名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
ミナが私を治そうとするのは、一日七回まで。
それがレオナさんの決めた上限だった。
「八回目」
朝食前、ミナの手首をつかむ。治癒の光が、指の間から漏れている。
「今のは違うよ」
「何が?」
「具合を見ただけ」
「光ってる」
「手が勝手に」
便利な手である。
「一回に数えます」
「まだ始めてない」
「始めようとした」
「フィアの意地悪」
ミナは唇を尖らせ、ようやく手を下ろした。治療室の窓からは、湖が見える。朝の水面に鐘楼はない。月が出る夜だけ、映る側の塔が現れる。昨夜の下見では、中へ入って三階まで上れたらしい。塔は本来、七階。
四階から上は、燃やされた記憶が水になって満ちている。泳いで進むのではない。
他人の人生の中を歩くらしい。今夜、もう一度入る。私は寝台の上。
「指は?」
ミナが尋ねる。
「一本なら」
右の人差し指を上げる。今日は落ちなかった。
「ほかは」
「人差し指が動けば、だいたいの指示はできます」
「動かない」
「いま動いたでしょう」
「鐘楼には行かない」
「私がいないと火種を」
「今夜は四階の確認だけ」
「昨日も同じことを」
「フィアは待つって言った」
そうだった。
待つ。
簡単な言葉のくせに、身体へ悪い。三人が見えないと、胸が詰まる。鐘楼で何かあったら。誰かが水へ飲まれたら。白夜に凍ったら。私なら引き受けられる。でも動けなければ、何もできない。
「だから治したい?」
尋ねると、ミナはうなずいた。
「フィアが自分で歩けたら、私たちも連れていける」
「連れていく側?」
「そう。今は私が」
胸へ手を当てる。八回目の光が流れ込む。
「ミナ」
「黙って」
声が怖かった。光は骨の周りを巡り、白夜の冷えに触れて弾かれる。いつもと同じ。温かさだけが皮膚を通り、傷の奥へ届かない。それでもミナはやめない。
「もういいよ」
「まだ」
「疲れるでしょう」
「フィアよりは」
「比べないで」
「フィアが言う?」
返せなかった。光が強くなる。
ミナの顔色が悪い。唇も白い。
「やめて」
「もう少し」
「ミナ」
「私だって、助けたい!」
治療室へ声が響く。光が揺れた。
私の胸ではなく、ミナの指が焼ける匂いがした。
「離して」
動く一本の指で、手首を押す。
「離して、ミナ」
ようやく光が消えた。ミナは肩で息をしている。掌が赤く腫れていた。
「馬鹿」
口から出た。ミナの顔が固まる。
「そんなになるまで使って。治癒術師が手を傷めてどうするの」
「フィアは?」
「私?」
「自分は、そんなになるまで使っていいの?」
言い返せない。
「私がやったら馬鹿で、フィアなら仕方ない?」
「灯替えとは違う」
「同じだよ!」
ミナが立ち上がる。椅子が倒れた。
「フィアは痛いの隠して、勝手に使って、私たちが止めたら誰かが死ぬって言う。私は治したいだけなのに、やめろって」
「ミナの手が使えなくなる」
「フィアの身体は使えなくなってる!」
目の前の事実だった。私は起き上がれない。自分で水も飲めない。人差し指一本を動かし、喜んでいる。
「私の傷は」
「役に立ったからいい?」
先に言われる。
「ルルが助かったから。アデルが助かったから。だからいい?」
「いいとは」
「言ってる」
ミナは泣いていた。昨日より、ずっと怒っている。
「私がフィアを治せたら、役に立つ。治せないなら、私、ここにいる意味ない?」
「そんなことない」
「じゃあ何があるの?」
すぐに答えなくてはいけない。でも言葉が出なかった。ミナは治癒術師だ。
食いしん坊で、甘え上手で、寝相が悪くて、泣きながら人を助ける。それだけでは足りない。説明ではなく、ミナがここにいる意味。
「そばにいてほしい」
ようやく出た。ミナの涙が止まる。
「治せなくても。何もできなくても、いてほしい」
自分が言われたかった言葉だった。母さんは何度も言ってくれた。
信じられなかった。
「それだけ?」
ミナが聞く。
「それだけじゃ、だめ?」
「フィアは、それだけで自分を許さないくせに」
痛いところを刺された。
「私には言うの?」
「ミナには」
「ずるい」
「うん」
認めた。ずるい。自分は役に立たなくてはいけない。三人には何もしなくてもいてほしい。
都合がよすぎる。
「教えて」
ミナが倒れた椅子を起こす。
「何もできないフィアに、なんて言えば信じる?」
分からない。
ずっと探してきた言葉だ。
「分からない」
「じゃあ、一緒に考える」
ミナは怒ったまま座った。
「フィアだけ答えが出るまで、私も治せなくてもここにいる」
「意地悪」
「フィアに習った」
手を握られる。掌の火傷が触れた。
今度は治癒の光を使わない。ただの手。それなのに、さっきの魔法より温かかった。
*
八回目の治療がばれたのは、昼前だった。シエナはミナの掌を見て日記へ書いた。
アデルは私とミナを交互に見て、二人まとめて怒った。レオナさんは回数表を七から五へ減らした。
「どうして減るの?」
ミナが抗議する。
「規則を破ったからだ」
「フィアの身体が」
「治療者が倒れれば、回数はゼロになる」
「はい」
私が答えると、ミナに睨まれた。
「フィアのせいでもある」
「どうして?」
「止めるのが遅い」
「止めました」
「八回目が始まる前に」
厳しい。でも昨日までのレオナさんなら、ミナだけを処分したかもしれない。二人の問題として扱ってくれた。
「治らない理由は?」
アデルが尋ねる。王都から届いた封印記録の紙は、卓の上にある。レオナさんが一節を読む。
「『灯替えで受けた傷は、奪った灯の持ち主が己のものとして再び選ばぬかぎり、他者の灯を拒む』」
「どういう意味?」
ミナが首を傾げる。
「アデルの傷なら、アデルが受け直せば治せる?」
私は思わず身体を固くした。
「だめ」
「まだ何も」
「戻さない」
アデルがこちらを見る。
「私の傷だ」
「今は私の」
「奪った、と記録にある」
言い方が悪い。移しただけだ。でも記憶と同じように、傷も本人から奪っているのかもしれない。
「戻す方法は」
シエナが聞く。
「ここにはない。そもそも記録は、灯替えを禁じるための警告だ」
私の傷は、普通の治癒を拒む。だからミナが何度使っても届かない。
治らないのは、ミナの力不足ではない。
「ほら」
言うと、ミナが目を細めた。
「何が?」
「ミナのせいじゃなかった」
「フィアの傷が治らないことは変わらない」
「でも手は休められる」
「うれしそうに言わないで」
うれしいのは本当だ。ミナが自分を責める理由が一つ減った。
「ほかに何が書いてある?」
シエナが紙を取る。
「『術者の名の灯は、共有記憶を錨として形を保つ』」
「名の灯」
「人が自分を自分だと思える核」
レオナさんが説明する。
「記憶を燃やすほど、術者の名が不安定になる。最終段階は――」
文章は黒く塗りつぶされていた。
「また隠してる」
シエナが指でなぞる。
「院は、現場で灯替えが使われていると知ったうえで、必要な箇所を伏せた」
「王都へ戻った伝令は?」
「拘束された。次の手紙が密かに知らせてきた」
レオナさんの部下。正しい手順で開示を求め、捕まった。
「私たちは、火種を運んで大丈夫?」
ミナが言う。
「王都へ持っていったら、フィアも捕まる?」
その可能性を考えていなかった。王命は私を必要としている。
火種へ触れる道具として。四つ集め終えたあと、私が必要かは分からない。
「ハルト監察官」
アデルの声が硬くなる。
「あなたはどちらです」
レオナさんは胸の紋章を外した。卓へ置く。
「王国を守る」
「王国と暁鐘院は同じではない?」
「同じだと思っていた」
紋章を見下ろす。
「今は、確かめる必要がある」
味方だと言わない。でも院へ従うとも言わない。
「では一緒ですね」
私が言う。
「私たちも、火種を集める。でも言われたとおり使うかは、見てから決める」
「お前が決めるのか」
アデル。
「全員で」
言い直す。シエナが日記へ書く。
ミナは満足そうにうなずいた。少しだけ進歩した。
*
午後、ミナは町の治療所へ手伝いに行った。私のそばにいると言ったのに。
五回の治癒を使い切り、手持ち無沙汰になったらしい。窓から、治療所の庭が見える。白夜病の患者が毛布へくるまり、長椅子へ並んでいる。ミナは一人ずつ手を取り、軽い凍傷を治していた。
私へ届かなかった光が、ほかの人へ届いている。
よかった。
ミナ自身は、どう思うだろう。
「見に行く?」
シエナが聞く。
「動けないよ」
「車椅子」
「今夜、鐘楼でしょう。休まないと」
「ミナを見たい顔」
また顔を読まれた。
「少し」
車椅子へ移してもらう。シエナ一人では難しく、アデルも呼ばれた。二人に身体を支えられる。
「重い?」
「軽い」
アデルは毎回同じことを言う。
「そろそろ別の答えを」
「昨日より軽い」
「もっと悪い」
ミナが食事を見張っているのに、生命力を使ったせいで体重が落ちているらしい。
「湖の魚、食べようか」
「夕食に出る」
「二匹」
「三匹」
アデルが増やした。
「私を何だと思ってるの」
「冬眠前」
「ミナと同じことを」
車椅子を押され、庭へ出る。ミナは女の子の手を治していた。十歳くらい。指先の霜が消えると、女の子は何度も曲げて笑った。
「動く!」
「しばらく冷たい水は触らないでね」
「お姉ちゃん、すごい」
ミナの顔が緩む。
「そうでしょう」
得意そうだ。私には向けなかった顔。胸が少し痛んだ。嫉妬。
名前をつけたら、余計に嫌な感じがした。ミナの術がほかの人へ届くのは、いいことだ。
なのに自分だけ治らないのが寂しい。そんなことを思う資格はない。
「帰る?」
シエナが気づく。
「もう少し見る」
逃げたくなかった。次は老人の膝。次は少年の咳。ミナは一人ずつ話を聞き、治せるものと治せないものを分けている。全部を自分へ移そうとはしない。治せない相手には、温かい湯を渡す。
私よりずっと上手に、人を助けている。
「フィア」
治療が一段落し、ミナがこちらへ来た。
「どうしたの?」
「見学」
「暇だから?」
「ミナが格好よかったから」
そのまま言う。ミナは目を丸くした。
「治せない人にも、ちゃんとできることを探してた」
「普通だよ」
「私は苦手」
「うん」
即答された。
「そこは少し迷って」
「だってフィア、治せないと自分を使うもん」
そのとおりだ。
「教えて」
「何を?」
「何もできないとき、どうするか」
ミナは少し考えた。
「そばにいる」
朝、私が言った言葉。
「それだけ?」
「それだけじゃ、だめ?」
返された。私は笑った。
「だめじゃない」
すぐには信じられない。でも練習はできる。今夜、三人が鐘楼へ入る。私は入口までしか行けないかもしれない。
それでも、名前を呼ばれたら返事をする。戻る場所で待つ。
「ミナ」
「なに?」
「手、痛い?」
朝に焼いた掌を見る。
「少し」
「今日はもう治癒を使わないで」
「患者さんが」
「ほかの術師へ頼もう」
ミナが私を見る。口を尖らせ、それからうなずいた。
「分かった」
頼んだ。ミナが選んだ。小さいことだけれど、二人とも自分を残せた。
*
夜。湖面へ満月が映る。青い鍵を挿すと、水が割れた。
アデルが私を背負い、階段を下りる。今夜は入口まで。そこから先は三人と回収隊。一段下りるたび、水の壁へ人の顔が映った。
笑う人。泣く人。
子を抱く母親。別れを告げる恋人。町で燃やされた記憶だ。
声が重なる。忘れないで。誰かが言った。私ではない。
でも自分の声に聞こえた。階段の底に、逆さの鐘楼が立っている。
扉の前で、アデルの背から下りた。
「ここで待つ」
自分から言う。
「一時間?」
シエナが確認する。
「一時間。呼ばれたら返事をする」
「危険なら戻る」
ミナ。
「火種より命」
アデル。
「全員で帰る」
私。扉が閉じる。
三人の姿が消えた。水の壁には、知らない人の記憶が流れている。私は椅子へ座り、時計を置いた。
待つ。
五分。十分。
十五分。塔の奥から、かすかに鐘が鳴った。続いて、シエナの声。
「フィア!」
私は立てない。それでも返事はできる。
「いるよ!」
水の扉へ手をつく。向こうから、もう一度声がした。
「入って!」
待つ時間は終わった。