砂漠の風が静かに吹き抜ける。
廃墟となった施設。
人の気配はない。
いや...一人だけいた。
「来ると思っていましたよ」
聞き慣れた声。
黒い燕尾服。
黒いシルクハット。
変わらぬ笑みを浮かべ、黒服は静かに先生を迎える。
「先生」
「ご機嫌よう」
先生は足を止める。
「ホシノはどこ?」
「挨拶も無しですか」
黒服は小さく肩を竦める。
「少々寂しいですね」
「質問に答えて」
先生の声は静かだった。
怒気はない。
けれど、一歩も引く気はない。
黒服は微笑みを崩さない。
「安心してください」
「彼女は自らの意思で、我々の元へ来ました」
「誰も強制はしていません」
「そう」
先生は短く返す。
「契約書を見せてもらえるかな」
黒服は一瞬だけ目を細めた。
「......意外ですね」
「もっと感情的になるかと思っていました」
「見せて」
「もちろんです」
黒服は懐から一冊の書類を取り出し、先生へ差し出した。
「隠す理由もありません」
先生は受け取り、静かにページをめくる。
紙をめくる音だけが、廃墟に響いた。
黒服は何も言わない。
ただ先生が読み終えるのを待っている。
やがて。
最後のページを閉じる音が響いた。
「なるほど」
先生は小さく頷く。
「契約内容そのものに問題はない」
「ええ」
黒服も頷く。
「ホシノさんは内容を理解し、自ら署名しました」
「私は一切強要しておりません」
「そこは疑っていない」
先生は契約書を閉じた。
「でも」
「この契約には、一つだけ問題がある」
黒服の笑みは変わらない。
「ほう?」
「この契約は」
先生は契約書を軽く持ち上げる。
「ホシノがアビドスを退学することを前提としている」
「そうですね」
「そして」
先生は黒服を見る。
「生徒が退学するには、学校側の受理が必要だ」
「......」
「私は、ホシノの退学届を承認していない」
その瞬間だった。
黒服の笑みが止まる。
ほんの一瞬。
僅かな沈黙。
「......」
先生は続ける。
「退学は成立していない」
「つまり、ホシノは今もアビドスの生徒だ」
「先生である私が承認していない以上」
「この契約は前提条件を満たしていない」
黒服は静かに目を閉じる。
そして小さく息を吐いた。
「......詭弁ですね」
「契約の意思表示は既に済んでいます」
「残っているのは事務手続きに過ぎません」
「そうかもしれない」
先生は否定しない。
「でも」
「受理されていない」
それだけだった。
「私は承認しない」
「先生として」
「この契約を認めることはできない」
黒服は先生を見つめる。
やがて、静かに口を開いた。
「先生」
「貴方は誤解しています」
「ホシノさんは、自ら望んでこの道を選びました」
「その覚悟を、尊重すべきでは?」
「尊重するよ」
先生は即座に答えた。
「彼女がどれだけ悩んで、その答えを出したのかも分かっている」
「だから否定はしない」
一歩。
先生は黒服との距離を詰める。
「でも」
「生徒が一人で全部背負おうとしているなら」
「先生は止める」
黒服は目を伏せる。
「......それが教師の責務ですか」
「そうだよ」
「だから」
「私は承認しない」
「受理されていない以上、この契約は成立していないと主張し続ける」
「たとえ最後まで」
再び静寂が落ちる。
黒服は長く考え込むように先生を見つめた。
そして、静かに口を開く。
「危険ではないですか?先生」
「貴方のような脆い身体では、この窮地に立ち向かうことはできないでしょう?」
「ですから、ここで引くことを、お勧めします」
「これは、生徒の問題、という枠組みでは疾うにないのです。大人が介入する隙間など...」
先生は何も答えなかった。
ただ、ゆっくりとコートの内ポケットへ手を入れる。
そして、一枚のカードを取り出した。
黒服の瞳が見開かれる。
「......!」
初めてだった。
その表情から、余裕が消えたのは。
「先生......」
黒服の声が僅かに揺れる。
「それを」
先生は何も言わない。
ただ静かに、そのカードを指先で挟んだまま黒服を見つめ返す。
二人の間に、長い沈黙が流れる。
やがて黒服は、小さく笑った。
いつもの笑みだった。
だが、その笑みには先程までの余裕はなかった。
「......やはり」
「貴方を敵に回すのは、得策ではありませんね」
黒服は一歩、後ろへ下がる。
「今日のところは退きましょう」
「ですが先生」
「次にお会いする時には」
「互いに、引き返せない場所まで進んでいるかもしれません」
そう言い残し、黒服の姿は砂煙の向こうへ消えていった。
次の瞬間、端末に送られてくる位置情報。それが、ホシノの居場所を示していることは、明白だった。
先生は静かにカードをしまう。
そして、誰もいなくなった廃墟を見渡した。
「待っていて、ホシノ」
小さく呟く。
「必ず迎えに行くから」
ーーーーーーーーー
カイザーコーポレーション本社。
最上階。
重厚な応接室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
シオンは柔らかな笑みを浮かべながら部屋へ入る。
「ご無沙汰してます、カイザーさん」
窓際の椅子に腰掛けていた男が視線を上げる。
「明星社長か」
「前に会ったのは...確か半年ほど前だったな」
「そうそう」
シオンは嬉しそうに頷く。
「あの時は新しい発電ユニットの納品だったね」
「性能には満足している」
「それは良かった」
昔話は、そこで終わる。
シオンはソファへ腰掛けた。
その後ろ。
部屋の隅では、一人の少女が壁へ背中を預け、腕を組んで立っている。
視線は窓の外。
交渉など興味がないと言わんばかりだった。
男は一瞥する。
「護衛まで連れてきたか」
「社員が心配性でねぇ」
シオンは困ったように笑う。
「社長は一人で歩かせるなって」
「いい会社でしょぉ?」
「......そういうことにしておこう」
男は鼻で笑う。
「それで」
「今日は営業ではあるまい」
「うん」
シオンは鞄から一冊のファイルを取り出した。
「今日は、お仕事のお話」
ファイルを机へ置く。
「アビドス自治区について」
男の目が細くなる。
「続けろ」
「まず最初に確認なんだけど」
シオンは一枚目を取り出す。
「現在、御社PMCが使用している外骨格装備」
「全部、うち製だよね?」
「そうだ」
「契約に基づいて購入した」
「うん」
シオンは頷く。
「私もそう思ってた」
ページをめくる。
「だから調べた」
一枚。
机へ置く。
「販売記録」
二枚目。
「製造記録」
三枚目。
「輸送記録」
四枚目。
「輸出許可」
男は資料へ目を落とす。
「......」
「全部確認した」
シオンは笑顔のまま言う。
「でもね」
「二十七機分」
「記録がないんだ」
部屋が静まり返る。
「管理番号の入力漏れだ」
男は即答する。
「あるかもしれないねぇ」
シオンは素直に頷いた。
「だから工場も調べた」
五枚目。
「生産ライン」
「稼働履歴」
六枚目。
「部品発注」
「七枚目」
「品質検査」
「全部照合済み」
シオンは小さく肩をすくめる。
「当然ながら、作ってない物は売れないんだよねぇ」
男の指先が僅かに止まる。
「......なるほど」
「面白い資料だ」
「でしょ?」
シオンは嬉しそうに笑う。
「私も最初びっくりしちゃって」
「じゃあこの装備、どこから来たんだろうって思ったんだけど...」
男は答えない。
シオンも急かさない。
数秒の沈黙。
それだけで十分だった。
「あ、まだあるよ」
新しい資料を開く。
「弾薬」
「整備部品」
「交換用フレーム」
「燃料」
一枚ずつ。
静かに並べられていく。
「全部、契約数量を超えてるね」
男は資料を見つめる。
「これだけの追加物資、どこから補充したの?」
返事はない。
シオンは少し困ったように笑った。
「私ね、最初は横流しかと思ったの...だから社員のみんなにお願いして、一週間かけて調べてもらった」
その笑顔は変わらない。
「そしたら」
「横流しじゃなかった」
「もっと悪かった」
部屋の空気が、一段冷える。
シオンは最後のファイルを開いた。
「無許可製造」
「契約違反」
「兵器管理法違反」
「輸送記録偽装」
「会計記録改ざん」
資料を閉じる。
「うーん」
「これ」
「結構大変だね」
男はようやく笑った。
低く。
威圧するような笑みだった。
「明星社長」
「少々頭が回るようだな」
「えへっ、ありがとう、褒められちゃった」
「だが」
男が指を鳴らす。
重い扉が開く。
武装したPMC隊員たちが次々と部屋へ入り込む。
ライフル。
防弾装備。
十数人。
あっという間にシオンを取り囲んだ。
「ここがどこか、忘れたか?」
男が椅子にもたれ直す。
「これ以上、生意気な口を利くなら。大人の怖さを教えてやらねばならなくなるな」
シオンはその光景を見回した。
「......あー」
小さく笑う。
「やっぱり、そうなるかぁ」
困ったように頬を掻く。
「交渉って苦手なんだよね」
そして。
振り返る。
「ネルちゃん」
その一言だけだった。
ずっと壁にもたれていた少女が。
静かに背中を離す。
ゆっくりと。
一歩。
また一歩。
床を踏む靴音だけが、静かな応接室に響く。
PMC隊員たちは一斉に銃口を向けた。
しかし少女は気にも留めない。
歩みは止まらない。
「止まれ!」
一人が怒鳴る。
少女はようやく顔を上げた。
「......は?」
気の抜けた声だった。
それだけで、隊員たちの肩が僅かに揺れる。
少女は首を鳴らしながら、なおも歩く。
「大人の怖さだぁ?」
男は眉をひそめる。
少女は笑った。
獲物を見つけた獣のような笑みだった。
「まさか」
また一歩。
「これが」
もう一歩。
「じゃねぇだろうな?」
その瞬間。
一人のPMC隊員が、少女の顔を見て固まった。
「......っ」
目が見開かれる。
「お、おい......」
隣の隊員へ震えた声を漏らす。
「あれ......」
「まさか......」
隣も少女の顔を見る。
そして息を呑んだ。
「う、嘘だろ......」
部屋の空気が変わる。
ライフルを握る手が、僅かに震え始めた。
「Cleaning&Clearing......」
誰かが呟く。
「美甘......ネル......!」
その名前が広がる。
一人。
また一人。
隊員たちの表情から余裕が消えていく。
男だけが状況を理解できず、眉を寄せた。
「何をしている」
「さっさと撃て」
誰も動かなかった。
「聞こえなかったのか!」
「撃て!たかが小娘に何を億す!!」
命令が飛ぶ。
それでも。
誰一人として引き金へ指を掛けられない。
ネルは鼻で笑った。
「私相手に撃つ気あんのか?」
誰も答えない。
「なら来いよ」
両腕を広げる。
「一人でもいい」
「全員でもいい」
「相手してやる」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて。
一人の隊員が、ゆっくりと銃口を下ろした。
それを見た別の隊員も。
また一人。
また一人。
金属音を響かせながら、銃口が床へ向いていく。
「お、お前ら!」
男が立ち上がる。
「何をしている!」
誰も返事をしない。
ネルは男の前まで歩いていく。
止める者はいない。
隊員たちは自然と左右へ分かれ、一筋の道ができていた。
男の机の前で足を止める。
机へ両手をつく。
少しだけ顔を近付けた。
「脅しってのはよ」
低い声だった。
「相手選んでやれ」
男の額を、一筋の汗が流れる。
「ウチの社長は優しいから」
「ちゃんと話し合いしようとしてんだ」
ネルは笑う。
「でも」
「私だったら」
僅かに目を細めた。
「もう始めてるぜ?」
男は息を呑む。
その時だった。
「ネルちゃん」
後ろから、穏やかな声が響く。
「会社壊しちゃ駄目だからね?」
ネルは大きく舌打ちした。
「......ちっ」
「分かってるよ」
肩を竦め、そのまま二、三歩下がる。
そして先ほどまでと同じように壁へ背中を預けた。
まるで何事もなかったかのように腕を組む。
シオンは苦笑する。
「ごめんね」
「ちょっと短気なんだ」
「......」
男は何も返せない。
シオンは再びファイルを開いた。
「さて」
何事もなかったように一枚の資料を取り出す。
「お話の続きをしよっか」
その一言で。
この部屋の主導権は、完全にシオンのものになった。
男はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
先程までの余裕は消えている。
シオンはその様子を見て、小さく苦笑した。
「怖がらせるつもりじゃなかったんだけどなぁ」
「ネルちゃん、ちょっと有名だから」
「......」
返事はない。
シオンは資料を一枚取り出す。
「さて」
「本題に戻ろっか」
男は静かに睨み返した。
「......何が望みだ」
「簡単だよ」
シオンは笑う。
「PMCをアビドスから撤退させて」
「それだけ」
「断る」
即答だった。
「アビドス事業は、既に我々の計画の一部だ。今さら止められるものではない」
「そっか」
シオンはあっさり頷いた。
「じゃあ仕方ないね」
男の眉が動く。
「......何?」
シオンは最後のファイルを開いた。
「実はね、さっき見せた資料まだ半分なんだ」
男の表情が固まる。
「残りはうちの法務部がまとめてくれてる」
一枚。
「兵器管理局提出用」
もう一枚。
「連邦生徒会提出用」
さらに一枚。
「監査委員会提出用」
最後の一枚。
「取引先企業一斉通知用」
机の上へ並べる。
男の顔色が変わった。
「......貴様」
「うん?」
「脅迫するつもりか」
シオンは首を傾げた。
「え?違うよ?」
本当に不思議そうだった。
「これ、お仕事だから。会社で違反が見つかったら報告する...それだけ」
男が机を叩く。
「明星!」
応接室に怒声が響く。
シオンは少し肩をすくめた。
「怒鳴らないでよぉ、びっくりするじゃん」
男は歯を食いしばる。
「我々が倒れればお前たちも困るぞ!」
「うん」
シオンは素直に頷いた。
「困るねぇ。長い付き合いだし、結構いいお客さんだったし」
「...だから」
少しだけ寂しそうに笑う。
「こんなことになってほしくなかった」
その一言に、男は言葉を失う。
「私ね、今日ここへ来たのは、喧嘩しにってわけじゃない」
「取引先だから、最後に一回だけ、確認したかったの」
静かに男を見る。
「本当にアビドスから手を引かないの?」
応接室が静まり返る。
男は目を閉じる。
数秒。
長い沈黙。
そして。
「......できん」
低い声だった。
「今さら止められん」
「そう」
シオンはゆっくり頷く。
「分かった」
その返事を待っていたように、ファイルを閉じる。
立ち上がる。
「じゃあ、私は社長のお仕事するね」
男が目を見開く。
「待て!まだ話は終わっていない!」
「終わったよ」
シオンは穏やかに笑った。
「今ので確認できたから、これから法務部が連邦生徒会へ資料を提出する」
「...同時に」
「契約違反を理由に、アークライト・ミレニアはカイザーPMCとの全契約を解除」
「保守、補修部品、弾薬供給、技術支援。全部止める」
男の表情から血の気が引いていく。
「ま、待て......!」
「それだけじゃないよ」
シオンは続ける。
「取引企業にも通知する。違法兵器を扱ってる会社とは、みんな取引したくないもんね」
「貴様ぁ......!」
男が立ち上がる。
しかし、もう先ほどのように怒鳴ることはできなかった。
怒鳴ったところで、壁際に腕を組んで立つ少女がいる。
その存在だけで、足が止まる。
シオンは軽く頭を下げた。
「今までありがとうございました」
「本当は...これからも良い取引先でいたかったよ」
踵を返す。
扉へ向かって歩き始める。
誰も止められない。
その背中へ。
男が震える声で叫んだ。
「......待て!」
「PMCを撤退させる!」
シオンの足が止まる。
「アビドスから部隊を引く!」
「だから......!」
「資料は......!」
その言葉に、ゆっくりとシオンは振り返る。
「それ...最初に言ってくれたら、一番良かったのに」
男はビクッと肩を震わせた。
シオンは、もはや笑っていなかった。
感情の一切を配したような無表情。屠殺される直前の家畜を見つめるような、底の見えない不気味さ。
目の前の女がその気になれば自分なんぞ捻り潰すだけの力があると、そう嫌でも分からさせられた。
シオンは数秒考えた後、小さく頷いた。
「分かった。撤退が確認できたら、提出は一旦保留にする」
「...ただし」
そこでやっと、いつもの笑みを浮かべた。
「二度目はないからね」
男は力なく頷いた。
その姿を見届けると、シオンは応接室を後にした。
ーーーーーーーーー
「はぁ......」
大きく息を吐く。
「疲れたぁ......」
頭を押さえながら苦笑する。
「やっぱり交渉って苦手」
隣を歩くネルが、そんなシオンを鼻で笑う。
「ったく、どこがだよ。相手、半泣きだったぞ」
「ネルちゃんが怖かったんだよ」
「おめぇだよ!!」
その時。
スーツ姿の秘書が小走りで駆け寄ってきた。
「社長」
「たった今、確認が取れました」
「カイザーPMC」
「アビドス方面から撤退を開始しました」
シオンは目を閉じる。
張り詰めていた肩の力が、ようやく抜けた。
そして、小さく笑う。
「......良かった」
果たして、先生は上手いことやれたのかな。
シオンは悠然と、そんなことを考えているのだった。