青涙は王家を選ばない   作:もしかして俺が

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あと6話で完結できそうな機運が高まってきました。


第三話 伯爵は石より時計を見る

 王立博物館の鐘楼(しょうろう)には、階段が百八十七段ある。

 

 数えたのは暇だったからではない。

 

 同じ苦痛を二度味わうことになった場合に備え、絶望の総量をあらかじめ把握しておくためだ。痛みは数値化しても減らないが、少なくとも「まだ半分も残っているのか」という種類の不意打ちは避けられる。

 

「元警備隊の方が、その程度で息を切らすんですか」

 

 数段先を歩く若い警備兵が振り返った。

 

「元、です。現役時代の体力を、退職後も無償で維持する義務は契約書にありません」

「まだ半分ですよ」

「今の発言で、あなたに対する心証が著しく悪化しました」

 

 警備兵は笑った。

 

 笑える立場の人間は気楽でよい。

 

 鐘楼へ続く螺旋階段は、建築家が人類の膝へ抱いた憎悪を、石材によって表現したような構造だった。幅は狭い。傾斜は急。窓から入り込む風は遠慮なく埃を巻き上げ、手すりは握るたびに冷たい。

 

 鐘を高い場所へ置く必要性は理解している。しかし、理解と納得は別問題だ。

 

 ようやく最上階へたどり着くと、巨大な青銅鐘と、それを動かす魔導機構が視界へ入った。

 

 壁一面を占める大小の歯車。一定の間隔で左右へ揺れる銀の振り子。内部を白い光が上下する時刻計測用の水晶柱。そこから伸びた十二本の導線が床や壁を通り、館内各所に設置された小鐘へ接続されている。

 

 古い装置だった。

 

 だが、古いから粗雑というわけではない。歯車の摩耗は均一で、導線には一本ずつ点検日を記した札が付けられている。可動部には余計な油が残っておらず、工具も大きさ順に並べられていた。

 

 この管理官とは話が通じる。少なくとも、設備については。

 

 装置の前には、白髪の老人が一人座っていた。背中は曲がっているが、階段を毎日上り下りしているせいか、肩と腕には老人らしからぬ厚みがある。そして、目は警備兵より鋭い。

 

「時計管理官のハウゼンです」

 

 若い警備兵が紹介する。

 

「こちらは封印技師のアーデン殿。正午の鐘について確認したいそうです」

「鐘なら鳴った」

 

 ハウゼンは椅子に座ったまま答えた。

 

「館中の人間が聞いている。わざわざ百八十七段も登って確かめることではない」

「同意します」

「では帰れ」

 

 案内役の警備兵が、笑うべきか止めるべきか迷った顔をした。

 

「時刻にずれはありませんでしたか」

 

 俺の問いを聞き、老人は俺を見た。設備を疑った無知な部外者を見る目ではない。自分と同じ技術職でありながら、あえて失礼な質問をする人間を値踏みする目だった。

 

「ない」

「どの程度の誤差で?」

「一日につき一秒以内」

 

 相当な精度だ。王都の公共時計でも、一日に数秒はずれる。魔力炉の温度。外気の変化。鐘の重量。歯車の摩耗。導線を流れる魔力の減衰。

 

 装置が大きくなれば、誤差の原因も増える。複雑な機械を正確に動かすというのは、誤差を消すことではない。無数の小さな誤差を把握し、互いに打ち消すよう管理し続けることだ。

 

「今朝も調整しましたか?」

「毎朝している」

「午前九時の開館を知らせる鐘も、この装置から?」

「そうだ。午前九時に九回。正午に十二回」

 

 青涙は、博物館が開館した午前九時から一般公開されていた。紋章が変わったのは、その三時間後。正午の鐘が鳴り始めた直後だ。

 

「今日の正午の鐘は、予定より早くも遅くもなかったですか?」

「私の時計を疑うのか」

 

 老人の声が一段低くなった。

 

 技術者に、管理している装置の精度を尋ねると、たいていこうなる。こちらも同業なので気持ちは分かる。

 

 自分の仕事を疑われて不快なのではない。点検記録も見ずに、まず装置の故障を疑われるのが不快なのだ。

 

「疑っているのは人間です。時計ではありません」

「なら、なお悪い」

 

 正しい。

 

「今朝、この装置について誰かに尋ねられませんでしたか。午前九時から正午までの間隔や、鐘が遅れる可能性について」

 

 ハウゼンの眉が動いた。時計の精度について尋ねられたときとは違う反応だった。

 

「ヴァルク伯爵が来た」

「何時ごろですか?」

「開館前だ。博物館の案内役を連れていた」

「何を聞かれました?」

「正午の鐘は正確に鳴るか、と」

 

 老人は不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「王妃の宝石を公開する記念すべき日だから、時刻どおりに鳴らしてほしいと言われた。百年以上、時刻どおりに鳴らしてきた鐘へ、貴族が一言命じれば精度が上がるとでも思ったのだろう」

 

 管理している本人にとっては、王妃の宝石より時計の精度のほうが重要らしい。好感が持てる。

 

「伯爵は、午前九時の鐘についても?」

「確実に九時に鳴ったかと聞かれた」

 

 偶然ではない。伯爵は、青涙が公開された時刻と、そこから正午までに経過する時間を確認していた。

 

「ほかには?」

 

 ハウゼンは顎へ手を当て、記憶を探るように視線を上げた。

 

「正午の鐘を止められるか、と聞かれたな」

「鐘だけを?」

「いや。時刻機構そのものを、正午になる前に止められないかと」

 

 鐘が正確に鳴るかを確認するだけなら、記念展示を気にする伯爵の質問として理解できる。だが、止める方法まで尋ねたとなれば、意味が変わってくる。鐘そのものが法令の条件ではない。だが、王室施設内で何時に三時間が経過したかを証明するのは、鐘楼の作動記録だ。正午の鐘を止めれば、少なくとも成立時刻について争う余地は作れる。

 

「何と答えました?」

「鐘を止めるには、王宮の許可証と鐘楼管理局の承認、それから私を階段から投げ落とせるだけの腕力が必要だと」

 

 ハウゼンは平然と言った。冗談だったのか、実際に最後の手段として想定していたのか、表情からは判断できない。

 

「最後だけ、正式な手続きではありませんね」

「その中では最も難しい条件だ」

 

 百八十七段を毎日上り下りしている老人の足腰を見れば、否定はしにくかった。

 

――――

 

 俺は魔導機構へ近づいた。

 

 水晶柱の側面には、鐘を作動させた時刻が小さな光点として保存されている。午前九時と正午。どちらも予定時刻と一致していた。外部から操作された痕跡もない。

 

「この記録を証拠として借ります」

「返せ」

「複写だけです」

「ならよい」

 

 技術者は、装置に関しては偏屈だが、記録に関しては協力的であることが多い。記録こそが、自分の仕事に間違いがなかったことを証明するからだ。

 

 人間の記憶は言い訳に使われる。

 

 整備記録は反論に使われる。

 

 俺は作動記録を紙へ写し取り、ハウゼンに署名をもらった。

 

――――

 

 階段を下りながら、俺は伯爵の行動を順番に並べ直した。

 

 開館前に鐘楼を訪れた。

 

 午前九時の鐘が正確に鳴ったか確認した。

 

 正午の鐘を止められないか尋ねた。

 

 そして青涙の紋章が変わった瞬間、石ではなく時計を見た。

 

 伯爵は、正午を待っていた可能性が高い。少なくとも、正午に何かが起こり得ることを知っていた可能性は高い。

 

 青涙が搬入前に偽物へ交換されたと考えていたのなら、公開から三時間という経過時間は関係ない。偽物が正午にだけ正体を現す特殊な仕掛けでもない限りは。

 

 少なくとも俺には、伯爵の行動は魔術師より法律家の動きに見えた。石の性質ではなく、開始時刻と経過時間を気にしている。それは魔法の発動条件というより、契約や法令の成立条件を確認する動きだった。

 

「本当に、宝石は盗まれていないんですか」

 

 前を歩く警備兵が尋ねた。

 

「少なくとも、展示中にケースから盗まれた形跡はありません」

「では、伯爵は嘘を?」

「人間は、自分の発言をすべて嘘にするほど勤勉ではありません」

「どういう意味です?」

「普通は、本当のことへ必要な分だけ嘘を混ぜます。そのほうが覚えやすく、見破られにくい」

「伯爵の言葉にも、本当の部分があるということですか?」

「はい。本人にとっては、何かを奪われたのでしょう」

 

 物ではない何かを。

 

 名誉。

 

 権利。

 

 金。

 

 あるいは、それらすべて。

 

 もっとも貴族の場合、この三つを明確に区別するほうが難しい。

 

――――

 

 展示室の隣にある応接室へ戻ると、扉の前にレオノーラが立っていた。

 

「遅かったわね」

「百八十七段ありました」

「それは大変」

「声に感情が一切含まれていません」

「無事に下りてきた人へ、深刻な同情を示す必要がある?」

 

 ない。

 

 だが、九年間階段を上らされ続けた人間には、形式的な配慮くらいあってもよいと思う。

 

 廊下の窓際には、伯爵付きの従者が二人待機していた。扉の向こうにヴァルク伯爵がいるらしい。

 

「そちらは?」

「伯爵は青涙が偽物だと主張している。でも、現物の再鑑定には同意しない」

「偽物なら調べさせればよいでしょう」

「ケースを開けば、すり替えの証拠が失われる可能性がある、と」

「合理的ではあります」

 

 少なくとも、表面上は。

 

「同時に、王室財産院へ『盗難による帰属手続の停止』を申請するよう、館長へ要求している」

 

 俺はレオノーラを見た。

 

「手続きが早すぎませんか」

「ええ。宝石を奪われた直後の人間としては、とても落ち着いている」

「叫んでいましたが」

「声量と冷静さは両立するわ。あなたも報酬を値切られたときは、理路整然と怒鳴るでしょう」

「不当に引き下げられた報酬を、適正価格へ戻すための交渉です」

「そういうところよ」

 

 何が「そういうところ」なのか説明する気はないらしい。

 

 レオノーラが扉を開けた。応接室には、ヴァルク伯爵と館長ベルク、それから記録係の職員がいた。伯爵は長椅子へ腰掛け、杖の頭を両手で押さえている。

 

 指先に力が入っている。

 

 展示室では激昂していたが、今は怒りを見せるべき場面と、抑えるべき場面を選び直したらしい。

 

「検査は終わったのか」

 

 俺を見るなり尋ねた。

 

「展示ケースは、青涙が搬入された四日前から一度も開いていません」

「ならば、搬入前に交換されていたのだ」

「青涙の精密記録と照合する必要があります」

「その前に盗難として処理せよ」

「なぜ急ぐのです?」

 

 レオノーラが尋ねた。

 

「王家の紋章が浮かんだ石を放置できるか!」

「石が偽物なら、浮かんでいる王家の紋章にも法的な意味はないでしょう」

 

 伯爵の指へ、さらに力が入った。

 

「王家の紋章を偽造したこと自体が大罪だ」

「では、まず偽物だと証明する必要があります」

「私は三百年、青涙を守ってきた一族の当主だ。あれが我が家の石でないことくらい分かる」

「どこが違うのです?」

 

 伯爵は答えなかった。分からないのではない。答えれば、自分の主張の弱さが明らかになると分かっている沈黙だった。

 

 レオノーラは机の上へ一枚の複写画を置いた。展示前に鑑定院が作成した、青涙の精密図である。

 

「正面右下に、針の先ほどの欠け。中央には、三叉状の乳白色内包物。背面から光を入れると、左上に古い切削痕が二本」

 

 次に、展示ケース越しに作成させた略図を並べる。

 

「すべて一致しています」

「巧妙な偽物なら再現できる」

「名紋石としての機能も?」

「だからこそ危険なのだ!」

「それほどの技術を持つ偽造師が、なぜ王家の紋章を浮かべるよう作るのでしょう」

 

 レオノーラは首をわずかに傾ける。

 

「偽物だと、自分から宣伝しているようなものです」

「私に分かるはずがない!」

「では、あなたは何を根拠に偽物だと判断したのです?」

 

 伯爵は杖を床へ打ちつけた。

 

「紋章だ! 我が家の鷹ではなく、王家の冠が浮かんでいる。それ以上の証拠があるか!」

「あります」

 

 レオノーラは即答した。

 

「名紋石が示すのは、石の真贋ではなく、法的な帰属状態です。紋章が変化したことは、石が偽物である証拠にはなりません」

「所有者が変わっていない以上、偽物だ!」

「所有者が変わっていない?」

「当然だ」

「本当に?」

 

 伯爵の顔が固まった。レオノーラの声が、わずかに低くなる。相手を威圧するためではない。逃げ道を狭めるときの声だ。

 

「ヴァルク家が青涙について持つ権利は、完全な所有権ですか」

 

 応接室の空気が変わった。館長ベルクが、伯爵とレオノーラを交互に見る。

 

「何を言っている」

 

 伯爵の声から、先ほどまでの勢いが消えていた。

 

「質問は単純です。王妃エルシアの青涙は、ヴァルク家の私有財産ですか。それとも、王家から保管を任された財産ですか」

「三百年前、我が祖先は王家より青涙を下賜された」

「下賜状を確認しました」

 

 レオノーラは懐から折り畳んだ書類を取り出した。俺が鐘楼を上り下りしている間に、博物館の文書係から写しを出させたらしい。

 

 仕事が早い。

 

 手続きが正しいかどうかは、この場で尋ねないほうがよい。聞けば、俺まで責任の分配先に加えられる可能性がある。

 

「原文には、『ヴァルク家の忠誠が続く限り、その名において守護し、子孫へ継承することを許す』とあります」

「それが下賜だ」

「所有権を与えるとは書かれていない」

「三百年間、我が家が保持してきた!」

「期間の長さは、権利の内容を変えません」

 

 レオノーラは書類を机へ置いた。

 

「あなたは、青涙が王家へ戻る可能性を知っていた」

 

 断定した。

 

 だが、彼女が見ているのは伯爵の反論ではない。目、指、杖を握る力。どの言葉へ反応するかを観察している。

 

「だから開館前に鐘楼へ行き、午前九時から正午までの時間を確認した」

 

 伯爵が俺を睨んだ。俺は鐘楼の作動記録を机へ載せる。

 

「時計管理官の証言もあります。伯爵は、正午の鐘を止められるか尋ねた」

「あれは冗談だ」

「冗談としては、時刻への関心が正確すぎます」

 

 伯爵の視線が記録紙へ落ちる。

 

「青涙の紋章が変化する可能性を、あらかじめ知っていたのでしょう」

 

 レオノーラが言う。

 

「そして、実際に変化した瞬間、盗難を申し立てた。盗難またはすり替えについて争議が起きれば、財産の帰属手続は一時停止されるから」

「根拠のない推測だ」

「では、なぜ再鑑定を拒むのです?」

「証拠保全のためだ」

「なぜ帰属手続の停止制度を、誰にも相談せず即座に指定できたのです?」

「伯爵家の財産を守るのは、当主の義務だ」

「所有権ではなく、『財産』とおっしゃるのね」

 

 伯爵の口元が歪んだ。しばらく誰も言葉を発しなかった。レオノーラは沈黙を急いで埋めようとはしない。相手が黙るなら、その沈黙も証言として扱う。

 

 やがて伯爵は立ち上がった。

 

「私は正式な代理人が到着するまで、これ以上答えない」

「構いません」

 

 レオノーラは扉の前から退き、道を空けた。

 

「ただし、警備隊の確認が終わるまで館外へは出られません。盗難事件を申し立てたのは伯爵ですから」

 

 扉の外に立つ警備兵が、確認するように頷いた。

 

「私を容疑者扱いするのか」

「いいえ」

 

 レオノーラは微笑んだ。館長やドランへ向けたものと同じ、相手の逃げ道を確認し終えたときの笑顔だった。

 

「今のところは、被害者が何を奪われたのか確認しているだけです」

 

 伯爵は杖を鳴らし、従者を伴って部屋を出た。扉が閉まる。

 

 館長ベルクは、糸が切れたように椅子へ腰を落とした。

 

「ヴァルク家は、青涙の所有者ではなかったのですか」

「少なくとも、完全な所有権を持っているとは断定できません」

 

 レオノーラが答える。

 

「では、誰のものなのです」

「それを調べているところです」

 

 俺は机の上に置かれた下賜状へ目を落とした。

 

 守護。

 

 継承。

 

 忠誠が続く限り。

 

 所有とは異なる言葉ばかりが並んでいる。人間は長い間、物を持ち続けると、それが自分のものだと思い始める。法律は、思い込みの年月を評価してくれるとは限らない。

 

「主任」

「何?」

「伯爵は、正午に何かが起きる可能性を知っていた。館長は反対印を外した。警備責任者は王家大封印を使った」

「ええ」

「あと必要なのは、この三つを結びつける法令です」

「すでに鑑定院へ照会しているわ」

「いつ?」

「あなたが鐘楼で階段を数えている間に」

 

 なぜ俺が何をしていたかまで分かるのか。

 

 抗議しようとも思ったが、自分でも百八十七という数字を覚えて帰ってきた以上、反論は難しい。

 

 黙っていると、レオノーラは満足そうに書類をまとめ始めた。

 

「九年も聞いていれば、あなたが無意味な苦痛を数値化する癖くらい分かるわ」

「それを理解と呼ぶのは不本意です」

「私は気に入っているけれど」

 

 彼女は何事もなかったように次の書類へ目を落とした。こちらだけが反応するのは不公平なので、俺も黙ることにした。九年越しに奇妙な癖を気に入っていると言われた場合の対処法は、結界技師の資格試験には出ない。

 

 扉が叩かれた。

 

 鑑定院からの使者が、両腕で古びた法令集を抱えて立っていた。革張りの表紙には、かすれた金文字が残っている。

 

 ――奉献財産令集成。

 

 レオノーラと目が合った。

 

 彼女は笑った。事件の入口を見つけたときとは違う顔だった。

 

 散らばっていた事実をつなぐ手掛かりが届いた。

 

 出口へ続くものかどうかは、まだ分からない。確かなのは、法令集を読み解く仕事が俺にも回ってくることだけだった。




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