―この小説は東方Projectの二次創作作品です―
一. 朔(さく)
月のない夜だった。
男は提灯を持たず、懐に一文の金銭も入れず、人里の木戸をくぐった。
夜の道は妖怪のものだと、幼子でも知っている。
だからこそ、男はその道を選んだ。
畦(あぜ)の草は夜露に濡れて、足首を冷たく撫でた。
どこかで梟(ふくろう)がひと声鳴きそして、やんだ。
男は歩きながら、自分の足音だけを聞いていた。
この足音が今夜で終わるのだと思っても、胸は凪(な)いでいた。
凪いでいることが、もう長いあいだ、男のたったひとつの持ち物だった。
『死のう』と決めてから、方法だけが決まらなかった。
後始末に人手のかかる死に方は嫌だった。
誰の手も煩わせず、あとに何も残らず、できることなら――
誰かの役に立つ、例えば餌として誰かの腹の足しになるような。
そんな都合のいい死に方は、ひとつしか思いつかなかった。
夜がひときわ濃くなったのは、里の灯が見えなくなった頃だった。
『闇』が、こちらへ来る。
星をひとつずつ呑みながら、道の上を転がるように。
男は立ち止まり、両腕をひろげた。
「食ってくれ」
闇の縁(ふち)から小さな影が滑り出た。
金の髪、赤いリボン、童女のなりをしたーー
宵闇の妖怪は男のまわりをゆっくり一周して、鼻を鳴らした。
「……あなたまずそう」
「なんでもいい。頼む、食ってくれ」
「食べてもいいけど…でも食べたくない。あなたからは、砂の匂いがする」
「砂?」
「死にたがりの人間の匂い。妖怪はね、肉じゃなくて、命の惜しさを食べるの。あなたのは出涸らしにもならない」
妖怪はつまらなそうに宙で伸びをした。
「生きたくなったら、また来て」
闇が窄(すぼ) まり、夜の向こうへ転がっていく。
途中で『ごつん』と木にぶつかる音がして、「いった」と幼い声がした。
男はただひとり、道に取り残された。
両腕は広げたままだった。
人喰いにさえ『要らない』と言われた気がして、笑おうとしたが、頬は動かなかった。
二. 三日月
それから男は、夜ごと道に立った。
三日月の細い晩、妖怪はまた現れた。
というより、男がいつまでも動かないので、闇のほうが根負けした。
「あなたまだいたの」
「食ってくれるまで来るさ…」
「しつこい人間って、えぐみが出てまずいんだよね。」
妖怪は宙に胡座(あぐら)をかいて、男を眺めた。
「なんで、そんなに食べられたいの」
男は答えなかった。
答えの代わりになるものなら、いくらでもあった。
流行り病がひと冬で親を攫っていったこと。
子どもの時、姉とふたりで夜道の妖怪に遭い、姉だけが攫われたこと。
あの晩、闇は男の前で立ち止まり、値踏みするように眺めて、それから素通りした。
「要らない」と言われた気がした。
以来、男は自分を『残された』のではなく『選ばれなかった』のだと思って生きてきた。
里の者は男を通して、向こうの景色を見るような目をした。
田は瘦せ細り、囲炉裏の灰は白く、誰の膳にも男の箸は並ばなかった。
長い沈黙のあとで、男は言った。
「せめて、誰かの腹の足しになりたいんだ」
妖怪はどこから盗んできたのか、干し柿を齧(かじ)りながら、「ふうん」と鼻を鳴らした。
「あのね。まだ青い果物をもいで食べる馬鹿はいないのよ」
「……なに?」
「あなたは青いの。渋くて、砂の味で、食べられたものじゃない。でも――」
妖怪は種をぷっと吐いて、初めてニッと笑った。小さな牙が見えた。
「そうね…熟れたら、食べてあげる。あんたが死にたくないって思った日にね。約束よ。だからそれまで死んじゃだめ。」
「そんな無茶苦茶な…、生きたくなった人間を食うのか」
妖怪は両腕を水平にひろげ、くるりと回った。
「妖怪って、そーいうものだもん」
それから妖怪は、指を折りながら注文をつけた。
・飯をちゃんと食うこと。
・夜はちゃんと眠ること。
・体を冷やさないこと。
・ときどき、ちゃんと怖がること。
「瘦せた人間はすじばってて不味いし、寝てない人間は苦いし。」
「おまえの名は」
「ルーミア。宵闇の妖怪よ。」
三. 上弦
冬が来た。
男は腹を立てながら飯を炊いた。「食われて
屋根を直したのは、凍えた体は瘦せて不味くなると言われたからだ。
畑に出たのは、「土の匂いのする人間は味が濃い」と妖怪が真顔で言ったからだ。
おそらく出鱈目だ。あの妖怪の「味」の話は、どこまでも出鱈目くさかった。
けれど出鱈目を確かめる術は、生きて食われてみる他ない。
屋根に上がっていると、隣家の童が下からじっと見上げていた。
数日して、童の親が芋を何本か、黙って軒先に置いていった。
里は、男の見かたを少しずつ思い出しつつあった。
上弦の晩、男は焼き芋をふたつ持って道に立った。
「人喰い妖怪なんだろう、おまえは」
「別に人間しか食べないなんて、言ってないもん」
ルーミアは芋を両手で持ち、はふはふと食べた。闇の中で、湯気だけが白かった。
妖怪は自分の張った闇の中では、自分も何も見えないのだという。
だから飛べば木にぶつかり、屋根にぶつかり、ときどき湖に落ちる。
男は呆れて、夜道を行く闇の先を歩くようになった。
右に松、下がってる枝、石。
闇はおとなしく、男の声についてきた。
誰かの役に立つのはいつ以来か、男にはもはや思い出せなかった。
死んでからのはずだったそれがなぜか、生きているうちに始まっていた。
一度、赤いリボンがほどけかけているのに気づいて、手を伸ばした。
ルーミアはひどく素早く飛びのいた。
「触っちゃだめっ」
「どうして?」
「お守りだから。あたしにもほどけないの」
それきり妖怪は何も言わず、男も訊かなかった。
雪の晩、ルーミアは男の袖口に鼻を寄せて「うーん」と唸った。
「まだまずい匂い。……でも、前よりまし」
「そうか」
「そーなの」
どちらのものともつかない相槌が、白い息になって消えた。
春が近づく頃、男は朝、焼き芋を半分残している自分に気がついた。
「今夜の分」と思ってから、『今夜』という言葉を自分が当たり前に使っていることに気がついた。
当たり前というものは恐ろしい速さで積もる。雪よりも、静かに…
四. 朧(おぼろ)
春の宵(よい)、朧月の晩、男はいつもより早く木戸を出た。
畦(あぜ)に見慣れない気配があった。
草を分けて現れたのは、あれとは違う闇だった。
獣のかたちをして、提灯ほどもある眼がふたつ、濡れて光っていた。
腹を空かせた口だけの妖怪。餌の値踏みなど、況(ま)してや味など問わない。
男は本能で駆け出していた。
転び、泥を掴み、立ち上がり、また転んだ。
背後で草の折れる音が迫る。
『死にたかったはずだ』と男の頭のどこか片隅がそう言った。
『ちがう』と全身が答えた。
喉から迸(ほとばし)ったのは、あの妖怪の名だった。
「ルーミア――!」
別の闇夜が落ちてきた。
朧月も、獣の眼も、世界ごと呑まれた。
男は自分の心臓の音の中に沈んだ。
そのすぐそばで、小さな手が男の袖を掴んでいた。
「しゃがんで。息殺して、音立てちゃダメ。」
幼い声が、荘厳な静けさで言った。
闇の外で、獣が苛立つ気配がした。
爪が土を掻き、鼻が空を探り、見えない獲物に牙を鳴らして――やがて、遠ざかった。
闇が薄れ、朧月が戻ってきたとき、男は畦に膝をついていた。
掴んだ草の冷たさ。泥の匂い。荒い息。
『生きている』という感覚が、体じゅうを脈打たせていた。
「……死にたくない」
そう口に出した自分に男は驚いた。
「死にたくない。死にたく、ない」
一度こぼれると、止まらなかった。
二十年ぶんの言葉が、たったひとつのかたちと成り、あとからあとから溢れ出た。
ルーミアは宙に浮いたまま、じっと男を見下ろしていた。
すんと鼻を鳴らした。
「……ああ」と、妖怪はうっとり呟いた。
「そーなのか、いい匂いね。やっと熟れた」
小さな手が伸びて、男の顎に触れた。
牙のならんだ口が、ゆっくりひらく。
約束の刻限(とき)だった。
男は目を閉じ――られなかった。
『生きたいと思いながら死ぬ』のは、こんなにも怖いのか。
長い長い一拍のあと、ルーミアはぱっと手を離し、ぷいと横を向いた。
「――うーん、やっぱまだ青い」
「……え?」
「熟れすぎる直前が一番美味しいの。あなたはまだまだ。ぜーんぜん」
「おまえ今、いい匂いねって」
「そーなのかー?」
妖怪は両腕をひろげ、聞こえないふりで宙をくるくる回った。
約束はこうして、夜の向こうへ延ばされた。
「いつまで」と男は訊かなかった。
訊けばルーミアが律儀に答えてしまいそうで、
それが怖かったのは、たぶんお互い様だった。
五. 望(もち)
満月の晩は、妖怪の出も少ない。
里の者が提灯なしで歩けるほどの明るさだ。それでも男は木戸を出た。
銀色の道の上を夜の塊がひとつ、コロコロと転がってついてくる。
ルーミアは月の光が嫌いで、満月の晩は自分の闇にくるまって出てくる。
まん丸の夜が、まん丸の月の下を行く。側(はた)から見ればおかしな連れだった。
「今日は眩しいなぁ…」
闇の中から、声だけがする。
「新月まで待ってくれ。……苗が付いたんだ。今年は畝(うね)をふた筋増やすつもりだ」
「ふうん。土の匂いがする人間は味が濃いんだよ」
「それは出鱈目なんだろう?」
「そーなのかー」
木戸の前で男は足を止めた。夜の塊が、ごつんと背中にぶつかって止まった。
「じゃあな」
男は言った。
それからずっと持たずにきた言葉を、口の中で確かめてから、そっと置いた。
「――また、明日ね」
『明日』と、噛みしめるとその言葉は微かに甘く感じた。
青いまま齧(かじ)った実のような、これから熟れていくものの味がした。
闇の中で、妖怪が笑った気配がした。
「そーなのかー」
六. 十六夜
十六夜の月は、出るのをすこし躊躇う。
ルーミアも道の上でずいぶん躊躇ってから、今夜も男が来ないことをようやく認めた。
本来、妖怪は時を数えない。数える理由がないのだ。
けれど「来ない夜」だけは、なぜか数えられた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数はそこで崩れ、またひとつから始まる。
男が来ない訳は知っていた。
男が夜に用がなくなったのだ。
田畑がふえて、朝が早くなった。
里の後家(ごけ)と縁談がまとまって、祝言の日には、
昼のうちから酒の匂いが木戸の外まで流れてきた。
やがて赤子の泣き声が、夕餉(ゆうげ)の煙にまじるようになった。
『生きる』とは、夜を眠りに明け渡すことだ。
『死にたさ』が男を夜へ呼び、『生きたさ』が男を夜から連れ去った。
ルーミアはそれを、たぶん里の誰よりも正しく分かっていた。
『分かること』と『寂しくないこと』は別の話だった。
いつもの道を独りで飛んだ。ごつんと音がした。
右の松だった。松は教えてくれる者がいないと、ちゃんとぶつかってくる。
「……いたた」と言っても、誰も笑わなかった。
七. 下弦
猪(いのしし)は硬い。雉(きじ)は小骨だらけ。兎は追うだけ追わせて、穴に消える。
ルーミアは近頃、専らそういうものを食べている。人間はもうあまり食べない。
理由は自分でもよく分からなかった。
唯、夜道を行く人間から、いつからかあの匂いがするようになったのだ。
焼き芋の匂い、『明日』の匂い、誰かの膳に並ぶ飯の匂い。
どの人間の奥にも、青いまま熟れていく途中のものが透けて見えた。
食べ物の来(こ)し方を一度知ってしまうと、それはもうただの肉には戻らない。
或る晩、雉を齧っていると、紅白の巫女が降りてきた。
「近ごろ夜道で人が襲われないって、里で評判よ」
「雉、食べる?」
「いらないわよ。……あんた、なんか変わった?」
「猪が硬いだけ」
巫女は肩を竦(すく)め「その様子なら暫く退治はしないであげるわ」と言い残して、
月のほうへ帰っていった。お仕置きは怖い、それは本当だ。
本当は半分だけだった。残りの半分をルーミアは自分に訊かないことにしていた。
訊けば答えてしまいそうだったから。
「そーなのかー」と自分で自分に恍(とぼ)けておいた。
八. 有明
男は、時々思い出したように夜へ来た。
来る度に匂いが濃くなっていた。土の匂い、汗の匂い、赤子の乳の匂い。
親を送った年には線香の匂い、それから白髪の匂い。
妖怪は時を数えないが、男の生え際がルーミアの暦(こよみ)になった。
一度だけ、約束事の外で会った夜がある。
木戸が乱暴に鳴って、男が転がり出てきた。
背に、熱で頬の赤い子を負ぶっていた。
医者の家は川の向こう。提灯の火は男の手の中で震えていた。
ルーミアは何も言わなかった。
唯、道の先に蟠(わだかま)る闇という闇を片端から自分の腹に呑んだ。
今夜だけ、この夜道の妖怪は全部、わたしの中。
男は走った。まん丸の夜が露払いのように先を転がった。
数日して、木戸の外の石の上に焼き芋が二つ置いてあった。
とうに冷めていた。冷めた芋は、あたたかい味がした。
九. 晦(つごもり)
それから、いくつもの冬が過ぎた。
晦の晩――月が世を留守にする晩に、男は杖をついて木戸を出てきた。
連れ合いは一足先に送った。子は子の家を持った。
男はゆっくり歩いた。急ぐ用はもうどこにもなかった。
闇は、昔と同じ様に転がってきて、昔と同じ様に男を一周した。
「よう」と男は言った。
「約束を果たしに来た。今の俺は美味いはずだ。――熟れすぎる直前、ってやつだろう」
ルーミアは鼻を鳴らした。
本当にいい匂いがした。
よく実って、よく干されて、これ以上は一日も待てない、という匂い。
気の長い食いしん坊の口の中に、四十年ぶんの唾が湧いた。
ルーミアは口を開けた。そして、大きな欠伸をした。
「――やだ」
「おい。約束が違う」
「とっくに食べてるもん」
男は眉を寄せた。ルーミアは宙に胡座(あぐら)をかいて、指を折った。
「妖怪はね、肉じゃなくて、命の惜しさを食べるの。最初に出会った時にそう言ったと思うけど。」
「……言ったな」
「あなたが『また明日』って言う度、ちょっとずつ食べてたの。焼き芋のお礼も。子どもの熱の晩の、心臓の音も。祝言の酒の匂いも。四十年間、毎晩。あたしはあなたを、この世で一番時間を掛けて食べたの。だから、もう」
妖怪は、小さな腹をぽんと叩いた。
「おなかいっぱい」
男は暫く黙って、それから腹の底から笑った。
咳がまじって、笑いはなかなか終わらなかった。
「長い飯だな、おい」
「そーなのかー」
笑いおさめて、男は星のない空を仰いだ。
「……腹の足しにはなれたか」
「うん」
即答だった。若い頃に欲しかった言葉は、年をとってから届いてもちゃんと効いた。
男は、「そうか」とだけ言った。
「じゃあな」男は杖を握り直し、それからいつもの場所にいつもの言葉を置いた。「――また、明日」
明日、男は来なかった。その次の日も。
ルーミアは毎晩、道に出た。約束は、片方だけでも守れる。
冬の最中、里から鉦(かね)の音がして、白い野辺(のべ)送りの列が畦を行った。
ルーミアは森の際で自分の闇を一番小さく丸め、それが見えなくなるまで見ていた。
墓標には男の名が彫られたが、読まなかった。名前ならとっくに知っている。
その晩、誰もいなくなった墓の前に、どこかの軒(のき)から盗まれてきた干し柿が、ひとつ置かれていた。
(Claude Fable 5 Max と共作)