだな」

 

今度は全員に聞こえた。

 

部屋が静かになる。

 

外では、Bizonの発動機試験が始まった。

 

二基の発動機音。

 

力強い。

 

規則正しい。

 

町のどこからでも聞こえる。

 

以前、その音は仕事がある証拠だった。

 

今は、人によって別の意味に聞こえる。

 

希望。

 

繁栄。

 

支配。

 

軍備。

 

不公平。

 

敵。

 

同じ音なのに。

 

夜。

 

掲示板の前に、色褪せた服の男が立っていた。

 

派手な帽子。

 

片方だけ長い靴。

 

頬には白い粉。

 

口元には赤い線。

 

道化師だった。

 

誰も彼がいつ町へ来たのか知らなかった。

 

男は貼られた紙を読んだ。

 

我々は見ている。

 

道化師は首を傾げた。

 

それから自分の帽子を外し、地面へ逆さに置いた。

 

小銭は入っていない。

 

通りには誰もいなかった。

 

彼は軽く足を鳴らした。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

そして小さな声で歌った。

 

見ている目玉は 誰の目だ。

数える指先 誰の指だ。

パンを隠した 籠の底。

隠したことまで 誰かが見る。

 

窓の鎧戸が一つ、わずかに開いた。

 

道化師は笑った。

 

買うなと言われりゃ 買いたくなる。

買えば隣が 敵になる。

売るなと言われりゃ 腹が減る。

腹が減ったら 誰を食う。

 

鎧戸が閉じた。

 

道化師は帽子を拾った。

 

小銭はない。

 

それでも深く礼をした。

 

「今夜のお客様は、実に静かでございます」

 

返事はなかった。

 

彼は暗い通りへ歩いていった。

 

掲示板の紙だけが残る。

 

我々は見ている。

 

その下に、誰かが炭で一行を足していた。

 

見られている者は、やがて見る側へ回る。

 

筆跡は、町のどの記録とも一致しなかった。

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