休暇とは、仕事をしない日のことである。
より厳密に定義するなら、仕事上の知人に遭遇せず、緊急連絡を受けず、専門的判断を求められず、自分の意思だけで帰宅時刻を決定できる日のことだ。
王都警備隊の服務規程にも、民間結界技師組合の就業規則にも、おそらく似たようなことが書かれている。少なくとも、元同僚に無料の招待券を押しつけられ、王立博物館の設備を無意識に点検しながら歩く日を休暇とは呼ばないはずだ。
にもかかわらず、俺は入館して三十分もたたないうちに、非常口を三つ、警備上の死角を二つ、規格外の封印を一つ見つけていた。
職業病というものは、カレンダーを読まないらしい。
「フェリクス。さっきから展示品ではなく出口ばかり見ているけれど、何か興味深いものでもあるの?」
「自由があります」
俺が答えると、レオノーラ・ヴェルネは片方の眉を上げた。呆れたのではない。
俺の返答が、彼女の予想から一語も外れなかったときの顔だ。九年も同じ人間を観察しておいて、いまだに的中を喜ぶのはやめてほしい。こちらは鑑定用の試料ではない。
王立博物館の大展示室には、休日を文化的に浪費しようとする王都市民が詰め込まれていた。磨き上げられた大理石の床。天井を支える十二本の白柱。王国の歴史を描いた色鮮やかな壁画。見事な建築だった。――少なくとも、あれを清掃する職員の人生について考えなければ。
そして、その荘厳さを台無しにする人数の見物客。
人が多い。
ひたすらに多い。
これだけ集めるなら、文化的啓蒙より先に換気設備と避難経路の再設計を検討すべきだ。
人類は美術品を眺めるとき、呼吸をやめてくれるわけではない。
「招待券をもらったときは、悪くない顔をしていたでしょう」
「招待券が無料だったからです。無料と快適は両立しないことが、本日証明されました」
レオノーラは俺の返答を聞き流し、展示室の中央へ視線を向けた。追及を諦めたわけではない。次の証拠を確認しているだけだ。
「展示目録を三日前から読んでいたのは?」
「業務上の習慣です」
実際、保存状態や封印方式を事前に把握しておくのは悪いことではない。今日が業務ではないという一点を除けば、説明としては十分に筋が通っている。
「昨夜、
「寝つきが悪かったので」
「論文を読めば眠れると?」
「内容によります」
今回は最後まで読み終えたが、それは睡眠導入の効果がなかったというだけで、宝石へ興味があったことの証明にはならない。
少なくとも俺の中では。
「今朝、髪を整えるのに普段の倍の時間をかけていたのは?」
「それは展示と関係ありません」
そこで初めて、レオノーラがこちらを見た。口元に笑みはない。だが、反論の余地がなくなったと判断したときの目をしている。
「そう」
レオノーラはそれ以上追及しなかった。九年も付き合っていれば、相手が撤退を選んだのか、単に必要な証拠を集め終えたのかくらいは分かる。
今回は後者だ。
彼女は、自分の推理が完成すると追及をやめる。相手が自白するかどうかには、それほど興味がない。正解を得たあとで答え合わせを要求するほど、他人の良心を信用していないからだ。
――――
レオノーラは元王立鑑定院の主任調査官である。
宝石魔術、古代法制、王室財産の来歴に関する知識では、おそらく王都で五本の指に入る。残りの四人のうち、二人は彼女の元上司で、もう二人は彼女と口論した翌月に地方へ転属した。
本人は因果関係を否定している。鑑定院も公式には否定している。
地方へ送られた二人がどう考えているかは、聞かないほうが平和だろう。
俺は元王都警備隊の結界技師で、現在は独立して、魔法工芸品の保存修復や封印設備の検査を請け負っている。
レオノーラが理屈を組み立て、俺がそれが現実に成立するかを確かめる。
彼女が「こうすれば可能よ」と言い、俺が「理論上は可能ですが、実行した人間は腕を二本失います」と補足する。
九年前から、おおむねその分担だった。
――――
「そろそろ公開時刻ね」
レオノーラが展示室の中央へ視線を向ける。
そこには、黒い
美しい術式だった。
美しい術式というものは、大抵、設計者の執念と保守担当者の睡眠時間を材料にしている。金色の光をありがたがる見物客のうち、半年ごとに床板を剥がして術式核を交換する職員のことまで考える者は、まずいない。
そして、ケースの中央には一粒の青い宝石が置かれていた。
王妃エルシアの青涙。
三百年前の大飢饉の際、私財のほとんどを売り払い、民の食料へ換えた王妃が、最後まで手放さなかったとされる蒼玉である。現在の保管者はヴァルク伯爵家。
宝石内部には、羽を広げた鷹の紋章が青白く浮かんでいた。
写真や精密画では何度も見ている。だが、実物の光は紙の上より深かった。
石の中心で、幾重もの青が重なっている。濃紺の底に淡い光が沈み、その奥で鷹の輪郭だけが静かに燃えていた。
なるほど。論文が何冊も書かれるわけだ。
――――
「名紋石を直接見るのは初めて?」
レオノーラが尋ねる。
「実物を見るのは初めてです。複製品なら、警備隊の講習で扱いました」
「どうだった?」
「講師が『所有者を偽ることのできない、高潔なる石だ』と説明した直後、教材管理簿の名義が三代前の担当者になっていることが発覚しました」
レオノーラは青涙から俺へ視線を戻した。どこまで冗談なのかを測るような目だったが、残念ながらすべて事実である。
「それは、ずいぶんと……教育的ね」
「ええ。石の真贋を疑う前に、まず身内の書類仕事を疑うべきだと教わりました」
「名紋石についての講習だったのよね?」
「管理制度については、非常に実戦的でした」
――――
名紋石とは、法的な所有者の紋章を内部に映し出す魔法宝石である。手に持った者ではない。保管している者でもない。
王国の法と正式な儀礼によって、その石を所有すると認められた者を示す。
つまり、泥棒が盗んで懐へ入れても、宝石は泥棒の紋章を浮かべない。石そのものに王国の財産台帳が組み込まれているようなものだ。
盗品管理には便利である。一方、相続争いの席へ持ち込めば、親族関係を石ひとつで焼け野原にできる。
平和的な宝石とは言い難い。
「封印はどう?」
レオノーラが小声で尋ねた。
「俺は今、休暇中です」
「感想を聞いただけよ、技師殿」
この女が俺を「技師殿」と呼ぶときは、すでに何かを調べさせるつもりでいる。
普通の人間なら、頼み事をする前に相手の都合を尋ねる。
レオノーラの場合は、相手の能力を確認し、必要な時間を勝手に計算し、断られた場合の代替案を潰してから声をかける。非常に効率的である。
頼まれる側の感情を計算から除けば。
「王家の大封印です。展示用としては過剰ですね」
「防犯性能が高い?」
「高いというより、用途が違います。これは本来、王室の宝物庫や儀礼室に使うものです。一時貸与品の展示なら、博物館用の封印で十分でしょう」
「予算が余ったのかしら」
「王立組織が年度末でもないのに予算を余らせると?」
「愚問だったわ」
――――
展示ケースの手前には、銀色の銘板が立っていた。
――王妃エルシアの青涙。
――ヴァルク伯爵家より一時貸与。
その横に、不自然な二本の留め金が突き出している。何か小さな板か金具が取り外された跡だった。俺は隣の展示品へ目を向けた。
古代王の金杯。その銘板には、所有者である神殿の紋章を刻んだ小さな金属印が取り付けられている。
反対側の聖剣にも、同様の印がある。
青涙にだけない。偶然かもしれない。
だが、設備や規則の異常というものは、最初から大声で名乗ってはくれない。たいていは、金具が一つ足りないとか、帳簿の数字が一つずれているとか、誰も気にしない小さな顔をして待っている。
「レオノーラ」
「見えているわ」
彼女はケースではなく、留め金を見ていた。
さすが、と褒めるほどのことではない。俺たちは九年間、同じ現場を別の方向から見ることで仕事をしてきた。
俺が構造を見る。
彼女が意味を見る。
どちらか一方だけなら、単なる不備で終わる。二人とも同じ箇所で足を止めたときは、大抵、誰かの一日が台無しになる。
今回は、それが俺の休暇らしい。
――――
展示室の照明が一段暗くなった。正午の鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
展示室の正面に立った館長が、両腕を広げた。
「ご来場の皆様。本日ここに、王国史に名高き至宝、王妃エルシアの青涙を――」
四度目の鐘が響いた。
青涙の内部で、鷹の紋章が揺らいだ。最初は、照明が反射しただけに見えた。
青白い線がほどける。
羽が崩れ、胴が潰れ、細い光の糸となって宝石の中心へ吸い込まれていく。
周囲から声が上がった。新たな線が生まれる。三本の尖塔。その上に並ぶ五つの小さな宝玉。
王家の冠だった。
展示室から音が消えた。正確には、数百人が同時に息を止めた結果、鐘の音だけが取り残された。
「閉じろ!」
叫んだのは、展示ケースの正面にいた老紳士だった。濃紺の礼服。銀色の髪。左胸には、翼を広げた鷹の紋章。ヴァルク伯爵だ。
「展示を中止しろ! 館内の扉をすべて封鎖せよ!」
館長が青ざめた顔で駆け寄る。
「伯爵閣下、いったい何を――」
「盗まれたのだ!」
伯爵は震える指で、ケースの中の宝石を指した。
「我が家の青涙が盗まれた。そこにある石は偽物だ!」
一瞬の沈黙の後、展示室が音で爆発した。
叫ぶ者。
出口へ殺到する者。
何が起きたか理解していないのに、隣人が悲鳴を上げたという理由だけで悲鳴を上げる者。
集団というものは、危機に際して判断力を人数分だけ増やすのではなく、全員で一つの混乱を共有するらしい。
警備兵たちが扉を閉ざし、封鎖結界を起動させる。入口の上を赤い光が走った。
俺は反射的に術式の波形を目で追った。
第一層、閉鎖。
第二層、通報。
第三層、強制侵入への拘束。
異常なし。
正常に、完全封鎖された。仕事として見れば結構なことだ。帰宅予定のある客として見れば最悪である。
――――
「帰りの馬車が……」
「事件が起きたのよ」
「馬車は待ってくれません」
「宝石が盗まれたのよ」
「見れば分かります。盗まれた宝石が、非常に堂々とケースの中央に置かれている」
レオノーラは答えなかった。彼女が冗談を無視するときは二種類ある。面白くなかったときと、すでに別のものを見つけているときだ。
九年の経験から言えば、今回は後者だった。
彼女の視線の先を追う。
ヴァルク伯爵は宝石を見ていなかった。壁に設置された大時計を見上げている。
正確には、その下に吊るされた鐘の作動盤を。
家宝が偽物へ交換されたと信じた人間が、最初に確認するものは普通、石かケースだ。時計ではない。
「フェリクス」
レオノーラが俺を呼んだ。苗字でも、技師殿でもなかった。
普段の無茶を押しつけるだけなら、彼女は「技師殿」と呼ぶ。本当に重要なことを頼むときだけ、名前を使う。
本人が意識しているかは知らない。九年かけてそんな規則を見つけた俺も、あまり他人のことは言えない。
だから、俺も冗談をやめた。
「何を調べますか、主任」
レオノーラは、わずかに笑った。退職して五年になるのに、俺がそう呼ぶときだけ、彼女は昔と同じ顔をする。鑑定院の廊下で、証拠品を抱えたまま次の現場を指示していた頃の顔だ。
「まず、ケースが本当に一度も開いていないか確認して」
「警備責任者の許可が必要です」
「取ってくるわ」
「封印へ触れるなら、館長の立ち会いも」
「連れてくる」
「検査器具は工房です」
「あなたの鞄の底」
俺は黙って彼女を見た。
レオノーラは涼しい顔をしている。
「今朝、入れておいたの」
「なぜ?」
「念のため」
「博物館へ来るのに、封印検査器具が必要になる可能性を想定したんですか?」
「必要になったでしょう?」
結果が正しければ手順の異常は許容される。それがレオノーラ・ヴェルネの思想である。九年前から、一切改善していない。改善していないどころか、俺が毎回どうにかしてしまったせいで、成功例として強化されている疑いすらある。
俺は肩から下げていた鞄を床へ置いた。底を探ると、確かに見慣れた革張りの器具箱が入っている。重量に気づかなかった自分にも腹が立った。彼女に出し抜かれたことより、結界技師として鞄の重量変化を見落としたことのほうが深刻である。
「一時間かかります」
「十分以内で」
「通常なら半日かかる検査です」
「あなたなら十分」
彼女の「あなたなら」は賞賛ではない。
必要な成果を、指定時間内に提出できるという性能表示に近い。九年間、その表示を更新し続けた責任の一端が俺にあることは認める。だが、人間を優秀な器具として評価しながら酷使する行為が、親愛の表現として許されるわけではない。
たぶん。
「……人間を褒めながら酷使する技術だけは、鑑定院時代より進歩しましたね」
「私はあなたの能力を正確に評価しているだけよ」
「評価後の取り扱いが雑です」
レオノーラは人混みの中へ歩き出した。数歩進んだところで足を止め、こちらを振り返る。
「それから、フェリクス」
人混みへ向かいかけたレオノーラが、二歩目で足を止めた。まだ条件を追加するつもりらしい。彼女の頼み事は、後から必要事項が増える点で、王立組織の契約書によく似ている。
「まだ何か?」
「事件が解決したら、夕食は私が払う」
ようやく労働に対する補償の話が出た。金額も店も決まっていないが、口頭契約としては記録しておく価値がある。
「証拠として記録しました」
「閉館までに解決したら、ね」
契約条件が追加された。予想どおりである。
俺は展示室の大時計を見上げた。通常なら半日かかる封印検査を十分で終わらせ、そのまま盗難事件まで解決しろという意味らしい。夕食一回で要求してよい仕事量ではない。
「期限を付けるなら、前払いを要求します」
「働いて、先生」
レオノーラが俺を「先生」と呼ぶときは、長い説明をたしなめるときか、説明する暇すら与えないときだ。
今回は後者だった。
仕方なく器具箱を抱え、展示ケースへ向かう。仕方なく、である。
――――
青涙は何事もなかったかのように、王家の冠を浮かべていた。石はそこにある。封印も破られていない。だが、ヴァルク伯爵は盗まれたと言った。そして盗難を訴える直前、宝石ではなく時計を見た。
人間は、自分が最も恐れているものを無意識に見る。伯爵が恐れていたのは、偽物の宝石ではない。
時間だった。
俺はケースの前にしゃがみ込み、金色の封蝋へ検査鏡を近づけた。
休日は終わった。
少なくとも、夕食代を回収するまでは。
誤字・脱字などがありましたら、誤字報告から教えていただけるとありがたいです。