王立博物館の地下書庫は、死んだ人間の判断を、生きた人間へ押しつけるための場所だった。
契約書。
「フェリクス。その箱を取って」
「どの箱です」
「上から三段目の、灰色」
「灰色が四つあります」
「少し青みがかった灰色」
「地下書庫で色彩鑑定を始めないでください」
俺は脚立の上から棚を見渡した。窓のない地下室で長年埃をかぶった箱は、どれも等しく不健康な灰色をしている。人間の目が暗所へ慣れる仕組みを考慮しても、青みを判別できるほどの差はなかった。
「右から二番目よ」
「最初からそう言ってください」
箱を引き出す。予想以上に重かった。腕に力を入れた瞬間、中の書類が一斉に片側へ寄り、箱が傾く。
「危ない」
下にいたレオノーラが両手を伸ばした。
「離れてください。落ちます」
「だから受け取るのよ」
「箱ではなく、あなたが潰れます」
「あなたが落とさなければ済むでしょう」
信頼という言葉は美しい。現実には、他人の腕力と反射神経を勝手に計算へ組み込む行為として現れることがある。
どうにか箱を抱えて脚立を下りると、レオノーラは礼を言うより先に蓋を開けた。
「特別展示準備記録。これね」
「せめて俺が机へ置いてから開けてください」
「落とさなかったでしょう」
「結果を根拠に手順を正当化するのはやめてください」
「成功した手順は、成功例として検討する価値があるわ」
「次回がある前提なのが最悪です」
書庫の閲覧机へ資料を広げる。
青涙の特別展示に関する最初の記録は、半年前のものだった。ヴァルク伯爵家からの貸与申出。王立博物館による受入審査。王室財産院への照会。王立鑑定院の予備鑑定。
関係する部署が増えるたび、紙の枚数も増えている。組織が重要な案件へ真剣に向き合った証拠は、たいてい書類の厚みとして残る。
その厚みが判断の正しさを保証するとは限らない。
「貸与条件」
レオノーラが一枚を抜き出した。ヴァルク伯爵家から提出された条件一覧である。
一、展示品の名称を「王妃エルシアの青涙」とすること。
二、ヴァルク伯爵家に三百年間継承されてきた由来を展示銘板へ明記すること。
三、伯爵家より提出された紋章印を、一般公開中は常時掲示すること。
四、展示終了後は速やかに伯爵家へ返還すること。
「紋章印の常時掲示を、明確に指定していますね」
「表向きの名称は紋章印。でも、法的には反対印として働く。伯爵は奉献財産令を知っていた。だから、条件へ入れたのでしょう」
「それを館長が、見栄えの悪い飾りだと思って外した」
「明確な契約違反ね」
「館長は契約書を読んでいなかったんでしょうか」
「読んだ人間と、判断した人間が別だったのでしょう」
契約実務では珍しくない。
法務担当者が危険を避けるために一文を書き、現場担当者が意味を知らないまま無視する。書類上は組織全体が事情を把握していたことになるが、実際には誰の頭にも全体像がない。
組織とは、知識を分担するための仕組みである。
同時に、誰もすべてを知らない状態を作る仕組みでもある。
「こちらも見て」
レオノーラが展示配置の変更記録を示した。
当初、反対印は銘板の右側へ設置される予定だった。ところが、公開前日の最終確認で館長ベルクが配置変更を命じている。
――王族内覧時の景観を考慮し、旧式金属印を一時撤去。
――一般公開前に復旧すること。
その下には、指示を受けた職員の署名があった。
「エリナ・セヴラン。展示補佐員」
「今も館内にいるか確認します」
「もう呼んであるわ」
俺はレオノーラを見た。
「書庫へ来る前に?」
「ええ。請求していた変更記録の写しで名前を確認したときに」
「俺が箱を探している間に到着するところまで、最初から計算に入れていましたね」
「適材適所よ」
適材の側へ同意を求めない適材適所は、単なる一方的な人員配置である。
ほどなくして、二十歳前後の女性職員が書庫へ入ってきた。博物館の制服を身につけているが、胸元の飾り紐が片方だけ解けている。朝からの混乱で、直す余裕もなかったのだろう。
「展示補佐員のエリナ・セヴランです」
緊張した声だった。
「座ってください。責任を追及するために呼んだのではありません」
レオノーラが言う。
事実だ。
今のところは。
「反対印を外したのはあなた?」
「はい。館長の指示で」
「いつ?」
「今朝、午前八時少し前です。王太子殿下の内覧準備中でした」
「一般公開は午前九時。内覧が終わったあと、公開前に戻す予定だった」
「はい」
「なぜ戻さなかったの?」
エリナは膝の上で両手を握った。
「戻そうとしたのですが、留め具が曲がってしまって」
俺は採取袋に入れておいた反対印を机へ置いた。裏側にある二本の留め具のうち、片方が内側へ曲がっている。
「外すときに?」
「取り付け直そうとしたときです。急いで押し込もうとして……」
「そのとき、周囲には誰がいました?」
「館長と警備責任者、それからヴァルク伯爵閣下です」
「伯爵は、反対印がないことに気づいた?」
「はい。印はどこだ、と尋ねられました。私が修理中だと説明すると、すぐに戻すよう強く言われました」
「館長は?」
「王族の内覧中だけ外したのだと説明しました。一般公開までには戻す予定だった、と」
「伯爵は、それで納得した?」
「いいえ」
エリナは首を振った。
「展示ケースの封印について、警備責任者へ確認されていました。通常の貸与品用封印か、と」
「ドランは?」
「機能上は同じだ、と」
ドランが俺たちへ使ったのと同じ説明だった。
王家と長く関わってきたヴァルク家の当主なら、王家大封印の紋様を知っていても不思議ではない。
機能上は同じ。
防犯という機能だけを見れば、完全な嘘ではない。王家大封印のほうが、むしろ強力である。
法的な認証機能を除けば。
「伯爵は、その説明で納得した?」
「いいえ。封印を近くで確認して、急に顔色を変えました。それから、一般公開の開始時刻を尋ねられました」
「午前九時だと答えた?」
「はい。時計に間違いはないかとも聞かれました」
「その後は?」
「館長は入口の開場確認へ、警備責任者は警備兵の配置確認へ向かいました。伯爵閣下だけは、しばらく展示台の前に残っていました」
「あなたは?」
「反対印を白絹に包み、銘板の裏へ置いて、修復室へ工具を取りに行きました」
「戻ったときには?」
「白絹だけが残っていました。反対印はなくなっていました」
前の検査で、反対印の紋章部分から白い繊維が見つかっている。エリナの証言と一致する。
問題は、布から取り出した者がいることだ。
「白絹は、そのままに?」
「はい。すぐに反対印を探そうとしたのですが、来場者が入り始めていて、館長に持ち場へ戻るよう言われました」
「反対印が見つからないことは伝えた?」
「はい。館長は、誰かが修復室へ持っていったのだろうと」
実際には、反対印は銘板の裏にも修復室にもなかった。展示台座の下へ押し込まれていた。
事故で落ちたのなら、白絹から自然に抜け出し、銘板の裏から床へ落ち、さらに台座の下まで移動しなければならない。
金属板に自主的な移動能力はない。
少なくとも、俺が資格を取得した時点では。
「伯爵が展示台の前で何をしていたか、見ましたか」
俺が尋ねる。
「いいえ。私も修復室へ向かったので、その後は分かりません」
「杖を持っていた?」
「はい。黒い杖です。先端が銀色の」
レオノーラがこちらを見る。
俺も彼女を見返した。
反対印が台座の下にあったことと、伯爵の杖を今すぐ結びつけるには証拠が足りない。ただし、覚えておく価値はある。
伯爵がその後、鐘楼へ向かったことは、ハウゼンの証言で確認されている。
反対印が掲示されていない。通常とは異なる封印が使われている。さらに伯爵は、公開開始時刻を確認し、時刻機構の精度を確かめるために鐘楼へ向かった。
この三つを並べれば、彼が三時間後に奉献財産令の条件が揃う可能性を意識していた疑いは濃い。
「伯爵は、展示を中止するよう要求しましたか」
レオノーラが尋ねた。
「いいえ」
「反対印が戻るまで、青涙をケースから出すよう求めた?」
「おっしゃっていませんでした」
「王室財産院へ連絡するよう指示した?」
「いいえ」
「なぜでしょう」
「私には……」
エリナは不安そうに首を振った。
「十分です。ありがとうございました」
レオノーラが言うと、エリナは小さく頭を下げて書庫を出ていった。
扉が閉まるのを待ち、俺たちは机の上の資料へ視線を戻した。
「少なくとも、反対印を外したのも、大封印を使ったのも伯爵ではない」
俺は言った。
「紋章印を用意し、常時掲示するよう指定したのは伯爵家。外したのは館長の指示を受けたエリナ。王家大封印を使ったのはドラン」
「でも伯爵は、一般公開前に二つの不備を知った」
「事故を止められたはずです」
「ええ。貸与条件の第三項を示すだけでね」
伯爵にとって、展示を止めること自体は難しくなかったはずだ。
貸与条件違反を理由に公開を延期させる。反対印を修理するまで青涙を展示ケースから出す。奉献財産令の内容まで説明する必要はない。
それでも彼は、どれも選ばなかった。
「待っていた、というより」
俺は貸与条件書へ目を落とした。
「少なくとも、時刻機構を止める手段があるかは確かめた。けれど、止められないと分かったあとも、契約違反を理由に展示を中止させなかった」
「止めないほうが都合のよい理由があった」
レオノーラが言った。
青涙が王家へ奉献されたものと推定されれば、ヴァルク家は家宝への権利を失うおそれがある。盗難を申し立てて帰属手続を止めたとしても、それだけでは石を取り戻せるとは限らない。
それでも伯爵は、展示を止めなかった。
ならば、青涙を失ったと扱われることで、何かを得られるはずだ。
「伯爵をもう一度呼びますか」
「まだよ」
「鐘楼の証言と、エリナの証言があります」
「奉献の条件が成立する可能性を認識していたことは、強く示せる。でも、成立後に何を得ようとしたかは別の問題よ」
レオノーラは資料箱の底を探り始めた。
「伯爵家と博物館の往復書簡は?」
「先ほどの、青みがかった灰色の箱では?」
「あれは展示準備記録だけ。貸与交渉の記録は別に保管されているはずよ」
「まだ箱があるんですか」
「補償条件は、通常の展示契約とは別綴じにすることが多いから」
「どこに?」
レオノーラは棚の上段を指した。
先ほどより一段高い位置だった。
「濃い灰色の箱」
「全部灰色でしょう」
「今度は少し緑がかっているわ」
「色の問題ではありません」
俺は再び脚立を開いた。
「落とさないでね」
「下に立たないでください」
「受け取るためよ」
「何度繰り返せば、危険行動を改善するんです?」
レオノーラは少し考えた。
「あなたが毎回、何とかするからかしら」
それは褒め言葉ではない。
少なくとも、素直に受け取った場合、次の仕事が増える種類の発言だ。
俺は何も答えず、指定された箱を棚から引き出した。
今度の箱は軽かった。代わりに、蓋へ赤い封印札が貼られている。
――ヴァルク伯爵家・追加貸与条件。
――補償および損失時評価に関する書簡。
俺は脚立を下り、箱を机へ置いた。
レオノーラが赤い封印札を見下ろす。
「当たりね」
「中身を確認してから喜んでください」
「あなたが無事に持って下りてきた時点で、半分は当たりよ」
「俺の能力を賭博へ利用しないでください」
赤い封印札の端には、サリアの評価書に押されていたものと同じ商会印があった。
外国商人、エーレン・ヴィダル。
紋章が変化する前から、青涙を失った場合について、何らかの交渉が行われていた。
伯爵が待っていたのは、王家への帰属をめぐる争いだけではないのかもしれない。
宝石が「盗まれた」と認められた瞬間、金へ変わる何かが、この箱の中にある。
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