王国の法律は、夜になっても働くらしい。大変に勤勉で、迷惑な性質だった。
青涙が中立保管庫へ移されたあとも、俺たちは博物館から解放されなかった。王室財産院の調査官を補佐する若い書記官による事情聴取。警備隊への現場説明。封印解除記録への署名。器具の使用履歴と、残留魔力の測定結果の提出。事件を解決した人間には帰宅する権利が与えられるものだと思っていたが、実際に与えられたのは、事件をどのように解決したのか説明する義務だった。
中でも時間がかかったのは、王家大封印の解除中、中立器を第二経路へ切り替える判断を規定より二秒早めた理由の説明だった。
「認証線の逆流を避けるためです」
「規定手順では、第一経路の流量が基準値を下回ってから、第二経路へ切り替えることになっています」
「基準値を待てば、逆流が拘束術式へ到達していました」
「なぜです?」
「認証線に、帰属争議による残留負荷があったからです」
「王家大封印であることは、作業前から分かっていたでしょう」
「封印の種類ではなく、使用状態が通常と違います。王家大封印の下で名紋石について奉献の推定が成立し、その帰属が争われている状態で解除する事例は、現行の作業規程に記載されていません」
「つまり、規定外の判断をした?」
「規定に該当する事例がないので、現場の測定結果に従いました」
書記官は難しい顔で筆を走らせた。
規則を守る人間は、規則に書かれていない正しい行動を嫌う。正しいかどうかを、自分で判断しなければならないからだ。俺も手順書は好むが、手順書に現実のほうを従わせようとは思わない。逆流する魔力へ規定集を見せても、反省して流れを戻してはくれない。
「ヴェルネ女史から指示はありましたか」
「ありません」
「解除中、何か発言していたようですが」
「独り言です」
部屋の隅で別の記録を読んでいたレオノーラが、そこで顔を上げた。
「私はフェリクスの手元を見て、右下の認証線が逆流していると指摘しただけよ」
「主任」
「何?」
「今、俺が簡潔に済ませようとした説明を、自分から長くしましたね」
「事実でしょう」
「否定はしていません。指摘は受けましたが、経路の切替は測定値に基づく俺の判断です」
書記官が筆を止めた。
「その違いを説明してください」
「説明すると長くなります」
「記録しますので、どうぞ」
レオノーラが小さく笑った。
俺は彼女を睨んだ。あの女は、自分の技術判断を追及されているわけではないから気楽なのである。
結果として、俺たちが博物館を出られたのは、それから三十分後だった。
――――
王都の大通りから、人影はほとんど消えていた。街灯の魔石が白い光を落とし、昼間は見物客で埋まっていた石畳を、今は夜間巡回の馬車だけが通り過ぎていく。
「食堂は?」
レオノーラが尋ねた。
「閉店していました」
「確認したの?」
「扉に『本日の営業は終了しました』と書かれていました。あれ以上確実な確認方法を知りません」
「私たちだけ入れてもらうことは?」
「予約証を記録用の台紙にした人物が交渉してください」
「あれは事件の解決に必要だったのよ」
「封蝋紋様の写しを取るだけなら、備え付けの記録紙でもよかったでしょう」
「予約証が一番取り出しやすかったの」
「同時に、俺たちの夕食も一番失いやすくなりました」
予約していた食堂では、王都西部から仕入れた香草鳥の煮込みが出るはずだった。焼きたての白パン、胡椒を利かせた根菜のスープ、食後には蜂蜜菓子。
そのすべてが、三百年前の法令、館長の美的判断、警備予算の不足、伯爵家の負債によって失われた。
正確には、最後にとどめを刺したのはレオノーラである。
「夜店なら、まだ開いているかもしれないわ」
「食堂の代わりに?」
「空腹は料理の格式を問わないでしょう」
「俺は問います」
「では、その格式を守ったまま空腹で帰る?」
「夜店を探しましょう」
判断が早いことは、美徳である。
大通りを二本曲がった先に、小さな屋台が一軒だけ残っていた。年配の店主が鉄板の上で薄い生地を焼き、刻んだ肉と豆、酸味の強い野菜漬けを包んでいる。食堂の料理と比較するのは失礼だろう。
主に、屋台の料理に対して。
「二つ」
「俺の分まで頼まなくて結構です」
「昼食も食べていないでしょう」
「あなたもでしょう」
「私は調査中に焼き菓子を食べたわ」
初耳だった。
「いつ?」
「あなたが鐘楼へ行っている間」
「俺が百八十七段の階段を上っていた間に?」
「展示補佐員が差し入れてくれたの」
「店主、二つお願いします」
「もう頼んだわ」
レオノーラは、俺が財布を出すより先に代金を払った。
「これで約束した夕食を済ませたつもりですか」
「代金は私が払ったでしょう」
「約束には酒二杯も含まれています」
「屋台に酒はないようね」
「つまり、まだ履行されていません」
「では、酒二杯は次回へ繰り越しましょう」
次回。
店主から受け取った包みを持つ手が、わずかに止まった。
「次も俺を連れていくつもりですか」
「嫌なの?」
「質問で返さないでください」
屋台の脇に置かれた木箱へ腰を下ろす。焼いた生地は少し硬く、肉には香辛料が効きすぎていたが、空腹は大抵の不満を黙らせる。少なくとも、料理について長い報告書を書く気は失せた。
「今日、俺たちが組んだのは偶然です」
俺は言った。
「招待券が二枚あった。たまたま事件が起きた。俺たちは館内に閉じ込められた。それだけです。次回を前提にしないでください」
「分かったわ」
レオノーラは素直に頷いた。
素直すぎる。
「何です、その顔は」
「何も」
「俺に黙って、何か依頼を受けていますね」
「まだ正式には受けていないわ」
「誰から?」
「王室財産院」
「断ってください」
「内容も聞かずに?」
「あなたが面白そうだと思っている時点で、俺にとっては面倒です」
レオノーラは食べかけの包みを膝へ置いた。
「西方の神殿で、聖人の遺筆が一夜のうちに別人の筆跡へ変わったそうよ」
「行きません」
「書庫は施錠されたまま。紙とインクも同一」
「聞いていません」
「神殿側は奇跡を主張し、王室側は文書の偽造を疑っている」
「説明を続けないでください」
「報酬は、今日の三倍」
俺は黙った。
レオノーラがこちらを見る。
「興味が湧いた?」
「金額の算定根拠を考えているだけです」
「王都から馬車で四日かかるから」
「行きません」
「宿泊費と食費は神殿側が負担する」
「行きません」
「封印書庫を設計したのは、エウリュディケ派の結界技師だそうよ」
俺は食べる手を止めた。
エウリュディケ派。
百年前に途絶えた結界学派である。術式を壁や扉へ刻むのではなく、建物の内部を巡る音の反響へ組み込む。残された実例は少なく、完全な状態で稼働している施設は、王国内に二つしかない。
「その情報を最後に出すのは卑怯です」
「報酬より効いた?」
「行くとは言っていません」
「ええ」
「依頼を受けるとも言っていない」
「分かっているわ」
レオノーラは残りの包みを食べ始めた。
俺が断り切れないと確信している顔だった。
腹立たしい。
さらに腹立たしいのは、その見立てが正しい可能性を否定できないことである。
包みの最後の一口を食べ終えたところで、別の疑問を思い出した。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「今日、なぜ俺を展示会へ誘ったんです?」
「招待券が二枚あったから」
「ほかにも知人はいるでしょう」
「いるわね」
「青涙に興味がある人間も」
「いるでしょうね」
「では、なぜ俺を?」
レオノーラは俺を見た。街灯の白い光が、その横顔へ淡く落ちている。
「あなたなら、私が青涙ばかり見ていても退屈しないと思ったから」
「実際には、出口を見ていました」
「でも、封印の違いには最初に気づいた」
「職業病です」
「反対印がないことにも」
「ほかの展示品と比較すれば分かります」
「私が何も頼まなくても、必要なところへ目を向けていた」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「だからよ」
九年も付き合っている。
互いに何ができるかは知っている。何を嫌い、何に興味を持ち、どこまでなら無茶を頼めるかも。
レオノーラが理屈を組み立て、俺が現実に成立するかを確かめる。それは役割分担であり、習慣であり、おそらくは彼女が言葉にしなかった選定理由でもある。
だが、改めて本人の口から言われると、どう答えればよいか分からない。
「人員の選定理由としては不十分です」
「そう?」
「少なくとも、業務が発生する可能性を事前に伝えるべきでした」
「私だって、事件が起きるとは思っていなかったわ」
「封印検査器具を俺の鞄へ入れていたのに?」
「念のためよ」
「次からは、自分の鞄へ入れてください」
「重いもの」
「俺の鞄へ入れれば軽くなると?」
「あなたが持つでしょう」
「当然のように言わないでください」
レオノーラは笑った。
彼女の信頼は、いつも少し重い。
物理的にも。
「それで、西方神殿は?」
「行きません」
「明日の昼までに返事が必要なの」
「俺の返事は今しました」
「では、明日の朝にもう一度聞くわ」
「結果は変わりません」
「そうかしら」
屋台の店主が片づけを始めた。俺たちも木箱から立ち上がる。
帰り道は途中まで同じだった。レオノーラは確認するまでもなく俺の隣を歩き始め、俺も別の道を選ばなかった。
青涙の事件は終わった。
宝石は盗まれず、誰も死なず、王国の平和も崩れなかった。代わりに、俺の休暇と夕食、それから翌週の予定が失われようとしている。
物がその場所に残っていても、奪われるものはあるらしい。
「フェリクス」
「今度は何です」
「神殿の近くに、葡萄酒で有名な宿があるそうよ」
「酒二杯の繰り越しを、出張の誘因に使わないでください」
「三杯にする」
「そういう問題ではありません」
「四杯?」
俺は返事をしなかった。
否定しなかったのではない。
検討する価値のない交渉だと判断しただけである。
少なくとも、今夜のところは。
諸々が終わったら続き書くかもしれないです。