名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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私を知らない笑顔

湖の中へ入る前に、子どもが落ちてきた。

 正確には、湖岸の階段から転げ落ちてきた。小さな身体。灰色の外套。背中には青白い霜が張りついている。

 

「受けて!」

 アデルの背から飛び降りかけた。

 

「私が行く!」

 ミナが先に走る。子どもの身体を抱き止め、そのまま二段転がった。シエナが水面へ氷の板を作り、二人が湖へ落ちるのを防ぐ。アデルは私を背負ったまま動かなかった。

 

「下ろして」

 

「待て」

 

「子どもが」

 

「ミナがいる」

 見れば分かる。分かっている。それでも胸の奥が急かす。

 早く。自分で触れ。間に合わなくなる。

 

「フィア」

 アデルが呼ぶ。

 

「いるよ」

 

「私もいる。ミナも、シエナも」

 順番に名を言う。人数を数えるみたいに。

 

「任せろ」

 昨日、朝食を分けた手を思い出す。今のアデルを信じる。

 

「分かった」

 背から下りず、待った。ミナが子どもの胸へ治癒の光を当てる。霜は背中から首へ伸びている。白夜病だ。

 

「息が弱い!」

 レオナさんが周囲へ指示を飛ばす。

 

「市庁の治療所へ。鐘楼班は予定どおり入る」

 

「待って」

 ミナが顔を上げる。

 

「この子を置いていくの?」

 

「治療所には術師がいる」

 

「白夜の霜は普通の術じゃ止まらない」

 

「だからこそ第二火種を取る。町全体を先に救う」

 正しい。火種を取れば防壁を直せる。

 この子だけではなく、九千人が助かる。でも火種まで、どのくらいかかる。一時間。

 二時間。もっと。子どもの呼吸は、それまで待たない。

 

「名前は?」

 ミナが呼びかける。子どもは答えない。外套の内側へ、木札が縫いつけられていた。

 

「ルル・オーネ」

 シエナが読む。名前がある。

 なら灯替えは使える。私との記憶はない。消えるものがない。

 どうなる?

 

「フィア」

 シエナの声。

 

「今、考えてることを言って」

 使う前に話す。約束した。

 

「灯替えなら、霜を取れる」

 

「だめ」

 ミナがすぐ答える。

 

「この子、フィアを知らない。何を代わりに使うか分からない」

 

「でも、このままなら」

 

「治療所へ運ぶ」

 

「間に合わないよ」

 ミナの顔が歪む。本人がいちばん分かっている。

 

「それでも、分からない術を使わせられない」

 

「ルルは選べない」

 

「だからってフィアが」

 

「時間がない」

 子どもの霜が顎へ届いた。十年前。ネネ。

 白い頬。また同じだ。

 

「ごめん」

 アデルの背から降りた。左脚に痛みが走る。転びかけ、シエナが腕を取る。

 

「勝手に使わない約束」

 

「ルルは話せない」

 

「私たちは話せる」

 

「私たちの記憶じゃない」

 シエナの手が強くなる。

 

「フィアの身体」

 

「まだ分からない」

 

「分からないから止める」

 正しい。でもルルの胸が動かない。

 

「一度だけ」

 

「その一度で、何がなくなる?」

 

「分からない」

 言った。

 

「分からない。怖い。でも、この子が死ぬのを見るほうが怖い」

 シエナの目を見る。

 

「選ばせて」

 自分で言って、勝手だと思う。三人には選択を奪うなと言われた。

 今は私が、選ばせてと頼んでいる。シエナは唇を噛んだ。手が離れる。

 

「戻ってきて」

 それだけ言った。ミナは泣いていた。

 

「死なないで」

 

「死なない」

 

「約束できないでしょう」

 

「うん」

 嘘をつかなかった。アデルが私の右手を取る。

 

「私も触る」

 

「どうして?」

 

「お前が消えないように」

 

「根拠は?」

 

「ない」

 アデルらしい。

 

「ではお願いします」

 三人に支えられ、ルルの隣へ膝をつく。頬へ触れる。冷たい。

 

「ルル・オーネ」

 灯替えが開く。引き受けるのは白夜の凍結。

 代償を探して、術が子どもの記憶へ手を伸ばす。何もない。ルルは私を知らない。

 声も、顔も、名前も。燃やせる思い出がない。術が戻ってくる。私へ。

 最初に足から力が抜けた。次に、腹の底が空になる。

 一晩眠らなかったような疲れではない。一年ぶん走り続け、これから動ける力まで先に使ったような空白。視界が暗くなる。それでも霜を引く。

 ルルの首から白が消え、私の腕へ移る。胸。背中。左脚。

 つながりかけた骨が、冷たさで軋む。

 

「フィア、もういい!」

 ミナの声。まだ。肺の奥に残っている。

 

「返して」

 最後まで引いた。ルルが息を吸う。小さな胸が大きく上がり、咳をした。

 

 生きている。

 

 よかった。

 その安心だけは、いつも同じだ。

 

「フィア!」

 今度は三人に呼ばれた。返事をしなくては。

 

「いるよ」

 声が出た。身体の感覚は、ほとんどなかった。

 

 *

 

 鐘楼へ入る計画は延期になった。原因は私だ。市庁舎の治療室で、三人に囲まれて寝ている。

 また豪華な暮らしへ戻った。毛布は七枚。枕は三つ。ミナは怒りながら治療し、アデルは怒りながら水を飲ませ、シエナは怒りながら記録している。

 全員、怒り方が違う。

 

「身体のどこが動かない?」

 ミナが聞く。

 

「全部、少しずつ」

 

「少しずつって」

 

「指は動く」

 右手の人差し指を上げる。すぐ落ちた。

 

「動いてない」

 

「さっきは」

 

「さっきじゃない」

 ミナの目が赤い。泣かせた。

 

「ごめん」

 

「謝ってほしいんじゃない」

 

「でも、泣かせたから」

 

「泣いてない」

 泣いている。そこを指摘するともっと怒るので、黙った。

 

「灯替えは、共有記憶がなければ術者の生命力を燃やす」

 レオナさんが、封を切った紙を読んだ。王都からの返答だ。開示要求を出していた封印記録。その一部だけが届いた。

 

「生命力?」

 アデルが聞く。

 

「体力、寿命、感覚。何が選ばれるかは術者にも分からない」

 

「寿命」

 ミナの声が止まる。

 

「フィアの寿命、減ったの?」

 

「測れない」

 レオナさんは紙を握りしめた。

 

「院は知っていた。候補者へ共有記憶がない場合、こうなると」

 

「召命のとき、説明は」

 

「なかった」

 この人も知らされていなかった。

 

「では仕方ないね」

 言うと、三人の顔が同時にこちらへ向いた。失敗。

 

「何が仕方ない」

 アデルが立ち上がる。

 

「知らなかったから?」

 

「知ってたら、使わせなかったでしょう」

 

「当たり前だ」

 

「ルルが死んでた」

 

「またそれか!」

 怒声で、机の水差しが揺れた。

 

「誰かが死ぬ場面を出せば、何をしても許されると思うな」

 

「許してなんて」

 

「なら、なぜ『仕方ない』で終わらせる」

 答えられない。終わらせたいからだ。私が決め、使い、傷ついた。

 結果としてルルは生きた。正しかった。そう言えば、痛みも三人の怒りも考えずに済む。

 

「怖かった」

 シエナが言う。私ではなく、自分のことを。

 

「灯がフィアへ戻ったとき、手が冷たくなった。何もできなかった」

 筆を置く。

 

「記録しても、止められない」

 シエナが手を握る。力のない私の指を、一つずつ包む。

 

「フィアの選択を尊重したかった。でも選ばせたら、フィアは自分を選ばない」

 それは違う。ルルを救うことを、私が選んだ。

 

「選んだよ」

 

「自分を残す選択」

 できなかった。

 

「三人がいるから、大丈夫」

 

「私たちを言い訳にしないで」

 ミナの言葉だった。小さいころ、何かあるたび私のところへ来た子。私がいれば眠れると言った子。

 今は、自分を言い訳にするなと言う。

 

「フィアがいなくなったら、私たちがいる意味ないよ」

 胸が詰まる。

 

「そんなこと」

 

「ある。少なくとも私にはある」

 

「ミナの人生はミナのものだよ」

 

「フィアも!」

 泣き声になった。

 

「フィアの人生もフィアのものでしょう。なんで知らない子へ全部あげようとするの」

 知らない子。たしかにルルは、私を知らない。でも死にかけていた。

 

「ネネと重なった?」

 アデルが静かに聞いた。否定できなかった。

 

「ネネを助けられなかったから、今度は誰でも助ける?」

 

「誰でもじゃない」

 

「名前を呼ばれなくても?」

 ネネは呼んでいた。助けを求めていた。届かなかった。

 

「私が間に合うなら」

 

「間に合うたび、自分を使うのか」

 

「ほかに何を使えばいいの」

 声が大きくなった。

 

「あの子は死にかけてた。火種まで行く時間もない。ミナの治癒は効かない。私なら助けられた。だったら使うでしょう!」

 誰も答えない。息が苦しい。身体を起こしたい。動かない。

 

「ごめん」

 怒鳴ったことへ謝る。

 

「でも、助けたことは謝らない」

 それだけは譲れなかった。

 

「ルルが生きたことを、間違いにしたくない」

 アデルはしばらく私を見た。

 

「分かった」

 怒りは消えていない。

 

「助けたことは責めない。お前が一人で代償を払うことへ怒る」

 

「ほかに払える人は」

 

「いない。だから使わない方法を、私たちが見つける」

 

「間に合わないときは?」

 

「そのとき考える」

 

「遅いよ」

 

「一人で先に答えを出すよりいい」

 アデルは椅子へ戻った。

 

「私たちは遅くても、追いつく。待て」

 

 待つ。

 苦手なことばかり増える。任せる。

 話す。自分を人数へ入れる。それでも三人は、私に生きろと言っている。

 

「努力します」

 

「弱い」

 

「頑張ります」

 

「まだ弱い」

 

「善処」

 

「フィア」

 アデルの目が怖い。

 

「待つ」

 言い直した。

 

「次は、少しだけ待つ」

 約束ではない。でも嘘でもない。

 

 *

 

 ルルが目を覚ましたのは、夜明け前だった。私たちの治療室へ、母親に連れられてきた。昨日、記憶を売った女性ではない。若い母親で、白夜に凍った見張り番の娘だという。

 

「この方が、あなたを助けてくださったの」

 ルルは寝台の横へ来た。黒い髪を二つに結び、灰色の外套を握っている。背中の霜は消え、頬は赤い。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 笑う。子どもは少し考えた。

 

「お姉ちゃん、誰?」

 

「フィア」

 

「初めまして」

 当然だ。私たちは昨日まで会ったことがない。共有記憶はなかった。だから私の身体が燃えた。

 

「初めまして」

 返す。ルルは笑った。私を知らない、きれいな笑顔だった。

 助けたことを覚えていなくてもいい。この子が生きて、笑っている。それだけで十分だと思った。隣で、ミナが泣いた。

 アデルは唇を噛み、シエナは日記へ目を落とした。三人にとっては、十分ではない。

 私の消えた力も、縮んだかもしれない寿命も、全部見えている。

 

「フィアお姉ちゃん」

 ルルが覚えたばかりの名を呼ぶ。

 

「はい」

 

「また会える?」

 返事が止まった。次に会うとき、動けているだろうか。

 この子が大人になるころ、生きているだろうか。

 

 分からない。

 

「会おう」

 それでも言った。

 

「次は、ちゃんと歩いてるところを見せるね」

 ルルはうなずいた。新しい約束。

 守りたい。今度は、私も残る必要がある約束だった。

 

 *

 

 鐘楼への再出発は、その日の夜になった。私は同行を止められた。

 

「火種へ触れるのは私でしょう」

 

「入口の確認だけ」

 レオナさんが言う。

 

「水鏡の中で火種まで進める状態か調べる。今夜は回収しない」

 

「なら私も入口まで」

 

「立てない」

 事実は強い。アデル、ミナ、シエナも残ると言った。回収隊だけで下見をする。

 

「三人は行って」

 言うと、全員に睨まれた。

 

「術式はシエナ。怪我人がいればミナ。護衛はアデル。必要でしょう」

 

「フィアを一人にできない」

 

「市庁の治療師がいます」

 

「それは昨日、霜を止められなかった人」

 ミナは譲らない。

 

「私なら大丈夫」

 三人の顔が変わる。

 

「違う。今のは、状態の話」

 

「動けない」

 

「だから勝手なことはできないでしょう」

 自分で言って、少し情けない。

 

「それに、三人が戻るまで待つ。約束したから」

 アデルが私を見る。

 

「呼んだら?」

 

「返事する」

 

「聞こえなければ」

 

「聞こえるところまで来て」

 四話で結んだ約束。記憶が消えていない。

 

「一時間」

 シエナが言う。

 

「一時間で戻る」

 

「鐘楼が面白くても?」

 

「面白くない」

 

「まだ見てないでしょう」

 

「一時間」

 譲らない。

 

「分かった。待ってる」

 三人が回収隊と出ていく。扉が閉まる。急に部屋が広くなった。

 不安が押し寄せる。水の中。白夜。戻らなかった四人の術師。

 私がいなくて大丈夫だろうか。灯替えが必要になったら。

 立とうとする。身体は動かない。約束した。

 

 待つ。

 時計を見る。一分。

 二分。三分。待つのは、骨を折るより痛い。

 それでも私は寝台にいた。三人を信じる。一時間後。扉が開いた。

 

「フィア」

 アデルの声。

 

「いるよ」

 三人とも帰ってきた。濡れていた。

 怪我はない。シエナの手には、水鏡の塔から取った青い石片がある。

 

「入口は使える」

 息を弾ませて言う。

 

「でも塔の中に、誰かいる」

 

「戻らなかった術師?」

 シエナは首を振った。

 

「記憶を集めてる。町から燃やされた記憶が、全部そこへ流れてる」

 第二火種の周りに。誰かが、捨てられた記憶を集めている。

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