王立博物館の
数えたのは暇だったからではない。
同じ苦痛を二度味わうことになった場合に備え、絶望の総量をあらかじめ把握しておくためだ。痛みは数値化しても減らないが、少なくとも「まだ半分も残っているのか」という種類の不意打ちは避けられる。
「元警備隊の方が、その程度で息を切らすんですか」
数段先を歩く若い警備兵が振り返った。
「元、です。現役時代の体力を、退職後も無償で維持する義務は契約書にありません」
「まだ半分ですよ」
「今の発言で、あなたに対する心証が著しく悪化しました」
警備兵は笑った。
笑える立場の人間は気楽でよい。
鐘楼へ続く螺旋階段は、建築家が人類の膝へ抱いた憎悪を、石材によって表現したような構造だった。幅は狭い。傾斜は急。窓から入り込む風は遠慮なく埃を巻き上げ、手すりは握るたびに冷たい。
鐘を高い場所へ置く必要性は理解している。しかし、理解と納得は別問題だ。
ようやく最上階へたどり着くと、巨大な青銅鐘と、それを動かす魔導機構が視界へ入った。
壁一面を占める大小の歯車。一定の間隔で左右へ揺れる銀の振り子。内部を白い光が上下する時刻計測用の水晶柱。そこから伸びた十二本の導線が床や壁を通り、館内各所に設置された小鐘へ接続されている。
古い装置だった。
だが、古いから粗雑というわけではない。歯車の摩耗は均一で、導線には一本ずつ点検日を記した札が付けられている。可動部には余計な油が残っておらず、工具も大きさ順に並べられていた。
この管理官とは話が通じる。少なくとも、設備については。
装置の前には、白髪の老人が一人座っていた。背中は曲がっているが、階段を毎日上り下りしているせいか、肩と腕には老人らしからぬ厚みがある。そして、目は警備兵より鋭い。
「時計管理官のハウゼンです」
若い警備兵が紹介する。
「こちらは封印技師のアーデン殿。正午の鐘について確認したいそうです」
「鐘なら鳴った」
ハウゼンは椅子に座ったまま答えた。
「館中の人間が聞いている。わざわざ百八十七段も登って確かめることではない」
「同意します」
「では帰れ」
案内役の警備兵が、笑うべきか止めるべきか迷った顔をした。
「時刻にずれはありませんでしたか」
俺の問いを聞き、老人は俺を見た。設備を疑った無知な部外者を見る目ではない。自分と同じ技術職でありながら、あえて失礼な質問をする人間を値踏みする目だった。
「ない」
「どの程度の誤差で?」
「一日につき一秒以内」
相当な精度だ。王都の公共時計でも、一日に数秒はずれる。魔力炉の温度。外気の変化。鐘の重量。歯車の摩耗。導線を流れる魔力の減衰。
装置が大きくなれば、誤差の原因も増える。複雑な機械を正確に動かすというのは、誤差を消すことではない。無数の小さな誤差を把握し、互いに打ち消すよう管理し続けることだ。
「今朝も調整しましたか?」
「毎朝している」
「午前九時の開館を知らせる鐘も、この装置から?」
「そうだ。午前九時に九回。正午に十二回」
青涙は、博物館が開館した午前九時から一般公開されていた。紋章が変わったのは、その三時間後。正午の鐘が鳴り始めた直後だ。
「今日の正午の鐘は、予定より早くも遅くもなかったですか?」
「私の時計を疑うのか」
老人の声が一段低くなった。
技術者に、管理している装置の精度を尋ねると、たいていこうなる。こちらも同業なので気持ちは分かる。
自分の仕事を疑われて不快なのではない。点検記録も見ずに、まず装置の故障を疑われるのが不快なのだ。
「疑っているのは人間です。時計ではありません」
「なら、なお悪い」
正しい。
「今朝、この装置について誰かに尋ねられませんでしたか。午前九時から正午までの間隔や、鐘が遅れる可能性について」
ハウゼンの眉が動いた。時計の精度について尋ねられたときとは違う反応だった。
「ヴァルク伯爵が来た」
「何時ごろですか?」
「開館前だ。博物館の案内役を連れていた」
「何を聞かれました?」
「正午の鐘は正確に鳴るか、と」
老人は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「王妃の宝石を公開する記念すべき日だから、時刻どおりに鳴らしてほしいと言われた。百年以上、時刻どおりに鳴らしてきた鐘へ、貴族が一言命じれば精度が上がるとでも思ったのだろう」
管理している本人にとっては、王妃の宝石より時計の精度のほうが重要らしい。好感が持てる。
「伯爵は、午前九時の鐘についても?」
「確実に九時に鳴ったかと聞かれた」
偶然ではない。伯爵は、青涙が公開された時刻と、そこから正午までに経過する時間を確認していた。
「ほかには?」
ハウゼンは顎へ手を当て、記憶を探るように視線を上げた。
「正午の鐘を止められるか、と聞かれたな」
「鐘だけを?」
「いや。時刻機構そのものを、正午になる前に止められないかと」
鐘が正確に鳴るかを確認するだけなら、記念展示を気にする伯爵の質問として理解できる。だが、止める方法まで尋ねたとなれば、意味が変わってくる。鐘そのものが法令の条件ではない。だが、王室施設内で何時に三時間が経過したかを証明するのは、鐘楼の作動記録だ。正午の鐘を止めれば、少なくとも成立時刻について争う余地は作れる。
「何と答えました?」
「鐘を止めるには、王宮の許可証と鐘楼管理局の承認、それから私を階段から投げ落とせるだけの腕力が必要だと」
ハウゼンは平然と言った。冗談だったのか、実際に最後の手段として想定していたのか、表情からは判断できない。
「最後だけ、正式な手続きではありませんね」
「その中では最も難しい条件だ」
百八十七段を毎日上り下りしている老人の足腰を見れば、否定はしにくかった。
――――
俺は魔導機構へ近づいた。
水晶柱の側面には、鐘を作動させた時刻が小さな光点として保存されている。午前九時と正午。どちらも予定時刻と一致していた。外部から操作された痕跡もない。
「この記録を証拠として借ります」
「返せ」
「複写だけです」
「ならよい」
技術者は、装置に関しては偏屈だが、記録に関しては協力的であることが多い。記録こそが、自分の仕事に間違いがなかったことを証明するからだ。
人間の記憶は言い訳に使われる。
整備記録は反論に使われる。
俺は作動記録を紙へ写し取り、ハウゼンに署名をもらった。
――――
階段を下りながら、俺は伯爵の行動を順番に並べ直した。
開館前に鐘楼を訪れた。
午前九時の鐘が正確に鳴ったか確認した。
正午の鐘を止められないか尋ねた。
そして青涙の紋章が変わった瞬間、石ではなく時計を見た。
伯爵は、正午を待っていた可能性が高い。少なくとも、正午に何かが起こり得ることを知っていた可能性は高い。
青涙が搬入前に偽物へ交換されたと考えていたのなら、公開から三時間という経過時間は関係ない。偽物が正午にだけ正体を現す特殊な仕掛けでもない限りは。
少なくとも俺には、伯爵の行動は魔術師より法律家の動きに見えた。石の性質ではなく、開始時刻と経過時間を気にしている。それは魔法の発動条件というより、契約や法令の成立条件を確認する動きだった。
「本当に、宝石は盗まれていないんですか」
前を歩く警備兵が尋ねた。
「少なくとも、展示中にケースから盗まれた形跡はありません」
「では、伯爵は嘘を?」
「人間は、自分の発言をすべて嘘にするほど勤勉ではありません」
「どういう意味です?」
「普通は、本当のことへ必要な分だけ嘘を混ぜます。そのほうが覚えやすく、見破られにくい」
「伯爵の言葉にも、本当の部分があるということですか?」
「はい。本人にとっては、何かを奪われたのでしょう」
物ではない何かを。
名誉。
権利。
金。
あるいは、それらすべて。
もっとも貴族の場合、この三つを明確に区別するほうが難しい。
――――
展示室の隣にある応接室へ戻ると、扉の前にレオノーラが立っていた。
「遅かったわね」
「百八十七段ありました」
「それは大変」
「声に感情が一切含まれていません」
「無事に下りてきた人へ、深刻な同情を示す必要がある?」
ない。
だが、九年間階段を上らされ続けた人間には、形式的な配慮くらいあってもよいと思う。
廊下の窓際には、伯爵付きの従者が二人待機していた。扉の向こうにヴァルク伯爵がいるらしい。
「そちらは?」
「伯爵は青涙が偽物だと主張している。でも、現物の再鑑定には同意しない」
「偽物なら調べさせればよいでしょう」
「ケースを開けば、すり替えの証拠が失われる可能性がある、と」
「合理的ではあります」
少なくとも、表面上は。
「同時に、王室財産院へ『盗難による帰属手続の停止』を申請するよう、館長へ要求している」
俺はレオノーラを見た。
「手続きが早すぎませんか」
「ええ。宝石を奪われた直後の人間としては、とても落ち着いている」
「叫んでいましたが」
「声量と冷静さは両立するわ。あなたも報酬を値切られたときは、理路整然と怒鳴るでしょう」
「不当に引き下げられた報酬を、適正価格へ戻すための交渉です」
「そういうところよ」
何が「そういうところ」なのか説明する気はないらしい。
レオノーラが扉を開けた。応接室には、ヴァルク伯爵と館長ベルク、それから記録係の職員がいた。伯爵は長椅子へ腰掛け、杖の頭を両手で押さえている。
指先に力が入っている。
展示室では激昂していたが、今は怒りを見せるべき場面と、抑えるべき場面を選び直したらしい。
「検査は終わったのか」
俺を見るなり尋ねた。
「展示ケースは、青涙が搬入された四日前から一度も開いていません」
「ならば、搬入前に交換されていたのだ」
「青涙の精密記録と照合する必要があります」
「その前に盗難として処理せよ」
「なぜ急ぐのです?」
レオノーラが尋ねた。
「王家の紋章が浮かんだ石を放置できるか!」
「石が偽物なら、浮かんでいる王家の紋章にも法的な意味はないでしょう」
伯爵の指へ、さらに力が入った。
「王家の紋章を偽造したこと自体が大罪だ」
「では、まず偽物だと証明する必要があります」
「私は三百年、青涙を守ってきた一族の当主だ。あれが我が家の石でないことくらい分かる」
「どこが違うのです?」
伯爵は答えなかった。分からないのではない。答えれば、自分の主張の弱さが明らかになると分かっている沈黙だった。
レオノーラは机の上へ一枚の複写画を置いた。展示前に鑑定院が作成した、青涙の精密図である。
「正面右下に、針の先ほどの欠け。中央には、三叉状の乳白色内包物。背面から光を入れると、左上に古い切削痕が二本」
次に、展示ケース越しに作成させた略図を並べる。
「すべて一致しています」
「巧妙な偽物なら再現できる」
「名紋石としての機能も?」
「だからこそ危険なのだ!」
「それほどの技術を持つ偽造師が、なぜ王家の紋章を浮かべるよう作るのでしょう」
レオノーラは首をわずかに傾ける。
「偽物だと、自分から宣伝しているようなものです」
「私に分かるはずがない!」
「では、あなたは何を根拠に偽物だと判断したのです?」
伯爵は杖を床へ打ちつけた。
「紋章だ! 我が家の鷹ではなく、王家の冠が浮かんでいる。それ以上の証拠があるか!」
「あります」
レオノーラは即答した。
「名紋石が示すのは、石の真贋ではなく、法的な帰属状態です。紋章が変化したことは、石が偽物である証拠にはなりません」
「所有者が変わっていない以上、偽物だ!」
「所有者が変わっていない?」
「当然だ」
「本当に?」
伯爵の顔が固まった。レオノーラの声が、わずかに低くなる。相手を威圧するためではない。逃げ道を狭めるときの声だ。
「ヴァルク家が青涙について持つ権利は、完全な所有権ですか」
応接室の空気が変わった。館長ベルクが、伯爵とレオノーラを交互に見る。
「何を言っている」
伯爵の声から、先ほどまでの勢いが消えていた。
「質問は単純です。王妃エルシアの青涙は、ヴァルク家の私有財産ですか。それとも、王家から保管を任された財産ですか」
「三百年前、我が祖先は王家より青涙を下賜された」
「下賜状を確認しました」
レオノーラは懐から折り畳んだ書類を取り出した。俺が鐘楼を上り下りしている間に、博物館の文書係から写しを出させたらしい。
仕事が早い。
手続きが正しいかどうかは、この場で尋ねないほうがよい。聞けば、俺まで責任の分配先に加えられる可能性がある。
「原文には、『ヴァルク家の忠誠が続く限り、その名において守護し、子孫へ継承することを許す』とあります」
「それが下賜だ」
「所有権を与えるとは書かれていない」
「三百年間、我が家が保持してきた!」
「期間の長さは、権利の内容を変えません」
レオノーラは書類を机へ置いた。
「あなたは、青涙が王家へ戻る可能性を知っていた」
断定した。
だが、彼女が見ているのは伯爵の反論ではない。目、指、杖を握る力。どの言葉へ反応するかを観察している。
「だから開館前に鐘楼へ行き、午前九時から正午までの時間を確認した」
伯爵が俺を睨んだ。俺は鐘楼の作動記録を机へ載せる。
「時計管理官の証言もあります。伯爵は、正午の鐘を止められるか尋ねた」
「あれは冗談だ」
「冗談としては、時刻への関心が正確すぎます」
伯爵の視線が記録紙へ落ちる。
「青涙の紋章が変化する可能性を、あらかじめ知っていたのでしょう」
レオノーラが言う。
「そして、実際に変化した瞬間、盗難を申し立てた。盗難またはすり替えについて争議が起きれば、財産の帰属手続は一時停止されるから」
「根拠のない推測だ」
「では、なぜ再鑑定を拒むのです?」
「証拠保全のためだ」
「なぜ帰属手続の停止制度を、誰にも相談せず即座に指定できたのです?」
「伯爵家の財産を守るのは、当主の義務だ」
「所有権ではなく、『財産』とおっしゃるのね」
伯爵の口元が歪んだ。しばらく誰も言葉を発しなかった。レオノーラは沈黙を急いで埋めようとはしない。相手が黙るなら、その沈黙も証言として扱う。
やがて伯爵は立ち上がった。
「私は正式な代理人が到着するまで、これ以上答えない」
「構いません」
レオノーラは扉の前から退き、道を空けた。
「ただし、警備隊の確認が終わるまで館外へは出られません。盗難事件を申し立てたのは伯爵ですから」
扉の外に立つ警備兵が、確認するように頷いた。
「私を容疑者扱いするのか」
「いいえ」
レオノーラは微笑んだ。館長やドランへ向けたものと同じ、相手の逃げ道を確認し終えたときの笑顔だった。
「今のところは、被害者が何を奪われたのか確認しているだけです」
伯爵は杖を鳴らし、従者を伴って部屋を出た。扉が閉まる。
館長ベルクは、糸が切れたように椅子へ腰を落とした。
「ヴァルク家は、青涙の所有者ではなかったのですか」
「少なくとも、完全な所有権を持っているとは断定できません」
レオノーラが答える。
「では、誰のものなのです」
「それを調べているところです」
俺は机の上に置かれた下賜状へ目を落とした。
守護。
継承。
忠誠が続く限り。
所有とは異なる言葉ばかりが並んでいる。人間は長い間、物を持ち続けると、それが自分のものだと思い始める。法律は、思い込みの年月を評価してくれるとは限らない。
「主任」
「何?」
「伯爵は、正午に何かが起きる可能性を知っていた。館長は反対印を外した。警備責任者は王家大封印を使った」
「ええ」
「あと必要なのは、この三つを結びつける法令です」
「すでに鑑定院へ照会しているわ」
「いつ?」
「あなたが鐘楼で階段を数えている間に」
なぜ俺が何をしていたかまで分かるのか。
抗議しようとも思ったが、自分でも百八十七という数字を覚えて帰ってきた以上、反論は難しい。
黙っていると、レオノーラは満足そうに書類をまとめ始めた。
「九年も聞いていれば、あなたが無意味な苦痛を数値化する癖くらい分かるわ」
「それを理解と呼ぶのは不本意です」
「私は気に入っているけれど」
彼女は何事もなかったように次の書類へ目を落とした。こちらだけが反応するのは不公平なので、俺も黙ることにした。九年越しに奇妙な癖を気に入っていると言われた場合の対処法は、結界技師の資格試験には出ない。
扉が叩かれた。
鑑定院からの使者が、両腕で古びた法令集を抱えて立っていた。革張りの表紙には、かすれた金文字が残っている。
――奉献財産令集成。
レオノーラと目が合った。
彼女は笑った。事件の入口を見つけたときとは違う顔だった。
散らばっていた事実をつなぐ手掛かりが届いた。
出口へ続くものかどうかは、まだ分からない。確かなのは、法令集を読み解く仕事が俺にも回ってくることだけだった。
誤字・脱字などがありましたら、誤字報告から教えていただけるとありがたいです。