名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
パンを四枚焼いた朝、私は自分のぶんを数え忘れた。
いや、忘れたというのは少し違う。アデルは朝稽古のあとだから二枚。ミナは小さいくせによく食べるので二枚。シエナは放っておくと朝食を抜くから一枚、目の前で食べるまで監視つき。そこまで数えて、生地が尽きたのだ。
つまり最初から私が入っていない。計算としては間違いだけれど、朝麦亭ではよくあることである。
「フィア」
背中から声がした。聞こえなかったことにして、窯の蓋を閉める。焼けた麦と蜂蜜の匂いが厨房いっぱいに広がっていた。いい出来だ。今朝のパンは表面がきちんと狐色で、底も焦げていない。これなら宿代を滞納している旅人へ出しても、文句を言われる心配はない。
「フィア」
二度目は近い。
「はいはい、聞こえてますよ。朝からそんな怖い声を出すと、パンが縮みますって」
「縮ませているのはお前だよ」
オルガ母さんが、作業台の向こうから皿を一枚持ち上げた。大きな手に、一枚だけ残った平焼きパンが乗っている。おかしい。
数えたときには、たしかに四枚しかなかった。
「どこから出しました?」
「お前が隠した生地から」
「隠してません。明日の種として休ませていただけです」
「蜂蜜まで塗った種があるものか」
ばれていたらしい。じつは少しだけ余った生地を、窯の端へ入れておいた。三人へ出して、余れば食べようと思っていたものだ。余らなければ、それはそれでいい。昼になれば味見の仕事もあるし、水を飲めばお腹はそれなりに納得する。
私のお腹は聞き分けがいい。たまに礼儀を忘れて、祈りの時間に鳴くけれど。
「座りな」
「お客さまのスープがまだです」
「煮えてる」
「二階の三号室へお湯を」
「ミナに頼んだ」
「裏口の雪かきは」
「アデルがやってる」
「シエナが薬草を焦がしているかもしれません」
「お前はあの子をなんだと思ってるんだい」
術式師。無口。きれい。怒ると怖い。薬草を煎じるときだけ火加減が雑。最後の一つを答えたら、頭を小突かれた。
「仕事を探す前に食べな」
椅子を蹴り出される。朝麦亭の厨房は、四人で使うには狭い。八人で使うと肘がぶつかり、十二人で使うと誰かが皿を割る。なのに母さんはいつも厨房の丸卓へ人を集める。寒い村では、近くに座ったほうが薪の節約になるからだそうだ。私はたぶん、薪と同じ扱いで置かれている。
便利で、燃えるもの。
「おはよー。あ、焼けてる!」
扉が開いた途端、ミナが蜂蜜パンへ飛びついた。淡い金髪が寝癖で左右へ跳ねている。治癒術師の見習いになって半年。白い外套は一人前に見えるけれど、その下の寝間着が見えているので、今朝のところは半人前だ。
「顔を洗いました?」
「洗ったよ」
「髪は?」
「寝てるうちにこうなったの。私の責任じゃない」
「寝癖に責任を押しつける人、初めて見た」
ミナは答えず、私の背中へ抱きついた。朝は毎回これである。冷たい頬を肩へ押しつけ、暖炉代わりにするのだ。
「あったかい」
「使用料はパン半分ね」
「やだ。フィアが払って」
「抱きつかれてるほうが?」
「うん」
理不尽だ。でも、ミナが眠そうに笑うと、まあいいかと思ってしまう。十六歳にもなって毎朝くっつくのはどうかと思うけれど、本人が嫌がるまで追い出す理由もない。小さいころ、熱を出した夜はこうして背中から抱いた。身体が冷えないよう、朝までずっと。あのころは私のほうが大きかった。いまはほとんど同じ背丈で、少し悔しい。
「雪、ひどくなってきた」
アデルが裏口から入ってきた。黒髪にも、肩にも、白い粉が積もっている。冬至までまだ四十七日。北の村では早い雪も珍しくないけれど、今朝の空気は妙に冷たかった。手袋を外した指が赤い。
「ちゃんとした手袋を使って」
「これで十分」
「穴が三つあります」
「指は五本ある」
「二本しか守れてないじゃない」
予備を取りに行こうとしたら、腰帯をつかまれた。
「座って食べろ。手袋くらい自分で取る」
「場所、分かる?」
「物置の二段目」
「三段目です。二段目は塩漬け肉」
「なら肉も持ってくる」
朝から頼もしい発言である。アデルは一年前から王国騎士団の候補生になり、隣町の詰所で訓練を受けている。背も伸びたし、腕も太くなった。腰には本物の剣。小さいころ、白夜の風が鳴るだけで私の背中に隠れていた子と同じだとは思えない。
それを言うと怒るので、最近は黙っている。
「火を弱くした」
最後に地下室から上がってきたシエナは、きちんと着替えていた。銀色の短い髪にも乱れがない。青紫の目が厨房を一周し、窯、鍋、窓、私の皿で止まる。
「食べるの?」
「食べますよ」
「そう」
たったそれだけなのに、疑われた気がする。シエナは私の向かいへ座り、自分のパンへ手を伸ばさずに待った。たぶん、私が先に食べるか見ている。失礼な。
私は食べるときは食べる。食べないときが少し多いだけだ。
「では、いただきます」
パンを割った。湯気と一緒に蜂蜜の匂いが立つ。四人の視線が集まっていた。母さんまで腕を組んで見ている。
「皆さん、私の朝食に興味を持ちすぎでは?」
「お前がきちんと食べるのは村の祭りより珍しいからね」
「そこまでではありません」
「去年の冬至祭、菓子を全部子どもへ配った」
「泣かれたので」
「春祭りは串肉を迷子へ渡してた」
「お腹がすいていたみたいで」
「収穫祭」
「分かりました。食べます。食べればいいんでしょう」
かじる。表面は薄く固く、中はやわらかい。蜂蜜の甘さも、塩気も、ちょうどいい。
「おいしい」
口に出すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。私が食べたぶんだけ、誰かのぶんが減る。そんな当たり前の計算が、どうも苦手だ。けれど丸卓には、私の皿がある。
仕事をする前から。
「なに?」
ミナが首を傾げた。見すぎていたらしい。
「寝癖が一本、元気だなって」
「どこ?」
「右」
「こっち?」
「それは左」
「フィアから見たら右でしょ」
「ミナの右を言ってます」
「最初からそう言ってよ」
アデルが吹き出し、シエナの口元もわずかに動く。そう。朝はこれでいい。パンがあって、くだらない話をして、母さんに叱られる。四人ともここにいる。それなら、ほかに欲しいものなんてない。
窓の外で、何かが鳴いた。鳥ではなかった。細く、高く、凍った戸板を爪で引っかくような音。笑っていたアデルの顔から、先に表情が消えた。
「今のは?」
「北の森」
シエナが窓へ近づく。ガラスの内側へ指を当て、すぐ離した。
「冷たい」
「外は雪ですから」
「違う。凍ってる」
窓の内側に、白い霜が広がっていく。端から中央へ。細い枝の形を作りながら、朝の光を隠していく。暖炉は燃えている。鍋からは湯気が上がっている。それでも息が白くなった。
知っている寒さだった。背中へ氷を入れられたように、身体が先に思い出す。
「白夜……?」
アデルの声が落ちた。十年前、リーネ村の半分を凍らせた霧。
冬至の夜にだけ現れるはずのもの。そして、私の妹を連れていったもの。
「まだ冬至じゃないよ」
ミナが笑おうとした。失敗して、口元だけが歪む。大丈夫、と言わなくてはいけない。
私が笑えば、三人は息をする。昔からそうだった。怖いとき、困ったとき、私が先に笑って見せれば、あとからついてきてくれる。だから立ち上がった。
「たぶん、白夜も日付を間違えたんだよ。ほら、寒いと鐘の音も聞きにくいし」
「フィア」
「追い返せばいい。季節を守れない霧に、村の決まりを教えてあげようか」
声はきちんと明るかった。上出来。裏口を開けると、雪ではなく霧が流れ込んだ。白い。
ただの白ではない。光まで凍らせたような、濁った白だ。触れた敷石へ霜が走り、井戸の滑車が音を立てて固まる。道の向こうで誰かが叫んだ。
「朝麦亭へ!子どもを中に入れて!」
アデルが剣を抜いた。声を聞いた村人たちが走ってくる。シエナは指を組み、入口へ火の術式を描いた。赤い線が扉の周りを走り、霧を押し返す。
「長くはもたない」
「十分。入った人から地下の貯蔵庫へ。母さん、毛布を」
「もう出してるよ!」
さすがである。私より三歩早い。ミナが転んだ男の腕を取り、治癒の光を流す。アデルは子どもを二人ずつ抱えて運び、シエナは術式の穴を塞ぐ。
私は人数を数えた。十七、十八、十九。三人はいる。
二十一、二十二。ミナが見えない。
「ミナ?」
返事はなかった。さっきまでいた場所に、白い外套だけが見える。霧の向こう。倒れた子どもをかばい、ミナは背中から凍りついていた。音が消えた。
いや、消えてはいない。誰かが泣いている。母さんが叫んでいる。シエナの術式が割れる音もする。でも遠い。ミナの指が、白くなっていた。十年前も、同じだった。
ネネの手も、最初は指先から凍った。私が三人を納屋へ運び、戻ったときには、もう名前を呼べなかった。また。
だめだ。走った。
「フィア、待て!」
アデルの手が外套をかすめた。止まれない。霧へ入った途端、喉が凍る。息を吸うたび、細い針を飲み込んでいるみたいだった。
ミナの隣へ膝をつく。子どもは動いている。ミナが最後の力で治癒膜を張ったらしい。
「よくできました。あとは交代」
肩へ触れる。灯替えは、教会が禁じた古い術だ。
使い方を教わったことはない。それでも私は知っていた。十年前、ネネへ触れた瞬間から、身体の内側に術式があった。相手の名を呼ぶ。灯を交換する。
それだけ。
「ミナ・フェル」
手のひらが熱くなった。ミナの背を覆う氷が、ひび割れる。白い筋が腕を上り、私の胸へ流れ込んできた。冷たい。
痛い。
嫌だ。
やめたい。でも手の下で、ミナの心臓が一度鳴った。もう一度。
それなら、まだ間に合う。
「返して」
凍結を引いた。指が動かない。腕がないみたいだ。肩、胸、背中。冷たさが身体の中へ根を張っていく。代わりに、ミナの頬へ赤みが戻った。
よかった。
その瞬間、何かが燃える匂いがした。パンではない。
記憶だ。小さな寝台。熱を出して泣く七歳のミナ。朝まで手を握り、眠ったら置いていくのかと聞かれて、置いていかないと約束した夜。景色が炎に包まれる。
私は覚えている。ミナの中から消えたことも、分かってしまった。
「フィア!」
アデルが私ごとミナを抱え、店内へ引きずり込んだ。シエナが扉を閉め、火の術式を重ねる。床へ寝かされる。母さんが何かを言っている。聞こえない。身体が震えないことのほうがまずい。寒さを感じなくなったら、次は眠る。
眠ったらだめだ。分かっているのに、まぶたが落ちる。
「フィア、目を開けて」
シエナの声だ。
「開いてるよ」
「閉じてる」
「じゃあ、心の目かな」
「そういうのはいらない」
怒っている。よかった。怒る元気はあるらしい。
「ミナは?」
「生きてる」
「子ども」
「無事」
「アデル」
「ここにいる!」
大きな声が頭へ響いた。
「なら、全員いるね」
数え終わったら、力が抜けた。目を閉じる前に、ミナの声がした。
「フィア?」
弱いけれど、ちゃんと私を呼んでいる。まだ名前は残っていた。安心したのは、たぶん顔に出なかった。
*
目を覚ましたとき、外は夕方だった。白夜の霧は消えている。朝麦亭の広間には村人が毛布へくるまり、暖炉の周りで身を寄せ合っていた。私は厨房脇の長椅子に寝かされている。身体の上へ毛布が六枚。胸の上にはミナの頭。
重い。生きている重さだ。それなら悪くない。
「起きた?」
アデルがすぐ横にいた。目の下が赤い。
「おはよう」
「夕方だ」
「ずいぶん寝坊したね」
「笑うな」
声が震えていたので、口を閉じた。シエナは長椅子の足元に座り、私の腕へ巻かれた布を確認している。凍傷は両手から胸まで広がったらしい。感覚は鈍いけれど、指は動く。
「霧は?」
「三十分で引いた。村の死者はいない」
「上出来」
「ミナが死にかけた」
「でも、生きてる」
「フィアも死にかけた」
そう言われると困る。私の場合は、結果として生きているので、ひとまず成功に入れていいと思う。
「何をしたの」
シエナの問いは短かった。答えを用意していると、胸の上でミナが動いた。
「うるさい……」
「ごめん。起こした?」
金色の頭が持ち上がる。緑の目が私を見て、涙でいっぱいになった。
「フィア!」
「はいはい、いるよ」
抱きつかれる。凍傷へ当たって痛い。痛いけれど、いま離す必要はない。
「怖かった。起きないし、冷たいし、私、何もできなくて」
「ミナが子どもを守ったんでしょう。ちゃんとできてたよ」
「でもフィアが」
「私は少し昼寝しただけ」
「少しじゃない!」
泣きながら怒るので、背中を撫でた。昔もこうした。
熱の夜。汗で張りついた髪をよけ、朝まで手を握った。ミナの中には、もうない。
「ねえ、フィア」
「なに?」
「私たち、小さいころもこうやって寝たことある?」
心臓が一拍、遅れた。シエナが顔を上げる。アデルの息も止まる。
「ほら、私、熱を出すとフィアのところへ行ってたって、オルガさんが言うんだけど。覚えてなくて」
代償は本当だった。救った相手から、私との思い出が消える。知っていた。知っていて使った。
それでも、実際に空白を見せられると、胸へ移した氷より冷たかった。
「あるよ」
明るく言えた。上出来。
「ミナは寝相が悪くてね。私、朝には床へ落とされてた」
「うそ。私そんなに動かないよ」
「動く動く。蹴られた回数、数えておけばよかった」
「ほんとに?」
「さあ。昔すぎて、私もよく覚えてないかな」
嘘だ。全部覚えている。ミナの熱い手も、朝方に呼ばれた名前も、置いていかないと約束した声も。
私だけが。
「そっか」
ミナは納得しなかったように見えた。それでも、それ以上は聞かなかった。代わりに私の手を握る。凍えてほとんど感じない指へ、ミナの体温が重なった。
「もう置いていかないでね」
覚えていないくせに、同じことを言う。笑いそうになった。
泣きそうだったのかもしれない。
「うん」
今度の約束は、ミナも覚えていられるだろうか。答えを考えないうちに、表の扉が三度叩かれた。
村人の音ではない。硬く、一定で、急かさない。王国の役人が使う叩き方だった。アデルが立ち上がり、扉を開く。雪の残る道に、濃紺の外套を着た騎手がいた。胸元には、朝日を囲む四つの鐘。
王都暁鐘院の紋章だ。
「リーネ村のフィア・ルーメルはいるか」
名前を呼ばれた。ミナの手へ力が入る。シエナは私の凍傷を見た。アデルが扉の前を塞ぐ。私は毛布の中で、動かない指を握った。
白夜は日付を間違えたわけではなかった。きっと、迎えに来たのだ。