青涙は王家を選ばない   作:もしかして俺が

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あと五話で完結します。させます。させてください。


第四話 古い法律は死んでいない

 古い法律には二種類ある。

 

 現在も必要とされ、手直しされながら使われているもの。そして、誰も廃止する責任を引き受けなかったため、ただ残り続けているものだ。

 

 後者は厄介である。普段は誰にも読まれず、誰にも守られず、書庫の奥で埃をかぶっている。それなのに事故が起きたときだけ、「以前から決まっていました」という顔で現れる。

 

 奉献財産令集成は、見るからにその類だった。

 

「触ると崩れそうですね」

 

 俺は革張りの表紙を眺めた。角はすり減り、背表紙には細い亀裂が走っている。書物というより、書物の形を辛うじて維持している歴史資料だった。

 

「崩さないで」

 

 レオノーラが言った。

 

「俺に言いますか?」

「九年前、あなたは百二十年前の設計図を広げた瞬間、二つに裂いたでしょう」

「あれは紙の耐久性に問題がありました」

「あなたの腕力ではなく?」

「紙です」

 

 あの設計図は、指を触れただけで端から崩れる状態だった。俺が壊したのではない。百二十年にわたる保管環境の不備が、たまたま俺の手元で表面化しただけである。

 

 事故の発生時刻と責任の発生時刻は、必ずしも一致しない。この説明は当時の上司には理解されなかった。

 

 鑑定院から来た使者は、法令集を机へ置くと、受領証への署名を求めた。レオノーラは紙とペンを受け取り、そのまま何のためらいもなく俺へ差し出した。

 

「なぜ俺が」

「破損した場合、専門職の責任にしたほうが説明しやすいから」

「俺は結界技師であって、古文書修復士ではありません」

「一般の人間から見れば、どちらも古いものを壊さないための職業でしょう」

「資格制度全般への挑戦ですね」

 

 結局、署名した。

 

 法令集を壊したくなかったからではない。レオノーラに署名させると、後になって筆跡が本人のものか、依頼を正式に受諾する権限があったか、そもそも彼女が鑑定院を退職したのは何年前かという話にまで発展しかねないためだ。

 

 俺が署名したほうが、被害範囲を限定できる。

 

 レオノーラは薄い手袋をはめ、慎重に法令集を開いた。紙は黄ばみ、文字は小さく、書記官の妙な装飾癖によって文頭の一文字だけが異様に大きい。法律の内容より、最初の一文字を美しく書くことへ情熱を注いだ人物らしい。

 

 後世の読み手への配慮はない。古い公文書にはよくあることだ。制度を作る者は、三百年後の人間が自分の悪筆を解読する可能性まで考えない。

 

「奉献財産令。建国暦二百十四年制定」

 

 レオノーラが目次を指で追った。

 

「王室施設への寄進、戦時接収、神殿財産の移管……。青涙がヴァルク家へ渡った時代より、少し後に制定されているわね」

「伯爵は、なぜこの法令を知っていたんでしょう」

「ヴァルク家の文書庫に、写本か関連記録があるのでしょう。自分の家が三百年守ってきた財産について、どのような権利を持っているのか調べていても不自然ではないわ」

「では、公開から三時間後に何かが起きると、最初から知っていたんですか?」

「少なくとも、その可能性を警戒していた」

 

 断定しないのは、証拠が足りないからだ。

 

 レオノーラは推理を口にするとき大胆だが、事実と推測の境界は意外なほど厳密に分ける。声の調子が同じなので、長く隣にいなければ違いは分かりにくい。

 

 頁をめくる乾いた音が、しばらく室内に続いた。

 

 俺は待っている間に、警備区画から届けられた封印貸出台帳を開いた。

 

 展示準備日の欄には、貸与品展示用封印三式、返却済みとある。その二行下には、王家大封印一式。用途は中央展示室設備点検。返却予定日は、特別展示終了の翌日。

 

 俺は記載を指でなぞった。

 

「設備点検」

「見事な設備点検ね」

 

 いつの間にか、レオノーラが肩越しに台帳を覗いていた。

 

「人の手元を勝手に見ないでください」

「見られて困るものでも?」

「あなたの場合、見たあとに仕事が増えます」

 

 彼女は台帳の一行を指した。

 

「王家大封印を展示ケースへ使用したとは書かれていない」

「正式な用途で申請すれば、却下される可能性が高かったのでしょう」

「なぜ?」

「予算か日程です」

 

 貸与品展示用の封印は、一定期間ごとに術式核を交換する必要がある。青涙ほど高位の名紋石を封じるなら、劣化のない新しい核が必要だ。

 

 一方、王家大封印は維持費こそ高いが、すでに博物館が保有している。手元の備品を使うだけなら、追加の購入申請は発生しない。

 

 帳簿上では設備点検のために持ち出したことにし、実際には展示ケースへ流用する。

 

 経費削減としては分かりやすい。

 

 台帳の虚偽記載としても、非常に分かりやすい。

 

「警備責任者を呼びます」

「もう呼んだわ」

 

 レオノーラが言い終えるのとほぼ同時に、扉が開いた。

 

 ドランが、不機嫌さを制服の一部のように身につけて入ってくる。襟や袖口は相変わらず寸分なく整っているが、額には薄く汗が浮いていた。

 

「今度は何です」

「設備点検について」

 

 レオノーラは台帳を机の中央へ滑らせた。

 

 ドランの目は、問題の一行だけを正確に捉えた。どこを問われるか理解していた人間の反応だった。

 

「記載どおりです」

「王家大封印を、中央展示室の設備点検に使ったんですか?」

「展示設備の一部に使用した」

「展示ケースに?」

「防犯上、詳細は明かせません」

「ケースを検査したのは俺です」

 

 俺は言った。

 

「封印の術式番号も、台帳の番号と一致しています。明かす必要はありません。すでに分かっているので」

 

 ドランは俺を睨んだ。封印技師へ睨みを利かせても、術式番号は変わらない。

 

「なぜ流用したんです?」

「流用ではない。王立博物館が保有する封印を、王立博物館の展示へ使用した」

「申請上の用途は設備点検です」

「事務上の分類にすぎない」

「では、貸与品用の封印を使わなかった理由は?」

「王家の至宝に、より強力な封印を施した。それの何が問題だ」

 

 強力。便利な言葉である。

 

 強度、機能、用途、法的性質。それぞれ異なる尺度を一つにまとめ、数字が大きいほうを正しいことにできる。大きな槌は小さな槌より重い。だから小さな釘を打つのにも適している――と言っているようなものだ。

 

「王家大封印には、防犯以外の認証機能があります」

 

 俺は答えた。

 

「あなたは知っていましたか」

「王室財産を識別する機能だろう」

「それだけではない」

 

 法令集を読んでいたレオノーラが顔を上げた。

 

「見つけたわ」

 

 彼女は一つの条文を指し、古い表現を現代語へ直しながら読み上げた。

 

「私有または預かりの名紋石を、王室施設内において王家大封印の下へ置き、所有者または守護者の反対印がない状態で三時間が経過した場合、その石は王家へ自発的に奉献されたものと推定する」

 

 室内が静まった。

 

 ドランは法令集へ目を向けたまま動かない。

 

 条文の意味を理解するのに、それほど時間はかからなかった。

 

 王室施設。

 

 王家大封印。

 

 反対印の不在。

 

 そして、三時間。

 

 午前九時に公開された青涙は、正午に王家の冠を浮かべた。

 

「続きがあるわ」

 

 レオノーラは次の行を読む。

 

「ただし、盗難、錯誤、強制、または権利争議の申し立てがあった場合、王室財産院の裁定が下るまで、帰属の確定を停止する」

 

 伯爵が盗難を訴えた理由の少なくとも一部は、これで説明できる。

 

 青涙が王家の紋章を浮かべる可能性を知っていた。だが、王家へ奉献されたものとして手続きが進むことは避けたかった。だから紋章が変化した直後に、偽物へすり替えられたと申し立てた。

 

 盗難が事実かどうかは、その後で争えばよい。申し立てが受理されれば、まず手続きが止まる。

 

 石を動かさずに、帰属の手続きだけを止める方法だった。

 

「この法令は、現在も有効なのですか」

 

 ドランが尋ねた。

 

「完全には廃止されていない」

 

 レオノーラが答える。

 

「現行の王室財産法の附則に、『名紋石固有の旧法上の負担は、別途これを尊重する』とある。今回の展示契約にも、同じ文言が入っていたわ」

「そんな古い条文を、警備担当者が知るはずがない」

「知らなかったのでしょうね」

「ならば私の責任ではない」

「法令を知らなかったことと、大封印を虚偽の用途で持ち出したことは別問題です」

「それと宝石の帰属も別問題だ!」

「ええ。別問題です」

 

 レオノーラはあっさり認めた。

 

 相手の主張が正しければ認める。認めたうえで、逃げ道として使えないようにする。

 

「あなたは青涙を王家へ奉献させようとしたわけではない。ただ、新しい封印核の購入申請と、展示延期の可能性を避けたかっただけ」

 

 ドランの表情が変わった。ほんのわずかだった。だが否定するには遅すぎた。

 

「今年度の警備予算が削減されていた」

 

 彼は低い声で言った。

 

「通常封印の核に劣化が見つかった。交換申請を出せば、展示の延期を求められる可能性があった」

「館長から、予定どおり開催しろと?」

「博物館の威信が懸かっていると言われた」

「威信は、封印核の代わりにはなりません」

 

 俺が言うと、ドランは苦い顔をした。

 

「だから大封印を使った。性能に問題はない」

「防犯性能には」

「結果として、侵入はなかった!」

「ええ。宝石は非常に安全でした」

 

 俺は壁の向こうにある展示室へ目を向けた。

 

「帰属を認証する機能を除けば」

 

 ドランは机へ拳を置いたが、反論はしなかった。

 

 防犯だけを考えれば、彼の判断は間違っていない。むしろ通常より強固な封印を使っている。問題は、封印が単なる錠ではなかったことだ。

 

 技術者が機能の一部だけを見て道具を選ぶと、使わなかったつもりの機能まで律儀に働く。道具には、使用者の都合を察して必要な部分だけ黙るという能力がない。

 

「館長が反対印を外したことは知っていましたか?」

 

 レオノーラが確認する。

 

「知らん。展示意匠には関与していない」

「奉献財産令の存在は?」

「知らん。王室財産としての帰属を認証する機能があることしか知らなかった」

 

 ドランはレオノーラを睨んだ。

 

「正式な捜査官でもない者に、これ以上答える義務はない」

「そうですね。ただし、到着した捜査官には同じ説明をすることになります」

「するとも」

 

 彼は踵を返し、部屋を出ていった。扉が強く閉まり、古い法令集の頁が風圧でわずかに震えた。

 

――――

 

「三人目ですね」

 

 俺は言った。

 

「館長は美観のために反対印を外した。警備責任者は予算と日程のために王家大封印を使った」

「そして伯爵は、少なくとも帰属の確定を止めるために盗難を申し立てた」

「三人とも、目的は別です」

 

「でも、結果だけは見事に協力している」

 

 レオノーラは法令集を閉じた。

 

 少なくとも、反対印の取り外しと大封印の使用は、一人の計画によるものではなさそうだった。

 

 館長が反対印を外し、ドランが大封印を使った。その結果、三百年前の法令が定める条件が満たされ得る状況が作られた。

 

 そして伯爵だけは、三時間後に何かが起こる可能性を知っていた可能性が高いのに、展示を止めなかった。

 

 人間は、相談しなくても事故へ協力できる。組織で長く働いていると、嫌でも理解する原理である。

 

「次に確認するべきは、鑑定士ね」

 

 サリアは、紋章の変化が石の交換でしか説明できないかのように話していた。

 

 実際には、名紋石の法的な帰属状態が変われば、石を動かさなくても紋章は変化する。しかも俺たちが旧法を調べようとした瞬間、彼女は明らかに動揺した。

 

「彼女は、この条文を知っていたと思いますか」

 

 俺が尋ねる。

 

「条文そのものを覚えていたかは分からない。でも、青涙の権利関係に問題があることは知っていた」

「根拠は?」

 

 レオノーラは、法令集に添えられていた資料封筒から一枚の紙を取り出した。

 

「使者が一緒に持ってきたの。鑑定院の閲覧記録」

 

 紙には、過去半年間に奉献財産令集成を閲覧した者の名前が並んでいた。

 

 王室財産院の書記官。大学の法制史研究者。ヴァルク伯爵家の代理人。

 

 そして三週間前。

 

 王立鑑定士、サリア・メルカート。

 

「先ほど彼女は、旧法など関係ないと言いましたね」

「ええ」

 

 レオノーラはその名前を指で軽く叩いた。

 

「関係がないと確かめるために、わざわざ読んだのでしょうね」

 

 言葉だけを見れば、矛盾してはいない。調べた結果、関係がないと判断した可能性もある。だが、本当に無関係だと確信している人間は、まだ条文の名前すら出ていない段階で、あれほど急いで否定しない。

 

「本人に聞きますか」

「その前に、もう一つ」

 

 レオノーラは、法令集に添えられていた資料封筒から別の書類を取り出した。

 

「閲覧記録を照会した際、内部監査室にもサリアの国外向け文書を確認してもらったの。一級鑑定士の公印を使った評価書は、私的な依頼でも写しが保管されるから」

 

 外国語で書かれた宝石評価書だった。対象品の名称は伏せられている。だが、寸法、重量、内包物の位置、正面右下の小さな欠けは、青涙の記録と一致していた。

 

 末尾には、サリアの署名。依頼者は、王都に滞在中の外国商人。鑑定価格は、地方都市の年間予算が霞むほどの金額だった。

 

「これは」

「青涙の私的な評価書よ」

「王室展示へ出される宝石を、外国商人の依頼で値踏みした?」

「正式には、ヴァルク家の管理下にある財産として扱われていた時期にね」

 

 違法と断定するには、まだ情報が足りない。だが、通常の鑑定業務でないことだけは確かだった。

 

 サリアは、青涙に関係する可能性のある旧法を閲覧していた。その一方で、外国商人のために青涙の価値を算出した。そして事件が起きると、石が偽物である可能性を否定しなかった。

 

 彼女にとって、青涙が本物のまま王家へ帰属したものとして手続きが進むより、偽物へ交換されたことになったほうが都合がよいのかもしれない。

 

 問題は、その都合が誰のためのものかだった。

 

「行きましょう、フェリクス」

 

 レオノーラは書類を揃え、立ち上がった。

 

「今度は俺に何をさせる気です?」

「鑑定士が嘘をつくところを見ていて」

「それだけですか」

「ええ」

 

 彼女は扉へ手をかけてから、振り返った。

 

「嘘の種類を見分けるのは、あなたのほうが上手でしょう」

 

 不意にそう言われると困る。

 

 彼女の得意分野は、証言の矛盾を見つけ、逃げ道を塞ぐことだ。俺が見ているのは、その人間がどこまで仕組みを理解し、どの箇所だけを知らないふりをしているかである。

 

 役割の違いを正確に評価しただけなのだろう。

 

 それでも、無茶ぶりの直前に褒めるのはやめてほしい。文句を言いづらくなる。

 

「主任」

「何?」

「夕食に酒を追加してください」

「働き次第ね」

「今の評価で一杯分は発生したでしょう」

「成果報酬よ」

「評価制度が不透明です」

 

 俺たちは、サリアの待つ鑑定室へ向かった。

 

 青涙が展示ケースから盗まれた形跡はない。紋章が変化した仕組みの骨格も見えてきた。それでも鑑定士は、石が偽物だという説明を積極的には否定しなかった。

 

 彼女にとっては、本物であることより、偽物であってくれることのほうが重要なのかもしれない。

 

 そして、その願いにはすでに値段が付けられていた。




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